1. そろそろ美術の話を...
  2. #074 連続Podcast小説 齋ちゃ..
2023-01-14 51:44

#074 連続Podcast小説 齋ちゃん 後編(日本画家 齋 正機)

日本画家の齋 正機さんをゲストに芸大受験から作家になるまでのお話をお聴きしました。

https://sorosoro-art.vercel.app/ep/074 番組の感想は、#そろそろ美術の話を でお願いいたします。

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Guest Profile

齋 正機(さい まさき)

  • 1966年、福島県福島市生まれ。本名・斎藤正機(さいとう まさき)福島市立森合小学校、福島市立第四中学校、福島県立福島東高校(2期生)、東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業、同大学院修了。
  • 1998年、ふるさとの風景展(喜多方市美術館主催)で最優秀賞受賞を皮切りに、数々の絵画展で受賞。
  • 2003年、洋画の登竜門である昭和会展(日動画廊主催)にて、無所属の日本画家として初めて最高賞の昭和会賞を受賞。以後、福島の風景を中心に鉄道、花、人物などを描く新日本画としての世界を広げている。横浜市在住。
  • 神奈川県箱根町・芦ノ湖の「成川美術館」には、齋正機の絵画が約80点所蔵されている。

Show Notes

齋さんのページ

齋さんの通った予備校

4度目の受験の話題

予備校講師の話題

00:00
♪~
アートテラートニーのそろそろ美術の話を
この番組は私アートテラートニーが
アートに関わる方をゲストにお迎えして
トークを繰り広げるポッドキャスト番組です
今回は前回に引き続き
日本画家の西正樹さんをゲストに
作家になるまでの話を聞いていきたいと思います
♪~
改めてまたよろしくお願いいたします
よろしくお願いします
鈴木が気になりすぎて休憩撮ってなく
もう次の収録という
いつも大体10分20分休憩入れるんですけど
もう行っちゃおうかなと思ってますので
大丈夫でしょうか
どうですか?ちなみに是非やってみて
いや話しながらね
本当ダメなやつだなと思うね
いやあまりの極端すぎてね
でもこれはいろんな人に夢を与えると思いますよね
今悩んでるだから別に美術に限らずですけど
あといろんな親御さんにも
いい話だなと思って聞いてまして
いやでも本当ねいろんな壁にぶつかりながら
反対方向行っての繰り返しだから
それはねあのもう生傷だらけだよ
いやでもこれで前半というか
この前の話ではだから親が最終的に認め
そこには先生小原先生の説得があったということですけども
じゃあそのまんま大学入れたのかっていうのが
今回のお話ということで
聞いていってもよろしいでしょうか
はいということで
今回も続けていきたいと思います
連続ポッドキャスト小説
「サイちゃん」の後編でございます
迷い・葛藤・サイちゃんは芸大に行くべきなのか?
ということでだから三浪目にしてというか
じゃあ芸大にこれから
ってことは芸大のまた予備校に
というか美大の予備校に入るとですか
あの某水道場立ってどこに行かないか
もう出てますけど
水道場立ってことは東京に出てくるんですね
結局僕自身は実はいろんなことを考えた時に
やっぱりその時にはね
水道場立てがいいんじゃないかっていうのと
実はもう一個あったのが
池袋モンパルナスの近くに行けるじゃん
あーなるほど
でもずっと好きだったんですね
やっぱアイミツとか
ところがね池袋モンパルナスって
全然その水道場立の人たち知らないの
あ本当ですか
びっくりだよ
だからもうみんなと喋れると思ったら
池袋モンパルナストークができると思ってきたら
日本画の人たち「アイミツがね」って
誰も知らないのね
残念だなぁと思いながら
ただ本当は予備校で3浪目から復活です
僕は現役の時はそれなりに上手でした
現役生としては
ところが久しぶりにやってみると
03:05
大変でした
やっぱ2年のブランカでかいんですか
あとね頭でっかちになってるから
大人になりすぎてたっていうか
絵って受験生もそうなんですけど
釈迦力になって描くっていうのって大事なんですよ
ところが頭脳的になると合理的に描こうとするでしょ
そうすると踏み込みが弱くなるの
まっさにそうなっちゃってたの僕自身は
それでも3浪の1枚目はものすごい高評価だった
そして講師の先生がすごくいいデッサンだった
これは田舎の優等生だ
田舎のは余計じゃねえかなと思うんだけど
中のはいらないですよね
これは何でかっていうと
黒田世紀仕込みのクロスアッチングがいっぱいあったから
その頃主流はもう染めて
鉛筆もサラサラと染めながら
擦ったりもしていいデッサンなんだけど
デッサンのあれが変わってるんですね
そう僕はもう小原先生仕込みの
明治仕込みのデッサンですから
いいデッサンではあると
もう何の中にもいいデッサンなんですけど
ちょっとやっぱり現代っぽくはなかったんだ
当時の主流ではなくなっちゃってた
だけど先生は見抜いたんだろうね
これはいいデッサンだと思って
ところがそういうデッサンだから
水彩があんまり得意じゃなかったんだよね
ただすごく僕も頑張ろうとまた思ってたので
今度は勉強で毎日頑張ってますから
失敗はしてるけどほんまに
すごい頑張ってやろうと思ったら
今度はカルチャーショックじゃないけど
東京に来て食べ物とか違った結果
いきなり40度以上の熱で寝込まれて
意味不明の
原因不明ということですね
ビール性胃腸炎なんだろうけど
そして実は40度ぐらい以上の熱が
3日間ぐらいは出たと思うんだけど
2日目ぐらいまでは耐えてたんですけど
3日目ぐらいでもうダメだと思って
大谷さんにすいません
病院に連れてってくださいって
いうことを言ったら即に
どれぐらい入院してたんですか?
