始まりのところ 群馬県におけるこんにゃく栽培
の始まりの地とされているのが 南目村
南目村って言うのこれ 南の薪と書いて南目村ですね
そうなんだ これ長野県に行くと南薪
村っていうね同じ漢字を書いた 村があってややこしいんですけど
まあ村の名前は割とかぶり かしよね
近いんですよ これぜひ地図で見ていただき
たいんですが南目村というのは 群馬県の南の西の端っこ
群馬県の南の西の端っこ 南西部もうすぐ隣は長野県です
そういう新州との県境あたりにある 村ですねここはもともと条件が
ある程度揃っていましたこんにゃく 栽培をするのにふさわしい環境が
もともとあった これは地理的な環境 でいくと自然環境もそうですし
社会的環境も整っていたという ふうに言えるかと思います
へえ そしてもう一つ二つ目ポイント
は砥石産業によって経済地盤 が出来上がっていた
砥石 そうまさかの砥石だよ
これは砥石 前回までは紙っていう話
知ってましたよね 知ってたね
紙じゃなくて今度は石だ 石
はい しかも砥石
砥石 すげえピンポイント
ねちょっとね僕ら料理人として はなかなか身近な産業ではあります
よね めっちゃ身近よね
はいそして三つ目が中島 東英文が開発をした製粉技術を
導入することができた 製粉ね
はいこの三つのポイント に絞ってあらすじをお話ししよう
かなというふうに思っています まず南目村という場所の特徴ですね
特徴 南目村には戸沢地区
という地区があります 戸沢地区
戸沢ってのはね砥石の 都に沢これ戸沢地区って言うん
ですけど 戸沢地区
もうほんと山ん中これね youtube なんかで検索すると出て
くるんですけど限界集落の村っていう ふうに言われてますねここら辺
は 逆に限界集落だからこそ
youtubeに上がってる そう今はね
そういうことね 平均年齢が今日本一らしいですよ
あそうなの 超高齢化地域
一番先に消えてなくなる 可能性があるっていうふうに言われてる
そうです 間違った方向のあれだねメジャー
な方法だね そういうふうになっちゃいます
ね結構廃屋なんかもずらりと並んで いて僕は個人的に風情があって
好ましい地域だなと思うんですが なかなか今の経済環境などでは
厳しいのかもわかりませんね 戸石というところか戸石が
取れる場所は他はよくわからないん だけど基本は山の奥のイメージ
だね すごい山奥
そうなんだ もう少し行くと海から
最も遠い地という看板が立ってる 辺りですね
海から最も遠い 時間的にでしょうけどね
確かに日本海東に太平洋側 の間だもんね
ちょうど真ん中辺りになるん でしょうねこの辺りは中世の時代
から中仙道の中の脇海道 脇海道
脇海道って意味わかります 脇って本当の脇だね
五海道ってあるじゃない ですか東海道とか中仙道とかいろいろ
と日本橋を中心にあちこちに巡 らされた海道がありますよねこの
主要海道に対して脇海道っていう のが別に整備されています
そうなんだ だいたい主要海道一つに対して
5本から10本程度の道が走ってる というふうに思ってくださいその
うちの一つがここにある下似田 道という道ですね
下似田道 中仙道甲州街道とかそれ
と似たようなもんですけど東京 からずっと山の中を通って西に
向かっていきますね群馬県の下似田 で分かれて
群馬県の下似田で分かれて 下似田ネギで有名なとこ
ですよね 見たことある地だと思ったら
ネギだ ネギのとこあそこで分かれて
戸沢地区を通ってるのが脇街道 すっごい細い谷合いの集落のところ
を通ってるんですねこれね僕も ちょっと細かく調べきれなかったん
ですけどどうやら武田信玄が上州 だから今の群馬ですねそちらの
方面に進行する際にはどうやら こことおったらしいんですよね
山の中も で途中で兵を休める駐屯地
