社会科学の方法論について
Private LISTEN presented by CampSolo、13個目のエピソードになります。
12回目までのところを少しまとめて、私のnote記事に書きました。
Private LISTEN 社会科学の方法論について考えはじめる その①としてね。
ここまでの議論を簡単に、自分のためにまとめました。
読んでいただいた方もいるみたいで、過去のエピソードを聞いていただいた方もいたみたいですが。
前に進みたいと思います。
ここまで話してきたのは、社会科学における 事実認識と価値判断の問題です。
マックス・ウェーバーに触れながら、まずお話をして、
世界の客観的な認識は 可能なのかと そもそも。
その問題を考える前提としては、世界内存在であること、
ここには 認識論上 そして 存在論上の バイアスが 存在します。
どんな認識者も どんな存在も 社会の一部だと 世界の一部だという話です。
だから バイアスを必ず持つ。
しかも 部分しか認識できないという話です。
それから もう1つは 人間の脳の特性ですが 自己反省性を持つ。
思考の自己反省性を持つ。
人間が構成する社会 人間が作る社会も だから 人間の脳の活動 自己反省的な活動の影響を受けますから
社会も自己再帰的になると こういう表現をしたわけです。
思考と社会の自己再帰性。
それから もう1つは 我々が行う認識というのは、 表現されたものは 言語による世界認識になる。
例えば 社会科学として表現されたものは すべて言語で基本的に表現されるわけです。
ところが 言語は厄介な存在で 言語は多義的である。
そして 言語行為は 人間のトータルな行為の中では 部分的なものにとどまります。
これを 出発点、 前提にしないと 話が始まりません。
そのような話を ずっとしてきたわけです。
それぞれのエピソードで そのような話をしながら、
さらに 6つ目からは 脳の話ですね。
我々は 脳で世界を解釈し 脳で思考し 脳で推論すると。
そして 脳が言語を生み出すわけですよね。
そのため 社会科学や 社会の認識は 脳の活動として 捉える必要があります。
脳がやっていることです。
では 脳は どう推論するのか。
脳が推論する仕方は 演繹法でも 帰納法でもないということ。
そして 演繹法 帰納法っていうのは 言語の 罠に はまっているという話も 7つ目 8つ目の エピソードでしました。
脳の役割と推論
機械学習が 進化したことで 自然な言語を 生み出す仕組みは 記憶と予測に 基づいている、
記憶と予測が 推論を 可能にしているという話。
細かい話をすると 短期記憶 長期記憶 注意機構などが 出てきますが、それは置いておいて
推論は 記憶に基づいて 予測をする。
その仕組み 脳の活動は 機械学習でも AIでも 同じです。
こういった推論を 人間は 行っています。
その推論は 言語だけで 行っているわけではないと。
科学的証明という話になった 瞬間に 言語の罠に 陥るということで、
それを 意識しながら 言語の罠に はまらないように 実践的推論ということを 出発点にして
社会認識 科学的証明の問題を これから考えていこう ということで
ようやく 出発点にたったということで note記事にも まとめたわけです。
その上で 今日は タイトルが リッスン トゥ ノンバーバル プラクティカル リーズニングです。
非言語的な 実践的な 推論を われわれは日々 日常的に 瞬間 瞬間 行っています。
例えば 崖があって 下は 足がすくむような 崖の前にいた時に 一歩 踏み出せば 落ちると 推論します。
これは 言語にしなくても 一歩 踏み出したら 落ちると 言葉にしなくても 瞬間的に 分かります。
それは 高いところから 落ちた経験に 基づくものではなく もう少し 低いところから 落ちて 痛い目にあった 経験とかね。
つまり 高いところから 落ちると 落ちることが 起きることを われわれは 経験的に 知っています。
言語化しなくても 知っています。もちろん 言語化して 表現することも できます。
例えば 目をつぶって 歩いていたら 壁に ぶつかるかも しれません。
だから 目を開けて 歩きます。
