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  2. #171 禅の布教は禁止!逆風の..
2023-12-17 39:38

#171 禅の布教は禁止!逆風のなか禅をメジャーに押し上げた栄西の素顔に迫る

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

永済と道元の関係や禅の広がりについての話を聞いています。永済は比叡山で学び、晩年に禅に出会いました。禅の布教は禁止されていましたが、栄西は禅を広めることを試みました。京都での布教禁止により、栄西は福岡に戻り、お寺を建て、禅の教えを広めようとしましたが、既存の権威から反発を受けました。英才は禅を日本に広めるために権威との交渉に取り組み、組織的な広報活動を行っています。彼の行動は個人の犠牲を伴いましたが、禅を広めるために奮闘した姿勢が評価されています。英才は組織力と統率力を持ちながらも、禅の布教を禁じられるなど逆境の中で活動しています。彼は多くの弟子を育て、禅の布教に尽力しています。

00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き東洋ということで、前回までで一旦浄土経編が終了ということだったんですけれども、今回から禅の方に今度入っていくという話でしたね。
永済と道元の関係
そうですね、はい。まあ、人の名前でいうと永済と道元っていうこの二人をちょっと取り上げたいなと思っておりますと。
はい、聞いたことある、覚えてる永済、道元とか。
ああ、そうだね、禅のなんか相当宗とかだけか。
そうそうそう、相当宗が道元。
永済が臨済宗だけかな。
臨済宗。
うんうんうん。
です、そうそう。で、あと日本ではね、なんか流れとして大牧宗っていう流れも禅ではあるらしいんだけど、まあそれはちょっとまたね、別の流れらしくって。
一応この永済イコール臨済宗、まあ道元イコール相当宗みたいな。
やつがね、それこそ教科書とかでもやるやつですね。
で、まあ今回はね、基本的にその、何だろうな、それぞれの人をまあ2回分ぐらい、ちょっともしかしたら道元3回とかになるかもしんないんですけど。
まあ取り上げて、そのまあ鎌倉のこの時代に、まあ浄土経がね、さてこう法然、神乱一変みたいな感じで、まあいろいろこう広がったりとかね、あのなんだろうな、それぞれの教えが何だろう、深まっていったみたいな。
まあ話と同じ感じでこう取り上げてみたいな、なんていう感じで。
はい。
はいはい、禅はあれだよね、あの前シリーズで1回取り上げて、あの何だっけ、だるまさんだっけか。
だるま、そう。
あ、そうです、あの、えーとね、菩提だるまさんっていう人が始めたのが禅だよね。
そう、で、そっからあの臨済、まさにこう臨済宗の臨済の人っていうのが臨済義元っていう人がいたと思うんだけど、その人が始めたものが日本にも伝わってきて、こう臨済宗になってるっていう感じですね。
はいはい、じゃあその後どう日本に伝わってきたかみたいな話になってくるんだね、今回は。
そうだね、はい。
はいはい。
で、ちょっとそれも面白いので、まあちょっとこの後ね、お話していくんですけれども、まあちょっとあの前提からいくと、まあ僕もね、あんまりこうじゃあ永済がどんな人やったかって知らなかったんですけど、
うん。
いろいろ調べていくと、まあ調べていくというか、見てみると、えーと永済が1141年生まれですと。で、道元が1200年生まれたのね。
うん。
あー意外と差があるね、へー。
そうそうそう、なので60年くらい近い差があるんですけど、道元っていうのは永済のね、孫弟子みたいな感じなんだよね。
あ、関係あるんだ、はー。
そう、ちゃんとあって、永済が堅仁寺っていうお寺も開くんだけれども、そこで道元も修行をしてますと。で、その修行したときの師匠が永済の弟子の明善さんっていう人がいて、
だから永済、弟子の明善、その孫弟子、っていうかさ、明善の弟子の道元みたいな、まあ一応そんな流れがあるんだよね。
あ、そうなんだ、あーじゃあ、たまたま同時代に生きてそれぞれの道を行ったとか、それぞれ、その、なんか自分に神話性のある禅を開いてったとかじゃなくて、あれなんだ、前回で言うとその法然と神壇とかみたいな、もうそういう弟子の感じなんだ、師匠と。
あ、そうそうそうそう。
うーん。
