映画の感動と思い出
お聞きの皆様、おはこんばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
ワンバトルアフターアナザーというね、映画の興奮を覚めやらぬ状態で、本当にいい映画だったなと、まだね余韻に浸っています。
映画はね、大好きでいっぱい見てて、大して面白くなかろうが、まあまあ良かったよねっていうものも含め、映画を見るというね、行為そのものが好きなんですよね。
だから、どんな映画でもね、それなりに実は楽しめたりするんですよね。ただ、すごく期待していて、すごく大好きな監督で、とても個人的な思い入れがある監督だったり、
作った映画をね、楽しみに見に行って、それがね、期待を超えるぐらい良いっていうことっていうのはね、そうそうないことなんですよね。
まずまずかなぁとかね、なかなか良かったなぁぐらいだったら、まあ上出来で、ちょっと残念ながら、うーんっていうことが多いんですよね。
それも含めて、でも映画を見るという体験そのものがね、私にとってはとても大切なことなので、いいんですけれどね。
今回ね、まあいろいろ期待していて、それをね、軽く超えていくっていうかね、特大ホームラン撃たれたんでは、まあちょっと、いやー、これは何年かに一本っていうタイプの映画だったなぁと思いますね。
で、まあもう映画の話は、ちょっとまあとにかく見ていただきたいしね、これはまたもうちょっと私の中のテンションが落ち着いてからね、またゆっくり映画について話すかもしれませんがね。
まあその映画の、これはね、私のだからね、心のね、金星にね、完全に触れてしまったんですね。
だからちょっと、もうちょっと語らせてください。映画にというよりはこの映画から、まあ触発された私自身の話ですよね。
このポール・トーマス・アンダーソン、略してPTAという監督はですね、まあ私本当にだから何度も言うように同い年で、ちょっとね、まあこんな天才を捕まえてね、言うのは何なんですけれど、ちょっとね、
やはりね、あのすごい、あの感情移入せざるを得ないぐらい、ちょっと老いたちがまあ似てるところがあるんですよね。
まあ親がね、有名人だったんですよね。で、まあそれをね、いろいろね、だから文化的な素養のある環境で育っているんでね、だからまあポール・トーマス・アンダーソンという人が生まれたんだなっていうような質字なんですけれど、
このPTAの作品の前半ぐらいというか、初期の半分ぐらいというのはね、やはり父と息子の物語がすごく多いんですよね。だからやっぱりあの詳しくは私知らないんですけれども、おそらくね、お父さんとはとてもお父さんを尊敬してお父さんを愛していたと同時に、何かね親子の間で角質というかね、父親をとても意識して育ってきた人なんだろうなというね、
ことが映画を見ればわかるようになっているんですよ。で、まあいつもだから父と息子、もしくは父と思われるような父親的存在の人との、まあいろいろね、その人間関係を描いた話がとても多くて、で、そこからですね、今回まあ、えーとね、まあこのね、55歳とかになってね、
今回初めてね、もう慈愛の目で娘を見るダメな父親の映画を撮ったっていうことに、また私はね、すごいもう感激してしまったっていうのもあるんですよね。ずっと自分のその親子関係の問題をずっと描いてきたPTAが父としてね、えーと、まああの父としての映画を撮ったんだっていうことでね、ちょっと感激したんですよね。
うーん、で、まあまあ、でね、また、あのこれ今回ね、あのちょっと私の履歴書じゃなくて、私のこの生い立ちシリーズともちょっと重ねて話をしてるんですけれど、私の母はね、とても立派な母で、で、まあその話はちょっと前にもしましたが、父っていうのがね、まあどうしようもない人ではあるんですが、えーと、ちょっとこの間この感激した後にね、収録したあの配信で言ったんですけど、
言ったように、あの私はね、確か24か25歳の時に、えーと、まあ結婚してちょっと経った時に母がね、話があるって言って、私にね、あのまあ言ってきたんです。で、あの手紙をね、渡されたんですよ。で、これが、あのあんたのお父さんから来たから読みなさいと、ね、もう実は今までずーっと、えーと、恩親不通にしていたわけじゃなかったというふうに告白されたんです、母にね。
