1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #102 意味は言葉を超える!?..
2023-04-16 1:01:50

#102 意味は言葉を超える!?ドゥルーズの『意味の論理学』

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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言葉その言語論とシンボルについて
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も前回に引き続き、えーっと、ハヤトプレゼンツ意味ということで、前回があれだよね、えーっと、言語、言語学的な意味での意味。
だから意味ってあれだ。多いな。やっぱ使ってるんだね、無意識的に。
そうそう、無意識的にね。
言語学的な、えーっと。
言葉にも象徴的なものとその喚起的な機能というか、呼び起こす機能があるよみたいなところから、日常的な意味について少し深掘ってみたみたいな感じでしたね。
通常我々はどういった意味で意味っていうことを使ってるのかみたいなところだね、まずはって感じね。
当たり前すぎてさ、あえて言おうとすると難しいよね。今回ね、もう少し意味そのものみたいなところについてもう少しグッと入っていくんですけど、
前回前々回でですね、僕ちょっと意味っていうのは哲学であんまり扱われてなくてとか、焦点当たってないんですよとかってちょっと言ってたじゃないですか、ちょっとどうやみたいな感じで。
そうね、これは俺が2500年3000年の人の中で俺が初めて発見したんだって言ってたよね。
はい、そこはそう聞こえてたかもしれないですけど、ちょっとですね、言い過ぎたなとちょっと反省をしておりましてですね。
そうなんだ。
自分自身でもってそうなんですけれども、ちょっと最近お世話やってるというか哲学のことを少し学ばせていただいてる先生がいるんですけど、
その人にですね、そんな風に意味とかって哲学で扱われてないじゃないですか、フワッて言ったら、ちょっと顔色変わって、いや何言ってんの君みたいな、そのことないよみたいな。
先生ってどういった意味で、個人的に先生と呼んでいる人みたいな。
なんかね、体感された教授の方で、その哲学科の教授で、でなんかそれも大学辞められたから広くそういう哲学に興味あったりとか、なんかお話しした人はなんかお話ししてあげますよみたいにホームページとかでも公開されてる。
先生も多分70近い方なんだけど。
哲学専門としてた教授の方、元教授の方みたいな感じか。
そうそうそう、そういう方がいらっしゃって。
そうなんだ、なんか喫茶店に行くといつもおじいちゃんを先生と呼んでるとかそういうことではなくてね。
そうね、確かに京都の街中にいる仙人みたいな人みたいな。
そうそうそう、先生ってちょっとそういうの想像しちゃったんだけど、違うんだね。
ちゃんと元教授というか、そういう専門的な方なんですけど。
ちょっと最初に訂正というかね、少しさせていただくと、やっぱり前回お伝えした通り言葉その言語論とか、あと記号、それこそちょっと言ったような論理学とか、あとそもそもシンボルみたいになぜこう青い光は進めを意味するのかみたいな。
そういう意味での意味っていうのはやっぱり結構扱われてますと。
扱われていると、はいはい。
あとなんかその、多分ね、第一回目の時に僕がその存在、何かが存在するとか存在そのものみたいなのは哲学で扱われてきたんだけど、意味は扱われてこなかったとか多分言ってたんですけど。
存在と意味について
いや、存在と意味ってそんなパキッと分けられるもんじゃないと。
なのでやっぱり存在を考える時には、そういうこと中世のその1200年とか何年っていうところから、やっぱり意味っていうものも考えられてきたんだみたいなことを言っていただきまして。
そんな簡単に切り離せるもんじゃないぞと。
でもさ、あれじゃない?その先生はもうほらご高齢でしょ?