っていう家営をするとか泊まった りするわけじゃないですかそういう
時には大体この戸沢地区近辺に 寝泊まりしたようですね
そうなんだ ものすごく狭くて谷合いの
街なのかな集落なので攻められたら 一たまりもないようなところなんですが
逆に両サイドの崖が険しすぎて 攻めようがないだから前後さえ
警戒しておけば安全だよねみたいな ところ
駐屯するにはすごい便利な 立地だね
そうなんですねここが その時代にはすでに砥石の採掘が
行われていたらしくかなり古く からそういう集落らしいんですよ
そんな前から 砥石ってバカにしちゃいけなくて
かなり重要なんですよだって刃物 って研がないと使いようがない
じゃないですか まあそりゃそうだね
特に戦国時代なんかになって くるとほら槍だとか刀だとか
これは研がなきゃどうしようもない わけですよ
そうだね そういう需要があるしこれが
江戸期になってくると一般需要が すごく高まるんですよね
はいはい 包丁に使うのはもちろん
なんですけど鎌とか桑とかこうい ったものを研がないと農業の生産量
上がっていかないわけですよね 確かにそうだね
特に下草を刈るとか麦の 収穫をするとかあとは杉とかそういった
木材の下枝を払うとかこういう のにもどうしても必要なんですよ
まあそうね研いでないやつ はすんごい効率悪いからね
ねだから生産効率を上げるには
もうどうしても研がなきゃいけない 研石っていうのはこれは僕らにとって
は常識なんですけど大体3種類ある じゃないですか
ああそうだね 粗と中と仕上げと目の粗い順
に言って粗とだからまず粗研ぎ するわけですよねギザギザになる
けどかなり切れるようになります よで中後はその中間点で仕上げ
とはもうツルツルのツヤツヤに するやつ僕らで言うとなんだ鉄砂
包丁研いだりとか刺身包丁とか 薄刃とかああいったのを研ぐの
に使いますよね そうだね多分でもツルツル
にする意味を分かってる人は少ない かもね一般的には
まあそうだねもう切れ味 がぐっと上がってくんですよね
紙剃りなんかがよく分かりやすい かもね
ああそうだね
ただ一般的にそこまでの 切れ味って求められていないので
一番需要が高いのは中都なんですよ ねでこの戸沢地区で取れる砥石
って中都なんですよだからむちゃ くちゃ需要があるしかもちょっと
行けば江戸があるわけじゃないですか ちょっとって言っても遠いけどね
ちょっとの距離感はちょっと わかんないけどさ
僕ら静岡県民とかそれより 西の方面からすると江戸という
巨大な大消費地があるわけですから 近いのでそこに送って商売になって
いくとそういう環境なんですよね で江戸時代に入ると幕府直轄寮
になる そんなに直轄寮
そう砥石の需要でねだって この砥石御用ととか言って幕府
の御用米とか御用茶とか聞いた ことないみたいな感じで御用
とって言われててねでここも結構 街道としては重要拠点なので途中
で石書が建てられたりとかね割と 栄えてるんだよね
栄えてんだね そうそういう場所なんですが
なんですが もう何だって住むのには向いてない
山の中だからね 何て言ったらいいんだろうね
渓谷っていうのがふさわしいかもしれない 結構切り立ってる感じね急斜面
ですよもっと奥の方に行くともう 完全に見上げるような感じねここ
に最盛期で数百人から千人近く の人が住んでいたっていうから
恐ろしいじゃありませんか そんな住んでたの
どうやって生きていくの食べ物 をどうするのって話になります
よねこれがねもう食料生産量が あまりにも低いもんだから作れない
んですよほとんど 一応少しは作るんですよ作るんです
けどもうそもそも米作れんわけ ですよ超急斜面だったらもうだんだん
畑っていうのがもう怒りますけど そうだな奥行き23メートル1.5メートル
とかかなみたいなだんだん畑 なんで激狭なんですよね
