1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #113 そんなこと人生で考える..
2023-05-24 34:44

#113 そんなこと人生で考える?フッサールの鋭すぎる問題意識

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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フッサール現象学の背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は、フッサール現象学の2回目ということで、前回はフッサールの人生、どんな感じというところを見てきたんですけれども、今回からその中身について見ていきたいと思います。
はい、そうですね。やっぱり現象学って、もちろんその手前というか、それまで考えてきた人たちのものを引き継いではいるんですけど、やっぱり結構新しいものの見方とか考え方ではあるんですよね。
はいはい。
逆に言うと、なんでそれが生み出されなきゃいけなかったのかとか、フッサールはそういうことを考えなきゃいけなかったのかみたいな、それが前回お伝えした学問とか科学の土台とか基盤って何よ、みたいな問いがあったので、そこについて少し深掘りをしながらお伝えしていきたいなというふうに思っています。
はいはいはい。
で、ちょっとこれはさ、少しその話に入る前に雑談的な感じになっちゃうんだけどさ、お兄さんってその科学、いわゆる自然科学とか学問の歴史とか、いわゆる科学史みたいなものとか、最新の科学みたいなのって興味あったりする?
うーん、ないね。
ないか、ないね。
哲学と同じくらい興味ない?
哲学、まあそうだね。
うん。
あの、ほら、前ニュートン買って読んだみたいな話はしたんだけど、
確かに読めば面白いんだけど、
うん。
じゃあ毎月ニュートン買って読んでるかって言われたら読んでない。
はいはいはい。
まあそうだね。
そうだね。
数学的な自然科学と理系的な学問
なんかちょっとこれは構想としてなんだけど、近いうちにちょっと科学、いわゆるアインシュタイン以降の物理学とかについて扱う回を1、2回やりたいなって思ってるんですよ。
ああ、そうなんだ。
で、やっぱりその哲学の流れと科学の流れというか、前回もともとは全部哲学だったよみたいな、
でももともとデカルトも数学者だったというかだったし、
今日ちょっと話すんですけど、ガリレオガリレイの話から今日やるんだけど、
ガリレオもやっぱりガリレオガリレイももともとは哲学をやる中で、そういう天文学的なことだったりとか物理的なこととか科学のことをやってたんだよね。
はいはいはい。
やっぱりその科学が進むと哲学的な発想も発展するとか、哲学をやる中でやっぱり科学が発展するみたいなことって結構切っても切り離さない部分があるので、
あとやっぱり科学ってさ、結構高校ぐらいで、特に僕らみたいな文系の人間ってさ、知見が止まってるじゃないですか。
そうだね。
そうするといわゆる原子とか分子みたいな話もだいぶ古いモデルで止まってるんだよね、実は。
まあそうだね、止まってるって言ってくれればいいけど、もう忘れてるからね、無だよ無。
無くしろね。
残ってないから。
消え去ってる。
そうそうそう、止まるどころから。
確かに。
それはそれですごくもったいないというか、やっぱりその科学的なものの見方とか、哲学的にある存在するとは何だとか正しいって何よとかって言ったりしてるけど、やっぱりそれも科学的な観点が入ってくることでよりブラッシュアップされたりとか、
ものの見方とかがさらに広がるみたいな話もあるなと思ってて。
僕はもちろん哲学以上に科学とか物理学のことはわからないんだけど、やっぱり物理学者の中でもそういう物理学がわかりやすく伝えようとか、数式を使わずにできるだけ噛み砕いて教えてあげましょうみたいな本を出してる方もいらっしゃったりするので、
そういうのの解説ぐらいができるかなと思う、解説というかそれを引っ張ってきても反するぐらいできるかなと思ってて。
哲学とも聞いては聞けないというか、批判しないと。
兄貴が興味ないことはわかったので、逆にそれを持ってきて、兄貴に興味をまた科学についても持ってもらおうという回もやりたいなと思いました。
興味がないというかアンテナがないんだよね。
ごめんね、何回でも言うけど、きちんとアンテナがないっていう。
私聞いたら面白がるからね。どうから入っていいかわからない。そういう方って結構聞いてる方もいらっしゃると思うんですよ。