そういう、ハヤトの最新の話についていけないっていう可能性もない。
これもっと怒られる。
なるほどね、確かに。権威にね、そんなに追従していちゃいかんと。
いやでもやっぱり簡単な例は、人間論にしちゃダメなんだと。
あーなるほどね。そこは人間論に陥っちゃってたんだね。
そう、存在はこっちで、そう意味はこっちとか。
あとなんか言ってたけど、僕も言っちゃったんですけど、
イデアプラトンから始まる人間論が西洋をダメにしたみたいなさ。
それはもう、西洋と東洋を分ける人間論に立っちゃってるみたいなさ。
はいはい。
それこそが。
なるほどね。そこの罠に引っかかってたんだね。
そうそうそう、単純化したらダメだぞというようなことを、
それは別に直接言われたわけではないんですけど、
そういうことを思って、ちゃんとグラデーションをつけてね、
考えなきゃいけないなという反省をしたので。
自己の意見に偏らない考え方について
なるほどね。でもね、やっぱ何か仮説とか思いついた時って、
それを証明することにつって、出てくるから、
その人間論がどうかみたいなね、そこじゃなくなっちゃう部分もあるからね。
そういう意味では凄い冷静にしてもらったみたいな感じで。
そうそうそう。
さすが先生だね。
それちゃんと冷静にしないと、やっぱり決めつけとか思い込みとか、
うんうんうん。
っていう風になってしまうじゃないですか。
論文というよりはただのお話になっちゃうもんね。
そうそうそうそう。
それこそじゃあデリーダが何て言ってたかとかであれば、
僕もそれ決めつけて話すことはないけど、
自分が意味について話しますっていうと、
自分の決めつけでさ、意味っていうのは、
俺が考えた最高のテーマみたいな風になっちゃうから。
その結論ありっきりね。
そうそうそう。
ちょっとそれはね、ちゃんと落ち着かせなきゃいけないなっていうところもあったので。
面白いね。やっぱそういう、これどの学問もそうかもしれないけどね。
自分の仮説を証明するとかっていうのは、そういう作業なのかもしれないね。
本当そうだね。
そしてやっぱその仮説がね、本当に正しいのかとか、
本当にじゃあ誰も考えてないって言うけど、
それは自分がやっぱり不勉強なだけなんじゃないかって思っておかないと。
やっぱ社議のね、再発明じゃないのかと常にね。
そうそうそう。
っていうのはね、ちょっと感じましたよ。
ちょっとそんな話から入ってたんですけれども。
意味の論理学の紹介
で、じゃあもう今ではい終わり。意味終わりって感じで。
終わらない、終わらない。終わらないよ。
でも意味はやっぱすごい大事な話だし、
ソウルシャインはねすごく面白い話なんで、
今日もやっていくんですけど。
はいはい。
今回はですね、そのデュルーズっていう、
ちょっと冒頭にもお話したんですけど、
そういう人が書いた「意味の論理学」っていう本があるんですよ。
うんうん。
これをちょっと参考に、深くは入ってはないんですけど、
こんな意味ってこんな話があるんだよっていうのを、
皆さんにお伝えしたいなというふうに思いますと。
はい、前回の言語学分野からちょっと哲学だったりとか、
そういうちょっと言葉を超えるっていう方向に入っていくって話かな。
そう、もうね、本当に言葉も人も、それこそ存在すらも超えますみたいな話なので、
前回も言ったと思うんですけど、
まさに皆さんが、兄貴が使っている「意味」っていう言葉の意味を、
一回も全部ちょっとゼロにしてほしいですと。
ああ、前回言ってたね、それは。
そうそうそう。
だから意味ってこういうもんだよねっていうのを一回取っ払って、
ちょっと今日の話は聞いた時に最後、
「あ、意味ってそういうことだったんだ」って思えるかどうか。
そういうちょっと体験的な感じで、
今日は聞いていただけるといいんじゃないかなと思っていますと。
本当にちょっとだけドゥルズの話をすると、
ドゥルズさんはですね、1925年にフランスに生まれた哲学者でございますと。
時代的には本当にポスト行動主義みたいな感じで、
本当デリーだと並ぶというか、
同じくらいポスト行動主義の有名な代表する哲学者だみたいに言われる方ですと。
なんかね、これ高校の倫理とかで出てきて、
分かってるか知ってる方もいるかもなんですけれども、
ドゥルーズ語って書いて、
ドゥルーズさんとガタリさんという2人が書いた「アンチ・オイリプス」っていう本が結構有名らしいんですよね。
