映画『ヴィヴァルディとわたし』の概要と時代背景
はい、ビバルディと私という映画の語り部会をやったんですけれども、非常に歴史的な背景とかね、これだから1716年が舞台なんですよね、ベネチアのね。
ということは今からちょうど310年前なんですよね。なのでちょっとその当時の時代背景とかそういったことも説明しながらだったので、
結構長くなったんですけれども、ちょっと伝わったらいいなと思うんですけれどもね。
地域にもよると思うんですけれども、もしかしたらまだミニシアターとかね、単館上映の映画館とかだとまだやってるかもしれません。
めちゃくちゃ面白かったですね。
私はかなりなんて言うんでしょうね、この感動っていう言葉もちょっと違うんですよね。なんかすごい、すごいね、なんかこう深いところに刺さる映画だったんですよね。
ちょっとずつお話ししていこうと思うんですけれど、これだから310年前のベネチアで、もうすごく文化的にすごく一番栄えていた頃から少しも盛りを過ぎてるんですよね、時代的には。
もうもっともっとベネチアが一番の大都会で、もうその文化とかね、全ての中心地だった時の一番その旬の状態からちょっとやや流行がですね、他の都市に移りつつあるという時代ですよね。
その時代にその理由があってね、おそらく貧困とか、あと育てられない事情がある女性たちの子供、孤児がね、その預けられたその孤児院の娘たちの中でですね、音楽的才能がある子たちが演奏家として訓練を受けて、すごく人気があったっていうね、そういう時代背景。
考えてみたらね、これだからビバルディとかバッハとかそういった作曲家に代表される音楽のジャンルっていうのが、バロック音楽ですよね。
でもほとんどは教会のためだったり、観光葬祭とかね、祝い事とか宗教儀式とかそういったところで使われるための曲がほとんどなんですけれども、そのビバルディっていうのは代表的な作曲家の一人ですよね。
正直ですね、日本人の私たちにとってもこれくらい有名な、特にこのビバルディっていうよりはこの四季という曲ね、4シーズンズ、4つの季節っていうね、四季のまた特別この春っていうこのパートがもう死ぬほど有名じゃないですか。
でも手垢にまみれている曲っていうか、だからその例えば百花展のね、私当時働いた時もそうなんですけれども、このちょうど従業員のシフトの交代の時の合図でこの必ずね、この四季の春がかかってたりとか、あとなんだろう小学校や中学とか学校とかでもよく下校時間だの、
あと休憩時間とかのBGMとかね、放送局からかかるクラシックって大抵この四季か、ドボルザークの新世界とか、決まった曲がいくつかあって、もうなんか聴き飽きてるっていうか、なんかもうなんて言うんでしょうね、そんな新鮮味がない曲ですよね。
ところが今回はですね、これ最後に終わって、これだからちょうどある意味この物語が、ちなみにこの映画はですね、ちょっと言い遅れましたけれども、史実に基づく部分的にはフィクションっていう映画だと思います。
このチェチェリアのモデルとなったバイオリニストも実在していたそうですし、その時系列でビバルディがちょうどこの1716年から約40年の間このベネチアでピエタインと関わっていたとか、そういったことは全て史実として残ってるんですよね。
ただここでこういうチェチェリアと全く同じ境遇の子はたくさんいたでしょうけれども、実際にこんなね、いろいろ血行にまつわるいろんなこんないろんな出来事があったりとか、そういうことは全部フィクションだと思います。
架空のエピソードを史実に入れ込んだ話っていうね、そんな形式の映画だったんですけれども、でもその新鮮味がないね、この四季っていう作品がこんなような感じで作られたんじゃないかなっていうね、まあその誕生秘話みたいな話にもなってるんですよね。
いろんなテーマが含まれている、すごく重層的な映画なんですよね。一つだけの物語ではなくて、いろいろ作曲家と演奏家の葛藤とかね、あとこの当時の社会背景とか、あとその女性のフェミニズムの問題とかね、いろんなテーマが複層的になってるんですけれども。
ヴィヴァルディの評価と音楽の再発見