だから、まあ離婚して、ひどい離婚をしたんだけれども、えー、要所要所でね、父からは、えー、実は母宛には連絡が来ていたそうなんですね。で、母が、もうでも父とはもう顔を合わせられないし、えーと、もうつらすぎてね、もうあまりにも父にひどい仕打ちに遭っているんで、もう母自体はもう父を完全に拒絶していたんですが、まあ、あの手紙とかはもう来ちゃうじゃないですか。
この当時ね、もうメールとかもインターネットもまだありませんから、だからもう、あの手紙が来れば、まあ、あの、まあ、見ないでね、あの捨てたりとかせずにね、一応それを受け取っていたらしいです。
そして、えーとね、まあ、長らくね、あの実際離婚した当初は、えーとね、何年間かはずっと、まあ、あのお互いに疎遠になっている時期があったんですが、おそらくね、父のね、私生活が多少落ち着いた頃ぐらいから、割とね、あの1年に1回、私への誕生日プレゼントと称してね、お金を、まあ、振り込んできたりとかね、あの私宛てのバースデーカードを送ってきたりとかっていうことを始めていたようです。
うん、これがね、明確にいくつだっていうふうには聞いてないんですが、おそらくね、あの父は、だから別の女性との間に子供を2人儲けてるんです。
だから私には、えーと、母親違いの、まあ、だから父方の方には兄弟がいるということに、まあ、あの、まあ、一応生物学上はなりますね。
私からすれば、えーと、別に父に対して何の恨みもつらみもないんですが、別に私にとっては全く関係ない家庭なんでね、あの、ちょっと兄弟というにはちょっと微妙なんですけど、
まあ、でも血がつながっている人たちがいるということですよね。
で、まあ、その辺りがね、ちょっと多少落ち着いて、奥さんの目がね、それるようになってからかなというふうに私はちょっと推測してるんですけれども、
まあ、ちょっとね、こっそりとね、そういった母に、あの、自分の少し自由になるお金を送ってきたりとかいうことをどうやらしていたようです。
でも母はね、一切私の耳にはね、そういったことは言えず、だけど私が、ね、私のお父さんってどんな人だったの?とかね、
子供らしい、あの、素朴な質問ですよね。
なんでうちには親がね、あの、二人揃ってないのかっていうことを、当然子供は好奇心に駆られて聞きますよね。
で、そういった時は、もう普通に、あの、私たちはね、まだ幼くてね、若すぎたから、あの、離婚してしまったんだけれども、あなたのお父さんってのはとってもいい人だったんだよっていうことをね、ずっと言って育ててくれたんですよ。
で、ここでね、あの、ジュソのようにね、もう男っていうのはね、本当にろくでもなくてね、もうあんたね、あの、将来は絶対男なんか信用して生きていっちゃダメよってね、あんたは絶対にね、あの、男に頼らずに生きていけるようになりなさいみたいなね、いうことを言うこともできたのに、うちの母はそれを言わずにね、あなたのお父さんはとってもいい人だったんだよと言い続けたんですよ。
ただ私たちは未熟すぎたんだとね、まだ二十歳そこそこの若者で、まあ正直言って父はね、母より6歳年上なんで、もういい歳の大人だったんですけどね、まあでも母はそういうふうに言って、いつも父をね、あの、かばうというかね、私に自分のね、自分の父親を悪く思わないようにね、守ってくれたんですよね。
そのね、母の強さ、自分が非常に酷い目にあって、もう父のもう多分ね、名前を見るのもね、思い出すのも嫌だったはずなんですよ。もう本当に若い時にね、そういう酷い目にあってるんでね、それでもね、私に聞かれれば絶対悪口を言わなかったっていうことは本当に感謝しています。
だから私はね、見事に全然、男性に対する偏見とか、男性不信みたいなものがね、みじんもない子供に育ったんですよね。これはもうひとえに母のおかげだったと思います。
はい、それで私が結婚した後にね、もうこの子がちゃんと、誰かと結婚したからもういいだろうって、母にとってのそこが節目だったんでしょうね。そこで父からちょうどタイムリーに手紙が来てたので、それを私に渡してくれたんですよ。