そうなんです。
知らなかった。
それはね、歴史の教科書を書いていいよね、それはね。
そのぐらい書いてほしいよねってことも思ったんだけど、今、書いてんのかな、ちょっと当時は多分なかったと思うんですけど。
はいはい。
そうそうね。なんかね、その永済と道元が直接会って話したかとかっていうのは結構諸説あるらしくって。
あーなるほど。
なんか、そう、会ってるとも会ってないとも言われるんだけれども、まあ実際そのね、道元がかなり永済を慕っていたというか。
で、本とかにも永済さんすげーっすみたいなの書いてたっていうのがちゃんと残ってるんだよね。
へー。
あーそうなんだね。
はいはい。
そうそう。なので、今回はそのね、日本のまあ仏教、それこそ前回浄土経とかやりましたけれども、中でのこう禅っていうものがどう成り立ったのかというか、どんな風にこうなんだろうな、伝えられてきたのかみたいな。
まあその、アゼルシュ走りみたいなことを知るっていう意味でのまあ永済っていう人と、あとはね、その、じゃあ禅、日本での禅ってどういうものなのかっていうと。
まあ前提どういうものなのっていう、ちょっと思想的な部分っていうところを知るっていう意味での道元っていうのは、ちょっとそういう感じのテーマを割り振ってですね、お伝えしていきたいなっていうふうに思ってますと。
なるほど、はいはい、分かりました。
うんうん。
禅の広がりと永済の活動
はい。で、何でかっていうと、まあ永済までもちろん優れたお坊さんというか、まあ素敵な人なんだけれども、やっぱどっちかっていうとね、そのやっぱ生涯とか、あとどうやってこう禅を日本に広めていったかみたいなっていう活動の方が結構ね、目立ちました。
目立つんですよね。逆に言うと、当時で言うとさ、やっぱ禅っていうのはもう、なんだろう、信仰宗教的なというか、まあ後でまた話すんですけど、ちょっと食害を受けたぐらいなのよね。
わあ、あ、そんなやったんだ。なるほど、なるほど。
うん。
っていう時代において、やっぱりこう禅こそが、なんだろうな、大事だみたいに思った永済さんが喉を広げていったかみたいな話もあるし、またね、その孫弟子としての道元が、まあそういうある種禅っていうのが広まってきたというか。
まあ、禅っていいよねみたいな世の中にあって、まあどうする、深めていったかとか、正しい教えにしていったかみたいな。まあ結構ね、そういう流れで見ていった方が面白いというか、なんか理解しやすいんじゃないかななんて思ったんですよね。
なるほどね。わあ、そこの話で聞くだけでも、この禅のね、日本の広がりというか、ちょっとこうイメージが一気に、ね、今までさ、ね。
そうそうそう。
それこそあの永済、ん?永済か。永済と道元っていう名前だけでさ。
そうそうそう。
総統宗でどっちがええかみたいなさ、そこにしかさ、頭いてなかったじゃん、暗記的な話でさ。
うん。
ねえ、すごい一気になんかこう、ほんとイメージが湧いた。うん。
そうそう。ちょっと立体感が出てくるじゃないですか。
出てくる、出てくる。
ねえ。で、うちさ、あの、ね、雑談でもさ、ちょっと話したと思うんですけど、やっぱりこう新しいものを広めようとかって思うと、結局その、ちゃんと王道も知らなきゃだめだよねとかさ。
はいはいはいはい。
で、その、いわゆる比叡山っていう人たちがいたときに、やっぱり比叡山がいたからこそ、一遍みたいなちょっと、なんだろうな、地方で、浄土宗を広げるっていうのも、なんだろう、成り立つみたいなさ、そういう話ちょっとしたの、したじゃないですか、雑談で。
うんと、そうだね。その、その、ちゃんと民衆というか、大衆に広がっていくためには権威も必要だよねっていう話だよね。
そうそうそうそうそう。
うんうん。
うん。
そう。で、まさにその、権威っていうものと、なんかね、すごく向き合ったというか。
うん。
そこをこう、関係を作っていったのが、永済みたいな感じがすごく思って。
はいはいはい。
うん。なのでね、そんな話をね、今日はぜひしていきたいななんて思っております。という感じですね。
なので、永済に関しては、今日はちょっとね、人となりとか、生涯みたいなところと、次のね、回で、どんなことを実際に言ってたのかみたいな話を伝えていこうと思うんですけど。
うん。
はい。
先ほどお伝えした通りですね、永済っていうのは1141年。
うん。
なので、今から何年前?
800…いかないか、890年前ぐらい?