それは約1ヶ月だったんですけど
それなんで1ヶ月もかかったかっていうと
胃だけじゃなくて腸までやられてて
立つのが難しくなってて
だからもうトイレに
もうずっと行かなきゃいけなかったし
1ヶ月はいなかったかな
それでも結構な長い時間
入院することになっちゃったんです
それ何月ぐらいから?
4月に入ってきて
4月の数枚かいて
そしてこれから頑張らなきゃな
課題も見えてきたなって時に
いきなりいなくなっちゃうんです
06:01
それも友達もまだ誰もできてない
東京の知り合いもいない
東京、ここは東京でしょ?
そして寂しいけど
もちろん誰もお見舞いなんて来ない
今みたいに携帯もないから
すぐ連絡取れるわけでもないし
食事付きのとこだったので
一応そこで下宿で一緒の人は来てくれたけど
そんな親しいわけではなかったので
だからそういった意味では
なかなか孤独な時間を
それこそ縁の孤独な時間を
まさにですね
そしてその孤独な時間を過ごしながら
回復を待ってたんだけど
その時にまた人生上ですごいこと出会うのは
一緒の部屋の人が
もう一人僕と同い年ぐらいの人がいて
その人は肝臓が悪くてもう半年以上
住んでるような感じで入院してる人がいた
無視みたいなのがいたんですね
もう一人はそこの病院っていうのは
いろんな間の人が一緒になっちゃってて
脳桂化からも来てて
なんか30分に1回「おー」って声を上げる人が
怖いっすねそれは
その2人と一緒で
もう一人の人は家族同伴で
全然喋ることはできないんですけど
その肝臓の人と喋りながら
「ああそうか人生ってこんなこともあるんだ」と思いながら
でも僕はその時
本当はある意味
糸超悪くしたので
もう50キロ…55キロくらいまで行っちゃったのかな
今身長が
ものすごい痩せこけて
それでも復活できるんですけど
復活しても
デッサンってほら立ったり座ったりするじゃないですか
日本画って12時間ぐらいのデッサンなので
余計大変なんですよ
もう立ったり座ったりしたら大変なことが起きちゃうんですよ
もうそれこそPPなんでいつでも
立った瞬間にもう終わるんですよ
行けないんですよだから
だから予備校に行けないんですよ
目をかけないから
退院したと言ってもってことなんですか?
だからしょうがないからでも回復を待って
結局は夏過ぎぐらいまでそれにかかったから
夏前にちょっと忘れちゃったけど
そして結局復活はするんだけど
ある意味一番伸び盛りの旬の時が
ガラッとなくなっちゃって
せっかくやる気もあったのに
いきなり最初才能ある田舎の優等生と言われてたのに
もうそれすらも言われなくなって
そしていわゆるリズムに乗れない結果
割と評価も低くなって
どんどん悪循環の悪いスパイラルに行っちゃうんですよね
09:01
ただそこででもよかったのは
すごく評価は悪かったけど
一両の時にも経験してますから
悪い人たちもいっぱいいたので
だから一生懸命やるって言うよりも
それでも耐えなきゃいけないなと思って
やりながらやってたって感じでしたね
それで3浪目というか
1年間やって受かるんですか?
いや、受かりません
ただ二次試験の一次試験だけ受かったので
デッサン的にはクリアできたんだろうね
ちなみにずっと狙ってたのは芸大一択だったんですか?
たまびとかのサビとか
いや、芸大だけです
それはなぜかと言うと
親にお金がほとんどないので
退職金を使ってるような感じだったから
僕自身が浪人でね
私立までのお金がなくて
もともとそれで
本当はね、美術は諦めてくれって言われてる
それがいけなかったんだろうね
俺すごい頑張ろうと思って
昼飯は抜かなきゃダメだと思ってた
そんなことやってたから極端なんだよね
そうなんだよね
でもこの今、手元に
そしてバブルの世の中って書いてある
時代としては今バブルの時期なの?
そう、バブルの時期で
やっぱりいろんな人がいましたよ
ただバブルってみんな
日本中がすごい豊かだったと思うんでしょ?
光と影がすごいな
光ってる方はものすごく光ってるけど
影の方が本当に影だな
より影だったんですか?
うちのやっぱり4畳半の下宿とかには
毒ダミの匂いがしてるような感じの
わかる?光の感じのね
でも水道場とで浪人してる人たち
たまには裕福の人
いるけど大体みんなそう
遊びに来ないよーって言うと
湿ったような石のところに
こんな植物をかき分けて
毒ダミの匂いを感じながら
どんなところ?
