まさにそれは人間にしか持ってないセンスというか感性だから、そういう感性、センスの基盤を養いながら考える力と、
答えを自分で導き出すっていう、そこを養うのが、うちのリアルスピリチュアリスト養成講座になっていくというのにもちょっとつながってきますね。
いろいろそういった体験した感情とか、そういったところって、あるいは言葉にしていくとどういうものだったのかっていうのが理解が進んでいったりとかするんですかね。
そうですね、表面的にはね。ただ、愛って言葉にできないじゃないですか。
なかなか難しいですよね。
でもこれは感じる、自分で感じて、自分たりの快を求めるしかないわけですよ。
あえて言葉で言うならこうですっていうのができるようになると説得力が増すわけですね。
説得力が増す。つまり何だろう、言葉でこれはこうですって言ってる人が、例えば人の言葉を借りて言ってるって何かわかるじゃないですか。
インスパント的な感じってわかるじゃないですか。
だけど、やっぱりすごい深めて深めて、もうこの言葉だなっていう、そのチョイスをしてる人は何かわかるじゃないですか。
そうですね。
例えばもう、生きてるだけでいいんだよっていう人が結構いるけど、
本当に死にかけて救死に一生得た人の言う、生きてるだけでいいんだよと、
なんかもう、なんか瞑想とかして、生きてるだけで幸せだなって思っている人と、何か違うじゃないですか。
なんかその深みはやっぱり自分で感じて考えた労力が人格っていうか素養、何て言ったらいいんですかね、その人を作っていく。
なんかよくね、男性とかだとイブシギンのようなとか言うけど、
結局あれって時というものを味方につけた味わいってことじゃないですか。
やっぱり疑問を持つっていうのはすごく大事なことだし、そこに問いを立てながらずっと考えていくっていうのが哲学のいいところで。
それを自分なりにどういうふうにしていくかっていうのは、ある程度考えて深めていかないと、言葉に出した時の神っていうのは変わってくるわけなんですね。
それはね、チャットGTPでは出てこない味わいですよね。
これからそういうのが大事になるんじゃないかなと思いますね。
昔はそういう情報が多くない中で、誰も答えを出さない中で、哲学者とか文学者とか思想家の人たちはそれをずっと思想を深めていったわけですね。
ある種のその人なりの回があって、それをみんな聞くと、あ、それってこうなんだってほっとしたよ。
それが本だったり講演だったり。
それが教養っていうのになっていくものもあったりするわけで。
これから今、情報型で何でもチャットGTPで質問すると、嘘でも出てくるみたいな。
嘘って嘘じゃないのもあるわけだけど、取り繕ったなみたいなのが誠しやかに出てくるみたいな。
そこは自分で最終考えていく力がないと振り回されて機械に踊らされるっていう啓蒙をしてる人もいますけど。
大事な力なんじゃないんですかね、と思いますね。考えるのが。
そうですね。だからぜひ皆さんも考えていただいて、自分なりの言葉にして出していっていくことも大切ですね、そうなると。
そうですね。やっぱりその結局、今回心の話でコメントにもあったけど、別れたくても情があるから別れられないよね。
そういう話、このテーマになってくると、前回かな、心理学の話をしたけど、やっぱり感情と思考が足を持たれてくるわけですよ。
考えろって言っても、この地図っていうか、分けるカテゴリーが自分の中にないと、どこに収めていいかわかんないってなっちゃう。
思ってるこの情のなんかモヤモヤを何に収めたらいいかわかんなくなるんだけれど、心理学の地図というか、配置を見ていったときに、配置っていうか、私がよく図式化するので、それでこの感覚は感情寄りだなとか、これは考えだなって、
一つずつ分けて、おさまりどころを整理していってあげると、感情のね、例えば恐れとか不安とかになると、それはもう生物的にしょうがないよねっていうやつはもう、