そういうちゃんと教科書に載るくらいの方でございますと。
早速ね、今日は人物の話というよりも意味の論理学っていう本の話に行くんですけど、
これも今文庫で出てるんだけど、結構上下感になるくらい結構分厚い本なので、
全部は扱えないので、本当に扱える狭い範囲だけの話になっちゃうんですけど、
もう最初確信から行くと、ドゥルーズさんはですね、
意味っていうのは「出来事だ」っていうふうに言いますと。
結構これ衝撃な発想なんで、
今日はこの出来事についての話しかしないよぐらいな感じなんですけど、
普通言わないじゃん。「意味っていうのは出来事なんだよ」とかさ、聞いてもたないでしょ。
そうだね。出来事を例えば事実とかさ、そういうことで考えると、
それに意味付けをするみたいな感じだから、イコールではないかな。
出来事はどういう意味かも分かんないけど。
いいね、兄貴も。やっぱ哲学センサーが働いてきましたね。
ちょっと疑いを持ってね、言葉を。
ここで出来事って何のこと?みたいな。
雑談というか偽算ですけど、その出来事っていうのはやっぱり、
出来事って言っちゃうと、いわゆる「怒ったことでしょ」とかってなっちゃうから。
昨日石につまずいて転んだとか。
そうそうそう。これを出体時っていう、出来事ってさ、出てくるじゃない。
これを出体っていうふうにも訳せる。日本語で読める。
ことは事実の字だから、あえて出体時っていうルビーを振って、
出来事じゃないんだよ、みんなが普通に使ってる出来事じゃないんだよっていう本もありました。
大説書で。
出来事が出てくることを出体って読むってことか。
今、そう聞いた。
だからやっぱり言葉を、色をつけずに使うってめちゃめちゃ難しいよねってこういうことでも思うんですけど。
あえてとかあんまりにも分かりにくいのに出来事って普通に言うんですけど。
兄貴が話してくれた通りで、出来事って何よっていう話だよね。
出来事と純粋な出来事
一旦すごく分かりやすくするために、これはドゥルーズ自身がやってるわけではないんだけれども、
出来事っていうものを、ある種純粋な、ピュアな出来事と実現された出来事に区別してみましょうと。
おかえりを恐れずに言うと、例えば純粋な出来事っていうのは、出来事のイデアみたいな。
それが実際に起きた、さっき何かが転んだって言ってくれたけど、転ぶとか転ばないとかはちょっと分かんないけど、
それ転ぶことが起き得るとか、ポテンシャルみたいに言い換えてるかもなんだけど、
要はそれ可能性?何かが起きる可能性があるよみたいなことを、純粋な出来事と言いましょうと。
実際に起こったかどうかはともかくとして、人間がイメージできるそういった物事みたいな話ね。
実現された出来事っていうのは、まさに相手が言った人が転ぶとか、雨が降るとか、猫が走るとか、何でもいいんですけど、
それ実際に現実に起きたことっていうのを、実現された出来事としましょう。
たぶん語弊あると思うけど、フィクションとノンフィクションみたいな話ね。
でもすごい近い話があって、この意味の論理学が実はすごい面白いとか特徴的なのが、
不思議の国のアリスってあるじゃないですか、ルイス・ケロールっていう人が書いた、結構あの話をめちゃめちゃ盛り込んでるね。
そうなんだ。
まずフィクションとかパラドクスとか矛盾。
だから今日は何でもない記念日だよみたいなことがあった時に、何でもないのに記念日って何?みたいなさ。
だからそれはある種矛盾なんだけど、でもそこにやっぱり、いわゆる普通の言葉の意味としての意味を感じるとか、面白みを感じるとかってのがあった時に、
結構こういうフィクションとか意味とかって結構近い世界にあるんだよね。
なるほど、なるほど。穴勝ちって話だね。
ここですごい厄介な話なんですけど、
出来事の本質
ドゥルーズさんはこの実現された出来事、それこそ人が滅ぶとか雨が降るとかっていうのは、もはやそれは出来事じゃないんだっていうのをね。
なぜかというとね、それが起きた瞬間はあるとしても、そうなった瞬間にそれは猫がとか走るとか、別の概念とか事象に置き換えられちゃいますよね。
つまりその出来事っていうことと猫が走るっていうことには隙間があるんだよね。
なので、例えばその出来事っていうのが何かが起こるとか、何かが現実世界に現れるっていうことだとすると、