その頃も水洗のが普通なのに
ぼっとんのね、歩いてる意識で
うちの神さんもその頃一緒でしたけど
神さんも階段登るたびに
竹地上下ってくらい階段で
沈んだりするような
池に入っちゃうみたいなやつさ
これがバフルの時期の話
よくテレビで見る時には
これ今だから片屋
ボディコンでディスコでみたいな
人たちがいる一方で
こういう生活もあったの?
だから光と影があった
あんまりテレビでは紹介されない方のやつですね
だけどそこでやっぱり頑張ろうとする
いわゆる池袋モンパナナス的な
雰囲気を味わえる
じゃあ合格はいつすることになるんですか?
結局4浪目までするんですよ
そして4年間、4浪目は
やっぱりリズム乗れなかったんですよ
12:02
僕、デッサンで現役の時が一番良くて
4浪目の時にはちょっと旬を外した感じだったんですよ
どうも美術、僕、受験生見てると
知識だけになると危ない
それ今も?
今もそうです
やっぱりそのまま素直に対処を受け取る力が弱くなって
考えて何とかしようとしすぎるじゃん
本当はぶつかっていけばいいだけ
意外と1年目の方が行きやすいのかもしれない
そうそう、1浪2浪は入りやすいのはそこにあって
ただ4浪頃は経験で何とかできるので
4浪目に入った時に
右脱は上がらなかったけども
模擬試験の時だけはちょっと良かったりとか
そしたら試験で今度は
その時、噂で聞いてるか本当かどうかわからないけど
冷枝一夫先生っていうすごい創画の先生が
最後の年で
最後の年の人が出題するかもしれないよ
そんな風習があるらしいよ
なんて言われてたのね
本当かどうかわからないよ、これ自身は
だけどその年、いつもだったら石膏デッサンと水彩画のはずなのに
石膏デッサンやめたの
なかったんですか、その年は
急に2日で1枚の12時間デッサンの石膏デッサンが
1枚ずつ6時間6時間で
1日目は音楽学部に連れて行かれて風景がデッサンで
全然違うものを
2日目は瓶1本与えられて
窓辺にあることを想像して描きなさい
めっちゃむずいですね
それまでは石膏デッサン単体で出てただけだったのに
全然違うものが出てた
もう現役してるんで目が泳いでる
これでもあれじゃないですか、2年目の西井さんは
数学のセンター試験のあれが変わっただけで
パニック起こしてたじゃないですか
これはもう大パニックじゃないですか、どう考えても
パニック尽くしになると経験を積むんですね
これは世の中の強みなんです
強みなんですよ
みんなが動揺してるのが見えると
そこでその頃僕はタバコを吸ってたんで
吸ってよかったので
試験中にですか?
試験中に吸っていいんです、12時から
6時から6時まで
これやばいかな
大丈夫です
でも僕はわざとそこで音楽学部の校庭に枠を張られて
その中で描きなさいだったんですけど
枠の外に出て、喫煙所はここですって
いわゆるタローしてる人は吸えることになってたから
で、そこに女子の人にライター借りて
落ち着いた受験生ですね
でも嫌な受験生だよね
そうでもして落ち着かないとダメだなっていう風に思いながら
でもそこでやっぱりこれは自分の好きな場所で
15:00
こういう感じっていうのは
直感を大事にしようと思って
多分それが求められてるってわかったのに
で、その場所がここがいいっていうところで
僕はすごく楽しんで描けた
へー、みんながパニックになってる中
で、次に瓶の創造画も
これは創造画っていうけど
自分の中での絵画論を
もう思い切り出せばいいだけだと思って
線だけを使って
映ってる綺麗な塊みたいのを描いて
他の人とちょっと違う側面で描いたのね
そしたらやっぱり受かってたんだよね
でもそれもやっぱりあれですね
高校の時にいろんなこと教えてもらってたことが
そこで生きてくるし
全部生きたの
すごい、壮大な伏線回収がここで行われるんですよね
そう
はぁー
ただ二次試験は厳しいと思ってたの
なぜかというと、花束いっぱいの中に生物で
すごく描写力とスピードがないと受からないからね
二次試験は
これはここまで来れたけど
もう1年、俺4浪だけど
5浪、6浪、7浪、どこまででもやったるわ
っていう気持ちになってたの
そしたら試験解除になったら
鳥の鳴き声がするのね
おー、また
生物じゃなかったの
鳥だったの
その年は
そう、それもチャボ
チャボってニワトリが美しくなったやつなんですけど
僕、近所みんなニワトリ飼ってるので
小っちゃい頃から見てるし、捕まえてるから
ものすごく親近感が湧いたの
へー
いつもだったら、そんな筆先を使って描くってことなんてしないし
画面の構成ばっかり考えてるのに
愛情があるから筆が進むんだよね
だから頭でっかちじゃなくいけたってこと
そうなんです
初めて頭でっかちが本番の最後の1枚で取れたの
へー
で、もう最後の方に
これ多分この中どころか
僕の中ではベストだし
一番これがいい絵だなっていう風に思って
今まで自分が描いてきた中でもってこと?