うん。まあ、そんな前から。
うん。
に生きた人です。
うん。
で、今の岡山県で生まれているんだけれども。
うん。
で、法年がですね、1133年生まれなので、
ほうほう。
えっと、9歳違いなんですよ。
なるほど、同時代だね。はいはい。
そう。だから、本当に同時代で、おそらくね、同じ時期に比叡山で学んでたんじゃないかなって思うんですけど。
あ、永済もいたんだ、比叡山に。
永済もそうそう、比叡山に行って学んでるんですよね。
うんうんうん。
うん。なんだけど、なんかこの2人がね、直接交流したみたいな話はね、あんまり聞かないというか、調べても出てこなかったんですよ。
あ、そうなんだ、ほうほうほう。
そう、なんか逆にそれぞれ名声が高かったから、なんかね、お互い意識してもいいんじゃないって思うんですけど、あんまりなくて。
うんうんうん。
そう。
うん。
で、その代わり、張源っていう人がその当時いたんですけど。
うん。
張源さんっていう人は、なんか法然とも仲がいいし、永済とも仲が良かったみたいな。
へぇ。
それぞれのエピソードが残ってるんですよね。
わぁ、そうなんだ。そういう人が書いた、なんかね、法然と永済エピソードが欲しいよね。
そうそうそう。うん。
それこそ永済とはその中国へ出会いましたとか、なんか法然とはこういうとこでお喋りしてましたみたいなところが残ってて。
うーん。
そう。だから、やっぱりこう、ね、さっき兄貴がさ、
そういうことを永済といえば臨済宗っていう、それしか知らんかったって言ってたけれども。
うん。
ほとんどそんな感じで、やっぱいろんなこう、読みてくと、なんか人の名前とかさ、どこにいてどういう過ごしでとかっていうのが出てきて。
うん。
そういうのを見るだけでもね、すごい面白いななんて思いながら、今回ちょっと台本作ってたんですけど。
永済もやっぱり、さっき言った通り比叡山には登って出家してますと。
で、ただあんまりこう、ちっちゃい頃の話と残ってなくて。
うん。
なんか子供時代どうだったかっていうのはあんまり、なんかね、あのー、ないらしい、ないというか。
うん。
あんまり伝わってないらしいんですけど、とりあえずその14歳で比叡山に登りますと。
永済の学びと禅への転向
はいはいはい。
うん。で、そっからね、基本的には実はずっと天台宗をちゃんと学んでるんだよね。
うーん、なるほど。はいはい。
うん。だから禅っていうのは実は結構晩年に出会っていて。
うんうん。
普通にこう、比叡山の王道としての天台宗、まあ天台密教っていうものを、まあめちゃめちゃ真摯に学んでましたと。
で、その晩年ってさっき言ったんですけど、本格的にね、禅に出会ったって言われてるのが、えーとね、47歳の時なんですよ。
そう、だから14歳で祖比叡山に入ってから47歳だから、やっぱ30年くらいはもうずっと天台宗をね、ちゃんと学んでるんだよね。
うーん、なるほど。やっぱ法念と比較しちゃうね、そういうのはなんか。
あー、そうね、そうね。
うん。
だから、やっぱり当時はやっぱり、その、なんだ、まあ、それこそやっぱ法念もさ、その、いろいろ学んで、浄土経というのに出会ってね、広げたと。
うん。
そこから、やっぱ新蘭とかね、一遍みたいに、あ、浄土経がすごい、浄土宗でいこうっていう人が生まれたみたいな感じで、
で、永済も当時はね、禅なんて周りにやってる人がいなかったわけで、まずは天台宗っていうのをこう、しっかり学んでったって感じなんですよね。
はいはいはい。
うん。で、まあもちろんこう、仏教を深めよう、極めようっていう風にやってたんで、その、大人、大人というかその、いろいろ学んでった後に、その中国にもちろん行くんだけど、
そこからさ、ね、インドまで行って、その仏教の神通を学ぼうみたいなことも考えたらしいんだよね。
んー、あー、そうなんだ、私、その、中国に行ったんだ、永済。
そう、行ってる、2回行ってるんだよね。
へー。
うん。
あ、そっかそっか、時代が違うか、あの。
当時はね、そうですね、中国は。
うんうんうん、だからもう、国交は前の遣唐使とかみたいに、選ばれし者がとかっていう感じじゃなくて、割とこう、国交あったから、行こうと思えば行けるみたいな。
うんうんうん。
みたいな環境ではあったのか、もしかすると。
まあね、まあ、もちろんね、そんな気軽に民間人がっていう感じはないとは思うんだけど、
うんうんうんうんうん。
栄西の禅の布教の試み
やっぱね、あの、いわゆる空海とかの時に言ったみたいに、遣唐使みたいに、めちゃめちゃ少ない人数で選ばれなかったらいけないとかっていうよりは、たぶんまあ、日宋貿易の時代だから、もうちょっとこう、ね、いわゆる商業的な船とかも含めて行き来があったんじゃないかな。
はいはいはい、なるほどなるほど。
うん。
うん。
まあね、商業界で2回、その、中国、当時の、
うん。
その、中国の荘に行ってるっていうのが永済ですと。
うん。
で、そっからね、インドまで行ってるぜって思ってたんだけど、
うん。
その、当時ね、中国の荘っていうのが、いわゆるちょっと水滞期みたいな感じで、断層があって、元に行って、