23メートルは狭いね
1.5メートルとか10メートル とか行きゃ広いねみたいな
だんだん畑つってもせいぜい 10から大きいと20くらいあるから
ね うんそこでずっとだんだん
畑広げて水田もやるって効率悪い わけですよね
そうだね
で水はどこにあるかっていう と谷底にあるわけですからどう
すんのこれっていう環境なので しょうがないから周辺の村と交易
をするより他にやりようがない わけですよねだから一番近いのは
新州今の長野県側の村と交易を していたらしいですね要はこれ
脇街道なんで江戸とその次に新州 通って甲州につながってるみたいな
そういう場所なのでそっちの村 村と交易をするのが非常に効率
がいいわけですよ新州の人たち だってみそやなんかを持って江戸
のほうに物資を運んだりとかする わけですよそのついでに米持って
きてもらって買うんですよねその 買うときの対価というのが都市
で得た利益お金であったりとか あと集落内で採れた農産物これ
と交換するわけですね狭いだんだん 畑でもなんとかなる作物がいく
つかあるっちゃあるわけですよね 麦だったりとか冷えだとか泡だ
とか里芋だとか その辺はいけるんだね
特に芋なんかね まあ芋ね
ほっときゃなんとかなる わけじゃないですかね
まあねそうじゃなきゃこんにゃく の話には出てこないね
そうでここでこんにゃく が導入されていくんだよ途中から
途中からなんだ まあ途中だって結構早いけどね
18世紀前半とかそこらで1700年代 1600年代には少なくとももうこんにゃく
があったんではないかっていう ふうに言われてますもっと前の
可能性ありますけどねでそのこんにゃく がぶつぶつ交換されるようになって
これちょっと明治時代の話ですけど 米1瓢とこんにゃく芋が1台うまい
1頭分何キロぐらいなんだね40キロ ぐらいなのかな
もうちょっとあるかもね それとちょうど交換されて
いたみたいな記録がありますね なんでこの地域にとってこんにゃ
くっていうのは大化として必要 なんですよある意味こんにゃく
を生産するということは米と交換 するわけですから間接的に稲作
やってるようなもんなんですよね そういう意味でこんにゃくの栽培
が必要だったということですね でこの都市がもたらした物流販売
物っていうのも結構影響が大きくて ですねこれね戸沢地区で採れた
都市がまず下荷田に運ばれていきます 下荷田に運ばれる
ちょっとビンとこない 方は地図なんか見てもらうといいん
ですけど結構距離ありますよせっかく 川があるんだからねそれこそ水戸
藩のように川を下ればいいのか 思うんですけどこれ山の奥の川
っていうのはね岩ゴツゴツしてる わけですよ
ゴツゴツしてるだろうね 水流も少ないわけですね
少ないね 水流だから船なんか浮かべ
られるわけもなくて そんなに少ないんだ
そうそうするとどうやって 運ぶかというとですねもう馬しかない
わけ ああそうなんだ
すごいよ都市を乗せた 馬が下荷田に向かって山道を歩
れていくと記録によるとですね 年間で2万だ2万頭
2万頭分 延べね
延べ 1年間で2万頭の馬が
戸沢を出発して下荷田に向かって いたらしいんですよ
かなりの量だね これ365で単純に割り算する
と1日当たり50数頭の馬が出発している ことになるわけですよ
50数頭 結構な等数ですよ
本当はね今さ田の差単位 重さ調べたけど江戸時代の定め
では36巻 約135キロ
すごいね 135キロかける50
すごいね石とはいえすげえ 運送能力だね
すごいねそんななんだね
毎日毎日だからねこれがね 毎日だよね
これが戸沢から出て下荷田 で1回集積をされそれが富岡に
届くと富岡といえば 有名な遺産がありますよね
工場があるね行ってしまいました
富岡製糸工場ねあそこに行く わけですよ
