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ストーリーとしての思想哲学 〈思想染色〉がお送りします。
今回は文学論の話をしたいと思います。 文学的な見地から白痴と神聖さというテーマについて話してみます。
よく文学系の雑誌に載ってる批評とか評論を読むみたいな感じで聞いてもらえたらと思います。
まず、ドストエフスキーの小説にも白痴という作品があります。
この小説はドストエフスキーが最も美しい人間を描こうとして主人公のムイシュキン公爵という人物を描いていまして、
ムイシュキン公爵は白痴的な人物として描かれています。
ドストエフスキー的には白痴と美しさっていうのがかなり距離が近い概念だと捉えていたようです。
白痴という言葉は辞書的には知的障害者のことを指すとかイリオットの訳語だとか言われます。
でもそれはちょっと正確ではないと思います。
あと、白痴という言葉は差別的だとされて、今では知的障害という言葉に統一されて使用されるようになりました。
でも文学的な見地から話す以上、白痴という言葉を使用しないわけにはいきません。
というのも、ドストエフスキーの小説のタイトルであるということもそうだけど、シンプルに日本語として優れているんですよ。
白痴の白はホワイト、ピュアとかイノセントといった概念と対応しますし、概念ときちんと対応している言葉として優れています。
では、なぜ白痴はイノセントで神聖であるのかです。
白痴というのは精神地帯とも言われます。
地帯というのは遅れている、例えば年齢的には大人だけど精神年齢的には10歳くらいだとかそういう意味合いです。
このような精神地帯の人というのは当たり前だけど昔から世界中にいたわけで、
よくね、精神地帯の人は神がかり的であると言われていました。
ドストエフスキーの小説にもこの神がかり者という存在はよく出てきます。
神がかり者は精神が神の世界に通じていてシャーマンのようなものです。
精神地帯だから精神的に子供のようなんだけど時に鋭い真実を言う。
日本に当てはめようとすると、ミコとか沖縄のユタに近いんじゃないかと思います。
こういう民間信仰における精神障害者への眼差し、
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精神地帯者のように精神的に子供であると神の世界や霊界などの超自然的なものと通じているんだという観念があります。
神の世界や霊界などの超自然的なものと通じているということは、一言で言えば神聖な存在であるということです。
キリスト教において教会が神聖なものとされていたのも、教会は神の世界に通じる場所だとされていたからだしね。
はい、これをさらに抽象化して一般化していきます。
さっき精神的に子供のようだと民間信仰の文脈で神聖死されることが多いと言いました。
じゃあシンプルに子供という存在はどうなのかというと、やはり子供も大人よりも神の世界に近い存在と認識されていると言って良いかと思います。
これは日本人にとってはすごくイメージしやすいと思うんだけど、
7歳までは神のうちっていう言葉もあるし、神隠しにあいやすいのも子供であると考えられています。
このね、子供という存在が超自然的な世界に概念的に近いという世界観はどこから来たのかという話をします。
単に小さな子供、乳幼児が神に近いというだけの世界観であれば、
昔は乳幼児死亡率が高かったから、死の世界に近い、イコール超自然的な世界に近いという連想なのだろうと考えられます。
でも肉体的な子供のみならず、白痴、精神痴呆者といった精神的な子供までも神に近いと考えられている、これはどういうことか。
この神聖、ホーリーという概念は色々な切り口から語れるし、民族学の折り口忍の偉人論なんかを当てはめても良いのだけど、
それよりもっとシンプルな観点があるなぁと思っています。
外国のロシア聖教とかの神がかり者じゃなくて、日本の神道でイメージした方が想像しやすいかと思うんだけど、
宗教行事で神様に祈りや儀式を捧げたりして、神様とパスを繋げようとする時って、神様をお迎えする準備として身も心も清めるじゃないですか。
いわば大事なお客様、稀人をお家に招く時には、家をものすごく掃除する、綺麗にするのと同じように体と心を清めます。
俗世間的な余計なものを注ぎ落として、シンプルでプリミティブな状態になることで、神様をお迎えする準備が整った状態になるとみなされる。
で、民間信仰の文脈では、精神が子供ということは、俗世間的な無駄な知識や複雑な思考がない状態であり、
複雑な思考をしないからこそ、脳内が整理整頓された状態であるとみなせる。
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複雑な思考をしない、シンプルでプリミティブな状態であるからこそ、精神地帯者はすでに神様をお迎えする準備が整っている人というふうに考えられているんだろうと。
こういう一種の野生の思考がワークした結果として、神がかり者信仰が発生したんだろうという説です。
まとめると、白痴者というインプットから、彼らは神がかり者であるというアウトプット、一種の神話が誕生したのは、
プリミティブという概念を経由しての野生の思考が間にあるだろう、インプットとアウトプットとの間の演算装置として、こういう思考プロトコルがあるでしょうという、一つの野生の思考の分析の話でした。
僕はドストエフスキー大好きで、神がかり者っていう概念もすごく好きなんですけど、なんで好きかっていうと、現実の世界での労働とかの価値じゃなくて、
超自然的な、何か精神世界における価値っていうのを精神地帯者に与えて、で、社会における役割を与えて、彼らを社会的に包摂しているっていうわけだから、
なんていうか、原初的な包摂の仕方、すごく優しい眼差しだなというふうに感じるわけです。
もちろん総合的には、障害者に対する扱いというのは、昔より現代の方がいいに決まってるんだけど、
でも、労働以外の価値、神の世界とつながっていて、時に鋭い真実を言う人、みたいな感じで、社会における労働以外の役割を与えている。
で、それは社会の中での特殊な仕事になるし、仮に他の人みたいに労働ができなくても尊厳ある存在として扱おうとする、
そういう姿勢に好感が持てるんですよね。
科学的思考っていうのはすごく優れていていいんだけど、野生の思考は野生の思考で、結構いいところもある。
市場経済とか物質世界以外のところで、価値というか意味を見出そうとするっていう、こういう点があるよねっていう、
前回までのレビストロース、野生の思考の回と合わせて聞いてもらえたらいいんじゃないかなと思います。
では今回はここまでです。次回もよろしくお願いします。