うん。
あの、フィベライハンっているじゃないですか。
うん。
が、元っていう王朝を作ったと思うんだけど、結構その当時から、そういう周囲のね、その、なんだろうな、民族からこう割と圧力を受けて、なんかそれがしんどいみたいな時期だったらしいんですよ、中国は。
だからやっぱ、いわゆる中国からインドに行く道っていうのも、そういう、なんだろうな、国外の人たちに、なんか押さえられちゃったりしてて、
ああ、はいはい。
とても安全に行けませんと。
うんうんうん。
なので、ちょっとインドに行くのは無理だわみたいな、まあ結構そういう混乱期だったらしいんですよね。
で、実はちょっと臨済の時に少しだけお伝えしてたんですけれども、そういう混乱期で仏教とかも衰退してたんだけれども、あの、禅だけは盛んだったんですよ。
で、なんでかっていうと、禅っていうのは、あの、不流文字だし、不流文字というのは、あの、文字によらない。
うんうんうん。
まあ、あとはその、仏像とかもいらないみたいな、そういう宗派なんですよね。
ああ、なるほど。はいはい。まあ、迫害されようがないにしようが、やる人はやれるみたいな。
うん。そう、そういう人はやれるし、好みこのままで全然修行もできちゃうみたいな。
はいはいはい。
そういう感じなので、禅っていうのはね、当時の中国でも盛んだったんですよね。
うん。
で、その時、僕も禅を学びに行こうと思って中国行ったんだけど、なんかインドも行けないし、中国ではなんか禅しか盛んじゃないみたいな。そういう状況で、しゃあなし禅魔の部下みたいな。
なるほどなるほど。
結構ね、うん。そう、そういう感じでもあったらしいんだよね。
うん。
うん。で、そのときたまたまね、出会ったそのお坊さんっていうのが、まさに臨済宗の禅のお坊さんだったんだけど、中国で出会った人ね。
うんうん。
というのが、逆に日本では、その、天台、その神社とか、神社。
うんうん。
密教っていうのが盛んらしいじゃないかと
結構中国では
そういう密教とかって伝われちゃったから
その教えっていうのを
一言で教えてくれないかとかって
言われたんだって
当時Aさんは
天台宗も30年くらいも
学んでるわけだから
分かりましたと
密教の教えっていうのは
信じる心を持った時には
すでに悟りに至ってるんだと
いわゆる大乗仏教でも
そうだけど
修行して修行して
いつか仏になるってよりは
この身このまま仏になれる
おねはに至ることができるんだよ
っていうことを返したんだって
そしたら
中国のお坊さんが
それだったら僕らがやってる禅と
同じだねみたいなことを言われて
そうなんだ
っていうところから
禅に興味を持ち出しましたみたいな
なるほど
そういうエピソード
が残ってるんだよね
そうか同じ仏教の中でも
大乗仏教にだいぶ近いね
っていう感覚を持ったんだね
英才は
大乗仏教の中ではあるんだけど
密教と
密教も大乗仏教なんだって
一応ね
大きな括りでは
その辺がもう
何回か続けて
聞いちゃってるから
なので仏教は複雑ですけど
そうそうそう
一応密教と禅っていうのは
結構全然違うね
っていう風に
思ってたんだと思うんだけど
そんな共通点があるんだったら
面白いっていう
ある種学びも始めましたと
なので学び方的には
それこそ本年みたいに
これまでの教えはダメだって
浄土教とか
阿弥陀仏にすがれみたいなことよりは
禅っていうのも
ちゃんと学んでみようかなみたいな
はいはいはい
結構そういういろんなのが
ある中で
の禅もいいよねみたいな
結構そんな感じで
学び始めてるんですよね
まだこれにこう
なんだろうな
こう深くはまるっていうよりは
まずしっかり学んで
教養広めとこうみたいな
まだそういう感じ
そうなんだそうそうそう
まだやり込んでいく中で
禅すごいじゃんとか
これを広めたいみたいに
ふうに思って
日本に持ち帰っていきます
みたいな感じなんですよね
禅の広まりと栄西の目標
はいはいはい
で今言ったときに
通り中国で禅っていうものを学んで
日本に戻って
禅を広めるぞっていうふうに
思ってやるんですけれども
すぐに日本に
禅が広まっていくかっていうと
なかなかそうは
うまくいかない事情があったんですよ
事情
そう事情
これ何かっていうと
実は当時日本でも
禅っていうものを広めてる人がいましたと
へえ
禅自体は中国では盛んらしいぞとか
実際日本にもなんだろうな
もともと伝わってはいるんだよね
それこそ西朝
まさに比叡山を開いた西朝が
禅っていうものがこういうもんなんだよ
っていうこと自体は残してたんですよ
あーなるほどそっか
学んできてはいたんだ
こういうのあるよ
そうそう学んできてはいて
主流ではないけど
一応こういうもんだよね
みたいなのがあったんだよね
そういう中で
一人京都でね
禅を広める
としてる納仁さんっていう人がいたんだけど
この人はちょっとクセ者というか
若干歴史上ちょっと悪役っぽく書かれてるんだよね
ほうほうほう
うん要は永済が純粋な禅を広めて
納仁さんっていうのはちょっとなんだろうな
暴竜とかアウトサイダーみたいな感じになっちゃってるんだけど