富岡製糸工場ができたっていう のはその富岡という街がなきゃ
いけないですよね元々ねその富岡 という街はどうやって形成された
かというとこの戸沢の砥石の集積 所だったから人が集まった
戸沢の集積所が先
そう砥石を運ぶときの中継 店だったから富岡が街になった
というふうに言われてるそうです これは富岡の市町村のところの
ホームページに載ってたで間違い ないと思いますけどねそんなふう
に言われてるそうですね あと一つチップスで下に立って
下という字に仁義の神に担保の 立って書くじゃないですか
書くね
これ元々下荷田だった じゃないかというふうに言われてる
そうです 下荷田
荷田ってわかります わかんない
荷物の荷に馬へんに太い で田って荷田って言うじゃないですか
荷物を運ぶ馬のことですよねで 荷田が出発する場所が戸沢ここを
元荷田で元から行ってずっと下 の方に下っていくとその最初の
集積地が下の荷田で下荷田 これが展示で下荷田になったんじゃない
かなっていう話もあるそうですね 確かにあり得る
ありそうだよね こういうのが名前として残ってる
とそれだけその戸沢地区の砥石 っていうのが重要だったんだって
いうことがよくわかりますよね そうだね
産業としてすごく重要 だった
戸沢は砥石の塔を使ってる だけ悪いね
ね
まあ後なんだろうけど
そういう地名になっちゃ ったタイプなんでしょうね
なるほどね
これもう一つ考えられる のがこれはちょっと僕の憶測が
含まれるんで要注意ですけど茨城 水戸藩のこんにゃく産業を見て
いくとよくわかるんですけどこんな 山奥に経済感覚のある人たちが
出入りする環境にあるってこと なんですよ要はね砥石を採掘してる
っていうのは要は人足というか 職人というかいわゆる肉体労働
の人たちなわけじゃないですか 当時江戸の商売人の人たちと農村部
の人たちって経済感覚にすごい 格差があったはずなんですよところが
この産官部においては経済感覚 を持った人足集団が住んでいた
ということになりますね だって 儲かってるもん
儲かっててもね商売人は行 くよね
そうすると商売人が生き 生きするからね下似たとか富岡
で今日構えてビジネスをやってる 人たちも買い付けに来るので足元
を見られないようにビジネス感覚 を磨いていかざるを得ないという
環境にあったというのが一つ大きな ポイントになるかなと思います
この環境の中でこんにゃくが没航 してくわけですねちょっと土地
の環境もう少し戻って言います と旧社面って話したじゃないですか
旧社面って言ったね
狭い団団畑をぐいぐい 上に伸ばしてくしかないんですけ
ど最初の頃はたぶん石垣とかじゃなくて 普通に土類で杭打って木の板
とかはめ込んで崩れないように してちょっと上に伸ばしていく
みたいな
土類って何
土類ってなんて言ったら いいんだろう土積み上げたやつ
みたいな
そういうことね
石垣じゃなくて土むき出し のお城とかありますよね
あるんだ
あるんだよ余計ややこしく なっちゃった
ちょっと分かんなかった
石垣じゃなくても土固 めておけばいいやっていうところ
もあるんですけど旧社面になって くるとそうもいかないので安全
のために鉄砲水とかにも耐える ために石垣化させていくわけですよ
このあたり石垣振興なるものが 生まれるくらい石垣を大事にして
いて
そうなんだ
じゃないと崩れてくる から
高知に行ったときも石垣は あったねいっぱい
いっぱいあったでしょ
あった野積みって言われた けど
そうそうそうまさに野積み
そうなんだ
野積みって石を加工しない で丸いまま積んでいくやり方ね
これね実はこんにゃくの栽培 に意外な効果を発揮していてね
意外な効果
だってさこんな山奥ですよ 僕ら群馬県にはスキースノーボード
で遊びに行くような環境じゃない ですか
