リーダーシップの多様性
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。今回はリーダーシップについての話とサイコパシーに関する話をしていきます。
まずは前提としてリーダーシップの話をしなければいけないので、そちらから始めます。
リーダーシップとは、辞書的には指導者としての素質、能力、または統率力というような意味です。
日常的にはもっとふわっとした意味で用いられます。
でも特にアメリカのエリートの人たちがよくやっているリーダーシップ開発プログラムとか、リーダーシップを研究しているところの文脈で言うと、
もうちょっと異なる捉え方をしていて、リーダーシップには色々なタイプがあるんです。
なんとなくリーダーシップっていうと声が大きくてパワフルで自信に満ちた人をイメージするかもしれないんだけど、
それはあくまで数多くあるリーダーシップの形のうちの一つにすぎません。
本当はリーダーシップって相手相手とか、あるいは場面場面によって適切なものを出したり引っ込めたりするものとされているんです。
もしパワフルな感じを演出した方が上手くいきそうだったら、自信満々に偉そうにしたらいいんです。
でもそれじゃ反発されてしまったり、あまり上手くいかなそうだったら、もっと下手に出て上手いこと人を転がせばいい。
そういうふうに相手や場面によって出したり引っ込めたりするのがリーダーシップであるとされています。
ポケモンみたいなもんですね。
相手が炎タイプならこっちは水タイプを出せばいいし、相手が水タイプならこっちは草タイプを出せばいいみたいなイメージです。
ということは結果がすべてであり、結果が伴わないリーダーシップは単なる未熟なリーダーシップにすぎないということになります。
だから色々なタイプのリーダーシップを身につける必要があって、
わざとあなたに興味がありますみたいなふうにしてみたり、わざと強く出てみたり、
実際は大した仕事の成果が出てないにもかかわらずよく見えるように演出してみたり、
あるいはわざと弱みを見せてみたり、
そういうことができるのがリーダーシップ上級者であるとされています。
これは会社や組織で成果を出すという面では正しいと思います。
僕もリーダーシップに関する本はめちゃくちゃ読んだけど、
アメリカのリーダーシップ研究はすごいです。
普通に感動するレベルです。
ちなみに個人的に一番面白かったのは、
何のひねりもない古典的な名著なんですが、
影響力の武器っていう本が特に面白かったです。
ここまではビジネスマンであれば結構知っている方も多いと思います。
ここから先はご存じない方も多いんじゃないかと思うんだけど、
サイコパスとリーダーシップの関係
最近リーダーシップの副作用が懸念されるようになってきました。
というのもリーダーシップ研究が結構進んだものだから、
理論通りにやると割と他人を操作できてしまうという側面が顕在化してきたわけです。
何らかの理論を使って他人を思い通り操作するって、
これってやっていいんだっけっていう倫理面からの問題提起ですね。
都合よく自分の人格を入れ替えて他者を操るってサイコパスやんみたいな批判があるわけ。
確かにそういう批判には一理ありそうです。
でもサイコパスって言って僕たちがイメージするのは、
愉快犯的に連続殺人を犯すシリアルキラーみたいな感じなんじゃないでしょうか。
だとすると、他者を操作する程度のことをサイコパスって呼ぶのは、
さすがに言葉が強すぎる感じもします。
そんな中、主にアメリカの精神医学サイドから、
サイコパスも結構グラデーションになっていて、
いろいろいるんだよ、という論文や本が出てくるようになりました。
身体的な暴力をあえて用いない、知能が高いだけに一発アウトな犯罪はやらない、逆に厄介なタイプのサイコパス。
それから、サイコパス特有の共感性の無さを、むしろ氷のような冷静さとして武器にして、
仕事で普通に卓越した成果をあげる、特性を仕事に生かしているタイプのサイコパス。
悪いサイコパスから、結構いい感じに仕事に活かしている良いサイコパスまで、
グラデーション上に存在していて、
そのいろいろなタイプのサイコパスが会社組織の中に割と普通にいる。
すると、これをどう捉えればいいか、というのが論点になってくることになります。
リーダーシップ研究の理論を用いて他者を積極的に操るテクニックって、
いわばサイコパスに武器を渡しているようなものなわけですが、
じゃあ彼らがどのように考え行動しているか。
その辺のところを書いた本で一番有名なのは、
たぶんサイコパスチェックリストを開発したロバート・ヘアのスネアクシンスーツ。
スーツを着たヘビだと思うんだけど、
マイルドサイコパスとか企業サイコパスとか、
ホワイトカラーサイコパスとか呼ばれています。
ここで一旦切って次回に続きます。
次回もよろしくお願いします。