なんでかっていうと
もちろんねちゃんと比叡山とかで学んで
そういった天台宗とか
そういうものを
身につけてはいたんだけれども
なんかあんまりにこう特殊な師匠とかにつかずに
なんか自分は悟ったみたいな
まあ誰にもなんかついてないんだけど
俺は悟ったぜみたいな感じで
割とこう主張してるような人だったらしいんだよね
おーはいはいはいはい
勝手に宗派とかも開いちゃって
でなんか俺の禅を学べみたいな感じで
開いてやってましたと
でその教えはどんなものなのかっていうと
まあ我々はすでに仏であると
まあこれはいいよねさっきのさ
あの禅の話とか密教の話と同じなんだけど
うんうん
すでに仏であるから
修行とかいわゆる戒律
決まり事とかも必要ないし
うんうん
ただただ寝っ転がってればOKなんだみたいな
おー
割とそのぐらいのことを言ってたらしいのね
この人なんか一遍パクったんじゃないの
全に
いやいやいや
エッセンスを言ってたらしいのね
エッセンスを言ってたらしいのね
エッセンスを言ってたらしいのね
エッセンスを言ってたらしいのね
エッセンス確かにね
うん
なんでもOKみたいなね
でもやっぱそういう感じで
ちょっとあんまりやっぱゆるいよねみたいな話なんだけど
うんうんうん
やっぱそれはそれでねやっぱり当時勢いをもって広がっていたし
あそこでおでらくだもんね
そう
おでらくだし
まあ結構ね現代でも続いてるのかな
やっぱちゃんとこう
人との流れとしてやっぱね続いてたらしいんですよ
へーうんうんうん
うんね
そうしたらとさやっぱ平山からすれば当然ちょっと警戒するわけよね
そう
そうだねあんまりにもハードル低くしたなーっていうね
そうそうそうそう
ははは
私ちょっとさやさやどうだよみたいな話とか
でもやっぱ勢いはあるからなんとかしなきゃみたいな話があって
いわゆるこう京都でのね布教禁止とね
あの言い渡されたらしいんですよ
お前教えちゃダメと善を
あこの農人さんがね
そう農人さん
へーほいほい
これ以上布教あの仏教って言うなみたいなこと言われたらしくって
そう比叡さんの
偉い人たちからね
そう偉い人たちからね
そうそうそう
やっぱそんな状況だったんで英才がこう勢いよって帰ってきてさ
そして俺も禅を学べ学んだし広めるぞとかって言った時に
禅布教の困難さと権威からの反発
お前も禅広めんのみたいな
無理無理京都今布教禁止だからみたいな
んーあー禅はちょっとダメだよみたいな
そう禅はダメだよ
禅に対するアレルギーみたいなちょっと拒否反応があったわけだ当時ね
そう当時ね
へー
禅なんか広げられたら困るからね
だめだよみたいな
はいはいはい
お前も結局農林って同じだろみたいな感じで
結構ね厳しいなんか人格否定みたいな
なんか禅なんか広めとかちょっともうちょっと人としておかしいよくらいの
ことをね言われちゃったらしいんですよね
うわータイミングが悪かったね本当に
そうねそうだからまあそういうねやっぱ時代の中でって話なんですけど
だからこそその英才がねやっぱ禅を広めようっていうのはできなかったし
もちろんねその比叡山側としてもやっぱり新しい派閥がこれ以上広がっても困ると
あーそっか自分たちが本流だと思ってるしっていうね
そうそうそうそう
おそらくね当時あの法年のさまさに浄土宗とか広まっただろうから
そんな浄土宗も広まってなんか禅とかも広まっちゃったらちょっとさすがになんともしがたいわみたいな感じもあったと思うんだよね
でただ英才としても
でねじゃあ黙ってこう見てるというか
せっかくで学んできた禅を広めたいって思いはあるので
だから京都がダメだなということで福岡に戻るんですよね
戻るというかやっぱりあの前回さ一遍も座財布あの福岡で九州で開きましたみたいな話をしたと思うんですけど
やっぱり多分当時京都の次は福岡みたいな感じがなんかあったんだろうね
というところでまあ福岡にお寺を作ったりとか
これも教科書でもしかしたら学んだのを覚えてる方がいるんですけどね
あの法然護国論っていう法っていうのは起こすね復興するとかの法に禅はまあいわゆる禅師の禅ね
護国っていうのは国を守るの論っていう本を書いてるんですよ
でこれっていうのは結構その英才のまあ首長って言われてるようなもので
あの実際こう比叡山とかあるいは他の宗派から批判はやっぱり受けるわけなんだけれども
それに応えて
っていうのは実はこんなに優れたものなんだよとか
実はこんな正当性があってそんなパソデの信仰宗教じゃないんだよみたいな
そういうのをちゃんと書き記して主張したみたいな本なんですよね
あーなるほど私のオリジナルじゃないんですよと
ちゃんと中国から学んできたものなんですよという話ね
そう私に実はさっき言ったみたいに
いや実は最澄とかの時代から脈々とちゃんと受け継がれてるものなんですよみたいな
あーなるほどなるほどはいはい
それ中国からの権威だけじゃなくって実は日本の中でもちゃんと権威があるというか歴史があるものなんですよみたいなことをちゃんと伝えようとしてる本として書いたんですよね
なるほどなるほど
これはねあの本での結構あの大原問答とかに近いかなと思って