まずね、いろいろ話したいことがいろいろあるんですけど、ビバルディはね、ちなみにこの映画の最後のところで文字で、ビバルディはね、極貧の中で死んだと書いてあったんですよね。
チェチェリアもある種、モデルはいいながらも架空の人物なので、彼女は自由になったっていうね、明るい未来に向かって旅立った風の映画のエンディングではあったんですけれども、一方その最後の、何ていうかな、この映画が終わって最後この文字でね、ビバルディはすごい貧困の中で死んでいったみたいな、なんかもう悲劇で終わったかのような書き方をしてましたけれども、
いろいろ私その後調べた限りではですね、この後もどんどん成功を収めてですね、だから作曲家としてはすごい大成して、すごい名声を得て、だから何ていうかな、報われている作曲家なんですよね。
誰からも認められないで死んでいったとかではなくて、ものすごく成功したんですよね。ただやはりね、現代とも全く一緒で、どんどん音楽にしても何にしても流行りすたりがあるわけじゃないですか。だからある時期から、このビバルディ死んだ後に忘れ去られていくわけですよ。
ビバルディは64歳ぐらいまで生きているので、結構この時代としては長生きですね。非常に体が弱かったらしいんですけれども、長生きしているんですよね。モーツァルトが30代とかで死んでいることを思うと、すごい長生きだと思います。
ただ音楽がね、彼が亡くなった後にどんどん新しい作曲家も新しい音楽のジャンルもできてきて、忘れ去られて200年ぐらいね、もう完全に消え去ってたらしいんですよね。
ただこの間ですね、このビバルディの10歳20歳ぐらいですかね、ちょっと後にバッハが出てくるんですよね。でもバロックの頂点というとバッハですよね、やっぱりね。
バッハはビバルディをすごい研究していて、ビバルディの音楽の編曲とか作ったりしてるんですよね。
だからここで一旦バッハがちょっといじってくれてるおかげで、完全に消えないで済んだっていうのもあるみたいですね。
でもまずバッハもね、当然もう何百年も前なんで、忘れ去られてて、それが20世紀になってからね、たまたまこのピエタ院で色々調べ物をしている学者がいて、そこにもう手書きの学譜がドアーって出てきて、それでおーすごいって言って再発見されたっていう。
だからつまりね、ビバルディは200年ぐらい完全に忘れ去られていたんですけれども、20世紀になってから再発見され、そして再評価され、そこからまた新しい第二のブームみたいなのが起こってるんで、だからね私たちなんかも結構すごい聞かされてる作曲家の一人だったんだと思うんですよね。
ピリオド楽器による「四季」の衝撃
すごく新鮮に、20世紀になってからすごくたくさん取り扱われた作曲家だっていうこともあるっていうのと、あと私たちが聞き馴染んでいる、私を含めてね、多くの人が聞き慣れているこの演奏が、実は今回この映画が最後終わって、四季の春が最後かかったその演奏がびっくりしちゃって、私が何これっていう。
もう私が聞き慣れている春じゃ全然なかったんですよね。とにかくテンポがパーって早くて、ビバルディの春といえばですね、
チャンチャンチャンチャララン、チャラランチャンチャンチャラランっていう、すごいゆったりとした感じなんですけれど、この最後ね、この映画の最後でかかった春はですね、ものすごいテンポが早かったんですよ。
これが、ピリオド楽器って言われる古い楽器、つまりこの当時17世紀18世紀に使われていたであろう楽器を再現した演奏っていうのも今盛んにやってるんですよね。
だから通常のクラシックの演奏プラス、こういう小楽器の専門で演奏しているっていう、今クラシックの世界も二手に分かれてるんですよね。
考え方としては、このビバルディを含め、もうほとんどの作曲家っていうのは絶対にいい意味で、新しいもの好きでミーハーだったに違いないので、今のね、例えば一番有名なストラディバリウスに代表されるような、今の最高級の楽器とかがもし当時もうすでにあれば、当然その楽器を使いたいに決まってるんですよね。