興味はあるし聞いてみたいけど、自分で何から入っていいかわからないとか、そもそもどうやってそれをある種知っていいかわからないっていう人も多いと思うので。
ありがとうございます。そう言っていただけるとちょっと救われるかな。
そういうのをやっぱり入口になれたらいいなっていうラジオでもあるので、そこもぜひよかったら楽しみだよとかお便りいただけると僕もやりますってなるかなと思ってるんですけど。
今回はアインシュタインやる前の第0回みたいな感じの部分になりそうって感じなのかな?ガリレオから始まって。
そこに繋がるかっていうよりはあくまでこのクッサールを話す中での、いわゆる少し前の物科学というか、自然科学の流れみたいなところを少しおさらいというか拾ってみようかなっていう感じですね。
あんまり深入りはしないんだけど、さっき言った通りガリレオ・ガリレイさんですね。この人は1564年生まれたので、クッサールの時代からしても300年ほど前なので、いわゆる歴史上の人ですと。
彼からいわゆる近代科学が始まったっていうふうに言われてるようなんですけど、そのガリレオ・ガリレイさんの言葉に、自然という書物は数学によってしか読まれないというものがあるらしく、自然は数学的な理解をするものなんだみたいな話があるんですよね。
これが実は現在に直接的につながっていく、数学的な自然科学とか、その数式で表すべき自然科学とか、いわゆる理系的な学問だみたいな話だね。今の多分日本で言うと。
自然科学の流れと価値観
文系的には、それこそ兄貴だったら経済学とかも、数学とかやっぱり数式を使わないとよくないんじゃないかとかっていう話あると思うんですけど、やっぱりなんとなく数学を使ったほうが学問的に上というか偉いとか、やっぱりその数学を使って世の中、自然科学だけじゃなくて社会科学とかも基づけるのだみたいな話ってやっぱりあると思うんですよ。
あるある。ほらビジネス書でも結構あるじゃん。数字が9割みたいな本が結構出てるし、統計学の本とかもね。やっぱ大事なんだろうね。だろうねっていうか大事だからね、実際ね。
そうそうそう。それはそうなんだけど、やっぱり実はそれも自明のことではないんですよ。ちゃんと歴史があるんですよと。
なるほどね。数字で言われたから正しいでしょうとか、根拠がちょっと強いよっていうのも、本当にそうなのっていうのは確かに考えたことないかも。
そうそうそう。なんとなくやっぱそれを無条件というか前提として受け取っちゃうんだけど、実はそうじゃないよねっていう話をしてて。かつそれは数字だけじゃなくて、いわゆるガレオガレの自然科学というのは、いわゆる測定の時代。
要は測るとか、基準を作ってそれに当てはめていくっていうような時代なんだよね。それこそ望遠鏡を作って木星の衛星を発見したみたいな話は象徴的だと思うんだけど、やっぱり何かを見るための技術とか、
測量のツールが発展することによって、自然科学っていうのは発展していって、それがさらにいわゆる自然の真理とか、本当の姿を見ていくことを発見することにつながるんだみたいな。
結構そういうものってあるじゃん、ひとつなぎに出てくるものなんだよね。そういう風にフルスワイルドを考えるんだよね。実際それもあるでしょう。例えば最近も天文学とか好きな方だったら、それこそブラックホールの撮影に成功したぞとか、
まずは素粒子とか、もし興味ある方だと原子とかをぐるぐる高速で回して、リニアコラーダーみたいなやつでガンってぶつけると、そういったものが出てきて実際に観測できるみたいなものがやっぱり想像として出てきていることで、
やっぱり我々人類っていうのは、いわゆる理論としての素粒子だけじゃなくて、ちゃんと原子に観測したぞとか、その存在を発見したぞみたいな、そういうことが言えるようになってくるわけだよね。
そっか、観測。頭で考えるだけじゃなくて、そういう観測っていうのは切っても切れないというか、こればっかり言ってるんだ。すごい大事なんだね。
大事。やっぱり今ブラックホールを観測したみたいに言ったけど、実はブラックホールもそもそもあるのか、ブラックホールがあるってどういうことだみたいな話ってまだまだあるみたいなんだよね。
一応そういうブラックホールがもし存在するとしたら、こういう事象とか現象とか、写真が撮れそうだよねみたいなところが実際に撮れたみたいなことがあって、
これはじゃあブラックホールがほぼあると言っていいんじゃなかろうか、みたいなことを現代物理学ではやってますと。
なるほどね。なんかあれだよね、ブラックホールみたいなものがないと説明しえない挙動をする星とか宇宙の物質があるみたいな感じなのかな?わかんないけどね。