で、あんたこれ読んでいいよと。実はこうやって折に触れて、あんたの父親はあんたのことをずっと気にかけてね、実は連絡してきてたんだけれども、私も心の準備ができていなかったし、父親とあんたが対面するためには、私の父になる人との間に何があったかっていうことはやはり話さなければいけないと思って、今までずっとあんたにはその父から連絡きてることを黙ってたんだと。
言われたんですよね。で、今回もあんたも結婚したし、いい相手がいるし、って言って初めてね、その前私が自分の老いたちの話で言ったような、実はひどい離婚だったということを初めて知らされたんですよね。
で、そういったことも踏まえて、でもあんたの父親は私にはひどい夫だったけれども、あんたのことを片時も忘れたことがないんだと。で、ずっとこうやって折に触れて、実はあんたに接触を図ろうとしてきたんだけれども、私自身が父親とあんたが対面するのをやはり許すことができなかった。
私自身の心の準備ができるのにこれだけの時間がかかったということと、あんたがもっとフラットにね、父親を公平な目で見れるような年齢になるまで待っていたということとね、その両方があるから今まで黙ってたんだけれども、もうあんたは会っていいと思うから、もし会いたければ会っていいし、会いたくなければ会わなくていいんだよと、その判断はあなた自身がしなさいって言って、父親の手紙を渡してくれたんですよね。
幼少期の養育と影響
なんでこういう話をしているかというと、実はこのワンバトルアフターアナザーにそういったシーンが出てくるから、もうね、これはこの映画はまるで私のためにある映画なのかなって、やはりどうしても思ってしまったんですよね。
とにかく父の手紙を読んでみたところね、これがね本当にびっくりして、私と父親はだから両親がだから2歳の時に離婚しているので、私にはだから父の記憶は全くないんですよ。
わずかに父の手がかりは、このニューヨークでね、この夫婦が結婚する前に私は生まれてるんですけどね、父は母が出産している時っていうのは蜘蛛隠れしていたんですけれども、なんとか父がまたフラッと戻ってきた後ね、いろいろ後先のことを考えて入籍しているわけですね。
で、この時にセントラルパークね、ニューヨークの、かっこいいでしょ。なんかね、かっこいいんですけどね、セントラルパークでね、父と母が馬車に乗せた私と3人で撮ってる写真が2枚だけあります。これが唯一私が父を見た、だからその写真2枚だけなんです、私にとっての父親っていうのはね。
だから記憶がないんで、どんな人なのかも何も分からなかった。ただこの写真だけは私はよく見てました。でも、たった2年間のこの3人の親子だった時は、とても私を可愛がっていたっていうのは本当だったらしいです。もう必ずね、もう可愛くて可愛くて。で、私の名前も父がつけたそうです。
だからね、本当に愛されていたんだよっていうことは本当だったというふうに母はずっと言っていてね。とにかく、だから私にとっての父親っていうのは何にも情報がないわけですよ。
で、手紙をね開いてもぶった曲げたのがですね、まあつらつらとね、お前ももう大学を卒業して結婚したようだねとおめでとうと、だけどこれからね、こういうことに気をつけなさいって言ってつらつらつらつらとね、偉そうに結婚に向けてね、嫁に行く娘に対する手紙なんですよ。
何言ってんだっていうね、自分がもうめちゃくちゃやってるくせに、何言ってんだと思って、なんか花嫁の父みたいなね。そういう手紙だったんですが、でもそのどうでもいいもうあの陳腐なことがばーっとつらつら書かれてたんですけれど、私がね衝撃を受けたのは追伸っていうね、最後に何行かね追加で書いて書かれている文章に驚いたんですよね。
それはこれからねその結婚する人と一緒に新居にもし行くのであれば必ず電球の明かりの中で暮らしなさいって書いてあったんですよ。もうあの蛍光灯の光っていうのは心を寒々とさせて冷たい気持ちにさせて生活を悪くしていきますとね。
だから絶対に蛍光灯はすべて排除しなさい。必ず電球の赤いあの光の中で暮らしなさいと書かれてたんですよ。これにはね、本当に衝撃を受けまして
