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【番外編】アメリカ帝国とフィリピン-アメリカ史から読み解く共同体論⑥ -(松崎さんによる報告会)-
2026-10-09 1:16:37

【番外編】アメリカ帝国とフィリピン-アメリカ史から読み解く共同体論⑥ -(松崎さんによる報告会)-

今週は本編はお休みして、松崎さんによる「アメリカ史から読み解く共同体論」6回目の報告会をお届けします。
この報告会は奥会津・三島町という過疎地域から、アメリカ史を共同体論の視点で読み解く試みです。ぜひ、松崎さんへのお便りもお待ちしております。


当日の資料など
アメリカ史から読み解く共同体論


以下は、音声データの文字起こしを元にしたClaudeによる要約

■ 何の報告会か(テーマ)
今回は19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカが海外へ進出し、フィリピンを植民地として支配していった時代を扱う回です。松崎さんの修士論文のテーマでもあり、報告回は指導教授だった中野聡氏の著作を下敷きにしています。大陸での領土拡大そのものが帝国の膨張だったという視点から読み解きます。

1898年の米西戦争をきっかけに、アメリカはキューバやフィリピンの独立を応援する立場から一転して、それらを支配する側に回ります。フィリピンは「慈悲深い同化」の名のもとで統治されました。しかし本国では黒人差別が強まっており、有色の住民に市民権を与えることは避けられます。そこで「非編入領土」「市民権のない合衆国国民」という、言い訳めいた概念が生み出されました。
敗れたフィリピンの人々は、新しい支配のもとで生きるために、抵抗した過去を封印し、アメリカ流を身につけざるを得ませんでした。約束されていた独立も、日本の占領とマニラ戦の惨禍によって実質を失い、戦後はかえってアメリカへの依存が深まりました。
最も示唆的なのは、やられた側は決して忘れないのに、日本人はその歴史をほとんど知らないという指摘です。台湾から奥会津を訪れる観光客を迎える今、相手の歴史を知らないでよいのか――来年度の台湾史へとつながる、自分たち自身の問題として歴史を見つめ直す回です。


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サマリー

松崎さんは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカが大陸内での領土拡大に続いてフィリピンなど海外へ進出した過程を報告する。1898年の米西戦争で、アメリカはキューバやフィリピンの独立を支援する立場から、スペインに代わる植民地支配者へと転じた。アメリカ国内では帝国主義への反対も強く、フィリピン統治は「慈悲深い同化」によって正当化されたが、黒人差別が強まるなかでフィリピン人に市民権を与えることは避けられ、「非編入領土」や「市民権のない合衆国人」という制度が作られた。敗戦後のフィリピンでは、革命や反米の過去を隠し、英語やアメリカ的な文化を身につけることが社会的上昇の条件になったという。

アメリカ帝国の膨張とフィリピン
でも、今日は本当、オクアイズでイベント目白押しで、再びもう駅前でやってるでしょ?
あれもあるし、昭和村では、会津塾みたいなことをやっているので、
皆さんはそういった中で、この、なぜかアメリカ誌の勉強をするという、非常に前向きな方たちになってますよ。
で、まあ、あの、僕、今年の1月からですね、あの、なんとなく、2ヶ月に1回くらいのペースで、
まあ、自分自身がちょっとアメリカ誌の勉強をやり直したいなというふうに思って、
まあ、ちょっとその勉強の一環として、自分が勉強したことを皆さんの前でお話しして、
ぜひ、あの、オクアイズの方たちもね、もっと頭が良くなってグローバルな感じになればと、
まあ、半分くらいしか思ってないですけど、そういうことでやらせてもらってたんです。
で、今日、あの、アメリカの中でも、えっと、1800年の終わりから1900年の初めの方で、
アメリカ合衆国がどんどん海外の方にね、進出していった時期の話になります。
で、アメリカがその海外に進出していった時に、ほとんど一番最初くらいに海外の領土として、
まあ、植民地支配していったのがフィリピンなんですよ。
しかも、それはアメリカから遠く離れたアジアのところでは初めてのというところになっていて、
で、そのフィリピンのところで、アメリカ合衆国がどういうふうにそのフィリピンを領土支配して、
それに対してフィリピンの人たちはどういうふうに対応していったのかというお話をします。
で、これは僕は一応アメリカ史を専門ということでやっていて、
なぜかブナセンターでも働いていたんですけれども、
ちょうどその頃の大学院の時にこのテーマで終始論文を書いて卒業した中で、
僕の指導教授もこのアメリカとフィリピンの関係の歴史を研究されている方で、
この中野里さんという方なんですけど、
この人は今とても偉くなってしまって、ひとつ橋大学の学長をやってます。
でも素晴らしい本なんですよ。
欲しい。
僕はなかなかアメリカ史の本も面白いのもあればつまらないものも多々あるんですけど、
今回この資料を作るにあたって改めて大学院以来くらいにこの本を読み返して、
すごいなおさら尊敬しましたね、中野さんのこと。
すごい良い本で、なかなかとっつきにくいところもあるんですけど、
アメリカとフィリピンの歴史を学ぶときにはとても素晴らしい本ということになってくるんです。
その最初の1、2、はじめ2のところで、帝国としてのアメリカっていうところで載せたのが、
このアメリカの歴史にまつわる本のところから抜粋したんですけれども、
ちょっと重要なのが、アメリカ合衆国っていうのは、これは教科書的な考えでね、
最初にイギリスから独立するんですよ、1700年代に。
イギリスからいわゆるアメリカのニューヨークとかがある、東部の方の13個の州が独立して、
そこから徐々に、今我々が考えるアメリカ大陸としての太平洋から太西洋まで繋がっている地域、
西の方にはカルフォルニアがあったりして、東の方にはニューヨークとかがあってとか、
あの感じのアメリカの地理を創造したときに、でもはじめは右側の東海岸、
ニューヨークとかの13州から独立して徐々に領土を広げていったんですね。
でも、こう考えるとアメリカっていう国がなんとなくこの今の形に自然になったようにも思えるんですけど、
でもよくよく考えると、当然そのアメリカの東海岸の方とは別のところには当時インディアンと呼ばれた先住民の人たちもいたわけだし、
あとアメリカ大陸のカルフォルニアとかは元々はスペインとかフランスとかの植民地だったんですね。
ああいうところで、実はそのヨーロッパの中でいろんな国がアメリカ大陸において植民地を持っていったところを、
アメリカ合衆国という国がどんどんどんどん領土を広げていって、それでこの支配していった歴史があるということなんですね。
で、そう考えるとアメリカがその1800年の終わり頃に海外の領土を手に入れていくんですけど、
それは急にその領土支配を始めたとかではなくて、実はアメリカという国は元々かなり帝国としての色合いがあって、
で、どんどんどんどんこの自分たちの領土を拡大していったんだっていうのが最近のアメリカ史の考え方の見方らしいです。
最近の。これは木戸義行さんという人が引用でやってるんですけども、
ちょっと黒字の太い線だけ読み上げると、19世紀前半のアメリカ領土拡大はアメリカ帝国の膨張そのものであり、
ヨーロッパとの植民地争奪戦の一部であったということですね。だからアメリカの今の形から想像すると、
前からずっとアメリカ大陸っていうのはアメリカの東海岸から西海岸までアメリカが主国の領土だったと思うかもしれないんですけど、
歴史的に見るとアメリカはどんどんどんどんその土地を開拓していって、領土を支配していった歴史なんだっていうとこなんですね。
で、そういうことを考えたときに、つまりアメリカの東海岸から西海岸まで全部の領土でいっぱいになって、
じゃあさらにこの国として強くしていくために、当然海外進出を考え出すっていうのがこの1800年代の終わりのことになるんですね。
大きい白い国土があって、まだ。
まだなんですよ。びっくりしますよね。
オランプさんみたいな考え。
でもほらほら、アメリカだけじゃなくてイギリスだって、オランダだって、スペインだって、いかにもいろんな海外のところにいて、植民地支配してたわけなんですね。
