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ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回の続きで、野生の思考とはどのようなものなのかという話です。
まず前提として、未開社会に暮らす人々は、自分たちが暮らすエリアについて、ものすごく詳しい知識を有しています。
陸・川・海にいる生物についての生態だけではなく、風や空の色、海の波の形、気流・水流などの自然現象の極めて微細な変化を正確に記すだけのボキャブラリーを持っています。
技術的なところでも、木の実の味や葉っぱの匂い、茎が折れた時の断面、木の木筆部の硬さ、匂い、それが例えばカヌーのどこの部材として使うのに適しているかとか、何に使えるかなどの、あらゆるデータを持っていることがわかっています。
限られた範囲で一生を過ごす彼らからしたら、限られた世界の中にある天然資源を使い尽くさないように生きていく必要性があるから、そのためにデータを収集しているというわけなんだけど、重要なのは未開社会の人々もデータを持っていて活用しているという点です。
彼らもですね、客観的観察に基づくデータ集めをしているんです。つまり科学だけが客観的観察とデータの蓄積をしているわけではないということになります。今のが前提の話で、次に未開社会の特徴として、自術があります。
自術というのは、魔術師の黒魔術で敵対する部族を攻撃するとか、自分らは狼の神の末裔であるとか、神に捧げる踊りをするとか、そういったもののことだけど、なんとなくイメージはできますよね。
で、自術的であるということをもって先進国の人々は未開社会の人々は遅れている、非科学的だとジャッジしているわけですが、レビストロースはそれを否定しました。
進歩主観的な見方からすれば、自術というのは科学の前、全科学的な思考だということになるけど、レビストロースはそういう単純な理解を拒否しています。
先進国の人々も未開社会の人々も、客観的観察とデータに基づく因果関係を用いた思考様式を持っているという点については共通しています。
共通していると言っても、違うものは違うわけですけど、ではどこが違うのか、どこが分かれ道になっているのかというと、因果関係の適用範囲が異なるという点に尽きると言います。
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神話や伝説に表現されている自術的思考は、世界の成り立ち、天地創造から天変地異、果ては個人の病気や恋愛関係に至るまで、あらゆる出来事を一つの因果関係によって説明しようと企てています。
一方で科学的思考は、因果法則の適用範囲を基本的には自然現象に限っていて、社会現象や人間関係についてはその適用を禁止しています。
自術的思考は、世界を一つの因果関係で説明しようとしているから、神に行き着くしかないし、神話というものを生み出さざるを得ないんですよ。
この辺の概念、ちょっと直感的に理解がしづらい部分なので、何回も別の言い方で説明を試みてみたいと思うんですけど、
自術は包括的かつ全面的な因果性を物差しにするっていうことに対して、科学の方はまずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性の何がしかの形式が成り立つことを認めるわけですが、
逆に言えば、若干に限った範囲の外のことについては、因果関係の説明をしない、放棄しているとも言えます。
この辺りをもうちょっと単純化しますと、自術的思考は包括的で全面的な思考様式であるという点がポイントで、
科学は同じレイヤー同士の事象しか比較しないのに対して、自術は全ての因果関係を比較します。
例えば、科学は雷が落ちるという事象のうち、雨雲、大気、静電気などの自然現象というレイヤーに限って因果関係を説明しようとします。
一方で自術的思考は、雷が落ちるという事象について、その雷が人に当たって人が死ぬという事象も含める、
そして彼はなぜ死ななければいけなかったのかという意味までも一つの事象として捉えた上で、因果関係を説明しようとするんです。
因果性の範囲が狭い科学の方が、因果の再現性は高くなるわけですが、
だからといって必ずしも科学の方が全て優れているかというと、そういうわけでもありません。
こういう文化人類学的な見方っていうのは結構難しいんですけど、
自術的思考には科学とは異なる何らかの意味や価値を見出すことができます。
今の例で言えば、雷に撃たれて亡くなった人の遺族からしたら、
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なぜ身内が唐突に雷で死ななければいけなかったのか、どうしてもその意味を考えてしまいますよね。
科学的にはただの偶然ということになるけど、やはり意味を求めてしまうのが人間です。
レビストロースは、科学的思考とは、限られた目的に即して、
効率を上げるために作り出された栽培思考であると言っています。
栽培された植物と天然の植物との違いみたいなアナロジーですよね。
野生の思考イコール天然思考であり、科学的思考イコール栽培思考であると。
言い換えると、そもそも人間の思考能力というのは、
野生の思考が大きなベースとして、土台としてあって、
その上に科学的思考がちょこんと乗っているという構図だというわけです。
レビストロースは別に科学を否定しているわけではないんですよ。
でも実のところ、我々も100%科学的思考をしているわけではないし、
むしろ科学的思考なんてほんとちょこんとあるだけで、
ほとんど我々だって野生の思考をしているのに、
我々先進国の人間は未開社会の人間とは違うみたいな態度を取るのは、
普通に論理的に間違っているでしょうということです。
そのことを端的に表している部分を、本から直接引用しますね。
人類の出現以来、今まで地球上に次々存在した社会は、
何万何十万という数に上るが、それらの社会はそれぞれ、
我々西洋の社会と同じく、誇りとする倫理的確信を持ち、
それに基づいて、自らの社会の中に、人間の性の持ち得る意味と尊厳が全て、
凝縮されている。
未開社会も先進諸国も、本質的なところは同じなんですよ。
未開社会の人々も、共同体に誇りや倫理を持ち、尊厳ある社会を運営しています。
これをズバーンと言ったのが衝撃的だったわけです。
まだまだちょっと説明が話し足りないんですけど、一旦切ります。
では次回に続きます。