だって2歳で行き分かれた父です。一度も父親とこの24歳か5歳の時にこの母から渡された手紙を読むまで父と喋ったこともないんです。なのに皆さんはこれね私の配信を聞いてくださっている人はご存知だと思いますが私は蛍光灯撲滅委員会委員長ですよ。
もう蛍光灯っていうのはこの世から抹殺していいと思っている人間です。荒野さんの宿望に行ってもわざわざそこで蛍光灯しかパルクしかなかったんで危険な山道を往復してですよ。
結局パルクしか売ってなかったんで、電球色のパルクを買いに1時間半かけてね往復した人間ですよ。そんな私の、まさかね、だから父親からの影響じゃないんです。私のこの明かりに対するこだわりは。
これは私は誰からの影響でもないものというか、私がね多分生まれたり幼少期にアメリカで暮らしていたんでね。アメリカっていうのはもう全部オール赤い光なんでね。
父親との再会
そうでもないんですよ。マーケットっていうかスーパーとかね、そういう商業施設とかオフィスとかに蛍光灯の白い明かりを、工場とかね、そういったところに蛍光灯の白い光ってもちろんいくらでもあるんですが、基本的に住宅の中っていうのは全部陰影雷産のオレンジ色の光なわけなんですよ。
それをいつも見て育っているから、自分はやはり電球好きなんだっていうふうに思ってたんですけれど、このね、父親の手紙のこれ数行なんですけれどね。うわー、こういうことが遺伝することってあるの?と思ってね、衝撃を受けたんですよね。
だからその顔が似てるとかね、体型とか体質とか気象が似てるとかっていうことは多いにあるんですけれども、電球が好きで蛍光灯が大嫌いだとかっていうことって遺伝すると思います?
これはね、もうぶった曲げちゃって。だからその陳腐なね、花嫁の父みたいなね、嫁に行く娘みたいな、そこのね、2,3枚はね、もうどうでもよかったんですけれど、このね、あの電球の中で暮らせっていうね、この数行で私は父と会うことを決意しました。
いや、この人はやっぱり私の父親だわと思ってね、なんと不思議なことだと思ったという話でした、今日はね。だからね、生まれ育ってなくてもね、生まれは父親がいなければ私は存在しなかったんですけれども、一緒にね、生活したことがなかった父親で、記憶にもなかった父親だったんですけれど、変なところが似ているもんだと思ってね。
実際この後、父親とは会って、会ってもね、ろくでもない人でした。会ったんですよ。最初ね、神戸のね、ものすごいね、父親たぶん、その時ね、実は内心とても緊張してたんだと思うんですよね。息分かれてた。
しかも自分がね、自分の責任で別れてしまった娘とね、20何年ぶりに会って、めちゃめちゃたぶん緊張してたんだと思うんですけれど、神戸のね、この海が見渡せるポートピアホテルのね、どっかのステーキハウスかなんかに連れてってくれてね、神戸ビーフをご馳走してくれてね、そこまでは良かったんですよ。
お前はね、ちょっとやっぱり俺に似たとこがあるなとか言ってね、紙質は俺に似たなとかね、なんとか言ってね。で、私その当時もタバコ吸ってたんでね、やっぱりお前は絶対タバコ吸いになってると思ったら、やっぱり吸うのかとか言ってね。
でもね、女はいずれ子供を産むんだからタバコは吸わないほうがいいぞとかね、言って自分はね、ぷかぷかタバコ吸ってたりとかね、ああまあ父はね、なんかまあ、ろくでもねえなとか思いながらね、でまあそのステーキ食べた後、自分の行きつけのバーに連れてってくれたんですよ。
で、あらーいらっしゃーいとか、なになにさんいらっしゃいなんつって、で父は行きつけのママさんのいるね、なんかバーに行って、でこれが俺の娘だとか言ったらまたまたとか言ってね、みんな信じないんですよ。若い女の子連れてきただけだと思われてて、いや本当だ、これ俺の娘だとか言ってて、でまあはいはい、じゃあどうぞなんて、でお酒入れてもらったりとかして、そしたらね、そこカラオケができるバーだったんですよ。