それからすると、アメリカの帝国の歴史っていうのは第二発目のヨーロッパの中では、アメリカヨーロッパの中では二発目のところで、
だいたいドイツが海外の領土を拡大していくのと同じ時期くらいにアメリカも始まって、
だからこの当時結構アメリカとドイツっていうのはお互いにバチバチになるというか、
お互いに自分に有利な土地を取ろうとするみたいなところがあったりするんですね。
で、その中でフィリピンっていうのがアメリカにとって植民地として支配していく場所になってくるんですけれども、
その中でこの中野さんがね、我々日本人がそういうアメリカとフィリピンの歴史を学ぶってことがどういう意味を持つんだっていうことをちょっと書いてるのが、
その二つ目の引用の中で、これちょっと中野さんのいい文章なので全文読み上げるんですけど、
アメリカ社会の中にも外にもあるいはフィリピンの中にもさらにはアメリカという問題と関わるあらゆる人々のフィリピンの移民の作家カルロス・ブロさんの言葉を借りるならば心の中にあると。
これはアメリカとの境界っていう意味なんですけど、そしてその境界は揺らぎ続けている。
このような歴史像が浮かび上がるとすれば、アメリカ帝国とフィリピンの物語は一気に私たち自身の問題となることだろうという、
これまあちょっとね、そうなんですよ、前半のことをちゃんと踏まえないとよくわかんない文章なんですけど、
でもちょっと我々が想像してみるときに、例えばアメリカがね、まあ日本を植民地支配したんですけど、占領をしたんですけど、そういうのが急にやっていく時代が当然あったわけなんですよ。
で、そうなった時に急にじゃあアメリカ人がやってきて、アメリカ人と向き合わなくてはいかなくなったという時に、そこにいろんな問題が発生するはずなんですね。
で、その問題が発生した中での世界とか生活を我々は生きていかなきゃいけなかったわけですよ。
で、それは日本にとってももちろんアメリカっていうのはとても大事な国ですし、今のアメリカのことを考えれば、こんだけ世界中にいろいろね、
あちこちに競打して接触していると、多分アメリカとほとんど関わっていない国はむしろ少ないくらい、ほとんどどこかの国が何かしらのアメリカと関わりを持っているはずなんですね。
そういう中でアメリカっていう問題は現実的に我々が対応したり、あるいはその目の前にある問題として浮かび上がってくる。
で、しかもフィリピンにとってみるとそれが大変大きな問題として急に現れてきたわけですよ。
で、その時にフィリピンの人たちがどういうことをしていたのかっていうものがこの本の内容になっていくことなんですけれども、
そういうものとしてお聞きいただければと思います。
フィリピンが来航したのはいつでした?
1853年。
1852年。
いや、6倍よりちょっと前。
だからそうなんですよ。19世紀の半ばにはもう来ていて、だからその後で今度フィリピンの方を植民地支配していくんですね。
日本だってその可能性はあったわけだよね。
そうなんです。
で、しかもこの時にほら、もう1903年?4年?4年くらいになれば日露戦争が始まるでしょ。
だしてその前に日清戦争もやってるわけですから、だから本当に国同士がアジアも含めてものすごく戦い始めてる時代っていうのもありますし、
あと結構、もともとやっぱ中国っていうのが中心にアジアとしてはあったんですけれども、
それがイギリスに負けることによって、どんどんその欧米諸国、アメリカも含めてなんですけど、アジアにどんどん市場的にも進出していく時期なんですね。
で、そうすると日本にとってのペリーの黒船来航がとても大きなことであったように、
フィリピンとか中国とかね、朝鮮とかもそうだったんですけど、それにとっても大きな問題になってくるっていう話ですね。
米西戦争と海外領土の獲得
で、ちょっと知識的なところでなんですけど、まず19,20世紀転換期の海外領土獲得が米清戦争って書いてあるんですけど、これはアメリカとスペインの戦争です。
アメリカはその海外の植民地を入手するといったときに、もともとスペインが持ってたものをスペインとの戦争によって手に入れていくっていうのがこの歴史になってくるんですけども、
で、それの最初手始めに大きな問題としてあったのがキューバなんですね。キューバってアメリカの隣にあるじゃないですか。
で、このキューバはもともとスペインに植民地支配されていた場所なんですね。だからアメリカにとってみるとキューバってお隣じゃないですか。
で、そのお隣がスペインから独立しようとしているっていうところで、そのところにどんどんアメリカも自発的に巻き込まれるというか、むしろ巻き込んでいくみたいな感じになってくるんですね。
で、もともとアメリカがさっき言ったみたいにイギリスから独立を果たしてできた国なので、もともとアメリカはキューバのスペインからの独立にはかなり応援していたというか、
あの、心情的にもすごい同情していたっていうのがあったんですね。だから、その中でキューバとの貿易とかも積極的に行っていくし、
キューバにもサトウキビとかね、生産していたっていうこともあって関わりがあったんです。
で、その中でアメリカのメイン号っていう船がそのキューバのハバナコ港で爆発しちゃうんですよ。
で、アメリカとするとこの時に小兵260名が亡くなってるんですね。
で、そうなった時にこの爆発の原因が、つまりキューバがスペインから独立しようとしていた時に、このスペインとの戦争というか、この独立運動に巻き込まれて、
それでこのメイン号が爆発されてしまったんじゃないかっていうことを言って、それをきっかけにアメリカとスペインが戦争を始めるっていうことになっていくんです。
ただこれは結構そういった意味ではアメリカは巻き込まれたというか、自衛のためにこの戦争を始めたみたいな感じを当初から言ってくるんですけど、
アメリカとスペインじゃ離れて。
そうなんです。でもそのキューバとかアメリカ大陸の他の場所をスペインが持っているので、やっぱスペイン艦隊と戦っていくことになるんですね。
スペインはすごい海戦が強くて無敵艦隊って言われたくらいのものを持っていたんですけれども、
ただこれ爆発した原因っていうものを後の方で、確かではないんですけど、研究者が調査した時に、どうも別にスペインから攻撃を受けたとかではなくて、
当時爆薬ってすごい爆発しやすかったんですよ、船の。で、それが事故によって爆発したんじゃないかというふうにも言われてます。
これはちょっと真偽の方が定かではないんですけども、ただアメリカはやっぱどこかで領土的野心を持っていたんですね。
だからこのことをきっかけにすぐにスペインとの戦争を始めるというふうになっていくところなんです。
で、この時期っていうのはかなり、キューバもそうですし、実はフィリピンもスペインからの独立運動っていうのを展開していた時期なんですね。
すごいスペインって植民地たくさん持ってたんですよ、この時代。で、その中で、でもやっぱりそれぞれの国が、それこそアメリカみたいなものを例にとって、
アメリカだってイギリスから独立したんだから、他の国だってヨーロッパの帝国から独立していこうっていうような動きになっていって、フィリピンでも独立運動が始まっていたんですね。
で、それが2つ目のところで、今度フィリピンでもですね、スペインとの艦隊戦が始まっちゃうんですよ。
つまり、キューバとの関係でアメリカとスペインが戦争を始めて、これは本当にアメリカの近くだったんですけど、でもフィリピンの方、アジアの方でもこのアメリカの海戦とスペインの海軍が戦うことになって、
それでアメリカとスペインの戦争というのはどんどん拡大していくことになるんですけれども、ただこれでそうすると、じゃあアメリカからスペインと戦ってアメリカが勝利したとしたときに、
今度、アメリカはもともとキューバであるとかフィリピンとかの独立を応援していたというか、してたはずなのに、職命にしはいするんですね。そうなんですよ。
そう、代わってキューバとかフィリピンからしてると、あれ?味方してくれてたんじゃないの?みたいなところになっていくところなんですけど、
やっぱりアメリカの中での海外にどんどん領土を拡大していって、海外の市場を獲得していくっていうのは、やっぱり国家としての命題としても大きかったっていうところになるんですね。
でもそんなこと言われたって、当然反発するじゃないですか。スペインからアメリカに変わっただけじゃないかみたいなね。まあおっしゃる通りのことになっていくと。
今の話は何年前になります?