でもこの当時はまだ古い楽器しかなく、古いというかこの当時の楽器の精度だと、例えば今のような一番有名な弦楽器だとビブラートって言って、この弦をギュッと指で押さえて音を震わせるんですよね。
円下で言う拳を利かすみたいなことをやるんですけれど、これが当時の楽器だと弦も弓も弱いし、できなかったんですよ。だからビブラートをかけれないんで、このギューンっていう弦楽器独特の揺れみたいなのがないんですよね。
よくも悪くも淡白な音しか出ないのと、あとボーイングに耐えられない。ボーイングっていうのは一つの音をギューっと長く一定にずっと伸ばして長く続けるっていうことができないんですよね。ギューンって下がっちゃうわけですよ。
それのためにもうとにかくテンポを早く、タカタカタカタカって弾くわけですよね。このテンポで、そしてこのある意味すごくあっさりした音で聴くこのビバルディの春はすっごい新鮮で、もうすぐにこの映画見終わった後に私CDショップに走りましたね。
こういうのってね、今私ほとんど音楽はスポーティファイとかね、アップルミュージックとかこういうデジタルで聴くじゃないですか。だけどクラシックのアーカイブはそんなに揃ってないんですよね、まだね。だからやっぱり古いCDとかレコードとかに頼らないとそんなにたくさんの種類を聴けないんですよ。
で、クラシック専門のレコード屋さんとかあるんでね、そこに走って早速このピリオド楽器の演奏をね、2,3枚買ってきましたけども、本当にいいですね。なんかすごい新鮮で、もうなんか聴き飽きたというか、もうなんかこう手垢にまみれた式とはまるで違う曲に聴こえるんですよね。
もうなんか本当にこのピリオド楽器の演奏だとね、本当に何だろう、この川のね、水の音とか、あとこの森の木がサワサワとさざめいてるのとかね、あとこの小鳥のさえずりとかに本当に聞こえるんですよね。
バロック音楽の魅力と心の支え
素晴らしかったんで、ちょっとまた後でね、概要欄におすすめのCD情報っていうかね、ちょっと入れとこうかなと思いますけども、だからすごくそれも良かったし、あとちょっとね、この5月6月ぐらいってちょっとね、やっぱりいろいろ気持ちが落ち込むというかね。
で私もちょっと6月に入ってからちょっといろいろ落ち込むこととかもあったり、ちょっと考え事をすることとかもあったりとかして、ちょっとね気持ちがダウンしてたんですけれども、この映画見て、そしてこのちょっと久しぶりにね、このヴィバルディとかこのバロック音楽とかを久しぶりに聞くとですね、すごい元気になってきて、でね、この何がいいかっていうとその、なんかジッパ人からげにクラシックっていう風に、なんかもうクラシックということは古典ですよね。
古い音楽で、なんかもう教養の、なんか教養を高めるために聞くけども、なんかもう固い、なんかもうなんか楽しめない、なんかこう勉強させられるみたいな音楽だと捉えられている人もいるかもしれないんですけど、そうじゃなくて、で特にクラシックの中でもこのバロックってね、ちょっとこのその後のね、モーツァルトとかベートーベン以降のより、なんていうかな深く、なんだろう。
南海になってくる音楽とまた違って、バロックってもっとね、すごくシンプルで、そしてあのやはりね、あの大体は宗教儀式とか観光葬祭とか、そういったためにね、あのかかっているあの音楽だったりするんで。
すごいね、あとテンポがね、タンタンタンタンってすごく規則正しく、そしてなんていうかな、あのとにかく警戒なんですよね。これ聞いているうちにね、だんだんやっぱりなんか浅くなってた呼吸が、なんかこうリズム感を取り戻すっていうんですかね。なんかそういうところもあるし、バロックを始め、このクラシックって何がいいかっていうと、
私はだから他の当然、ヒップホップとかR&Bとかロックでも、いろんな音楽、多岐に渡る音楽が好きなんですけれども、そういった今の音楽っていうのは、もっと感情に来るんですよね。感情を揺さぶる音楽なんですよね。
それが怒りであったり、喜びであったり、情熱であったり、なんかすごく感情に呼びかける音楽なんですよね。なんですけれども、クラシックってね、ちょっとこの脳のね、脳にどこに響いているのかが感情と多分違うところなんですよね。
