フラヌールの概念
ストーリーとしての思想哲学、思想染色がお送りします。
今回は、フラヌールという言葉がテーマです。
日本語では、遊歩者、遊ぶように歩くものと書いて、遊歩者という言葉が当てられていますが、そのままフラヌールという方が一般的です。
こう言ってはなんだけど、そんなに重要ではない概念で、おしゃれだから紹介したという感じです。
だから、半分雑談だと思って聞いてもらえればいいんだけど、まずこのフラヌールっていうのはフランス語です。
フランスの詩人であるボードレールもフラヌールという言葉を使いましたが、この言葉を有名にしたのは、ベン・ヤミンという哲学者のパサージュ論と言ってよいかと思います。
パサージュ論のパサージュとは、ガラス張りのおしゃれ商店街のことです。
で、フラヌールとは、おしゃれ商店街などでウィンドウショッピングをしたり、人間観察をしたりしながら、ぶらぶらと散歩している人たちのことです。
もうこの時点で、なんとなくおしゃれな感じがわかると思うんだけど、
なぜ人々はウィンドウショッピングをするのか、なぜ人々は人間観察をするのか、みたいな話って意外と面白くもあります。
ちゃんと真面目に説明すると、そもそもフラヌールっていうのは、ベン・ヤミンがですね、19世紀、1800年代のパリに見出した人々であり、目的を持たずに街をさまよう、ブルジョア階級の男性のことです。
さらにパリのパサージュの大半は、1822年以降に一挙に建築されたものだそうです。
したがって、産業革命によって生まれたブルジョア人たちの新しいライフスタイルについて述べているわけですね。
遊歩者、フラヌールたちは目的もなく街ぶらして、店頭に並べられた商品を眺めたり、道行く人々を眺めたりしている。
フラヌールはパサージュを歩く時、群衆に紛れ、匿名の存在になります。
しかし、群衆に紛れつつも、その群衆の人々は、実は無目的に歩いているわけではありません。
特に産業革命の後の時代の労働者を想像してほしいんだけど、道を行き交う彼らは、仕事に向かう途中かもしれないし、仕事に必要な道具を買う必要があって、そこにいるのかもしれない。
あるいは、仕事の疲れを癒すために食事をしに来たのかもしれない。
ところが、フラヌールはブルジョアジーの勇敢階級ですから、労働者とは違って、無目的にそこにいるという贅沢をすることができます。
彼らはその贅沢な時間で、店頭に並べられた商品や道行く人々を観察しています。
つまり、研究しています。
この研究するということが、この場合ブルジョアジーですけど、特権階級的な人々が行いがちなことです。
逆に言うと、研究したりとか観察したりとかするのって特権階級的なんですよ。
というのも、これは現代思想でよく好んで使われる考え方なんだけど、
非対称な観察の関係
見るという行為は、見る側と見られる側とを作り出すよね。
研究するという行為も、研究する側と研究される側を作り出します。
同様に、知るという行為も、知る側と知られる側とを作り出します。
これって非対称性があるよね。
非対称性があるということは、権力的な非エラルキーがあるよねって話に、理屈としてはなります。
ちょっと現代思想に倣って小難しい言い回しをしたけど、まあ実は単純な話で、
産業革命の時代、労働者がせわしなく歩き回っている中、フラヌールたちは悠々と人間観察とかをして、これは明らかに非エラルキーがあるよね。
似たような話で言うと、先進国の研究者がフィールドワークでジャングルの奥地に住んでいる、
何らかの部族の集落に住ませてもらって、彼らの習慣を研究するのってのも、これも実は対等な関係ではありません。
なぜなら、先進国の研究者は、その部族のことを丸裸にして全て知ろうとすることができるけど、逆はないからです。
そこの部族の人々は、先進国に来て先進国の研究をすることはできないし、
やはりどうしても、研究する側と研究される側という非対称性が生まれます。
つまり、知る側と知られる側とがあって、知る側はいいけど、知られる側って嫌だよねっていう話です。
仲のいい友達ならまだしも、そんなに仲良くないのに、知られるって嫌でしょ。
だから、観察されるとか知られるって、厳密に言うとちょっとした侵入であり、領空侵犯なわけですね。
こういう権力的なヒエラルキーとか、知る側と知られる側みたいな話って、
もう現代思想に近しい業界だと無限にこすられてるから、美術館とかに行くと結構な頻度でキャプションにもそんなようなことが書いてますよ。
その時は、ポッドキャストで聞いたやつだーって思って、一人笑ってもらえれば十分かと思います。
というわけで、今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。