やっぱりこう新しい教えをしようとした時にやっぱり既存の権威からのまあイジャモンというか
禅の広め方と権威との関わり
やっぱりそういう挑戦を受けるし
そこに対してちゃんとこうなんだろうな言い返せるというか
ちゃんと論破できないとやっぱりこう広まっていかない
なるほどあれかあの法年ほどではないけど多分会う人会う人にずっと言われたんだろうね
囲まれてイベントが開かれたわけじゃないけれども
ちょこちょこもうちょっと小さいイベントとかちょこちょこ聞かれたりしまくって
それをのFAQをまとめた本なんだね
うんあそうそうそうそう
これを読みなさいみたいな感じで
まあ実はこれって仏教の歴史としては本当にずっとあることで
まあそれこそね仏教の歴史としては本当にずっとあることで
ブッダもさやっぱり当時のバラモンの人たちとか
ああはいはいはい
いわゆる主流と言われた人たちからしたら信仰宗教で
仏教とかなんだよみたいな話を言われてたんだけど
それをことごとくね打ち破ってある種仏教に改修させたみたいな
うんうんうん
まあそんな話もあるぐらいで
確かに確かに
やっぱりねこうちゃんと問答をするとかそこに答えていくっていうのは大事というか
それをやったからこそ残ってるっていう感じなんですよね
そっか
まあそうだよね確かに新しいものを作るってどういうことかって話だねこれは
そうそうそうそう
でこれまでの話もね結構その前後どう広めたかっていうところの面白さがあったかなと思うんですけど
なんか僕改めてこう面白いなと思うのは結構この先のまさに権威とどう付き合ってたかみたいな話で
権威っていうのは比叡山だけじゃなくって
いわゆる当時言うと朝廷幕府なんだよね
で英才っていうのは当然そのなんだよ
いわゆる一階のお坊さんではあるんだけれども
それこそ晩年になると当時だったら鎌倉幕府で源頼朝っていうじゃないですか
初代将軍の一歳期かな
亡くなった翌年の供養をする時のプロジェクトのリーダーとかに選ばれてるらしいんだよね
すごいね当時はあれなのかなどうなんだろう
もう全学んできた後なのかな晩年って書いてあるから
そうだね後
はいはいはい
そうそう
うーん
なのでやっぱそのぐらい国の中心に関わっていたりとか
うんうんうん
あとは奈良にある東大寺
これはいわゆる古くからあるなんだろうな
新しい仏教からしたらちょっと古いよねとか
大立するようなとこなんだけども
まさにその東大寺のお寺の修復のリーダーとかもなんか命じられてるんですよ
そういうなんか一階のなんだろう前提新しいよくわからん宗教
仏教を広めた人っていうところで
そうじゃなくってちゃんとその仏教やっぱ全体に通じているとか国のそういう祭りごととかに関わるみたいなそういうような役職の人がやっぱどんどんなってくるんだよね
なるほどなんか戦略的な感じがするねなんか
そうそうそう
なんとやっぱ自分のね存在感とかその善っていうものを広げていくために
うん
こう手を打ってたみたいな感じなんですけど
うんうんうん
だからねこういう功績が積み重なって
その英才っていうのはね
言の僧女っていう
これ役職なんだけど役職とかなんだろうないわゆる階級みたいな感じかな
ほうほうほう
軍隊でいうところのなんだろうなチェイサーとか中佐とかそんな感じで
凡の僧女とかがあっていわゆるトップから3番手ぐらいの結構国で3番目に偉いというか
そういう役職が高いお坊さんだみたいな感じまでやっぱ登り詰めるんだよね
ああそうなこれはあるいは比叡山の中の階級じゃなくて
うん
いわゆる国の
うん
あそそ国の正式な
へえ
あなるほどなるほど
でもね結構ねここからはなんか人間らしいとか面白い話で
うん
その時にね結構英才から朝廷に対してなんかね結構莫大な賄賂は渡されていたんじゃないか
はいはいはい
あと実際にその御の僧女って結構高い価値もらったんだけど
うん
ちょっとそれじゃ満足できなくて大使っていうなんかそういう称号もくださいっていう風に言ったとかね
そういういろんなね批判って言ってたんですけど
うん
なるほどじゃあそれはまあ本人が
本人が話してたことではなくて周りから見た時のだから
うん
なるほどね
そうそうそう
事実はどうか分かんないけれどもそういう言われ方もしてると
うん
そう
それも恐らく事実でそういうちょっとやっかみが含まれてたのは思うんだけど
うん
うーん
個人的な挑戦と評価
ちょっとそれはやり過ぎだからってession 色違ったらもうそうだよねーーーーん
ましたとか そういう話はば残ってるんですね
ああそういうは急に向かいねなんか そうここまで生きる人っていうのはねもう
弱く自分の立ち位置とかねここまでいければ 本来の影響力を発揮できるだろうっていうさっきに戦略的って言葉
使ったけれども ちょっと違う感じがするねこの読みが違うのか何なのか
面白いんだよねうん もちろんその戦略的だしなんだろうな
できることをやったとも言えるけれどもやっぱり見る人から見るとやそんなね世俗の 朝廷となんだろうな
あのワイルドまで送ってあいつはしからんけしからんやつだってもちろん見方もできるし いやーそうだねうん