えっと、1890年の終わりになるんで、今から100年前だと、だから150年前くらいになってくるのかな、大体。
日清が1860年になる。
そうそう、その後だからもう明治政府が出来上がってるみたいですね。まあ大体同じような時期で、日清戦争、日露戦争とかと。
なんかでもすごくないですか、この1898年にアメリカはスペインと戦って、キューバを手に入れ、プエルトリクを手に入れ、フィリピンを手に入れて、さらにグアムを手に入れると。
しかもこの同時期にハワイも手に入れてるんです。
ハワイ?
はい。
49番目の州だっけ、ハワイ。
ね、50番目がアラスト。
うんうん、不祥よくございますね。
ハワイはどこだったの、あれ。
ハワイは、ん?
ハワイ王国?
いや、じゃあ、ハワイはもともとハワイ王国です。
あ、王国だね。
ほら、ワイキキの王朝があって、王国があった。
ただ、
カメハメハダイオ。
そうそう、まさにそうそうそうそう。
これは分かんない。
カメハメハダイオですよ。
植民地にはなってなかった?
なってなかった。
なってなかったんですけど、アメリカは当時、ハワイを植民地にすることはおそらくものすごく意識してたと思います。
あの、ハワイは植民地支配はされてなかったんですけど、すごい移民が多かったんですよ。
アメリカからの移民も多かったし、日本からの移民もかなりいて、中国系の移民も多かったんですね。
場所がやっぱりとても重要なところだったので、あの、やっぱり今、船ですからね、当時は。
で、この時にアメリカでは、アメリカ、ここちょっと書いたんですけど、
あの、19,20世紀の海外領土獲得の一番下の丸ポチのところで、
あの、1893年にアメリカ植民者と、あとアメリカの海軍がハワイ王朝を転覆させてしまうんですね。
で、これが、でも、あの、もともとは海軍とか一部の人間が先走った結果というふうに、
ちょっとアメリカ本国でも見なしていたんですけど、でもスペインとの戦争が始まったことをきっかけに、
もうこの際、ハワイ王を手に入れてしまえという形でね、なってしまうんですよ。
だから、この膨張ってものすごいですよ。
だし、やっぱこの時には、アメリカってやっぱ国家としてものすごく強くなっている時期でもあって、
ちょうどこの19世紀の後半くらいから、アメリカの工業化ってものすごく進んでいくんですね。
で、例えばフォード社であるとか、あの車のね、ああいう大企業とかも出てきてるし、
ロックフェラーみたいなね、財団とかも出てきるっていうことになっていて、
どんどんそのヨーロッパの、例えば、それこそスペインとかね、あの他の国と匹敵して、
さらにまあ海戦で勝っているので、やっぱかなり強い国になっていったっていう時期なんですね。
なんの戦争っていつだっけ?
南北戦争は1860年くらい。
じゃあ、そんなに時間かかんない。
そう、たかがわずか30年くらいですよ。
よその島をそっくり欲しい。
あそこを自分ちの植民地にしたいっていう根底は、やっぱり資源が欲しいわけ。
ああ、そうですね。
それ、資源っていうのもありますし、あとは、あのやっぱ港を確保しておきたいっていうのもあるんですね。
地域営地で。
やっぱ最終的に目指してたのは、結構中国市場が大きくて、
人がいる中でどんどんものをね、優位に展開するためには、
そういうところの近くの港とかを制圧していって、
物資が運べるような状態にしておくっていうのが重要だったとこですね。
あの中野さんのこの本は、今僕が説明したことの100倍くらいものすごく書いてます。
あの多分今の話で、
ページが3ページくらいしか進んでない。
フィリピン戦争と帝国主義への反発
ただ、こういうやり方をアメリカの全ての人々が良しとしてきたわけではないんですよ。
これは当然、このアメリカが海外の植民地とかをね、支配していくっていうのは、
すごく反発もあって、実は最終的にフィリピンとかを所有することを決めたパリ条約っていうものを、
スペインとの間のね、戦争が終わった後の勝敗を決めた平和条約として結ぶんですけど、
これはギリギリ成立した、アメリカ国内でギリギリ成立したもので、わずか1票差だったらしいです。
それくらい、半分ではないんですけど、確か3分の2の合意が必要だったんですね、この時の。
でも3分の1の人はやはり反対していたっていうところなんです。
で、ただまあもちろんこうなって、アメリカの人がいくら反対していたとしても、
まあ今度スペインとの戦争だったものが今度フィリピンとの戦争に変わってしまうんですね。
で、このが始まるのが1899年から1902年まで、まあ一応3年くらいやってるんですよ。
ただこれの3年っていうのは、ある程度、なんていうかな、当時フィリピンも一枚岩ではないので、
一応フィリピンの中心的な人とされている人の中で、終わった集結宣言が出されたのが1902年で、
実はこの後もずっとギリラ戦みたいなものが続いていくので、
フィリピン側もかなりしぶとくアメリカの支配からは抵抗しようとしていたっていうところになるんですけど、
これがアメリカの史上初の長期海外遠征戦争。
今ちょっと2番のところまで来てるんですけども、
投入兵力が12万5000人以上、約4200人の戦没者が出てるというところですね。
ただし、これがアメリカ側の被害なんですけど、
フィリピン側の被害っていうのは、実際の数はかなり数えるのが難しいんですが、
まあ一人の研究者、ジョン・ゲイツさんという方によると、
フィリピンも南部側って、ミンダナオ諸島って呼ばれるところは、
どちらかというとイスラム圏の地域になっていくところなんですけど、
そういったところを除いたとしても、戦没者が3万4000人、感染症被害が20万以上という風になっているので、
もうフィリピンからするとたまったもんじゃないですよね。
この時ってやっぱり、熱帯の地域とかもあって、
しかも戦争になると食料とか水とかの耐性がものすごい不足していくので、
これらがものすごい流行るんですね。
これのことによって被害を受けた人がものすごいというところなんです。
で、ちょっと次の2ページ目のところに行くんですが、
一応さっき説明した中で、必ずしもアメリカの人たちすべてが海外植民地支配のことを賛成していたわけではない
ということの活動のことをちょっと書いたんですけど、
スペインとの戦争が征服戦争に堕落してはならないと、
しかもアメリカにとって海外の植民地を手に入れるっていうのはやっぱり初めての経験なんですね。
で、その初めての経験をしたときに、
それがアメリカにとって本当に良いことなのかどうなのかっていうのはすごく疑問視されていたというか、
やっぱそもそもアメリカにとっての、例えば合衆国憲法であったり、独立宣言であったり、
そういった国の基礎となる部分があるわけじゃないですか。
こういう部分に対してフィリピンを領有することによって、
こういった国の原則が破壊されてしまうんじゃないかっていうような懸念もすごくあったんですね。
実際にこれは海外の植民地を手に入れた終わりではなくて、
今後からいろんな条例を定めなきゃいけないとか、次回の承認を得なきゃいけないとか、
もろもろすごいこの法律の問題とかも出てくるので、
これがなかなか一筋縄では起こさないんですね。
あと先ほどの心情的な部分で、
スペインの領の諸島の人々の自由に向けた英雄的な闘争に全面的に共感するがゆえに、
つまりもともとキューバだったりフィリピンだったりの独立運動に支援してたわけですから、
それを彼らの諸権利を主人の交代によって、
つまりスペインだったものがアメリカに代わって奪うことはダメでしょっていうものすごく真っ当な反論をしている人たちもたくさんいて、
特にこの時には結構作家の人とか研究者であるとか、
あと女性の中での権利を伸ばすような活動をしていた人たちが、
このアメリカの帝国主義的な海外領土に対しては反対していたようなところですね。
作家でいうとマーク・トウェインという人が結構代表的な人なんですけど、
ただしこうしたものに対して、じゃあアメリカはこういう反対があると、国内にもこういう反対がありますという中で、
どうやってこの海外の植民地支配を正当化できるのかっていうのが次のところで、
慈悲深い同化と人種・市民権
英語で言うとBenevolent Assimilationという言葉を使われているんですけど、
Benevolentっていうのは恩恵的とか、有愛的とか、慈悲深いとか、そういうとにかくなんかいい感じの言葉なんですよ。
で、Assimilationっていうのが同化っていう意味なんですけれども、