うんうん
で、結局5年6年老人症と思ったけど
こんなベストはもう一生出せないだろうという風に思うぐらい
もう諦めがつく感じです
それも卓球の話と同じだよ
ランキング1位の人と当たると
何かやり遂げた感じっていうのが出てきて
やっぱり受かってるんだよね、そうなると
へー
もちろんもう掲示板見るときそんな思ってない
もうボワーって
聞き飛ばしてるけど
もう泡っぽそうなってたけど
でもその489番って僕エッセイにも書いたんですけど
18:04
ようやくっていうのが受かるんですよ
うまいことできてますね、この脚本は
へー
それで受かるんです
もう本当それはびっくりだったけど
でも日田先生のおかげでもあるかもしれないけどそれは分かんないけど
でも立ち返れた
だからそういった意味では
受験が自分に教えてくれたことっていうのが大きくて
結局活性化とされたっていうか
そういうところがありました
いやいい話ですね
ここからじゃあちょっと次のテーマ
バブル崩壊予備校戦争勃発どうするサイちゃん
突然急に飛ぶね
そうですね
なんかここで終わりにしてもよかったぐらいのいいストーリーだけど
まだここからさらにあるわけですか
49番目のテーマ
なぜ僕は愛すべき柴又に住んだのか
これは学生時代の話ですか
まずね柴又に住んだのかから話をすると
僕の心の拠り所病気をした時の拠り所は
やっぱり映画を見るって前あったでしょ
トラさん見たんだよね
若いうちにトラさん行くもんなんですね
行きますよ
昔はあれだったし
毎年正月にやってましたしね
その柴又がいいんだこれがまた
トラさんが好きでそれで柴又の単純な理由で
それでいてトラさんを割とさリバイバルで何個かやってて
だからちょっと柴又の
男は辛いよの映画を見てたら柴又行きたくなってくる
そうすると何回か行っちゃうんだよね柴又がね
実際
いいんだよね柴又がね
僕も何回か行ってますけど
住みたいなぁになりますか
僕は住んだからね90番目
っていう形だったからさ
だから僕は柴又
実際だけど本当は東京芸大って柴又と相性が良くて
京成線の四路編成のやつが
今がもう廃駅になってる
動物園
博物館前駅
あそこに泊まる車両だったんです
じゃあ青人とかに乗り換えなくても一本で行けたの?
珍しいことで今じゃもう高さもとか次で乗り換えなきゃいけなかったけど
今は柴又から芸大行くのに最短コースで行ける
じゃあ結構芸大生も住んでたんですか?
住んでました
結構じゃないけど芸大生自身が定員が少ないせいから
あんまり合わないんだよね
でも芸大のその4年間はずっと柴又?
そうだから柴又に移り住んで
時々ねエキストラに挑戦してダメだったりとか
男は辛いよね
柴又1章目の情報を鍵付けてちょっとチラッとこうね
21:05
出ようとしてやータッパされてんなーとか
スターウォーズに感化された少年が今やもう男は辛いよね
でも山田陽人のね脚本が好きだったからね
やっぱりああいう文章書きたいと思ってたんだし
でもなんか今言われて思いましたけど作風はなんか通ず
そりゃスターウォーズではないですもんね今の埼玉崎さんっていうのは
でもスターウォーズも好きだよ
いやでもそうストーリーはスターウォーズぐらい
壮大な物語を今聞いてますからね
壮大な三度の身内話だけどね
でもスターウォーズも壮大な身内話だもんね
でもこれでバブル崩壊前夜ここでちょっとなんか不思議な
その時村上隆先輩の歌
村上隆さんってことなの?
村上隆さんっていうのは僕の学部時代の大学院生なんだよ
はー
だからどういう関係になるかっていうと
芸大の文化祭の時に学部の責任者を決める
そして今度は大学院からも責任者出してもらう
そうすると一緒になったりするんだよね
なるほどなるほど
そうすると先輩後輩でもあるからそんなに親しくはないけど
その時だけは親しくなるじゃない
芸大の時に
その時やっぱり僕自身は大学1年からも予備校をやってるんだよ
予備校の先生を
それはお金がないからっていうのが一番あるんだけども
そうすると実は村上隆さんも某立川美術学院ってところで
やってて菅原さんっていう作家さんと一緒にやってたんですけども
そういう形で先輩でもあるけどライバルでもあったし
でもそういったことを抜きとして
いろんな文化祭のことを話し合ったりした時に
たまに酔っ払ったりすると
ちょっとお前俺のアトリエに来いとかって言われて
今は絶対死んでダメだけど
昔はちょっと忍び込めたりした時があったから
自分のアトリエに通して
お前この作品どう思う?なんて聞かれたりして
俺は緊張するし
そこまで村上さんまだ有名じゃなかったので
結構あれですよ
顔料をガチっとくっつけたような作品で
なんだかわかりませんっていう感じがして
村上さんすごく正直で
そうだよな、そうだよな、わかんねえよな
そんなような形の話をしたりとかして
この方ってすごい素直なんだな、正直なんだなって思って
24:00
僕がいろんなことを報告するんですよ
僕ちょっと今日本の美術史に
世界美術史と一緒にこういうことを考えてます?って言うと
じゃあそれ簡単に言ってみろとかって言われてるよ
村上先生じゃないけど
ちゃんとそのことを精査してくれたりしてたの
もう忘れてたんだけど
僕も本名は斎藤だけど
それすらも忘れてるんですけど
そういう形でいい先輩だってはあったんだけど
ちょっと口がすごい厳しいさ
だからそういう形で関係がありましたよ
でもやっぱ当時から一目置かれてる学生というか
作品はまだそこまでどうこうじゃなかったけど
やろうとするプロジェクトがいつでも大きかった
特に僕の時じゃないけど
僕の後に「カセタイシューZ」とかやってたでしょ?プロジェクトとか
その前もやっぱり
タミヤモケンの人と組んでやったりとか
いろいろ知ってたし
でもその前の作品も知ってて
神秘的な動物の描写とかもやってたりして
上手な人だって思ってたよ
ただ線はアニメーションっぽい線だなってずっと思ってた
当時からそうなんだ
器用なんだろうなってずっと思ってた
意外な繋がりですよね
今ちょっとその予備校の話が出ましたけど
今この手元に「予備校戦争」ってのがありますけど
これはどういうことですか?