現れたっていうのとほぼ同時ぐらいに猫が走るとかっていう別の事象に置き換えられちゃいます。
だから出来事そのものをつかもうとしても、僕らは猫が走っているっていうことしかつかめないから、出来事そのものっていうのにある種アプローチできないよねみたいな。
なるほど。なんか仏教みたい。
前にとか。前からハエドも前日会みたいな話してたんだけれども、あとこれはちょっとサルトルとかかな、実存主義的な感覚から想像しているんだけど、今その状況に。
例えば猫が走るかな、例えば。それって多分そうだよね。猫が走っている状況を、どこでもいいや。
都会の裏路地で猫がネズミを追って走っているみたいな状況があった時に、それを例えば、それを我々は猫が走っていると表現しました、そういう出来事ですよねこれはと。
実現された出来事ですよねこれはと、話をした時に、ドリルズはいやいやそうじゃないと話をしていると思うんだけど、
それってすごくやっぱ習慣的な話で、それはあくまで人間の聞い取りであって、
それは猫が走っているんじゃなくて、もしかしたらネズミが逃げているのかもしれないし、
猫が走っているっていうのは、地面からすればなんか蹴られているかもしれないし、
もしくはもう都会の裏路地のいつもの光景だかもしれないっていうものが、出来事っていうものは、
すごくその事実とか真実味をすごく帯びているんだけれども、
意味とポテンシャル
めちゃくちゃその、見る人だったりとか、見る角度だったりとか、
によってすごく揺らぎがあるものだし、しかも今言った一瞬一瞬、写真みたいに一瞬で聞い取れればいいけれども、
人間はそんな感じで生きていないから、次の瞬間猫が走っていると思ったらネズミが走っていたりとか、
多分そういう感覚なのかなって思った。
おー、いやすごい、ほんとそう、やっぱすごいよね。いつものさ、兄貴すごいって思うけど、やっぱりね、センスがすごいいいよね。
いやいや、そう、いやいや、ちょっとすいません。
僕は本当にそこまではね、正直一回読んだだけで分からなかったんですけど、
まさにドゥルーズの意味っていうのは、一挙に立ち上がるものとか、襲いかかってくる、襲来、襲ってくる。
襲い来るものだ、みたいなことを言ってたりするのね。
兄貴が言った通り、一個一個確かに、分けていったら猫が走っているとか、ネズミが逃げているとかって言えるんだけど、
それは全部バッと同時に立ち上がってくるし、その中には私が見ているとか、猫は止まっていたとか、
要は今猫が走っているということは止まっていたということだし、猫は止まるっていうことも言えるよねとか。
猫は怒っているとも言えるかもしれないしね、みたいなね。
そうね、怒っているとも言えるしね、それは一挙に立ち上がってくるし、だからさっき矛盾な話をしたんだけど、
すごく分かりにくい言い回しなんだけど、猫が走っているということは猫は止まっているということだ、みたいな。
猫は止まっているということがあったから走るっていう出来事がまさに起きたよね、みたいな。そこって実は一つに含まれるんだ、みたいなことを言ったりする。
クールっぽいね、なるほどね。
やっぱりそういう感覚になるよね。
だってね、生きているってことは死んでいることだとか、そういう風に言えちゃうみたいな話だよね。
雨が降っているということは晴れていることだ、みたいな、そういう話でも出来ちゃう。
どこで人間の認識を区切るかみたいな話も出てくるんだ、その視点だけじゃなくて、その次元的な話だったり、時間軸的なね。
だからね、冒頭に触れた二元論にやっぱり行き過ぎちゃダメ、なんでもバツッと分けちゃダメだ、みたいな話と結構近くて、まさに走るっていうのは走っていることだけがあるんじゃないぞ、と。
みたいなところがあるので、この実現された出来事っていう言葉は、ドゥルーズ自身の言葉では多分ないんですけど、そもそもそういうものはないんだよね、イメージすることはできるけど。
はいはい、なるほど。 その意味で彼は純粋な出来事、さっき言ったイデアっぽいみたいなやつが、純粋なポテンシャル、つまり可能性なんだっていう話をしてて、
なんとなくイメージとしては、これは僕のイメージなんだけど、お風呂みたいなところに水が溜まっていて、それが例えば波打ってますと、それが純粋なポテンシャルで、
そこから水中で泡がポコポコって出てきて、表面にポコって出てきたりするじゃないですか。そのポコって出てきた泡が、出来事というか実現された出来事。