そうね美中見町に知り合い がいてたまたま遊びに行ったぐらい
ねここ軽井沢少し近いあたり とかになってくるんでそんなに
豪雪かっていうと美中見ほどでは ないんでしょうけれどもそれでも
僕ら静岡県民とか江戸っ子たち に比べればだいぶ寒いわけですよ
こんなところで熱帯植物が育ち ますか
確かにこんにゃく熱帯 だったね
ね元々熱帯だったわけじゃない ですか
結構暑いとこだったね
ね寒さに弱い
弱いね
どうすんのここ
どうすんの
ってことになるわけですよね
まあそうだね
ここでね石垣が保温効果 を発揮してくれるわけ
石垣って保温効果あんの
そう石垣が太陽の光を受け ますよねその熱を蓄えて土に伝え
るわけですよで夕方夜まで少し 暖かいの他に比べて
確かに河原のさ石ってさ 川に夏に遊びに行くと夕方冷えて
くるじゃん石触ると暖かいんだよ ね
でしょこれちなみに同じ効果 を狙った栽培方法が静岡県内にも
ありますよ静岡県静岡市のあれば 何区だ清水区になるのかな今わ
かんないけど久納山当省区って わかります
久納山
はい静岡県民だったらみんな 知ってますよね徳川家康子が最初
に祀られたところお墓ですよ一番 最初の
あれ一番最初なんだ
お墓久納山当省区から日光 当省区にお引越しをするんで
ああはいはいはい
その久納山当省区の海側の 麓石垣がずらっと急斜面に並んで
ますよね
ああ並んでるね
あそこは石垣いちごという ブランドがあります
あるねめっちゃ
まだビニールハウスがない 時代
あそういうこと
あの石垣が温暖な熱を保 ってくれるおかげでいちごがスク
スクと育つと
それで石垣いちごなんですか
同じことがこの戸沢地区でも 起きてるわけですね
あれハウスがなかった から石垣でいちごが育てられた
の
どっちが先か僕石垣いちご そんなに詳しく調べてはないですけど
なくてもいけるくらいという感じ の路地栽培の発展系みたいな感じ
で石垣というのがなんか僕はま ったらしいんですよ
へえそうなんだね
これで寒さ対策できました ね
ところがですよこんにゃくちゃん は夏の強い日差しも苦手なんですよ
南瀬元が熱帯とはいえ密林の中で 生まれてますからね
そうね密林だったね
日陰じゃないといけないんですよ
日陰だね
ということで影作ってあげ なきゃいけないでしょ
影を作らねばならん
そうすると今度地元の人たち 何を考えるかというと団団畑の
あぜ道のところあぜのところに クワとかコウゾウを植えるんですね
わざわざ植えるんですね
わざわざ植えるそうすると 日陰になるじゃないですか
なるね
風もあんまり当たらなくなる ので葉っぱが傷ついて病気になった
りすることも防げますよねしかも コウゾというのは何ですか
コウゾって紙の原料だっけ
その通り和紙の原料ですよね これは商品として売れますね
売れるね
どうせ石運んでんだから一緒に 運んであればいいわけですよ
儲かりますね
儲かるね
クワというのは何ですか
クワというのはカイコ の餌かな
その通りですこの当時養産 というのは非常に重要なわけですね
明治時代
そうなんだ
まさに食産工業の時代ですよ 静岡県ではお茶をどんどんどんどん
作ろうぜって言ってる時代で群馬 県では富岡製糸工場を作って糸
キートを作って海外に出荷して 儲けようぜと言っている時代その
キートを作るために必要なのは カイコでそのカイコを飼ってる
のは農家さんなわけでそのカイコ の餌になるのがクワなわけですよ
ねこの南木村でも養産が盛んだ ったんですよねだからこの下に
北海道を通った先にある富岡に 製糸工場ができるっていう寸法
なんですが繋がってるんですよ じゃんと
これ繋がってるんだで 今有名なのは富岡
そう今もうこの戸沢地区で 養産やってませんけどね
そうなんですか
もちろんもちろん
それそうだよね
富岡製糸工場もやってない しね