予備校戦争ってのは
僕自身、予備校に約20年近く
予備校の先生が10何年前までやってたんだけど
僕自身はさっきアルバイトでお金を稼がなきゃいけないから
やっぱり予備校の先生が一番効率がいいよね
だけど予備校をやろうとしたって
なかなかできないんだよ
先輩たちの紹介がないと
だから大学1年4月にはもうアルバイトしなきゃいけなかったから
じゃあ何をしたかっていうと
美術手帳の後ろを見て片っ端から電話したの
予備校に?
そしたら一件だけ
これは名前出してはいけないから言えないけど
水道橋の近くにある水道端じゃないですよ
ちっちゃな予備校が反応を示してくれて
そこはじゃあ雇ってあげるから来なさいと
その代わりお金は低いよって言われて
あなたは時給700円ですって言われて
めちゃくちゃ安いんですよね
だけど次の年に800円もらえた
3年になったら900円にしてあげる
4年生になったら1000円にしてあげるって聞いてたら結構いいなって
確かに確かに
僕日本が何人くらいですか?
各科には先生必ず2人くらいずついるからって入ったら
27:04
全科合わせて先生は俺ともう一人だけだった
そして日本がなんて一人もいなかった
全科を教えることなんですよいきなり
デザイン科がほとんどなんだけども
僕自身はデッサンでやり残したことがあると思ってたから
それを教えながら自分でも鍛えながらやってたら
いきなり結構成績が出たんだよね
デザイン科でも教えれば結構しっかりと
合格者が出たので
それを先輩たちが見てて
僕が今、川井塾っていうところなんですけども
のところに推薦してもらって
千里さんがその前の年お辞めになったので
僕が代わりに入った感じだった
千里さんって千里博士さん?
だけどそんなに川井塾大きいですけど
その頃10人ぐらいしかいなくなってて
なかなか日本が厳しかったんですよ
そこに入って呼び込んだ先生になるという
先生になるの大変なんですねそういう風に言うと
そうなの
だけど僕自身は先生にはなったけど
事務系から言われてたのは
いつでもやれるわけじゃないですよ
結果が出せなかったら
次の年はないですっていう
そういうことなんですか
先生として教えてりゃいいんじゃなくて
何人合格者が出るかっていうのが
成績に繋がるということですか
あとは生徒がいなくなったら
それこそ10人しかいないので
生徒がいなくなったら成績が出ても
ダメですよ
マックス何人ぐらいいるもの?
10人なら少ないってのは?
結局その年は14人までは伸びたのかな
途中から入ってきて
だけど成績も出さなきゃいけないし
次の年にも生徒が
入ってこなくちゃいけないので
すごいやっぱり頑張るしかないじゃないですか
その頑張り方が
生徒たちの実力を上げる頑張り方
なんとなくわかるって言ったら
あれかもしれないですけど
生徒を増やす努力って何をするんですか
それもわかんないよね
だからある意味僕自身も
これは合格者を出してみんな
意識してもらうってことしかないし
とにかく頑張って成績を出そうとして
成績を出たんですよその年
それは僕ってよりも
本当は学生さんがすごい優秀だったから
そしてなおかつ直前になってきた時に
なかなか名古屋から東京っていうのは
受けてくれないから
ちょっとレクチャーしてくれないか?