だから意味っていうのは、ポテンシャルとか何かが起きる可能性っていうのは常に蓄えられてるんだけど、それがいつ起きるかとか、起きた瞬間とかを捉えるのはめっちゃ難しいよみたいな。
なるほどなるほど。
なんとなく伝わるかなこのイメージ。
それこそハヤトがイデアで例えたんだけれども、さっき言った人間にはもともと、ポテンシャルってハヤトが言ってたけれども、
純粋な出来事っていうものがフィクションとして認識できるような形で頭の中には存在している。例えばさっき言った猫が怒ってるよとか、猫が腹すかせてそうだとか、走ってるっていうのは全部純粋な、
起こっていない出来事、純粋な出来事っていう話で、そういうものが人間とか人類というか、社会の中には共通認識として存在しているよね。
それがハヤトの言うところのお風呂、水みたいな感じで。
さっき言ったハヤトが泡っていうのは、人間とはいえ一人一人生きていると日々そういう出来事には直面するよね、出来事らしきものね。
意味の世界
猫が走っているような時に、デクワスト確かに、その時に人によっては猫が走ってるっていう人がいた時には泡がポコって出てきた。泡は猫が走っているっていう泡がポコってその人に出てきた。
反対側から見てた人は、あ、ネズミが逃げてる逃げてるって言った時は、そういう人にとっては、その純粋な出来事っていういろんなものがある中から、ネズミが逃げてるっていう泡がポコって出てきた。
ただそれはハヤトが言うところのお風呂、大きな水の純粋な出来事っていう大きな水の中で起こっていることには違いなくて、泡一個一個っていうのは確か色々あるかもね。
それを人々は実現した出来事だとは思ってるんだけど、そんなのはないんだと。
その水と、そういった何かがあるだけだみたいな話っていうふうに認識したかな。
はいはいはい。そうね、人間を主語にしたらまさにそんな感じ。
冒頭にもさせた通り、意味の世界っていうのは人間を超えているっていう話があるから、ちょっとその辺もこれからまさに話していきたいなとは思うんですけど。
でも本当に兄貴が言ってくれた通りで、実際にドゥレーズとかも、例えば木の葉っぱが緑色だみたいなことを僕ら普通に言うじゃない。
木が、もっと言うと木が緑だなみたいな。彼はそれを木が緑化するみたいに言ったりするのね。
つまり、木と緑っていうのはそれぞれ別の概念でさ、要は緑は緑っていう概念だし、木は木っていう概念なんだけど、それをくっつけて僕らは木っていうものとか対象が緑っていう属性を獲得しているとか持っているみたいな、そんなふうに考えるじゃないですか。
そうだね、そういうもんだって。
そうそう、そこまで普段は考えないんだけど、無意識的にそういうふうに考えてるんですよね。
でもそうじゃなくって、やっぱり木が緑化するっていう出来事が過去かいつかどこかにあったから、木が緑として僕らがその意味を受け取っているみたいなふうに捉えられるよねっていうふうに彼は言ったりします。
これちょっと正しくない例なんだけど、情緒的なね、それこそ小説っぽい例だから正しくないけどあえてちょっと言ってみると、
例えばさ、皆さんもなんとなくこうベンチとかでぼんやり座ってた時に、なんかぼーっとして、あ、なんかすごい緑が濃くなってるみたいな。
で、なんか夏になってきたなみたいなことを例えば思ったとした時に、別に木の葉っぱの緑は何も変わってないんだよね、ぼーっとしてる時と、張って気付いた時と。
でもこの瞬間に、要はこの木が例えば緑化して、自分にはその緑が何か濃くなったとか、緑が緑であるみたいな。
そういうものがまさにやってきて、そこから夏が来たなとか、こんな時期かみたいなある種思いが巡らされるみたいなことがあったとした時に、
その緑が緑だってはっと気付いた瞬間って、ある種何かが起きたって言えるよねと。
なので、これはちょっと出来事の正しい説明ではないんだけど、これが例えばそういう木が緑化するとか、
ある種人間とか自分にとってその緑っていうものが意味を持った瞬間っていう風に言えるんじゃないかなって思うんですよね。
はいはい、なるほどなるほど。
言葉と意味の関係
たださっきも言った通り、その意味とか出来事っていうのは、人間に属しているとか、人間がそれを認識するからあるんだとかっていうわけじゃないんですよね。