だからフィリピンを領土支配するのは、このBenevolent Assimilationという論理によって支配するんですっていうのがこのところで、
これは僕も当時の資料を読んで、本当に書いてあると思ったんですけど、
その資料の中で書かれていたことが、フィリピンの市民権や自治への発展は公正で人道的な政府の貢献に基づくものではなく、
スペインの不正と人間の最高の力の自由な行使への妨害によってなされたのだったという、
つまり何が言いたいかっていうと、フィリピンはもともとスペインに植民地支配されたときに、
スペインは正しくフィリピンは教育できなかったっていうことを言ってるんですね。
だからフィリピンには政府もないし、フィリピン人による自治も行われてなかったんだっていう、そういう言い方をするんですよ。
で、そんど、じゃあスペインに代わってフィリピンの人々はアメリカの正しい指導の下で、
市民権と人種の発展に適するあらゆるものを考慮に入れて、発展の一線橋を迎えるだろうというようなことを言ってるんです。
だからスペインに代わってアメリカが正しく教育してあげますよという、とても慈悲深い発言をされるわけですね、上から目線の。
マルコス大統領の時代がこれから。
でもまさにそのマルコスの方にも関わってくるような話になってくるんですけど、
しかもこの時に、でも彼らの中でこの同化っていう言葉はとてもセンシティブというか微妙な言葉でもあって、
ちょっと前段階の話になるんですけど、南北戦争がこの前にあったっていう話したじゃないですか。
で、南北戦争で争われていたのは一つ奴隷制の問題ですよね。
で、黒人奴隷という問題があった中で南北戦争が行われていて、
で、じゃあ北側が勝って南側が負けた時に林間が奴隷解放宣言みたいなことをやっていくわけなんですけれども、
ただし、このここから30年くらい経った時代のアメリカでは、実はそれの反動がものすごく強くなっていて、
黒人差別がむしろめちゃめちゃ強くなっていくんですね。
そうなんですよ。むしろ南北戦争後には何人か黒人の議員っていうのが、
例えば衆議会議員とかの人たちが出てきてたんですけども、
この時期にはそういった黒人議員がゼロになるくらいになってたんですね。
それに近いですね。分離すれども平等っていう形でやるんですけれども、
その中で黒人に対する差別とか嫌悪感とかっていうのが、実は負けた南部側の発想だったはずなんですけど、
これが北部に蔓延するくらい、ものすごく黒人の人種問題っていうのが出来上がっていってた。
で、そうする。
黒人がどんどんどんどん世の中で認められるようになったきっかけは、
スポーツをやらせたら金メダルを取るわ、と。
あの人たちの活躍も絶大じゃない。
実際に、南北戦争の奴隷解放宣言が行われていくのが1860年代なんですけど、
そこから実際、本当に黒人の権利が認められていくのは1960年代の公民権運動になっていくので、
そうですね。もうつい50年前から。
さすが皆さん、時間の幅が。
学んで、こうなったのかなと思ったんだけど。
いや、それほど歴史っていうのは、やっぱなかなか発展はしていかないんですね。
やっぱり国民性ってものがあるから、ね。
なるほど。
もどっていいじゃん。
おっしゃる通りですよね。
だから、そういう時代状況を考慮にねると、当然フィリピン人という人たちがフィリピンにはいたわけなんですけれども、
この人たちは当時のアメリカの白人にとってみると、ほとんど黒人と変わらないんですね。
みな存在としては。
じゃあそうなった時に、じゃあフィリピンを植民地支配した時に、アメリカ人とフィリピン人が、
もしね、あれがアメリカの一部にフィリピンがなったとしたら、
じゃあ彼らはフィリピン人じゃなくてアメリカ人になるのかっていう問題が出てきちゃうんですよ。
だから、この同化って言葉はものすごくなんか微妙な意味合いを含んじゃってた言葉でもあったので、
この時に、平合賛成派のウィディアム・チャンドラー上院議員っていう人が、
ちょっとね、大統領の意向みたいなものをちょっと忖度して言ったりするんですよ。
それが、この同化、アシミュレーションとは類似であって、根欠や合体ではないっていう言い方をするんですね。
つまり、フィリピンを教育して、アメリカ人と似たようなところまで高めることはするんだけど、
それはアメリカ人として合体することだとか、根欠することではないっていうようなね、そういう言い方をしていくんですね。
だから、植民地平合がカラーラインっていうのはその肌の色ですね、を超えて、
植民地人をアメリカ社会に浸透させることがあってはならないっていうふうには考えていたんです。
この時に、やっぱ中野さんの研究なんかが言ってるのは、フィリピンには黒人であるとか、アジア人、
当時のアメリカ人にとってのアジア人って中国人とか日本人になるんですけど、
あとインディアンみたいなね、という存在っていう、三重の意味の、そういう理解の仕方をしてたっていう。
黒人、我々違うと思っていた。白人から見たら同じです。
台湾に行くと、結構年いった人はもう普通に日本語で喋ってくる。
日本への教育を受けた世代はね。
だそうなってきた時に、この実際にこのフィリピンをどう扱うかっていうのは、
あの、さっき言ったみたいに、実はアメリカにとっても大きな問題になってくるんですね。
そうすると自分、当時白人が主流だったので、アメリカンは今とは違って、
白人ではない人種の人たちをアメリカの市民にするのかどうなのかっていう、
アメリカ国民として見なしていいのかどうかっていうので、
ものすごくバチバチの、こう、形に戦いが行われるような感じになってくるんですね。
で、ここの次の3番のところに行くのがこの問題で、
非編入領土と敗者のアメリカニゼーション
見えない植民地と敗者のアメリカニゼーションっていう言葉で、何のこっちゃってことになってくるんですけど、
さっき言ったみたいに、市民権の問題がすごく大きいんですよ。
というのも、南北戦争が終わってから憲法修正第14条っていうものが行われて、憲法が改正されたんですね。
その時に、つまり黒人もまた、アメリカの市民権を与えるっていうことになってくるので、
これだとアメリカで出生、帰化した者に市民権を付与し、しかもそのことを他の法律に規制されてはならないっていう内容なんですね。
だからこの憲法はものすごく強いもので、アメリカ人に生まれたり、アメリカに帰化した人には市民権を与えますよっていう、
それを例えば他の州がね、それが嫌だからと言っても、規制してはならないっていうくらい強い憲法なんですよ。
でもこうなると、やっぱフィリピンの問題とか、プエルトリコの問題だとか、出てきちゃうんですね。
そうすると、この併合した新しい植民地のところに市民権を与えますかっていうことになってくる。
これが大きな問題になってきて、社会秩序の問題にも絡んでくる。
この時に、やっぱ国家ってのはものすごくいろんなことを考えるんですよ。
新しい発想法を発明していくのが次なんですけど、次、非編入領土っていう、日本語で言ってもよくわからん感じなんですけど、
Unincorporated Territoriesっていう、こういう発想をしていくんですね。
これまたね、すごい発明になっていくんですけど、
これがね、ものすごく言い訳がましい発想をしていて、
新植民地は合衆国の主権下に割りますよと。
で、合衆国が領有はしていますよっていう。
だから国際的な意味では外国ではありませんと。
でも、国内的な意味では、合衆国にとっては国外ですって言うんですよ。
なぜそれ?って思うんですけど。
だから、この言い訳の仕方として、フィリピンみたいなところは合衆国には編入されてませんと。
ただ、所有地として付け加えられただけなんですっていう。
市民権は大落ないから、これ。
そうなんですね。
けど、領有はしてます。
こういうね、このすさまじい言い訳の発想を言ってるね。
非編入領土っていう発想をするわけです。
必要な国があったら、すぐ切り替われそうにも。
そうそうそう。
この時に、実はすごくフィリピンとかハワイとかで、合衆国政府の対応って完全に変わってくるんですよ。
つまり、合衆国にとって意味のあるところは、
もうさっきおっしゃってたみたいに、アメリカの州の一部にしちゃうわけじゃないですか。
で、ハワイは実際にアメリカ合衆国になるんですよ。
でも、フィリピンは、まあ率直に言うとそんなに利用価値がなかったっていうところもあるので、