例えば、今回この映画見た後、久しぶりにビワルディとかバッハとか聴いてると、あまりの美しさにね、その美しさっていうのが、音楽を聴くときっていうのは、例えば自分の過去の、なんかチンプな例えで申し訳ないんですけれども、
例えば、昔の何か悲しい記憶とか、楽しかった記憶と結びつくようなとこあるじゃないですか、音楽ってね。失恋したときとか、初恋のときのこととか、そういったことと何か音楽が合体して、なんか感情を揺さぶられるとか、逆に激しい音楽を聴いているときに怒りの感情とかね、そういったことと結びついたりするところがあるんですけれども、
クラシックって、なんかね、そういう感情と違うところになんか響くんですよね。で、それがもう純粋にその音楽のその美しさ。で、本当にね、心が浄化されるんですよね。
アルファ波みたいなね、なんかそういったものが脳で分泌される。脳内麻薬みたいなものがね、ブーって出る感じがあるんで、おすすめです。
今なんか多分ね、この時期的にね、なんか梅雨入りとかもしてたりとかも、なんかちょっとね、うつうつする時期じゃないですか、5月病とかね、5月6月とかの天候もあったりとかしてて、ぜひね、このバロックはおすすめですね。
そのバロック以降の音楽の方が私はどっちかっていうと好きなんですよね。モーツァルトとかが特に好きなんですけども、だけどバロックは改めてね、こういう時に聴くと本当にいいなと思いましたね。
映画のテーマ:女性の自立と作曲家・演奏家の関係性
映画に戻るんですけれども、ここでね、私すごくこの映画のテーマは、多分ね、これ女性の自立というかね、フェミニズムのテーマをすごい入れてるなっていうのは思うんですけども、正直ね、
これはね、なんかちょっとこの映画すごい良かったって言ってる割には、ここに関しては私は非常に批判的というか、いや、ありえないよっていう。
1716年、ちょうど今から310年前なんですよね。この時代にピエタインでずっと育った女性がね、ここから脱出して、もう身一つで脱出して、何の未来があるんですか。
この手はね、サンフェルノってこのクソ親父におられるんですけれども、これがうまく、多分治るんじゃないかなと私は思うんですよね。わからない。これ治ってほしい。今の医療じゃないんでね。わからないんですけど、おそらく治って、また楽器は弾けるようになってたかもしれないんですけども。
ただ、この時代に女の人が何の後ろ盾もなく、一人でね、世に放たれてですよ。家族もなくて。そんな、どうやって身を立てていくのかとか、現実的にそういうのあるじゃないですか。そしてこういう、おそらくこの時代の女性に、こんな一人で私は一本立ちして、誰の後ろ盾もなく生きていくみたいな、そういう自我は多分なかったと思うんでね。
この辺はちょっと現代的なテーマを無理やりこの時代の物語に設定してるなっていう、ちょっと無理やり感は私は感じたんですけれども、そのことよりも、その話もちょっと触れたいんですけれども、フェミニズムのね。
ですけど、作曲家と演奏家の関係性っていうのをね、こんな風に描いている映画って結構少ないんじゃないかなと思って、すごいそこにね、いろいろ感じるものがあったんですよね。つまり、ビバルディとかね、作曲家っていうのはずっと後世に残るわけじゃないですか。
一時的に忘れされることがあったとしても、ちゃんとこうやって楽譜とかが再発見されたら、やっぱりすごい曲じゃねえかっていうことで、再発見されてずっと後世に残ってね、これも310年経った今も人気の作曲家なわけですよね。
ところが、この時代にチェチリアをはじめとする、すごい演奏の名手がいっぱいいたはずなんですけれども、彼らの名前は残らないわけですよね。
これがこの映画の中で、チェチリアに対して君はあまりその称賛を求めていないんだねって、ビバルディが彼女にそう称したわけですよね。
一方のチェチリアは、いやあなたは、ビバルディに対してあなたはとても称賛を求めている人なのねっていうこの言い合いがあったんですけれども、これがね、象徴しているなと思ったんですよね。