そうだよね稼働はしてない もんね
要は何が言いたいかっていう と婚約を守るためでありつつ同時
に他の産業の原始にもちゃんと なっていたよっていうことをやって
るわけですね
はいでですねさらにここに 製粉技術がやってくることになるん
ですけどこれね製粉技術が届いた っていうだけだとへえそうなんだ
で終わるじゃないですか
そうだね
これね実はねミラクル なんですよ
ミラクル
ミラクルなんです要は江戸 時代に遡ると袋田のこんにゃく
会社は鉄の規定を持っていまして アラコの領外出荷禁止という項目
があったんですよ
いろいろ分かんなかった けど領外
そう自分のところから アラコの状態で地域の外に出し
ちゃいけないと出荷しちゃいけない と
ああそうなの
アラコっていうのはねこんにゃ くの芋を薄くスライスして乾燥
させた状態のことでこれをスイッシャー の力を使って製粉するわけですよ
出荷されるのは粉になったもの というのが江戸時代の水戸藩の
ビジネスだったわけですところが このアラコの状態を出荷してしまう
とその製造技術というのが分かっちゃ わけですよね謎めてなきゃビジネス
として囲い込みができないので
技術の部分でもね
そうなんですだから門外 不出状態にしてたんですよ明治維新
が起きてそういうのも解放されて そういうこんにゃく解消みたいな
のも解散になっちゃうのでじゃあ みんなに自由に知らせようねみたいな
ことをするんだけどまあだって そんなのこんにゃく製造元がそう
簡単に教えるわけがないじゃん まあいわゆる特許公開する
みたいなもんだもんね
そう嫌だもん自分の飯 の種でもいろんなところが教えて
くれって言うわけですよ
まあそりゃそうだね
広島とか岡山とか山口 とかいろんなところから教えて
くれ教えてくれって言って来ちゃ うんだよ
来ちゃうの
当時の県知事に例えば 広島県知事に言ってその広島県知事
が茨城県知事に文書をしたためて これこれこういう事情だから受け入れ
やってくんねえかって言ってその 茨城県知事が桜尾家家に言って
受け入れせえみたいなことをやる わけだよでそうやって明治の初め
の頃にいろんな県から電修生という 人が来て勉強して帰るとかするん
だけどまあうまくいかない
うまくいかない
特に西日本はだめ
西日本だめなの
うんなんでかって言う と冬場にね茨城ほど乾燥しねえんだ
わ
シンプルに無理乾燥しないん だ
湿度が違うんだもん寒 くねえんだ
まあまあそうか
もともと袋田ってのは 茨城と福島の境目ぐらいのところ
だよほとんど東北だよって言ったら 怒られちゃうけどさ
まあ西の下から見たらほとんど 東北に入ると思うよ
かなり寒いよね
寒い
で標高も高いじゃね
高い
それを広島でやろうって あってさ山口県でやろうってあって
さそう簡単にはいかないわけだ よね
確かに山口あたりはちょっと 暖かいよね
そうでそれがなかなか うまくいかなくてでやっとこさ
政府に成功するのが明治40年超え た頃だから明治の初め頃だから
5年明治5年とか6年に勉強し始めて 地元でもいろいろ工夫をしてトライ
アンドエラーを繰り返すわけですよ でやっと成功するのが明治40年
だからもう明治丸ごと使うくらい の勢いだよ
結構かかったね
だってもうすぐ大正なん ちゃうんだから頭下げて教えて
くれ教えてくれつっていろいろ 工夫するのになかなかできねえんだ
って言ってるのに戸沢地区だけは ストンといっちゃうんだよ
ああそうなんだ
これ面白いのがささっき 富岡が都市のビジネスで発展した
って話したじゃね江戸幕府が崩壊 するもんだから幕府直轄僚だとか
御用党だとかっていう看板も全部 外れますよね
そうだね
そうするとビジネスマン が活動し始めると
都市商人っていうのも当然出てくる わけだその都市商人っていうのは