だから、この非編入領土という言い訳がましいものにしてるっていうところがあるんですね。
ただ、
ねえ、アジアを攻めるにはいいじゃないね。
ただ、ほら、ハワイのほうがいいじゃないですか。
だから、ハワイは絶対手に入れたかったんですよ、これは。
でも、フィリピンは実はそういった意味だと利用価値は低かったっていうところなんですね。
だから、太平洋の中でのハワイっていうのは、やっぱすごくいろんなところから行き来しやすくて、
そこの港を取っておけばすぐアジアにも行けるっていう利点があるんですけど、
フィリピンはアメリカからめちゃめちゃ離れてる上に陸地続きというかね、
本当にアジア大陸のほうの一部になってくるので、
実はそんな利用価値がないっていうのが後のほうでね、わかってくることになるんですけれども、
ただ、さっきの市民権の問題ってアメリカにとってすごく大事な問題で、
もともと合衆国憲法っていうのは、本当にアメリカという国が国家として成立するために、
何がその国家としてのアメリカという国をたらしめてるかっていうと、やっぱ憲法なんですよ。
なんでかっていうと、アメリカはもともと移民が作った国っていうようなところがあるので、
例えば日本人という国は日本人が作ったとはなかなか言えないんですね。
だってアメリカにとってみると、イギリス出身の人がそこに参加してたり、カナダ出身の人がいたり、
当然メキシコとかあっちのほうの人からの人もいてっていう、
だからその何人であるからアメリカ合衆国がありますよっていう言い方ができない国なんですよ。
そうすると、じゃあアメリカ合衆国をたらしめてるものは何かっていうと、
すごく理念的なアイディアというか思考の問題に関わってくるところで、
それが自由であるとか平等であるとか民主主義であるとか、
こういうアメリカ合衆国の憲法に規定されているものっていうものがとても大事なんですね。
そうなった時に、この反対派というか、この合衆国憲法の重要性を考える人たちにとってみると、
つまり当時のアメリカの行政、首長みたいな人たちが条約を結んで、
それでフィリピンとかハワイとかプエルトリコみたいなところをそのまま領土にしてしまって、
それが自動的に市民権を与えるっていうことになってみると、
これは結局憲法の内容をどんどん乱発することになってしちゃうじゃないかと。
だって単なる1行政官に過ぎないはずの大統領というかのやつが、
結局国の根本そのものを変えてしまうような、憲法の問題にまで踏み込んでしまうようなことを生み出してしまうっていうところがあるので、
だからこれに反対する人というか、合衆国の憲法を大事にする人にとってみると、
やっぱり非編入領土みたいなでっち上げの概念っていうのが大事になってくるんですね。
それがちょっと書いたんですけど、行政府がその条約締結権を行使して、
外国から恣意的に併合した領土が自動的に本土に編入され、
その結果として当該住民に不可侵の市民権を自動的に保障することになれば、
それはアメリカ市民権の全体を降格させる。まあ難しい文章なんですけど。
でも例えばさっき言ったみたいに、海外の植民地を手に入れて、じゃあ明日からあなたたちはアメリカ人ですってなってると、
じゃあ元々のアメリカ人はたまったもんじゃないわけですよ。そんなわけないだろっていうふうになってしまうわけですね。
そういうこともあるので、非編入領土みたいな発想になっていくと。
で、次がの3ページ目のところに行くんですけれども、
まあ今ちょっと説明したようなところになってくるんですが、
その中でどんどんじゃあフィリピンの人たちとかプレートキョーの人たちをどういう扱いにしていきますかっていうところが、
この20マルで書いたところなんですけれども、市民権のない合衆国人という言い方をするんですって。
The non-citizen US nationalsですよ。すごいですよね。非編入領土というすごい発想を持ってくるなっていう感じなんですけど。
なんとでもなるって感じだね。
でもこれが実はアメリカの当時の人々にとってみると、フィリピンを植民地支配したっていうのは実はかなりわかりづらいというか、
今も完全に忘れられてるくらいのあれなんですけど、当時の人々にとってみても、
アメリカ合衆国が新しい植民地を手に入れたっていうのはなかなかわかりづらかったそうです。
で、それがその見えない植民地っていう言い方に関わってくるんですけど、
それはなんでかっていうと、アメリカ人が増えたわけではないからなんですね。
アメリカ人ではなくて、この市民権のない合衆国人であったり、
あるいはちょっと太字で書いたんですけど、
見えない植民地の創造をフィリピン人は帰化不能外国人としてアメリカへの渡航は自由であったが、
待ち受けていたのはアメリカでね、差別取りんちであったという広い話なんですね、本当に。
で、これとは反対に、ハワイは人口の少なさと合衆国政府議会が太平洋の要石、
金銘石として高級領土化する強い石を持って望んだことから、市民権を一括付与されたと。
もうその、領有する場所で大愚をあからさまに変えるんですね。
で、そうなってから、ハマったもんじゃないですよね、こんなのね。
もうなんか勝手に、あれ、助けてくれるのって思ってたら、
なんかこっちを逆に攻めてきましたみたいな感じになってしまって。
で、植民地支配すると思ったら、でも市民権は与えませんと。
あなたたちはアメリカ人ではない。
アメリカからフィリピンに行ったらどこ?
アメリカからフィリピンに?
実はすごい少なかった。
でもこういう状況だなと。
もちろん、植民地の併合した当初は、どうしても専門的な人とか、いろんなものが必要になるので行くんですけど、
実はフィリピンに最終的にアメリカから生活、異住するような人たちっていうのはものすごく少なかったんですね。
フィリピン全体の一部も占めないくらい。
一割も占めないくらい。
ハワイとは全く違う。
そう、全く弱なんですよね。
この時期だったら、アメリカって憧れの国ではなかったかもしれん。
そうなんですね。
しかもフィリピンからすると、アメリカっていうのはあくまで信仰国家だったんですよ。
発想的な田舎のヤンキーなんですよ。
やっぱフィリピンって今のものとは比べ物にならなくて、
当時の世界国家のスペインに支配されていたので、
ものすごくスペイン文化であるとか、
スペインのすごく情緒的な街並みみたいなものがフィリピンでもあったんですね。
だからフィリピンのエリートってものすごくエリートで、
もう英語どころか、もうなんか5ヶ国くらい余裕で話せますみたいな。
もうヨーロッパ文化にすごい浸っている人たちだったんで、
だからアメリカ人が来た時はめちゃめちゃ田舎者が来たんだみたいな感じのね、
そういう感じのところがあったみたいなんですね。
ただやっぱその中でフィリピン人の人たちが
どういう風なことをやっていったのかっていうのが次のところの
敗者のアメリカニゼーションっていうところになるんですけど、
これでこの中野さんの本にもね、
たびたび言及されていて、僕も研究ときに使った、
フィリピン人の歴史家のレイナルド・イレトさんっていう方がいるんですね。
すごく立派な方で、この人はコーネル大学とか
アメリカのところでも学んだし、
オーストラリア大学に勤めたりもして、
フィリピン切手のスーパーエリートくらいのレベルの人なんです。
この人が歴史研究者なんですけど、自分の家族の歴史を調べたんですよ。
その時にすごくたくさん分かってきたことがあって、
それが彼が1970年代に
資料調査していたところ、父方の祖父が
革命軍のスパイとして、米軍の情報部に監視されていたと。
これはつまり、アメリカとフィリピン戦争の時の
フィリピン側のスパイとして
アメリカに監視されてたんですね、この人が。
その父方の祖父がイスコ爺さんという
呼ばれ方をしていたんですけど、
でもこのイスコ爺さんが元々スパイだったということを
実は誰も知らなかったっていうんですよ。
自分の父親、つまりこのおじいさんの直属の息子であったとしても、そのことを知らなかったっていうんですね。
で、それは
実際にこのおじいさんはアメリカとの戦争で負けた後で
実はアメリカの教員としても採用されていたんですよ。
アメリカに雇われていたような立場になったということもあって、
だからアメリカに敵対していた過去っていうのをずっと沈黙し続けたということになってくるんですね。
で、そのとは反対に
このイスコおじいさん、スパイのおじいさんの息子は
アメリカンボーイズと呼ばれるような世代になっていて