って出張していって
その時に受けたい人を
じゃあ東京で一緒に頑張ろうって
何人かついてきてくれて
地方出張?名古屋に行って
出張授業して
出張授業でやっぱり信頼度を高めて
30:01
そして来てもらって
その代わりすごい責任感があったので
連れてきちゃった以上そうですよね
学部のまだ3年か4年なのに
そうですよね
その時に学生をやってるわけですよね
だからどっちかわかりません
先生なのか学生なのか
だけどすごい頑張って
そうやって少しずつ紡いでったの
だから村上さんは予備校の先生
ライバルでしたし
一番はやっぱり大手の予備校があったので
水道バタっていうね
その中でやってたという予備校戦争
っていうそういうこともあった
でもそれもやりつつ
学生としては先生からまた教わってるわけですよね
その一方でというか本業はそっちだった
結局本業が本当は学生のはずなのに
予備校をやってるっていうことで
じゃあ自分のメリットは何だろうと思った時に
考えたのはやっぱり美術士とかそういうのを含めて
美術をちゃんと考えて
教えることによって
自分自身も勉強しようと思ったから
それができたのが大きかったよね
言い訳できないからね
毎日偉そうなこと言ってると
自分に跳ね返ってくるから
お前これ真剣にやったのか
お前は本当こういうことをしなきゃダメだよ
っていうお前もなっていう
いつも跳ね返ってきて
そうですよね
でもそれで予備校の先生もしつつ
本業の学生の方は結構順当に卒業までいけた
だけどやっぱり作品的には中途半端になってた部分もあったから
それこそ4年の時には
ちゃんとそこはやっぱりカバーしなきゃと思って
いろんなことを調べてっていう形で
とにかく時間がなかったので
いろんな意味で
遅れないというよりも
どうやったら自分への制作時間を
設けられてということを考えるようになりましたね
誰よりもやっぱり早くっていうのは得意だった
そこは変わらないというか
誰よりも遅くっていうので
そこで大学院まで合格することができたんだけど
結構ギリギリでしたね
でもその予備校の先生の方は順調だったんですか?そのまま
順調だったんですけど
やっぱり予備校の先生をやってると
みんなそうなんだけど
途中からやっぱり絵を描く時間を増やしたいから
受験期になった時にすごい一生懸命やらなきゃいけないでしょ
それがしんどくなってくるんだよね
だからやっぱり大学院終わるくらいになると
僕自身はちょっと
もうこうじゃない絵の世界に
行きたいなって思うんだよね
生徒は可愛いんだよ
可愛いっていうよりも
33:00
もう同志なので年齢もそんな遠くないので
やっぱりちょっとこれはなぁと思う時期は来ましたね
でもここには名古屋改革
経代、芸代それでいいのってありますけど
これはどういう風になってくるんですか?
結局僕自身は
やっぱり予備校をもうそろそろやめて
絵に専念しないとっていう勝負をしようと思って
そしてまたいい話が舞い込んできまして
それは豊橋あたりにある美術館で
その管理をしながら絵を描いていってっていう話が来る
すごくそれはありがたい話だし
美術館をやりながらでも
絵に関係しながら絵も描いていって
夢のような話じゃない?
そして僕はもうそれに決めて
予備校を辞めますっていうことで言うのね
辞めたつもりだったし
辞めたわけ、本当に
そしたらその後に
施設美術館だったので
相続のことがあるから
一族の方もあんまりそこは
承諾をされてなくて
ちょっと揉め気味だったところもあって
いろんなことがあった結果
やっぱりその美術館に行けなくなっちゃった
準備までしてて
全てOKだったはずだったんだけど
当然、拠点も東京からそっちに移すつもりということでね
愛知県とは
本当はそこで絵をやりながら
僕は豊橋で一生その美術館とともに
画家となるんだっていう
覚悟もしたのに
しました
シミュレーションまでして
そこでこうやってこういう絵描きになるんだと思って
行ったらやっぱりそう簡単じゃなかった
施設美術館とかだと
財産のことがいろいろあったからね
それでやっぱり
宙に浮いてそれをやめたってなった時に
あれもうどうしよう
仕事もしてないし
でももうその時に結婚してたんですよ
だからこれどうすればいいだろうって思った時に
声かけられたの
名古屋から
それは名古屋に東京でやったノウハウを
名古屋でやってくれないかって
名古屋の予備校から
名古屋の河合塾の本校から
それはやっぱり予備校として
愛知の方にばっかり目を向いてるけど
東京の方面も受ける人いるけど
ほとんどその頃は結果が出てなかったんだよね
だからなんとか東京芸大に受からせてほしいということで
それでオファーが来るんですよ
で、よし!って思って
やめたはずなのに
よしもう一度だ!って思って
行くんですよ
36:00
今度は10人じゃないですよ
もう50人はいました
真剣に教えました
みんなでも先生たちはね
東京ノウハウは知らない
地方の
愛知県議のあれだからちょっと傾向が違って
頑張ってたんだけど
空回りしちゃったね
やる気に満ち溢れすぎてというか
今から考えるとその頃の太郎生とか含めて
そこまで頑張りたいけど
そんな東京のノウハウで頑張りたいわけじゃないって子も多かったの
地方だよ
地方独特の空気があるから
その中でどこか空回りしてることが分かってきて
だんだん僕自身が除外されてることも分かってきて
これは東京のノウハウを教えればいいと思ってたけど
どうも違うらしいっていう風に思うようになってきて
そしたら生徒が少し反発を起こして
なんか僕自身も何かこういずれ合い空気になって
やめようかなっていう風に思ったんだけど
でも何とか踏ん張ってっていう時に
結局結果が全く出ず
そこの生徒から
どうしようもないなっていう部分で
考えなきゃいけなくなった
その時に思いついたことが
実は「あ、そうか、絵の原点に戻ろう」と思って
絵の原点はデッサンじゃなくてスケッチだっていう風に思い始める
そこがね、また予備校の
戦争って書いてあったけど
やっぱりまたね、ある意味新しい一つを作ろうと思う
それが今の実は川井塾の礎にもなるんだけど
それはどうやったら絵と繋がるような
デッサンとかそういう教育に繋がるかっていうことを研究し始める
結局東京のやってたことをそのままやるんじゃなくて
地方の人たちもやりたくなる
東京芸大にも合格するっていう方法があるんじゃないかって
始めた時に共通点はスケッチだったのね
デッサンじゃなくて
だから日頃からこういうドローイング
つまりスケッチを欠かさないっていうのは
どの予備校もやれないんだよ
対策と合理性だけだから
それを日常的にするっていうので
スケッチをこうやって毎日のようにやるっていうのを
生徒を使ってそれをやってくれっていうのは
自らやらなきゃダメだね
自らそれをやり始める
実践するんですね
それがそういうスケッチを
このスケッチ群のスケッチがたくさんありますよね
39:04
こういうスケッチをいつでもするっていうことを
みんなで絵で話そうっていうので
僕もやるからみんなもやろうねみたいな
それは何を描いてもいいんですか?