作曲家っていうのは、すごく共鳴心とか、承認欲求とかもすごくあって、認められたい。自分の音楽を一人でも多くの人に知ってもらって感動してもらいたいとかね、そういうすごい欲があって。
一方の演奏家っていうのは、この作曲家が楽譜があって、指示されて演奏を弾くっていうね、だから全然なんかこう役割が違って、
でもこれはやはり二輪の大事な車輪で、どちらかかけても成り立たない間柄なんですよね。
だから確かに作曲家ばかりが後世に名を残し、名声を博すっていう一面があるんですけれども、一方でね、自分の曲を上手く弾いてくれる演奏者がいないと成り立たないわけじゃないですか。
明らかにね、このヴィバルディのいろいろいっぱいバイオリン競争曲とか、いろんな曲を残しているわけですけれども、これ聴いていたらいかにピエタインの娘たちの演奏レベルが高かったかということがわかるわけですよね。
下手な子たちのためにこんな難しい曲を残すわけがないんでね。
だからこの映画で本当にこの四季の春のパートをね、このチェチェリアが川のせせらぎを聞きながらね、バイオリンを一人でいたずらに弾いてたシーンから着想を得たかどうかっていうのは、これは本当の史実かどうかっていうのは完全にフィクションだと思うんですけれども、でもそういったこともね、あり得ただろうなと思うんですよね。
みんな上手い演奏家がいて、この人たちのスキルに合った、よりレベルの高い音楽をっていう風になってたと思うんでね。だからこの演奏家と作曲家っていうのは2つの大切な共犯関係にあるっていうところとかね、それもすごい面白いなと思ったし、
登場人物の描写と恋愛要素の不在
あとまあちょっと批判的だって言ったフェミニズムの部分なんですけれども、この当時の17世紀の女性がこうやって裸一貫で飛び出して、自立の道を探るみたいなことはちょっとありえないなと思う一方で、
でもなんでしょうね、この女性の一生みたいなものもね、いろいろ考えますよね。当時の映画の中で言うと、エリザベッダっていう貴族の礼状と、そしてこのコジのチェチリアっていう対比があるわけですけども、
この貴族はじゃあ贅沢もしてね、裕福かもしれないんですけど、じゃあ彼女たちが幸せかっていうと、それもね、そんな描かれ方はしてなくて、この別にエリザベッダっていう貴族の女性をそんな掘り下げては映画の中でいないんで、彼女が実際どういう思いで生きているのかわかんないんですけど、
ただなんとなくチェチリアとの交流とか見ている限り、もう結局貴族は貴族で、結局はどこかに嫁にやらせられてね、別に特に彼女たちに自由が与えられているかというと、そんなことないと思うんですよね。
一方このチェチリアですよね、ピエタ院でガチガチに管理された生活してるんですけれども、ただここで彼女には才能があったと、音楽の才能があって、ちゃんと訓練を受けて優秀なバイオリニストになり、そしてここに赴任してきたビバルディのような優れた指導者及び作曲家、マエストロに認められ、
そして聴衆からも人気のプレイヤーになって、だからどんどん彼女はいずれどうせ自分は結婚する身だから、夢見ちゃダメなんだとか、自分のこうなりたいとか、愛したいとか絶対思っちゃダメだとかって自分を凄い理してたんですけれども、やっぱりプレイヤーとして認められたら、やっぱりキョウジが持てたんですよね。
自分はバイオリニストなんだっていうね、演奏家なんだっていうすごいプライドが彼女の中に芽生えて、それはね、この時代の女性としては非常に幸せなんじゃないかなと思うんですよね。この映画の指をサンフェルノに折られたりとかっていうことはちょっと抜きにして、
でもこういった自分の能力を生かす職務というか、天から与えられたやるべきことがあるみたいなっていうのはね、すごく幸せなことだろうなと思ったりね。
あとは面白いのがね、男性陣が全員クズに描かれてるっていうのがね、面白いなと思いましたね。特に酷いのは、チェチリアから見て、男女の関係性として退治しなければいけない相手としてはサンフェルノと、あとこの野菜売りの男ですよね、自分が初体験する男。