自分の父親がスパイだったことも知らないで
それは逆に米軍の特殊部隊に
配属されていくんですね。皮肉な話なんですよ。
しかもアメリカの米軍退職後はフィリピンの国防長官に
抜擢されているので、この一族はものすごいエリート一族なんですよ。
でもそのエリート一族の祖父が
実はアメリカとの戦争で戦っていたし
もともとスペインからの独立運動に
すごい関わっていた人だったっていうことをこの家族の誰もが知らない
ということがまず驚かれたとこだったらしいんですね。
で、今度自分の奥さんの方の家族の歴史を調べたときに
この奥さんの祖父のペドロっていう人も
米軍占領下のバタンガツ州っていうところで
1901年初めに初代町長に任命された
っていうことらしいんですね。つまりアメリカ軍に
そういうふうに初代町長に任命されていて
それが奥さんの家族の誇りだったわけなんですよ。すごく誇るべき
歴史的な出来事だったんですけど、でもこのイリエットが
歴史資料調査してたら、今度この初代
町長になったペドロが実はカケムエ軍のゲリラと通じていて
しかも町長の職を解雇されて
統合されてたんですね。でもその妻の家族としては
初代町長になったことしか伝わってなくて、これが
米軍に捕まって統合されてたってことが全く分かってなかったというような
ところなんです。だからこの時にこの
歴史家のイリエットが考えたっていうのが、当時のフィリピンの人々にとって
この新しいスペインからアメリカに変わってしまった
植民地の創始国のところが
新しい時代に成功することを絶望し
そのためには革命に参加した過去、さらには反米だった過去までを
消し去り、戦争があったということすら忘れなければならなかったと。
これが負けた側の対応だったというような
形をしてるんですね。しかも
なかなか難しいのが、さっきイリエットのお父さん
イスコ爺さんの息子は米軍に採用されて
アメリカンボーイズとして育ったという話をしてるじゃないですか
だから逆にアメリカの植民地の中で
成功するためには、実はアメリカ流の文化であるとか
思考であるとか、そういったものをフィリピン人だけれども
身につけないと出席できないんですね。だからそういった中でむしろ
過度にアメリカ的な振る舞いをするような
特別勤め先とかあるわけ。
身につけられるような。
必死で学ぶというのもありますし、そうやって
上昇していくためには、当然英語も使えなければいけない
だって当時は、フィリピンの人はタガログ語とスペイン語ですからね
言語は。当然
でも英語を勉強しなくちゃいけないし、そういう部分のところを
身につけていったところなんですけど、だからこの中で
黒人とかもそうなんですけど、アメリカ国内の黒人も
結局アメリカ人の一人として認められるためには
結局、より一層アメリカに対する忠誠を誓うとか
アメリカ的なものの振る舞いを身につけなければいけないという
そういうところが歴史としてあったんだということを
イレートさんは書いてるんですね。
そうですね。ちなみにこういうこととして
それこそうまくやっていったのがマルコスだったりするわけですね。
マルコスは独裁政権になっていくわけですけどね。
その中でちょっと冒頭にも書いたんですけど、カルロス・ブロさんという
フィリピン人で小説家の人がいるんですけど
この人はアメリカに渡ってその中で小説を書いていくんですね。
その中でそのアメリカの中の
フィリピン人がどういう扱いをされていったのかっていうのを書いていく中で
我が心のアメリカっていうアメリカ is in the heart
っていう本を1946年に出版してるんですけど
この内容がやっぱすごくて、我々は皆無名の
違法人であり、家のない亡命者であり、飢えた少年であり
無学な移民であり、隣地にあった黒人の死体なのだ
フィリピン人はって意味です。フィリピン移民は。我々は皆
創世紀のアダムから現代のフィリピン人に至るまで
この地で生まれたものであろうと、違法人であろうと
教育があろうと、無学であろうと、我々そのものが
アメリカなのだっていうことを書いてるんですね。
で、これはやっぱ2つのことを指してると思っていて
それだけフィリピン人の人たちがアメリカの中で
厳しい目に遭っていたっていうことも一つですし
でもなおかつそういった扱いをされていても
自分がアメリカなんだっていう風なことを言わざるを得なかった
っていうようなところを書いてるんですよ。まあこういうことを
読むとやっぱとんでもないんです。アメリカの帝国っていうのは
ここまでの話っていうのは基本的には
アメリカとフィリピンの話をしたんですけど
冒頭のところの中野さんのところで1ページのね
2番目の塊のところでアメリカ帝国と
フィリピンの物語は一気に私自身の問題と
私たち自身の問題となることだろうっていう風に書いたんですけど
マニラ戦とフィリピンの記憶
ここからは本当に日本が関わっていく話で
基本的に暗い話をしていきます。これがやっぱりね
人事じゃなくなってくる歴史的な時があって
それが4ページの4番
歴史と記憶のジェノサイドマニラの死というところなんですけど
さっき言ったみたいに実はアメリカにとっての
フィリピンの併合っていうのはそこまで
意味のある話ではなかったというかアメリカにとってみると
もちろんそれ自体において帰ってね
アメリカでできないようなことをフィリピンでやって
その成果をアメリカの本国に還元させて
それで市民生活を良くしていったっていう面もあるんですけど
ただフィリピン側に何かしらの資源がたくさんあるとか
例えばハワイみたいに太平洋上の防衛上の
とても大事なところであるとかそういった利点はなかったんですよ
なので1934年の時点の
約束された独立ということでタインディングスマグダフィ法
っていうのを制定してこの後
フィリピンは独立の準備期間を経たらアメリカから独立
しますよっていう条約を結ぶんですね
それを法で制定してその時に
フィリピン独立準備政府っていうフィリピンコモンウェルス
って呼ばれるんですけどこれの準備期間を経て
1946年にフィリピン共和国としてアメリカから
独立することを承認とだからもうこの1934年
ですからだいたいフィリピンを領有してからもう30年くらいで
もう独立していいですよみたいな法律を制定するんですね
でそのための準備をフィリピン側も
進めていったんですただこの1946年っていうのは
やっぱり間にアジア太平洋戦争第二次世界大戦を
挟んでますのでここで日本がものすごく
大きくこのアメリカとフィリピンの関係に関わってくるんですね
というのも太平洋戦争によって日本と
アメリカはフィリピンで軍事衝突を行って
で一時的に日本が勝つので日本の占領
支配がこの時点から始まっていくんですね
まああの大岡昌平とかがねあのルソンに関する
あの歴史のやつとか書いてたりしますけど結構あの
やっぱりフィリピン戦ってものすごく大きな戦いでも
あって日本軍もかなり被害を受けてっていうことなんですけど
一応ただその時に日本が一時的に勝って
その日本の占領支配が始まるんですけど
これはもちろんいい支配だったわけでは決してないんですね
で日本の占領支配と残虐行為によって
結局もともとフィリピンは独立するはずだったわけじゃないですか
なのにあの日本の占領によって
しかも日本がその時に公実にしてた
いわゆるアジアに関する
大東亜共和国の理念っていうのは
アジア各国が欧米の植民地支配から独立することを
奨励してみたいな言い訳でやるわけですけど
フィリピンはもともと独立するはずだったんでまるで意味がない感じで
フィリピンの人々のこの日本の侵略に対する対日干渉も
とても悪いものであったところがあるんですね
でこのアメリカと日本のこの太平洋戦争の
フィリピンで行われたものに関しては
110万人を超える戦争犠牲者を指して
東南アジア最悪の戦場というふうに言われていて
しかもこの時にフィリピン側が二重にショックだったのは
この時まだフィリピンはアメリカから独立してはいなかったわけじゃないですか
にもかかわらず露呈したアメリカのフィリピン防衛隊への
大政のおそ松さということで
このアメリカの第二次世界大戦の時って
やっぱりアジアよりもヨーロッパ戦線の方が重視されていたんですね
だからそっちの方に兵力をかけた結果
フィリピン側の防御っていうのはものすごく手薄になっていたので
日本との方にも負けたというような感じになってくるんですね
でこれがやっぱそのフィリピンという国に与えた影響って