最初はね、2杯3杯ぐらいは普通に飲んでたんですけれど、だんだんね、父親がね、変な酔い方してきちゃって、でね、いやあ、かんな、すまん、許してくれとか言い出して、いや誰も責めてもないしね、私はね、その父親との再会をね、あのまあ楽しんでたんですよ。
私にとってだって初めて会う人も当然なんですよね。記憶になかった父親で、でそれが母からね、あの預けられた手紙読めば、なんか面白そうな人だなと思ってね、なんか自分とやっぱり自分のルーツを感じさせたわけですよ。
で、まああのすごくね、だからなんの、あのなんていうか、その潜入感もなく、でもましてや母のおかげで、私は一切父に対して恨みの気持ちも何にもないのに、許してくれとかって騒ぎ出してですね、ほんでマイクを掴んで、あれをかけてくれとかって言ってね。
で、ママさんがハイハイとか言ってカチって、チャララランとか言ってBGMが流れ出したら、五番街のマリー歌いだしてたんですよ。マリー、マリーとか言って、そんな歌だったかどうかちょっと定かじゃないですけど、五番街のマリーっていう歌があるんですよ。でね、でそれをだから私に向けてね、マリーとかって歌ってるんですよ。
だから何やってんだと思ってね、でもういたたまれなくて、でそのバーの中にはママさんだけじゃなくて他のお客さんとかもいて、それを私に向かって一生懸命マリーマリーとかって歌ってて、いやーもう勘弁してくれよと思って、それはね腹立っちゃって、でバーから出てったんですよね、もういいっつって。
カンナ待てーとか言って後ろから追っかけてきて、いやもういいって言って、私はもう全くあんたに対して恨みつらみもないし、私のお母さんは非常に強い母親だったから、あんたに対して何にも、私は一言もあなたに対して、あなたについての悪口を聞いて育ってないんだって。
だから私は今日あなたと初めて会ったようなもんなんだと、だからもうちょっといいとこ見せてくれたってよかっただろうって言ってね、なんでこんな酔っ払って醜態さらすんだって言って、だからもう今日はもうやめよっつって、また今度会うから、今日のところはもうこれで解散しましょうって言って、行こうとしたらね、わかったわ、待て待てとか言って、タクシーとか言って、タクシーを呼び止めてね、でパッて私の手に何万円かギュッと握らせて、
で、とにかくまた次会おうって言ってね、ガシッとハグしてね、で私をタクシーに押し込んで、じゃあまた次会う時までって言ってね、私を送り出したというね、これが私の父親でした。
父の酔っ払い
でもこの後何回か会うんですけれども、毎回ね酔っ払うんですよ。マリーで、でもね本当にね、だからでも今はわかる、今ならわかるんです。父はねやっぱ酔っ払わずにはね、私の顔が見れないんでしょうね。
だから自分のその自責の念で、もう苦しくてね、だけど母のおかげで私は強い子に育ってるんですよ。そんな父親を恨んでないし、父を初めて自分の父親がどういう人かっていうことを知りたいんですよね。
でも知る機会を与えてくれないで、いっつも酔っ払ってて、おいしいもの食べさせてくれるんですけれども、もうすぐに酔っ払っちゃうんで、もうダメっていうね、これがまあダメな父親で、うんだけど、どう言ったらいいんですかね。
まあ、だからね、私はね因果応報とかってね、別にそんなことまで思わないんですけども、やはりね、父はね、だから実はね、育ちのいい、根は優しいね、お坊ちゃんなんですよね。
ですけれども、だらしなくてね、だらしないというのか、何なのか、変にギリがたいというのか、優柔不断というのか、誰にも悪い顔ができなくてね、あっちにもいい顔し、こっちにもいい顔し、結果、もう誰のことも冷たくできずに、あっちの女と結婚して払わせて、こっちも払わせて、逆ですね、払わせて結婚、こっちも払わせて結婚というのはそういう人だったというところがあってね。
でも私、もし自分が男だったら、こういうタイプの男になってたんじゃないの?と思って、なんかね、いろいろ考えさせられる父との再会でしたね。
そんなこともいろいろ思ったりね。だから、ワンバトルアフターナザーのデカプーのダメ乳ぶりがね、なんかとてもね、いろいろ人事じゃないなと思ってみたっていうことでした。
はい、というわけでね、今日はこれで終わろうと思います。はい、ごきげんよう。