そういうことだからそうなんだよね。みたいな話も面白いので、科学の話もまたしようと思ってるんですけど。
だからそういう、いわゆる自然科学、近代自然科学っていうのは、やっぱり数式とか観測とか測定とかっていうそういうところがごちゃっとセットになっているよっていうところが大きな流れですと。
これがね、更に言わせれば2つの価値観、まさに人間のそういうものの見方とか価値観とかに結びつくんだって話をしてて。
主観的な経験と客観的な真理
1つは、いわゆる主観的な、いわゆる個人の経験が客観的な、だからみんなの真理になっていくっていうことなんだと。
どういうことかっていうと、これ大学とかで聞いた方もおられるかもしれないんですけど、今の自然科学とか科学で重要な要素の1つに、いわゆる再現可能性っていうのがあって、
誰がいつどこであっても再現できない、同じ結果にならないと、それはある種真理とは認めませんよっていうのがありますと。
これって僕も聞いたときに、そりゃそうだよねって思ったんだけど、更にはすると、これってつまり、ある人個人の経験っていうのをきちんと測定して正しく積み重ねていけば、
それが客観的な真理になるっていうプロセスを認めましょうっていうことだっていうふうに言うのね。
おー、なるほど。
そう。
同じなんだね、観測。それをただ人間がやってるっていう話で。
そう、ただ人間がやっていて、それは手続きとしてそれをOKとしましょうって話を立てたよねっていう。
あくまでそれも1つの世界観というか、約束事の中での話だよね。
でもそれが、いわゆる真理とか客観性につながるっていうふうな価値観につながっていくよねって話をまず1個目でするんだよね。
なるほど、なるほど。はいはいはい。
あともう1つが、いわゆる正確な測定をどんどん繰り返していくことで、正しさとか自然の真理に近づくっていうふうな発想じゃないですか。
もっと言うと、どんどんどんどん精度を上げていって、いい機械を作るとか、測定の方法を思いつくと、それが真理に近づいていくことだって話なんだけど。
これってつまりどういうことかっていうと、真理っていうのは、それ実はよくわかんないんだけど、
どっか多分遠いところにあるんでしょう。いや、今わかんないんだから多分遠くにあるんだけど、そこに一歩一歩近づいていく営みが行えるんだっていう価値観につながるって話なんだよね。
これも価値観でしかないっていうことをフッサラは言うのよ。
価値観なんだね。
要はもっと前は、例えば哲学的な真理っていうのは直感で捉えられるんだとか、
あとそれこそ前回の臨済とか前習のような、そもそも統合と前後みたいなのがあったときに一瞬で悟れるとか、本質は一瞬で理解することができる。
要は一歩一歩近づくものじゃないみたいな発想もそれはそれであるんだよね。
フッサールと直接経験
だからその着実に積み重ねていって真理に倒りつけましょうっていうのも、やっぱり一個の価値観でそれはある種相対化できる。
真理って相対化できるのとはやっぱり批判できる。
感がそれについて考えられるよねっていうこともフッサラは言うんだよね。
すごいね、だって今の二つの説明を聞いて思ったのは、それに対して批判しようっていうことは全く思わない。
いや思わないでしょ。
どっちもその通りですってしか言えない。
当たり前じゃん、一歩一歩積み重ねていって正しいものに倒りつくまでって、あまりにも僕らの常識というか人生観に含まれてるから、
それを疑わないし、やっぱり普通に一歩一歩努力しようよとか頑張ろうよとか、そしたらいいとこに倒りつけようみたいなことを普通に言っちゃうじゃない。
言っちゃう、これを頼むのか。だって今も見て思ったのは、いろんな科学の実験を知らないけど、誰がいつどこでやっても同じ結果になりますってことは真理に近いでしょうと。
まず現段階では、ある意味その仮説、一番有効性の高い仮説にすぎないみたいなものは後半にあった測定だよね。
測定技術の進歩によってそこが覆る可能性はあるよねっていうところも踏まえての仮説だと思うんだけど、
この2つを並べられちゃうとどっちもそうじゃん。その結果、例えば顕微鏡が開発されたから病原菌、細菌とかウイルスが見えるようになったってのも、見えないときから多分想像してたはずなんだよね。
何らかの悪いものがあって、呪いとかじゃなくて、ちゃんと何かあって映るはずだみたいなのを想像してた人がいて、それが多分顕微鏡とかが開発されて、ほらね、こいつだよみたいな。
で、それは死にですって、そうだそうだ以上みたいな感じだけど、ふっさる何があったの?