何を描いてもいいし
なおかつルールを作ったのは
何を描いてもいいけど
形が正確である必要がない
要は絵と友達になって絵で話すことができればいい
そのためには神経を使って描くんじゃなくて
落書きをしようっていう
それがドローイングだし
大竹慎三さんとかも含めて
油ではよくあることなんですけど
絵を友達にして
自分の考えをそのまま
インプットしたことをすぐにアウトプットして
記録として取得っていうところをずっとやると
活性化するんですよ
その中から出てきたそういうもので
面白いもののデフォルメとか
カップラーメンとか
カップヌードル描いたものがあったり
あとはスケッチから色面の
そういうね
色面が改造していったりとか
そういうことをいっぱいやり始めるんですよ
僕自身が
スケッチをいろんな
好評の時とかも絶対手を離さないようにして
いつでも鉛筆を持った状態
好評やってる時も
そういうことをずっとやり続けて
みんな生徒も先生たちも
「西さんはいつでも描いてるんだ」っていう話に
その状態にするんです
これは小磯良平先生がそうだったそうです
小磯良平先生は
「線は1日描かないで1週間もどる」
ぐらいで言われてて
線っていうものに対して
もっと大事にしようっていうところで
それをやり始めるんです
気になったところ
それを学生をやると
学生も若いので
すごく楽しんでやれるようになる
それを元にしながら
受験のデッサンもやっていく
絵を描くってことは楽しいっていう感覚を
もっとそれを広めていくって感じを
やってたんです
ちなみにこのデッサンは今もされてるんですか?
今もやります
ただ前よりは少なくなったかな
本を描くようになって
でもそういった意味では
こういう柔らかさは今はないですけど
でもドローイングをどんどんやっていくと
感覚が動いただけでも
再現できるようにはなってます
今はその状態ではあるけども
でもそういった意味で
線は本当
絵は線で始まるって誰かも言ってたけども
そのことを実践したのが
その時期なの
その意識で芸大に向かってたの
結構それでもセット達も変わってきたし
42:02
だから必要以上に描くようになったりとか
必要以上に感じたものを出せるようになったりとか
なるほど
だから合理性だけじゃなくて
感覚ってものを入れる人が多くなってきた
そこで芸大な厚い扉が
名古屋からの扉が開いた
じゃあある時やっぱり話題になったんですか?
やたらと名古屋
川井塾名古屋港からの
東京からも来るようになりました
名古屋にわざわざ日本が出る
だからそこが最短ルートじゃないけども
ここに行けばみたいな
上昇港になったってことですか?