例えば私別とかは、これ何もできないんです。時間っていう薬しかないんですよ。でも例えば恋人と別れたっていう別れになると、愛情と後、失う恐れみたいな、いろんなものが混ざり合って葛藤するんですよね、心の中でね。
で、そこで思考で本とか読んで、なんか愛してるなら手放すべきだとか、手放していきましょうみたいなの読むと、手放すべきなんだって思考が働いて、手放せてない私はダメだなとか言って、変なループに入るっていうのも、結局自分の中で今何が起きてるか、
あの本を読んで、あの本のワードを採用して、自分はそれを基準にダメだと言っているけれど、それを基準にしなかったらどうかっていう考えもあるよね、とかね。あとそのモヤモヤを、それは頭の理解ですけど、モヤモヤしてるものはもうどうしようもないので、そのモヤモヤの解消法は心理学で扱い方っていうのがあるんですよ。
ワークであるんです。これは自分軸プログラムとかで教えてるんですけど、やっぱりそういうのをやったり、体験したりしていくことによって、自分の感情のコントロールっていうのがしやすくなるんですよね。
なるほど、そういう風にして自分のモヤモヤを、なんかしっかりどう使っていくかっていうところがあるんですね。
なので哲学するのはすごくいいことなんだけど、哲学を科学的に、それじゃない視点はどうかとか、検証というか、別の視点を持つっていう柔軟性がないと、なんかこの人生生きてる意味は何かみたいなとこに入り、
そしてこの肉体を持って生きる意味は本当はないんじゃないかって言って手放すっていう選択をする人もいるわけですよね。私はそれはちょっと違うなって思うので、哲学は好きなんだけど視野が狭くなった哲学は危ないと。
考えるんだけど、自分の考えとは違う考えも受け入れながら、じゃあそっちから考えたらどこにどうなるだろう。考え続けて心がモヤモヤしたり、生きていく中で何かうまくいかなくて嫌な場合は考えるよりも感情の扱いをしてしまった方が生きるのがまず。
先じゃないですか。生活を整えるっていうことを先だと思うので感情の扱い方っていうのを心理学とかで学んでおかれると沼らなくて済む。
そういうことですね。
だいたいスピリチャルとか哲学を込めると沼るんですよ。答えがないから。
まずはどう扱うのかっていうのを心理学からうまく自分の心の扱いからね。
取り入れとくとすごくいいなって思うのが補足でありますね。哲学のいいところは回答だけじゃなくてこのプロセスをすごく重要視するところが私は好きで、哲学してるつもりで回答求めてる人はプロセスをあまり重要視しない人がいるので、
それはちょっと哲学ではないなと思うんですね。
何が言いたかったんだっけな。哲学じゃなくても思想でも、
なんかどっかのマスター、覚醒を目指しているマスターとか、覚醒しちゃった人たちとかでもいいんだけど、
そういう伝統のマスターたちの教えの中に必ず自己認識っていうのが入ってくるんですよ。
それはね、思考の扱い方、マインドとかコンパッションとかいろんな言い方があるんですけど、
頭の思考をいかに、頭理解じゃなくて、その奥の思考の方に持っていくかみたいなところで、
どうしても頭がうるさくなっちゃうのをどう鎮めるかっていうので、瞑想をみんな言うんだけど、それと同時に、
そういう伝統を教わっていったりすると、やっぱり心理学でやってることを言ってくるんですよ。
そうなんですね。
結構面白くて、面白いというか、やっぱりそうなんだなって思って。
過去2、3回で心理学とスピーカルな連動の話をしてきたんですけど、
結局、自分自身を知ったり感情を開放していくことで、悟りの道みたいなところをみんな目指していく。
その開放の仕方は、行、肉体的な開放の行を教えると同時に、精神的な部分の開放の仕方も教わったりするんです。
それはね、もう心理学のやり方やったらもっと早いぞって思う。
それを知らない人たちが、昔ながら伝統だから伝統の話をしてくれるんだけど、