あとその今大使っていう称号って言ってたと思うんですけど大使っていわゆる伝行大使とか 工房大使とかさ伝行大使は最長だし
工房大使は空海じゃないですか 工房大使は知ってるけどそうなんだ
最長も大使そういうことはの最長も大使なの へえ
っていう感じであのいわゆるこう亡くなった後に送られる送りなみたいな感じなんだよね あーそうなんだ
生きてるうちに大使になるっていうのは基本的にはないわけよ 結構偉人レベルの人にね与えられるものなんだけれども
やっぱそれをねこう自分から求めるっていうのはやっぱちょっとこうなんだな
したないというか なんだやっぱ美学に反するみたいな感じもあったなと思うんだよね周りの人からしても
いやー 何を考えてたんだろうねー
ねっ
だからねそういうこう自分もね空海とか最長ぐらいになったんだというふうなことを主張し たかったのか
うんうんうんうん そこはもちろんわかんないんですけど
こういうふうなまあ話も残っているぐらいちょっと人間らしいというかそういう何だろうな
いわゆること来組織というかそういう大きな経緯の中でどうやっぱり立ち回るかみたいな そう行った人だなっていうふうに思っ
いやーいいねなんかこんな経年なの残ってる人って a ねそれこそいい話しか聞か ないというかさ
あの政治ええええええええ 確かに確かに言っ
ことがまぁ多いって言うか処残ってないのかもしれないけどそうはい 打ち去っちゃってれ
うんうんそうね
なんかこういうね
人間の欲的な出世欲的なところが
しかもお坊さんでね
結構生
生しく
失脚したとか
殺されたとかそういう話ではないのかな
そうではなくて
やっぱりこうなんだかんだね
遠い絵すごいよねっていう話はあるし
やっぱりこう
善をねちゃんとこう
歴史に位置づけたかった
ちゃんと世の中に広めたかった
そのためにやっぱり権威っていうのも
必要だったよねみたいな
そういうような評価ではあるんだよね
歴史というか
構成で見ると
だからもちろんね
悟りを目指すっていうその純粋さからすると
ちょっとなんか違うんじゃないかな
そんな話今回出てこなかったもんな
出てこない
ある種の
前回で言うと
全問答でちょっとユーモラスよね
とかさ
こんな風な撮り方したら確かに面白いねみたいな話
ってあった
と思うんですけど
あんまりなんかそういうちょっとユーモラスな感じ
とかもねなんかあんまりないんだよね
確かに
確かになんか
普通にビジネスのさ
新市場開拓
の話を聞いてる
感じがするよね
神秘体験とかも
なかったし
そうね確かに
あんまりそういうのはやっぱり全面出てこない人なんですよ
これもちょっとね
なんかグーグルで検索したがっても
一回だからあれなんだけど
臨済宗のお坊さんとかが書いた
なんだ
お寺のブログっていう記事とかあるんですけども
あんまり普段
永済を意識することありませんみたいな
やっぱり臨済とか
それこそそのなんだろうな
いわゆる菩提だらまから続く
その当時の中国の禅の六祖みたいな
絵能家
人とかっていうのは結構いて
やっぱりそういう人たちのことっていうのを
なんか話とかで思い浮かべることはあるんだけど
日本で臨済宗っていうのを広めていた
永済っていう人を
だからやっぱりそういう意識することは少ないんです
みたいなことを書いてたのね
それとって個人の感想
全体の話だとわからないんだけれども
やっぱり逆にそういう
個人の体験に留まらずに
やっぱり日本にどう広めるか
国のトップにそれをどう認めさせるかみたいな
とかあるいは
日本にどう広めるかみたいな
経営山っていう当時の仏教の権威に
どう向き合うかみたいな
それちょっとやっぱり組織的なことが
多かった人ではあったんだろうな
とは思うんだよね
ただ内容の話聞くと
やっぱりそこまでしないと
組織的な広報活動とビジネス的側面
そういう兼用の見方につけないと
新しい宗派みたいなものが
きちんと
広げる
許しを得る
やっぱり今回出てきた
誰だっけ
農林か
みたいなことになっちゃうよ
っていうことを
リアルに体験してたもんね
戻ってきた瞬間
お前農人の
二番煎じだろみたいな
また現れたよみたいな話をされちゃってる
わけだからね
すごいものを持ちかけてる
てかすごいと確信してるものを
持ちかけてる
そういうこと
本人やっぱりこれが
今の日本に大事だとか
いろんな仏教観に足りないと思って
やっぱりこうね
ある種熱意とか使命感を持ってやろうと
してるのに
ひやみずさびされるじゃんけどさ
これこの後
また出てくるかもしれないけどさ
そう考えると
道元が
孫弟子なわけじゃん
ちゃんと弟子は育てて
弟子がきちんと禅を
広めてるわけだから
もしかすると
無理やりだけど
無理やりだけど
禅のことは弟子たちに任せたと
俺は聖人の方にしょうがないけど
行くと
自分はこれで悟れるか
悟れなくなるかもしれないけれども
なんなら悟ってから別にいいんだけど
俺はもうこの人生は
この聖人に捧げると
言ってそういう動きをしたっていうね
そのあるかもしれないよね
自己犠牲でね
そうねそうね
ちょっとやりすぎだけどね
さっきの大使みたいな