黙ってたって売れないものだから 営業であちこち回るわけですよ
この富岡の都市商人に篠原久美吉 っていう人がいるんだけど
篠原久美吉
別に覚えなくていいんだけど この篠原さんがねビジネス
で営業であちこちを回っている ときに袋田あたりまで行ったんだ
たまたまそしたら袋田の隣の醍醐 町ってとこで働いていた斎藤修造
ってやつを見つけてねお前何かい ってこういうの得意なのかつって
何だったらうち来ないって言って 勧誘すんだよ
勧誘するの
そう斎藤修造っていう 製粉の仕事をしていた人かな多分
現地の人ね
そう現地の人茨城県北部 でこんにゃく産業に代々関わっていた
人の子供でこの斎藤修造っていう 人がまたたまたま面白くて長男
じゃねえんだろうな無供養子に 出てるから
そうなの
そう近在の農家さんの ところに無供養子に出てたんだけど
詳しく書かれてなかったけど何か しかの事情があって出戻ってきた
だね明治時代のことだから出戻り っていうのは言い心地が悪いわけ
ですよ
まあいろんな風当たりは強 くなるね
女性も風当たり強いけど 男で出てって戻ってくるってこと
になればあいつは何かねっていう 話になるわけじゃない
まあ噂にはなるよね
うん狭い村だしさそんな ところにこの篠原さんが修造さん
来ないって言ったらちょっといい かもいや給料出すよって本当に
じゃあ行っちゃうかなって言って この斎藤修造なんと戸沢集落に
移住しちゃうんだよね
移住そうなんだ
技術を持ったまま当然 ですけどで行った先の戸沢集落
で製粉用の水車小屋作っちゃう 水車小屋で働いてるんだから昔
の人っていうのはパートパートで 別れてるわけじゃなくて水車小屋
で働くってのは製粉もするしメンテナンス もするしなんなら作ったりする
わけですよ
まあ修理もしなきゃいけない だろうしね
そうなんですよみんな わかってるからできちゃうんだ
よねでそれをその技術を持って 戸沢村に行って製粉技術を教えて
くれっていうもんだから水車作る わけだで沢川流れてるんだから
水車小屋ぐらい作れるでしょよ 水車小屋作ったらどういうふう
にしたら荒子が作れるか自分で わかってるんだからこうするんだ
ぜっていうのを戸沢集落の人たち にみんなに教えちゃうわけでどんどん
技術指導してくれるわけだから 変なもんで他の県の人たちは一生
懸命頭下げてお願いだから教えて くれって言ってんのにこの戸沢
地区だけは向こうの方から勝手に 行くんだよ勝手に来て住みついて
作って教えたよ
まあお互いメリットしかない からね
そうそしたら元々こんにゃく 栽培してたじゃないしかもそれって
重要な産物だったわけだよこの 戸沢地区に関してはこれはこれは
ってことになってなおかつみんな 経済感覚があるからこれ売れん
じゃねってなるわけでこれを馬 に乗せるわけよ1日50頭石運んでん
だよ粉乗っけるぐらいわけない でしょそれが下板富岡を通って
江戸に出荷されて江戸じゃねえ やもう東京だな東京の方に出荷
されて売れていくっていうむちゃ くちゃですよ
そうねもう流通もある からねあと作るところもできちゃ
えば
そういうことですね
製粉さえできればと
だから水戸北部で起きたこと のほとんどコピーみたいな環境
ですよね
まあ地理的にもね
地理的にも栽培に適した環境 だった紙があってそれに合わせた
物流販売網ができていたそこに 中島東絵文が工夫を重ねて粉こん
にゃくを作り出しました違うのは 粉こんにゃくの技法は持ってくれ
ばよかったすげえ山奥で水運は 使えなかったけど馬があった収積
地もあって販売する営業ももう 持ってたからそこに乗っけるだけ
みたいな状態っていうのでゴリッ ゴリッと軍馬県のこんにゃく産業
のスタートが始まるわけですね へえそこから始まるんだね
ただこれもシンプルに コピーしてきただけなわけじゃ