やっぱりそれは基礎付けされてないよねっていう直感というか、やっぱりアンテナが立ったんだろうね。
やっぱりそれは、通訳とか物理学の発想ってある程度強固なので、別にふっさるも通訳とか物理学っていうのはクソだとか、そんなものは正しくないっていうことは別に言わないのよ。
そうじゃなくて、なぜ正しいと言えるのか?やっぱり前回お伝えした通り、ふっさるは元々通訳にすごい火入れていて、実際大学でも通訳をやっていたぐらいだから、めちゃめちゃ通訳に関しては得意というか、しっかり学んでるわけだよね。
だからこそ、どんどんどんどん、例えば通訳とかになると抽象的な領域に行ってしまうというか、理性とか客観とか心理みたいな、そういう方に行きがちなんだけど、そうじゃなくて、もっと具体的なところからそれを考えてみませんかっていうところにある種シフトしていたというか、そういう発想をしたというのが画的なんですよね。
それが前回言ったような生活、生活世界という言葉で表すもので、もちろん生活世界が何かみたいなことはまた次ちゃんと話していくんですけど、そこに対してふっさるは直接経験みたいな言葉を使っていて、理性とかで抽象的に考えるんじゃなくて、直接経験することが大事なんだと。
でも直接経験をするってめちゃめちゃ難しいよって話を次回以降ちゃんとしていくんですけど、ある種手続きがいる。何かを直接経験すればなってばということは、ふっさるが見出したことですと。だから僕らはふっさるに言わせれば、直接物事を経験しないまま世界に生きているのよ。
そうなんだね。ちょっと背も横出てきて、どんどん世界観がわかんなくなってきたと思う。
ちょっとやっぱり西洋哲学っぽさがにじみ出てきたでしょ。
っぽさが出てきたね。
普通にやるとこれこれみたいな感じになると思うんですけど、そんなことがありました。
ただ別にこれはふっさるだけが考えていた問題っていうわけじゃなくて、科学とかもちろん人が何かを考えるとかってどうやって正当性があるのか、正しさを基礎づけるのかっていうのは、例えば前回取り上げたカントとかも考えたことですと。
アポステリオリとかアプリオリとかっていう話をその当時したと思うんですけど、やっぱりそういうもともと先見的な、経験に先立ってあるものから物事を捉えよう、それが物事を知るとか、その先見性っていうのが物事の基礎になるよねみたいな話とかがあって、
それも何かを基礎づけるとか物事の正しさを何から見出していくかっていうところが大きな流れではあるんだよね。
人間の認識レベルだったりとかでもそういうアプローチはされてたってことか。
なので逆にフルスタイルはそういうことを踏まえつつ、カントとかそういう人を批判して乗り越えようと、いろいろところで考えていくっていうのがフルスタイルだったり、哲学だったり現象学です。
ただこれってやっぱり前回も最初なんですけど、今の段階ではすごい奇妙な話に感じると思うんだよね。
奇妙、そうだね。すごい着眼点だなと思うけど、そのすごさもなんとなく分かる気がするけど。
科学と直接経験
すごいなーとは思いつつも、でも科学ってさ、やっぱり経験っていうよりむしろ経験に収まらない分析とか論理とか、発想とかで作っていくものだって思うと、
別にそんな経験とか直接経験から科学は生まれてないよみたいなこととか、むしろそういうのを排除するのが正しい科学じゃないっていう風に思う方も多いんじゃないかと思うんですよね。
僕は普通にそう思ったらやっぱりするんですよね。なんか普通のというか一般的な感覚からすると。
個別の経験みたいなものはむしろいらないみたいな。
そういうのはむしろ捨てられて人間はモデル化されて、それこそ経済学でもさ、いわゆるホームエコノミクスみたいな経済人で、
人っていうのが仮に利益の最大化、自分の利益の最大化っていうものを目的としたらこういう風になるよねみたいな、やっぱりそういう風に組み立てられてる経済学があって、
それは乗り越えようとするようなものもあると思うんですけど、やっぱりそっちが王道とか主流ではねって思ったりしますと。
あとね、僕がそれこそ大学でやってた心理学でも、個人の経験とか心みたいなものよりは、