そこに持って行けたの
だからその時はいろいろ話し合って
例えば石膏絶賛とかでも
今までの稽古はこういう稽古だ
そうじゃないことをやろうよって
もっと正直にやろうよとか
そういう運動を
もちろん僕だけがやってるじゃないですか
みんな講師もやってくれて
そういった意味で作り上げて
大手のすごい予備校に対抗できるところまで
今もそうなってきてるっていうところがあって
なんか沙耶ちゃんが急にドラゴン桜みたいな話してる
このドラはどこに向かっていくんだろうみたいな
わかんないじゃん
何をやってるかわかんないじゃん
急な展開になっちゃう
すごい話
ここで13番なんですけど
ここが僕が一番気になってるんですけど
朝の画家 斉藤正樹の崩壊
妻は悪くない…
妻からの引導
急にまたテイストが変わりますけども
これまではさっきもチラッと出てましたけど
斉藤正樹さん
そうなんです
斉藤正樹として活動してた
だから僕自身はそこまでは
実はあんまり絵の話してないですけど
抽象的な作家だったんですよ
実はってこと
実は
だから金白と黒だけになったりとか
色を使わないとか
でもスケッチをやることによってどんどん変わってはいたけど
絵には反映されなかった
今皆さんがイメージするいわゆる再三の絵とは違うってことですよね
この頃までは
だからいろんな意味で知識的な男もありましたし
そういった意味では
最初の頃の絵でもわかるように
ここには見えないかな
抽象的な画家でもあったし
そしてどんどんそこがやる時間がなかったので
朝の本当に1時間とかをやって
呼び込みとかそういうような繰り返しをしてて
それでも悪くない絵ではあったけど
なかなか人には伝わらなかったから
それも時代も公募展系か何かっていう時代だったので
その中ではあまり通用しなかったんですよね
講師としては一流でもみたいな
こっちの方があったことだった
でも奥さんから引導されちゃうってことですか
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結局うちの上さんは
呼び込字で書いた一緒の画家なので
今は絵は描かなくなりましたけども
でも一緒に公募展とか展覧会出すと
僕のはわかりづらいし
彼女は変わってるんだけど
賞とか取ったりするんですよ
一番だからひどいのは
自分と上さんが一緒に出した時に
いわゆる郵便ポストに
僕の動画で一緒に入ってるんですよ結果が
彼女は封筒が入ってるんですよ
くれた封筒が
その前にはハガキ一枚があったんですよ
見る前に
なるほど
結局それがあって
自分の中でも
あれこれ俺
絵はもう限界なのかなって思いながら
画家としてのってこと
それでちょっとやっぱり
もう呼び込もこれでしっかりやってきたし
まあこれがこれで
もう自分の人生として
やっぱり絵じゃなくて
先生でもいいかもなって思い始めてたのね
そして
もうじゃあスケッチもやってきたけど
でも自分の絵とも随分違うしと思って
そしたら
なんかちょっと旅行でもしようかなと思って
普段だったら絵を短い時間で描いてるんだけど
旅行しようかなと思って
合図の方に行ったら
地元という
そうそうそう
あまりにも自分が今まで見て普通だったのに
土造が綺麗に見えたり
多分自分がやってきたドローイングが
完成が別な完成になって
花開いちゃったんだと思うんだよ
何もかも美しいの
あれ?俺いろんな絵作ってきたけど
素直に描けばそれだけでよかった
この感激を描けばよかっただけで
なおかつそれをやりたくて
画家になったと思ったのに
俺なんか違うことやってたって気づいちゃう
それでこれ最後に
普通の絵描こうかなって
もう抽象の絵
頭でっかちなと言ったらいいかもしれないけど
それで
なんかこれって本当に短い時間だけども
これで自分の中で描けるんじゃないかな
自分なりに描いてみようと思って
その美しさが表現できるように
フォルム形も
自分のドローイングでやったフォルムの
少しだけの遊びもできるようになってるから
それとともに描いたら
あまりにもいい絵だったもんね
自分で言うものを感じるくらいだった
これ絶対賞取るよなって
前の芸大のチャボと同じなんだよ
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そしたらやっぱり取れるんだよね
いきなりだから
でもその絵を描いた時に
いきなり斉藤正樹がそのままではって思って
作風ちょっと全然違いすぎるから
神さんにもよくそれで言われてたのが
生命判断で言うと
斉藤正樹は格数多いけど
すごく苦労するけど絶対報われないんだって
最初から答えは出てたんですか?
この斉名前だったの
だからもう斉正樹
いいじゃないって
斉正樹になって画風も変わって
急激に全てが変わって
再デビューなんです
再デビュー?
そういう意味だ
かかってるんですね
これは何歳の時になるんですか?
これが33かな?
へー
ちなみにその絵をショートって絵は
倉を描いた?何を描いた?
倉を描いて
倉とやるの絵を描いたんですけど
今見るとそこまで強くない絵なんだけども
でも何か降臨してた感じがする
素直になったなっていう感じ
だからそれが人の心を引きつけるっていう部分は
こういうことなんだったら
僕自身が自分の絵で勉強になった
それがねそういうことなの
その斉正樹の誕生っていうのは
決めくれ者から素直な人へなって
結局2年間の筋トレっていうのは
そういうことなの
ドローイングしかやらない時に生まれた
線が教えてくれた色なんだよね
なるほど
実は色を研究するよりも
線ってすごいじゃない
元々バルールって言葉よく画家は使うけど
バルールって色の価値じゃない?
あれはよくね
マチスもやったように
フォルムと色のすごいバランスの価値によって
個性を出せる
そのものと一緒の
だから色だけじゃダメだし
そっか線なの
その呼吸がね触れることができた
多分それをこの後出てくるけど
イチイさんがお前何か感じたなっていう
個性に出てくるんだけども
これは何と次回
もう1回この番組は行きますそうですね
まだ聞きたいですけど
ついにサイちゃん誕生したわけですね
この後どうなっていくのかというのは
番組史上初3回目の前編後編の後の特別編ですかね
行きますということでございます
この先も皆さんお楽しみに
はいということでまさかの延長戦でございます
51:00
次回もサイさんのお話をお聞きしたいと思います
51:44

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