この二人も非常にクズですし、ビバルディもすごいマエストロなんですけれど、結局はここって時にチェチリアを守ってくれる頼りになる上司というか、指導者ではなかったりとかね、そういうふうな描かれ方はしてるんですけれども。
ビバルディは置いといたとしてもね、サンフェルノが酷い人だっていうのはその通りだとして、この野菜売りの男とかも若いイケメンで、年頃の女の子が主人公で、全く恋愛感情とかが一切介在しないっていうのが面白いなと思って。
ビバルディはもちろん聖職者なんでね、結婚もできませんし、恋愛とかもできないっていうのは置いといたとしても、そういう描き方だってフィクションなんで、どうとでも作れたと思うんですけど、一切ビバルディとチェチリアは男女の恋愛感情とか一切ないんですよね。
あくまでもバイオリンの先生兼作曲家と生徒兼プレイヤーっていうね、そういう関係性で終始してますし、この年上の社会的地位の高い男サンフェルノ、そしてその若くてイケメンだけども、ソヤで聖宮でテクニックがない男として描かれているね、野菜売りの男とかね。
いずれにしてもチェチリアにとって、あまり恋愛とか男性というものがあまり当てにならない存在として描かれているのがすごい面白いなっていうのも思いましたね。
AIによるビバルディ風BGMと音楽の功績
というような感じでね、いろいろ見どころがいっぱいあって、そういえばですね、ビバルディといえば、今回この配信をしている間ね、BGMで、いかにもビバルディっぽいBGMを私使っているんですけれども、これ実はSUNOっていうね、AIが音楽作ってくれるアプリがあるんですけれども、
これでね、ビバルディ風の原楽競争曲っぽいやつを作ってとかっていう風に入れたら、これが出来上がってきたんですよ。だからビバルディの曲っぽいものを勝手にAIに作ってもらったやつなんですよね、これね。
でもビバルディに失礼かっていうと、たぶん怒らないっていうか、むしろ喜ぶんじゃないかなって思ったり、勝手に思ってるんですけども、自分の音楽的なものがちゃんとAIの情報の中に自分の音楽、音源がちゃんと読み込まれてるんだっていう風にね、好意的に解釈してくれるんじゃないかなと思って、ビバルディ風のBGMにしてみました。
だけど実際のビバルディはめっちゃいいですよ、やっぱね、もうごく一部しか聞いてませんけれど、私は原楽コンチャルトとかばっかり聞いてて、もっともっとね、この映画の中でも使われていたような合唱付きのね、歌が入っているもっと大掛かりな音楽もありますし、あと最終的にはこの人オペラもいっぱい作ってますからね。
だからこのいろんな音楽の、あとクラシックといえば第一楽章、第二、第三楽章とかね、いう風に楽章が分かれるじゃないですか、こういう様式とかもビバルディが確立されたと言われているんですよね。
あとそのオペラとかも、ビバルディがやっぱりすごく発展させたっていう、そういった功績もあるようなんでね、いやーちょっとなんかもう聞き慣れすぎてね、もうなんかもうどうってことない曲だと思っていた。式もめっちゃいい曲じゃないと思って、特にねこのピリオド楽器の、小楽器の演奏とかっていうのをぜひ一度聞いてみてください。まるで違う音楽に聞こえるはずなんで。
現代との共通点と芸術の力
はい、そんな感じですかね。とにかくすごく面白い映画でしたね。あともう一つ最後にとても大事なことなんですけれども、これ310年前っていうのってすごい昔だという風に思う方もいるかもしれないんですけれど、たった310年前なんですよ。
310年前って、まあだからおばあちゃん、おじいちゃんとかをたどっていくと、わずか4世代ぐらい遡ればたどり着くんですよ。今も結構100歳近くまでみんな生きますんでね。
まあだからそれぐらい生きたとしてですよ。4代5代ぐらい前まで遡ると簡単にたどり着くぐらいそんな昔じゃないんですよね。で、思うとね意外にこの時代まだ電気ないし、いろいろないんですけれども、でも意外にねなんか変わってないなっていうことも思ったんですよね。
例えばですけども、この庶民にとっては自分たちにどのような利害があるのかよくわからないような大きな戦争がしょっちゅう起こっていたりね。で、あとそういう恐ろしい疫病ね、あのペストとかそういった疫病があったり、で、あと貧困とかね。