あるいは 目を開けて 歩いていて 目の前に 壁が来たら それを 避けます。
これは 言語化しなくても 非言語的に 実践的に 推論しています。
空間予測を しています。
さらに 時間予測も しています。
あと 10秒後ぐらいに ぶつかるなと 時間予測します。
こういった 空間予測 時間予測ということを われわれは 短期記憶 長期記憶を 引っ張り出しながら 脳の情報処理として もう その瞬間 その瞬間 常に 行っているわけです。
これは 全てが 言語的に 行われているわけではない。
そんなことを していたら 間に合わないわけです。
壁に ぶつかってしまうわけです。
足を踏み外して 落ちてしまうわけです。
この非言語的な 実践的な推論を 行っているのが 一人一人の人間であり その人間が 作り出しているのが 人間の社会である。
そして それを 科学的に扱おうと 認識しようとするのが 社会科学である。
そういう話です。
なので 社会科学ということを 考えるときには 人は そういう ノンバーバルな プラクティカルな推論を 常に 行っている存在。
しかも それは 世界内存在として バイアスを持ちながら 自己反省的 再帰的に しかも 時々 言語行為を 織り交ぜながら 行っている存在である。
それが 社会を織りなしているという。
そのような 社会の運動を とらえるのが 社会科学です。
ノンバーバルなプラクティカルな推論と社会科学
そのような話に なってくるのです。
その社会科学は 言語的に その運動を とらえようとするわけですよね。
では 一体 社会科学には 何が どこまで 可能なのか。
あるいは 社会科学は 何を どこまで することが できるのか。
あるいは 社会科学は 何のために 何を 期待されて 存在するのか。
あるいは われわれは そういう言語的な 思考 あるいは 言語的な 推論に 基づく 認識を それこそ 言語的に 表現する 社会科学としての、
この営みというのは いったい われわれは何を やっているということになっているのか。
つまり われわれが 行っている 社会科学の 営みは 社会の中で どう 位置づけられるのか。
そのような 問題に なってくるのです。
ここにも 再帰性という 問題が 入ってくるのです。
つまり 社会科学的に 生み出された 言語的な 産物は われわれの脳 つまり 誰かの脳が 生み出したものであり それは 社会の中に 組み込まれていて 再帰的に 再構成されていく という 話です。
しかも それは もっと 広い 非言語的な 実践的な 推論を 行っている 人間社会の中に 存在する 単なる テキストに すぎない。 書かれた テキストです。
それは 世界にとって どのような 存在なのか と。
つまり 社会科学が 客観的に 認識できると 勝手に 思い込んでいるんだけれども、
社会科学で 書かれた 成果物というのは 世界の中に 存在する 単なる テキストに すぎない と。
では テキストの 意味 役割 目的は 何なのか というふうに考えたいわけです。
つまり 社会科学が 世界を 客観的に 認識できる という 考え自体が そもそも 成り立たない という 話です。
では 何が どこまで できるのか ということは当然考えなければ いけない。 科学を 名乗る 以上。
この時に 大事になるのは 自然科学が 実際に 役立っている ということです。
自然科学は 科学的な 認識が できています。
自然科学は ロケットも 飛ばせるように なっています。
自然科学は 原子力を 活用できるように なっています。
ナノテクノロジーも 発展しています。
自然科学は いろいろな 有用性を 持っています。
それに対して 社会科学は 何が どこまで できるのか。 自然科学との 違いは 何か。
ここで 自然科学や 社会科学も 含めた 科学的認識っていうのは そもそも 何なのかを 考えなければ いけないと 思うんです。
その時に 出発点にしたいのが ノンバーバルと バーバルです。
そして リーズニング、推論です。
そのようなことを 考えていきたいと 思っています。
次は 社会科学ってそもそもなんなの、自然科学との違いってなんなの、みたいな話をしたいと思っています。
プライベート リッスン 13回目は ここまでです。
では また。