なくてちゃんと現地なりのカスタマイズ というか工夫というかそういった
ことも行われていくさっき言った 団団畑のところもそうだしもう一つ
大きいのは植え玉栽培っていう 栽培方法を工夫した人がいるって
ことだね
植え玉栽培
これは明治から大正に かけての頃になるんだけども明治
の時代に販売網が整備されたこと によって下荷田でも製粉やったら
いいんじゃねっていうことになる わけよ下荷田とか富岡のほうが
商人がいる町だし人も多いので 経済力が高いわけですねそこの
人がまたこれまた水戸に行って 茨城から今度は水車大工呼んで
いくんだよね
水戸から水車大工
だって水車で製粉の技術 持ってるの水戸なわけじゃん茨城
なわけじゃんあそこに行ってこれ これ工夫事情だから今度は製粉技術
教えてくれとは言わない大工さん こんにゃく屋じゃなくて大工さん
に言って大工に来てもらって水車 小屋作ってもらうんだよ一台作
ったらさじゃあもう一個もう一個 もう一個って言って何台も何台
も作るじゃんそうすると製粉能力 が上がるよね
まあ確かに
そうするとこんにゃく を作っている農家は作っただけ
売れるよね
そうだね
今までは自分ところで 作って自分で乾燥させて自分で
製粉してみたいなことやったけど 分業化されたからバンバン芋作れ
ばバンバン売れるって環境できる わけじゃないそうするともっと
作ったほうがいいよねって気づく やつがどっかに出てくるそれに
いち早く気づいたのが模擬兵八 という人
模擬兵八
これは本の中ではあだ名 がこんにゃく兵八と呼ばれたぐらい
のこんにゃく男だよ
こんにゃく王みたいな
もうこんにゃくやるぞ しか言わなかったみたいでこの
人なんか偉い人でもなんでもなくて とにかく先見の命があってこれから
このこんにゃくというものが我々 の村の経済発展に寄与するはず
だって読んで周りの仲間たちに とにかくこんにゃくやるぞって
言って声かけてもらっただから 村の人たちからあいつはこんにゃく
兵八だと言われるぐらい言いま くってたらしい
へえほんと一点突破だったん だね
そうこれはいくやろって なってで栽培方法とかもわからない
人たちにどんどんどんどん教えて いってそのうちにだね明治の中頃
過ぎくらいかなに自分でも栽培の 工夫を始めるんだよね明治の22年
か26年頃からねで初めウネ3つ分 3銭にこんにゃくを植えるちっちゃい
よねそんなに大した量じゃない だってウネ3つだよ
ウネ3つってほんとにウネ3つ なん
もうちっちゃくだよ自分 家の家庭菜園の毛の生えたような
程度だよね
そうだね
そのところから始めて5年 後にこんにゃくの出荷量が20トン
になるんだよ
5年で20トンまで増やしたの
そう意味わかんないでしょ
ちょっとわかんない
これはねこんにゃくっていう のは小芋を種芋にしてどんどん
どんどん増やしていく方法なわけ でしょで初めの種芋から大体4つ
か5つくらいできるらしいんだよ ただ雨が多すぎたりとか夏に暑
すぎたりするとその種芋が腐っちゃ ったりとか一番大きいのは冬場
ダメになっちゃうだって寒さは弱いん だから何割残るかなみたいな
ところでやってたわけで元々この 時代までのこんにゃく栽培っていう
のは植えっぱなしだからさただ 植えっぱなしだけ
まだ抜いてないんだね
抜いてないそのね一回 抜いて冬保存してもう一回春に
植え直すっていうのを編み出した のはこの模擬兵鉢なの
ああそうなの
そうでそれを工夫したら 種芋の生存率が上がるわけじゃん
そう今までだったら1個の種芋から 増やせるのが倍になるかな同じ
位置かなみたいな世界だったの がいきなり4倍になったりする
わけじゃん
4倍の4倍の4倍とかになったら あっちゅう間に増えるよね
本当に雪だるま式ってやつ だね
まさにで5年で20トン出荷できる
レベルになる