ものすごく大きいものがあって
でこの後次のやつがエルミタのゲレロ家の話を
させていただくんですけど
カルメン・ゲレロ・ナクピルっていう人がいて
この人はさっき言ったフィリピンエリートの
一族の人たちなんですよだから代々
スペインの文化に浸ってきてマニラの中心地で
育ってきた本当にお嬢様的な育ち方をしてた人なんですけど
この人の結婚先の
クルース圏のところに日本軍が押し入って
カルメンの目の前で義父と夫を含む男全員が
拉致され殺害されたとで血飲み後を抱えて
妊婦だったカルメンはマニラ船の地獄を過労死で
生きながられたがその後もね深刻なアルコール依存と
トラウマを抱えるっていうことになってしまったということなんですね
でそのこの時のそのエルミタっていう地区
マニラのもともとかなり風光明媚な
場所だったんですけれどもしかもこの町っていうのは
スペインのもともとそのコロニアル様式
というかスペイン的な街並みが残っているようなね
あのすごい石壁とかに覆われてとても異国情緒が
あるところだったんですけれどもこれがどんどん
破壊されていくんですね米軍の無差別砲撃とか
日本軍の欧州で消毒して原型を失っていたと
でこのナクピルエルミタのゲレロ家はものすごい
優秀な一家なのでこのカルメンさんの
お兄さんのレオンマゲレロっていう人は
フィリピンの英雄のホセリサールっていう人がいたんですけど
まあこの人なんて言えばいいんだろうな医者であり
哲学者であり文学者でありみたいななんかものすごい人で
スペインからのフィリピンが独立運動を開始していた時の
すごいトップに立っていたような人だったんですねスペインに
処刑されてしまうんですけれどもそういった国民的な英雄の
作品の英語訳をするのかな確かこっちが
このお兄さんのレオンマゲレロっていう人は
この英雄の作品の翻訳をするんですよ
でも翻訳をする時に一つ研究者の批判になっていたのが
もともとそのホセリサールも含めてスペイン的なね
ヨーロッパ的な文脈がすごくある作品だったんですけど
この作品世界を脱ヨーロッパ化させて
固有の地名を削ったり非常にアメリカ的な翻訳の仕方を
してしまうんですねこの人はでもそれはむしろ
そうせざるを得なかったっていうところがかなりあって
それはもともとそのスペインの異国情緒たたく
マニラの舞台が破壊され尽くしていたのでもはやその
スペイン的な要素を残すものがもう街に残っていなかったんですよ
それがマニラの詩っていうような言い方をされてたんですけど
この言い方になると結局
スペイン時代から育まれてきた植民地都市の豊穣な文化と
多国籍的な魅力に富む生活様式が
この太平洋戦争によって完全に
抹殺されたとさらにさっきカルメンの
根家のところでギフトオットが日本軍によって殺されてしまったと言いましたけども
もともとスペイン文化を継承していた
フィリピンのエリートの人たちもこの太平洋戦争で
大部分戦死してしまったのでそういった文化を伝える人が
いなくなってしまったんですねそれでたとえ戦死を
しなくて生き残った方たちであったとしても
さっきのカルメンの例みたいな形で不深刻なトラウマで
あったりもう何かしらの異像症にかかってしまったりとか
そういうものがあってこのエリートの人たちが
このエルミタっていう地区から逃げ出してしまうんですね
今のフィリピンのすごい富裕層が住むエルミタの
マラテ地区っていう
マラテ地区っていうところにだいたい避難してしまって
なおさらその町の歴史が失われていったっていうところなんですね
このエルミタ破壊されたエルミタなんですけど
これがまたどんどんアメリカ的な町に変わっていき
さらに1970年代80年代になると
日本人が買収を目的に
こっちの方に旅行しに行ったような場所に変わってしまうと
ジャパユキさんみたいな話聞いたことありませんかね
当時日本人のタラリーマンがいて
当時現地の女性を妊娠させてしまうとかね
だからこのエルミタのマニラのすごく大事な地区だったんですけど
これが何重の意味でも破壊し尽くされていったっていうのが
このアジア太平洋戦争の結果としていって
もうほとんど当時のフィリピンの人々は
哲学的な諦めみたいな体制で
この数星を見守っていたっていうようなことを中野さんも書いてたりするんですね
なんで破壊しちゃうんだよね
もう紫外線が始まっちゃったっていうのがあって
結局フィリピンの中心はマニラなんで
マニラのところをまず軍事占領するんですね
それをまずアメリカの方を攻撃した日本軍があって
今度アメリカ軍がそれを取り返すために無差別攻撃をしてっていうようなことの結果として
マニラっていうものがどんどん破壊されていくと
これが東京で起きたらすごいことですよ
そうした中で日本のフィリピン占領によって
フィリピンは約束されていたアメリカからの完全な独立を失って
この後戦争後に経済的だったり
あるいは米軍の基地的な
台北依存を深めざるを得なかったっていうことになるんですね
だからこのフィリピンのタイリングスマグダフィ法によって
独立が約束されていたものが
実質的には意義を失って
1946年になって対外的にはフィリピン共和国として独立するんですけど
その実質的にはアメリカの依存度をむしろ深めていったっていう
そういう歴史的なところがあるんです
これを行ったことの直接的な原因は確実に日本にあって
その後日本が
いろんな形でフィリピンへの補償というか
補償っていう意味合いではなくて
開発援助みたいなことで資金を投入していくんですけど
それはやっぱりこのことへの最初の始まりは
戦争責任の問題と関わっていたんですけど
それが日本側からもどんどん失っていって
多分今日本人でこのマニラ戦のことをよく知ってる人はほとんどいないと思うんですよ
でもちょっとお見せしたいというか
僕フィリピンに3回行って
一応研究してたからね
昨日自分でも撮ってた写真とかをあったんで持ってきたんですけど
これがフィリピンのマニラのところで
やっぱこういうスペインぽい建物とかすごい残ってる
これは多分教会ですね
教会礼拝堂とかのところになると思うんですけど
こういうのが今でも一部残っているっていうか残ってはいるんです
フィリピンっていうのはものすごくキリスト教に厚い国になっているので
そうなんですけどでも街中にこういうのがあるんですよ
これって多分マッカーサーなんですね
ダグラスマッカーサー
おそらく隣分け村大統領当時のフィリピンのコモンウェルス
つまりフィリピンがアメリカから独立するための準備をした時の大統領の人たちになるんですけど
こういうのが街中にあったりして
これもスペイン的なね
やっぱりフィリピンっていうところがスペインの影響を受けた場所になっているので
こういうの残ってたりするんですけど
これはフォートサンチャゴ要塞っていうところで
もともとあの
スペインが守っていた要塞っていうことになるんですけどね
これはなんだ
フィリピンインデペンデンス114年っていう風になっていて
これは歴史のあれが進んでいって
本来スペインから独立した時から数えて114年
っていう意味合いです
これが結局アメリカが離婚しんならあの植民支配されるっていうことになったんですけど
それは大きな看板なんですか
これは旗になっているやつでここにカラヤンっていう風に書かれてあるんですけど
これが多分タガログで一個で自由って意味なんですね
読めない
ボムドですね
ボムだから爆弾落とされたっていう
こういうところが
破壊されていったところですね
残ってる
これナショナルミュージアムですごいあの
大英博物館に似てるようなねあの博物館が
フィリピンにもあるんですけど
これはさっき言ったホセリサールっていう英雄はこの人です
この人は日本にも来たことがあります
フィリピンの国民的な英雄ですね
これは日本軍との戦争のやつなんです
これデスマーチって呼ばれてるやつで
バターンっていうところが日本軍によって攻められた後
そこから歩いて別のところに移された時の
これは壁です壁のモニュメントにこういうのが刻まれ
これ街中にあるんですよあの普通に
あとこれも街中とかにあって結局その戦争の
モニュメントになってくるんですけどこういうのがいろいろあって
日本人が知らないフィリピンの戦争被害
でも我々はっていうか日本人は
多分こういうのがフィリピンの街中に当たり前にあることがわからない
けどやられた側は絶対忘れませんから
あとこれ僕が大学生の時にちょっと
参加したやつなんですけどこちらにいる女性の方たちは
いわゆる日本軍の従軍役にされた方たちで