それを統計的に、要は何千人とか10人とかもあったりするんですけど、そういう多くの人を捉えた結果、統計的にこうですよとか、
全体としてこう言えますよみたいな話が主流だったりもしていて、
なのでやっぱり個人の経験とかってよりは、まさに分析とか統計とか数字とかデータっていうものがやっぱり大事にされるのが科学じゃないっていう風に、やっぱり普通に思うと考えるかなって思うんですよね。
なるほどなるほど。
そうそうそう。なので、いわゆる風されがやりたいのは、ちょっと繰り返しになっちゃうんだけど、
やっぱり一個一個の学問とかってよりは、そもそもあらゆる学問とか科学とか全てのそういう営みっていうのは、
何を基盤に成立するのかっていう、やっぱりすごい大きな問題というかテーマを取り組んでるんですよね。
すごいよね。なかなかないかもしれないけど、どの時点でどういう違和感をどういう経験をもって感じたのかは、ぜひ聞いてみたいけどね。
そういうのはね、多分探したらあるんだろうなと思うんですけど。
でも確かに今、駿は言ってたね、心理学やってた時に、個人の経験というよりは統計的な、確かにあそこに違和感みたいなものも、
それを学ぶ人の目的意識によっては、これこそそうだと思う人もいるだろうし、
駿みたいにね、ちょっとあまり個っていうものをないがしろにしてる部分があるというか、結局わからないんじゃないかみたいな、
自分が知りたい本質、ちょっと違う別の本質だったり価値観というか、部分に向かってるんじゃないかっていう違和感は確かにすごいありそうだよね。
さっきの経済学とかでも思ったことがあるけど、経済学って誰のための学問なのかなって思ったタイミングがあって、
さっき言ったように利益の最大化、合理的に人は動くみたいなものを前提にモデルというのを作られてるから、
全然人がどう生きていくかとか、人がどういうふうに物事を経営していくかというところには答えにはならないなと思ったことがあるけど、
フッサールによるチームスポーツ理論の提示
一方で国とか国家レベルとか、ある程度集団レベルでいくと、とても有用な学問なんだよね。
個人の顔を消して、傾向というものである程度動かせる規模であれば。
そういうのがあるんだけど、このフッサルが違うのはさ、そういうレベルじゃないよねっていうね。
ところが今回そのフッサルの着眼点の異常さがちょっと今回は分かった気がするね。
そう、やっぱり異常は普通に聞いてて、こういうふうに問いを立てる人っていない。
だからこそフッサルがその歴史上残ってちゃんと現象を描くっていうのは、本当に新たな一個の領域を作ったっていうことに繋がっているからっていう、
ある種ニワトリ多忙的なところもあるんですけど。
やっぱり前回の最後でもお話しさせていただいたんですけど、やっぱりこれを知った時に、なんでやべえ奴がいたんだみたいな。
こんなことを考えた人がいたのかみたいな驚きもあったんだよね。
だからやっぱりすごく面白い。やっぱりこういう物事を考えてすごいなって思って、のめり込んでいったっていうのはあるんですけど。
やっぱりさっきちょっとお伝えした直接経験とか生活世界みたいな話をした時に、本当に勘のいい方はある種モヤモヤと頭にゆかんでると思うんですけど、
結局それって何なのっていう話ですよね。直接経験って言ってるけど、それって何を結局言ってるのみたいなところがあって。
直接経験するって言うんだから、何かを直接見るとか聞くとか触るとか、そういうことなんでなかろうかとか思いつくと思うんですけど、
でもそれって普段やってるじゃないですか。さっき僕はちょっと先取りして、フッサルが言うような意味では僕らは経験しないとかって言っちゃいましたけど、
でもみんな経験してるじゃんと。
そうだね。どこまでも経験って言うんだろうなーみたいなのはね、なんか想像しちゃうけど。
っていうのを、まさにフッサルは君ら違うんだぞと。私が言ってる経験ってのはこういうことなんだぞっていうのをちゃんと示しているので、
それを次回以降しっかりお伝えしていきたいというのが今回の流れでございますと。
なるほど、なかなかあれだね。もったいぶるね。
ちょっとね、重たいのはやっぱり次だからね、それこそちょっと先取りすると、前回もお伝えしたかな?