こういうテーマってもうまさに今私たちが生きているこの今現代も同じじゃないですか。ちょっと日本がたまたま戦後ちょっと景気が良かった時代が少し80年弱あったからといってね。でもやっぱり結局はね、今こうやって混沌とした時代になってきてますよね。
でもそこら中で戦争が起こってて、もうなんかよその国でやってる遠いところの戦争ではなくて、なんかひたひたと自分たちも全く関係ないっていう顔ができないような不穏な世界情勢になっていたりとか、で、あと数年、あとはその数年前にあったああいうコロナのような突然ああいった疫病が世界中をね、あの疫病が蔓延したりとかっていうこともありえるんだっていうことも私たちは最近に体験してますよね。
そしてどんどんどんどん格差が広がっていき、どんどん貧困というものもひたひたと他人事ではなくなってきているとかね、こういったことってだから310年前、もうみんなこういう社会の中でみんな生きてるわけですよね。
そういったこともあまり変わらないんじゃないかなと思って、いろいろ便利にもなってるし、あの当時なかったものが今ありますけども、基本的に人間の営みとか社会とか世界とかのこういう起こっていることとかって案外そう変わらないなって思ったら、
これをどう捉えるかですけど、私はそこになんだ、300年前から人間ってあんまり変わってないんだなと思うと、そんなに絶望したりとか暗くなったりするのも違うのかなって思って、ちょっとそういう部分にも私は救われる部分があったんですよね。
結局、生きてるってことはこうやって不平等とか理不尽とか、そういったことの中で精一杯生きていくしかなくて、チチェリアもそうですし、ビバルディもそうで、そんな時に何が支えになってくれるかっていうと、こういった音楽とか文化とか芸術とかそういったものは最終的には心を豊かにしてくれて、
なんか支えてくれるものとして非常に大事なんじゃないかなと思って、そのね、その生死に関わることではありませんよね、音楽が聴けなかったからといって、直接的にはこれが死ぬことにはなりません。なんか食べれないとか、家がないとか、そういう状況と違って、音楽がなくてももちろん生物的には生きていけるんですけども、
でも心はやっぱり死んでしまうっていうのは、絶対音楽とか芸術とかっていうのはないと生きていけないと思うんですよね。やっぱりそういうものをね、なんか再確認させてくれたんですよね。
ビバルディーが嫌な、なんかセコい人間として描かれてましたけども、だけど彼が作った音楽は素晴らしいわけで、人間じゃなくて、私は宗教も信じませんし、神も信じてないんで、信じるも信じないも、証明できないものなんで、証明できないもの、何を拠り所にしたらいいのかっていうので、ちょっと私は除外して考えてるんですけれども、
でも芸術は信じてるんですよね。芸術の力っていうか、あと芸術に準じている、演奏家もそうですし俳優とか、そういう芸術に従事している人たちを信じてるんで、
彼らがいてくれて、彼らのこういう作品とかエンターテイメントを享受できる間はね、生きれるなっていうふうに、前向きに生きれるなっていうふうに思ったりしました。ということで、大変長くなったんですけれども、
映画の深い味わいとバロック音楽への誘い
ビバルディと私、もうめちゃくちゃ面白かったですよね。プラダを着た悪魔2みたいな、この大味な映画もね、すごく面白くて好きなんですけれども、でもね、それとは違ってね、なんかこう深い味わいがある、バロック音楽と同じようにね、なんか深い味わいがある映画でした。
で、バロックといえばね、ビバルディもそうなんですけれども、テレマンとかね、ヘンデルとかね、バッハとかね、いろいろあるんで、よかったらちょっとね、あんまり食わず嫌いせずに、いやあ、あんな堅苦しい音楽は私はごめんだわとかじゃなくてね、一回聴いてみるとね、もしかしたらこの辛いね、この時期をなんか明るく乗り越えられる、何かこう礎になるかもしれないので、よかったら聴いてみてください。
はい、それではごきげんよう。