それで生き残った人たちっていうことに
結構難しいのがこの人たちが
いろんなその日本軍からのつまり
日本への責任追及とか賠償要求をしていくんですけど
でも彼女たちがすごく大変な立場になっているのは
当時の子供だった自分がどういうことを
されたのかみたいなものをトラウマの絵として描いていて
これは明らかに日本軍の兵士に襲われている時のやつだったり
あとこの子供が殺されてたりするわけなんですけど
これがそこの施設のところに書かれてあったんですけど
67年
第2次世界大戦から67年が経ったと
2012年くらいの時期なんですけど
第2次世界大戦から67年が経って
しかもこの人たちが日本とかフィリピン政府に
そういったその賠償の働きかけの運動を
してたんですよ
それで20年くらいその運動をずっとやっていたと
その間に生き残った人たちでも67人が死んでしまったと
でもスティールノージャスティスだからまだ正義は執行されていない
ジャパニーズガバメントは
アクトナウで日本政府は直ちに動けと
っていうことが書かれてあるんですね
そういう部分で非常に
戦後の難しいところなんですけど日本が経済大国になっていくじゃないですか
そうするとさっきの戦争責任の問題の
引き受け方の仕方として開発援助をしていくんですよ
そうなってくると彼女たちの存在も
結構フィリピン政府側から無視されるようになっていくと
日本からの援助が必要になってくるので
だからそれの外でこのハイコートっていうのは
高級裁判所というか最高裁みたいなところが
セックススレーブスって書いてあるんで
本当に性奴隷というか慰安婦の方たちに
コンペンセーションだから保障するのを拒否してる
っていうノットエンタイトルドツーコンペンセーション
みたいなことになってたりするんですね
彼女たちの若い時の写真っていうのがあって
非常にフィリピンの現代史っていうものに
日本は大きな影を落としてるんですよ
このことを日本の人たちはほとんど忘れてるというか
日本は日本で
こういった日本も帝国だったわけじゃないですか
フィリピンを支配してシンガポールを支配してタイを支配して
当然中国も満州も支配していたわけなんですけど
これを意図的に忘れるというか忘却することを選んで
経済復興にひた走っていった歴史があるんですね
だから歴史教育とかでやっぱこういうのを自分でやらないと
っていうとこなんですけど
僕が行った時って2012年の時で震災の後だったんですよ
その時にキズナオールトゥギャザーバナハヤンっていうのかな
とにかく震災のあれの時にすごく
僕もその時に行ったフィリピン大学の人たちとかが
こういう活動をしてくれたんですけど
すごいボランティアで募金とかやってくれて
とても心温まるようなことでもあったんですけど
今の人たちがそこまで日本のことを知ってるわけではないんですけど
ちなみにこれフィリピンの中にある米軍墓地なんですね
アメリカ軍墓地でこういうのがあるんですよ
ここだけ本当にアメリカのアリントン国立墓地みたいな感じになってるんですよ
だからその中でやっぱり
フィリピンの中におけるアメリカがこれだけやっぱり
実は目立つところにも分かるところにもあったりしてね
国の総理なんか行ったらそこに花束
っていうかやっぱり来る時にそういうですね活動しますね
フィリピンの大統領もアメリカの
アリントン国立記念墓地みたいなところを訪れたりして
というところなんですねというのがありますと
よく撮ってきましたね
スペインとの文化を強調するようなモニュメントになっていて
メキシコとかフィリピンとスペインみたいなものが
この船で結ばれていて金の移動というか輸出というか
ああいうのをやってたんですけどそういうものが
街の記念碑として残ってたりするんですね
でさっき一番最初のこういう街がボロボロになっていってっていうようなところでもあるんですけれども
なのでねこれはなかなか
フィリピンとアメリカっていうものの歴史を調べた時に
どうしてもこの日本の関わりっていうのも出てきてしまう
っていうのがあってやっぱそういうところって
我々はあんまり意識しないんですけどどうしても歴史として
残ってるしやっぱフィリピン側の人々にとってみてもね
やっぱ大きな本当に歴史的な出来事として
記憶されてこうやって街のモニュメントとして残ってるっていうところなんですね
今日はみんな戦後のそういうこと学校が歴史で習う
うん、習ってますね
個人的に言っても嫌な雰囲気は全然ない
うん、ないですね、ないっていうかそのまあもちろんただやっぱり
さっきのいわゆる従軍役の方たちに
まあ僕は大学の活動の一環としてお会いしているので
別にそれでってあれではないんですけど
まあでもやっぱ中の人たちに言われたところが
もう日本政府もフィリピン政府も賠償しないなら
あなたたち日本人が賠償しなさいっていうね
ことをやっぱり言ってたりしますよ
まだ生き残ってる人いっぱいいるの?
たぶんほとんど高齢者ですね、さっきのは2012年の写真なので
たぶんもっとさらにお亡くなりになってるでしょうね
ほとんどいらっしゃるのは当時20歳前後なんでしょう
アップの世代までばあちゃんが従軍役だったって受け継いでは
行きたくないですよね
うん、だと思いますね
あとさっき言ったみたいにフィリピンの難しさってそういうところがあって
アメリカと戦ったことも忘れなくちゃいけなかったっていうことを言ったじゃないですか
やっぱり今度日本の保障というか経済援助を受けるためには
日本への通したことも忘れなくちゃいけないっていう面があったんですね
だから戦争っていうのは違うんか
そうなんですよ
だから
この植民地支配の根深さってものすごいものがあって
だってその前にもアメリカがあって、結局スペインだってあるわけ
そうなんですよ
スペインの植民地支配だって結局そういう結果をたどってるはずなんだ
私もあの間ね、東京を散歩してたら洋服売ってるお店があって
フラッと入って私にあげようと思って
今着るのちょうどいい生地のセーターを送ってくれて
ラベル見たらフィリピン
もう今はそれほど密着してるわけじゃない
そうなんですよ
あと例えば日本だと今フィリピン産のバナナとかはすごい輸入してますよね
バナナが一番なじみだね
でもあれの鶴見義行さんっていう人が
バナナと日本人っていう本を書いてるんですけど
そのバナナを見た時にどういう歴史がわかるかっていうと
フィリピン産のバナナを輸入する前は台湾のバナナを輸入してたんですよ
でもそれは日本が台湾を植民地支配してたから
流通的にそっちが先に来るっていうことで
その後フィリピンの方の植民地支配とかも関わっていて
フィリピン産のバナナが輸入されてくるっていうことでもあって
台湾バナナえらい、立派な
そうそう、ものすごい高級だったんですよ
台湾バナナっていう
美味しかった
台湾史を学ぶ必要性
僕がこの手のお話で最終的にどう言いたいなと思ってたのは
今台湾の方とかね、このオクワイズの方にも観光に来られるということで
おもてなしみたいなことをしてはいるんですけど
でもこのオクワイズの人々も台湾の歴史を学ぼうとはしてないはずなんですよ
でも台湾を日本は植民地支配していて
やられた側っていうのはこういう形で絶対記憶してるはずなんですね
それに対してやっぱ上っ面のおもてなしっていうのはよろしくないと思うんですよ
僕はやっぱそういう台湾の歴史はちょっと学ばなければいけないだろうと思ってるので
今年度は次回でアメリカ史の勉強は終わりにして
来年度は台湾史をやります
中国語が通るのかって
僕は台湾のことは全くわからないので
一素人としてただ勉強するだけです
新日だけで終われない台湾近現大史っていうタイトルでやります
でもちょっとやっぱそういうことはちょっと
国と国の付き合いになったり
他の外国の方と何かしらの交流が出た時に
やっぱこういうことを学ばないと
それは神聖さがないというか
前前石破総理も
石破さん石破総理が
やっぱりシンガポールとかに行った時に
シンガポールの歴史をどれくらい知ってますかということで
自分の知ってる範囲で答えたら
それではシンガポールとの友好関係は築けませんねみたいなことを言われて
ものすごい歴史の勉強をするようになったそうです
そういう部分ってありますからね
というわけでだいぶ長くなりましたがどうもご静聴いただいてありがとうございました
こういう形でした
01:16:37

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