それこそエポケみたいな言葉があって、日本語に訳すと判断停止とか判断保留とかって言われたりするんですけど、
こういう言葉がポンポン出てきたりとか、やっぱりそういう言葉を使わないとなかなか説明できない部分もあったりして、
判断保留とかって言った時に、何をそもそも保留するのとか判断と何よっていう、そういうことが続いていくのよね。
ここからね。
ここから。
この先。
この先、判断とはこういうことで、それを保留するとこういうことで、そうなると世界というのはこう見えるっていうのを一個一個説明していこうと思うと、
結構ね、やっぱりこっちも駅切れするというか、ちゃんと一個区切ってそこにグッと入り込まないと、ちょっと押さえつけられないなと思って。
なるほどなるほど。
じゃあ今回まではフッサールを語る上での土台作りだったりとか、そもそも何をやった人なのかっていうところを、準備段階というか準備運動とかですね。
そうです。やっぱり前回リンザイで割とふわっとトヨタの話をしてたので、少しずつちょっと西洋、チックに西洋ナイズした方に寄せるイメージでも、
少し前回と今回はそういう話から入らせていただいて、それは自分自身のためもありながらやらせていただいている感じでございます。
了解しました。なるほどね。
ちょっと次回怖くなってきたな。
まあでもね、分からなさとかね、ちょっと難しさ楽しむっていうところを気持ちとしては持ちながら話し切っているだけだと思うんですけど、
やっぱりフッサルを理解するとすごく上からというか強気な発言ですけど、
フッサールの問題意識の紹介
自分が理解した上で大事だなと思っているのは、いわゆる物事を考えるとか、何か世界の真実とか真理を求めようみたいな時に、
それがやっぱり、ずっと主観と客観とか主体と客体みたいな話をしてるじゃないですか。
それがやっぱり客観的な方にあるとか、その客観性を突き詰めていって理性の力で真理を得ようみたいなことじゃなくて、
どっちかというと自分自身の具体的な経験とか、そもそも自分と世界がどう関係しているかっていうところにある種発想を転換するというところは結構大事だと思ってるんですよね。
なるほど。今回、禅の話だっけか。
違う、禅ではないんだよ。
ちょっと近い感覚があった。
禅の流れに近く見えるんだけど、本当は全然違うんだよね。
全然違うんだけど、なんとなくそういう主観が大事とか、その主観ってのは何かっていうのはもちろん全然違うんだけど。
今の面白そう。そういうのを感じるというか、あるよね。
かつそれが大事だというだけじゃなくて、それがちゃんと学問に繋がっているんだとか、世の中の構造に繋がっているんだとか、
あるいは他者とか他人とか、そもそも世界とは何かとかってそこまで繋がっているっていうのを言うよね。
そうなんだ。
そう。やっぱりそういった深さもあるお話なので、ぜひそこもしっかりお伝えしながら、
今回でいる直接経験って何よとか、前回の生活世界って何よみたいなところを次回以降本格的に見ていきたいというのがここまでの話でございました。
了解ですね。準備体操終わりということで、次回からちょっと気合い入れて聞いていきたいと思います。
それってドキドキしたいかもしれないですけど、別に難しい話をいきなりしたいわけではなく、
これ最後雑談っぽくなっちゃうけど、最近Twitterとかちょこちょこ見させていただくんですけど、
やっぱりちょっと難しくなってきるよねとか、みたいな言葉ちょっと見ることがあるんですよ。
それは言ってしょうがない部分もあるかなとは思う。しょうがないっていうのは、
自分がちゃんと理解してきてないから話し切れてないっていう部分もあるとは思うつつ、
やっぱり慣れるべくそこまでちゃんとお伝えしていきたいとか、難しさを解きたいというか、
ドキドキしたい家は公園みたいな場所にしたいって言ってるんですが、公園にものすごい遊びに行くそうな、
そもそも近寄りに行くそうな遊具があったら嫌じゃないですか。
そんな公園は嫌だみたいになっちゃうんで、そこは意識してる部分もあって、
すみません、ちょっと慎重になってるのもあるかもしれないです。
ああ、なるほど。
遊具って遊び方のわからない、驚かしい遊具があるんだけど、
その前にちゃんと盾看板を立てておきましたみたいな話。
そうそう、盾看板を立てておきましたし、
でもやっぱりちょっと近づいてみたくなるよねみたいなところはちゃんと担保したいみたいなね。
遊具ってこの時にはこういう意味があってね、ここに足をかければこういうふうにできるよみたいな、
その遊具のおどろおどろしさはやっぱり変わらないんだけど、
なんとかそれを遊べるというか、
そう、とっつけやすくするとか、
そこは変わらないよと。
そう、ちょっと色をポップにして見た目だけでも少し柔らかくするとか、
そういうのはやっぱりあるじゃないですか。
なるほどね。
そこは変わらないよと。
どうしても内容的には難しいところはあるけどねと。
そうそうそう。
次回以降ちょっと僕も改めて、
頑張って皆さんにお伝えしたいという気持ちでやっていきますので、
皆さんも気軽な気持ちでぜひ聞いていただいて、
一緒に学んでいけたらなというふうに思っておりました。
次回からちょっとまた深みにハマっていくというところで、
引き続きフッサールよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
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