ちょっとそれは言い過ぎだとは思うんだけど
やっぱり組織として
それこそやっぱり
そういうね
お寺を建てるとかさ
組織をやっぱり
広めていく
いわゆる宗派として
維持していくっていうのはやっぱり
並大抵のものじゃないからさ
そっかそっかそうだよね
お寺建てるにしても
例えば一遍みたいに
民衆に
例えば気に入られた
広がったとしても
民衆から例えば寄付みたいなものをもらうとして
高が知れてるもんね
そうそうそう
やっぱりその土地の問題とかさ
新しく
広がらせる庭園みたいなやっぱり
いろんな問題が当然起きるわけだよね
なるほど
当然人が集まれば
ご飯は食べなきゃいけないし
そこに対して規律とかも作っていくっていう中で
やっぱり組織をちゃんと作んなきゃいけない
そういう意味での
やっぱりそういうなんだろうな
まさにちょっとビジネスパーソンっぽいんだけど
でもそうやらないと
禅の布教の逆風
日本に善は広まらないって思いもあったんだとは思うんだよね
いやー怖いねやし
組織力っていうか統率力だけあったとしても
やばい勢力でできたって言って
本気でそれこそ潰されるみたいな話になりかねないんだもんね
逆にねちょっと焼き討ちしちゃえ
焼き討ちは当時なかったかもしれないけど
やっぱりいわゆる総兵みたいな武力を持ったお坊さんはいたから
武力で排除されるっても
やっぱり全然現実的にあったわけだよね
うんうんうん
その中でやっぱりどう大きく成果とか作っていくかっていうのが
やっぱりやっぱりどう大きく成果とか作っていくかっていうのが
やっぱりやっぱりやっぱり大きく成果とか作っていくかっていうのが
やっぱりやっぱり大きく成果とか作っていくかっていうのが
っていうところは
やっぱりこうある種優れたやっぱり人だったんだなっていうふうに思うんですよね
いやーすごいねすごいめっちゃ基盤作ったというか
土台を作った人って感じだよね
まだこれ広まってないもんね
広まる前の話
まだ広まってない
まさに英才が広げていった
結構弟子とかも多かったみたいなんだけど
これ何千人という弟子を作るぐらい
1台で築き上げたみたいな
英才の禅活動
なんかそんな感じだよね
うん
,面白いね
はい
なのでちょっとね今回と次回に関しては
なんかその禅とは何かとか
なんか日本における禅の独自性はとかっていう話はあんまりなくて
それは道芸の時にね話そうとは思うんですけど
うん
もう少しね遠いこう英才もやっぱりなんだろうな
どういうことを言ったのかとかどういうふうに禅をとられてたのかみたいなことは残ってるので
それでちょっと次回ちゃんとお伝えしていきたいなというふうに思っております
という感じですね
うんうん
分かりました
いやすごい魅力的だね
ちょっとまた今まで見てきた人と全然雰囲気が違くて
またね時代が先鎌倉時代というかね
はいはい
空海最澄との時とまた違うっていうところで
そうだね
そういうなんだろうな
権力の中権力というかね
社会の泳ぎ方みたいなのが違うのかもしれないけどね
嬉しいですね
だからやっぱり仏教のこととかも学んでるともちろん思想とかさ
お釈迦様がどう言ったとかってあるんだけど
こういうね歴史的なこととかやっぱり社会的なこと
その繋がりっていうのもすごく面白いなって僕も改めて今やりながら思ってるし
そういうのがあると余計に仏教がちょっと親しみやすくなるというか
それこそ特別なことをやってるんじゃなくって
やっぱり当時新しい自分がいいと思ったものをどう広めていくのかとか
そこにどう向き合うのかみたいなことをやるっていうのはね
結構ねやっぱり現在にも生きるような話もねあるんじゃないかななんて思うんですよね
そうだねやっぱり理想だったりと
この現実のバランス感覚ってものが
たぶんちゃんと優れてないというか
ちゃんとこうマッチしていかないと
環境とね
たぶんさっきの農人みたいに潰されちゃったりとか
いっぺんみたいになれる人は本当に少なくて
大体がその目標を立ち上がっている
その目標に準じていくだけなのかなぁみたいなね
そうだね
やっぱ道半ばで諦めちゃうとかあると思うんだよね
そういう人は歴史にも残らないからね
分かんないっていうね
面白いなぁ
でもそういう英才がね
次じゃあどういう話どういう善を持ってきたのかっていうとこはね
そうですね
あんまり英才独自の考え方とかって出てこないんで
そういう意味ではねちょっと発展性みたいなのが少し足りないかもしれないんですけど
はいはいはい
そういったまさに今日ちょっとお伝えした公然語学論っていうのに
こんな風に書いてますよっていうのもお伝えしたからですね
その辺りはお伝えしたいなっていう風に思っております
はい分かりました
ちょっと禅がねどういう世界観を持ってるのか
日本ではどういう風に広がっていったのかと
楽しんでいきたいと思いますんで
次回も引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
39:38

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