へー、そうなんだ。そういう風に認識してる今のとこ。へー、そうなんだ。
そうだよね、今ちょっとわかりやすく説明するところがあるから、ちょっと人間がやっぱりその意味を見出すんだとか、生み出すんだっていう感じになってると思うんですよ。
ちょっとサルト的な話をしちゃったけど、うん、違うんだ。へー。
そうそうそう。僕もちょっと台本つけながらそうなってるなって思ったんだけど、彼は全然そんなことは言ってなくて、
はいはい。明確にその意味とか出来事っていうのは、やっぱり人間の存在とか言葉を超えてますと。そういう次元にあるものなんだっていう風に言ってるのね。
例えば、これもちょっとすぐ伝わるかちょっとわからないんだけど、
うん。例えば、そもそもさ、こうやって僕が何か今喋っているとか、何かの表現、絵でも音楽でもいいんだけど、表現しようとするときに、そもそもその人間が何かをする前提として必ず意味の世界というのが広がってますと。
うんうんうん。
なんかさっき言ったお風呂の水っていうのは別に人がいようがいまいが溜まってるんだよね。逆にさ、何かたまに発想力の研修とかあるんだけど、無意味、意味がないことをやってくださいみたいな。
うん、はいはいはいはい。
うん、って言われると結構困るし、でもちょっと前々回とかで言った通り、無意味っていうのも一つの意味、意味がないっていう意味を持つから、それはやっぱり不可能なんだよね。
うん、なるほど。
だからそもそも人間が何かをするとか、そもそも存在しているとかってその時点から、もう意味の世界から逃れることができませんと。
だから人間が何かを見たり聞いたりするから意味が生まれるんじゃなくて、そもそも人間が生きてるっていうのは意味の次元を前提にして起きてることなんだよっていう風な捉え方をしてるんだよね。
なるほどなるほど。はいはい、ちょっと構造主に近いなってきた。なるほど。
あーそうそうそうそう。でも本当そうだよね。だからその実論主義的に人間がいるから世の中意味があるんだとかではなく、そういう構造の中に人間ってのは置かれているんだと。
なるほどなるほど。はいはい。
そうか、言葉もそんな感じだったもんね。うんそうそう。
あの元々人間が言葉を扱うんじゃなくて、その社会的にも言葉っていうものが存在していて、人間をその上にこう存在しているというか、言葉を使わせてもらってるぐらいの感じだから。
そうそうそう。言葉の世界に生きてるみたいな。
意味と出来事
意味っていうのも同じように、人間個人個人とかよりは全然先に意味っていうものが社会的だったり、何らかの理由で存在してて、人間はその意味っていうものを後天的に、それこそね、人間が一人でもそれを獲得して使いこなしていくっていう感じじゃなくて、後天的につかせてもらってるんだよねみたいな感じ。
うん。で、理解すると今の意味っていうものが先に存在するっていうのは、納得というか理解できる気がした。
そうだよね。で、やっぱり意味を出来事と捉えるとそれってもっと分かりやすくて、確かには意味って人間がいないとか生き物がいないとかないんじゃないとかって思いがちなんだけど、
出来事は、ある種人間とか生き物が全部いなかったとしても、ある種起こり続けますと。
まあ風が吹いて石が転がる的なね。
そうそうそうそう。物理現象もそうだし、木が緑になって太陽の光を受けて、澱粉を作るとか栄養素を作るみたいなことっていうのは、別にそれを見たり聞いたりとかそれを考えたりするような存在がなくても、別に起こり続けますと。
うんうんうん。
っていうことだと、出来事っていうのはある種あり続けて、それが何らかの存在に触れるとかそれを対象にできる人間みたいな存在がいたときに、それがそのまま意味としてあるっていうところに、
意味と出来事のイコールで繋がることがあるよねっていうのが、ゼルーズの主張なんだよね。
ああ、そこはやっぱりイコールっていうのが主張なんだ。そこは違うよじゃなくてイコールなんだ。
違うじゃない。意味と出来事がイコール。
ああ、そっかそっか。出来事っていうものが、なんとなく最初言ったけども、事実とか真実性みたいなものがあるんだけど、そうじゃないよっていう意味で、出来事、そういった人間が我々が持っている出来事こそが実は意味なんだよと。
それがどのくらい揺らぎがあるものというか、イコール。しかもそれは自分たちが意味付けしているものじゃなくて、そういうふうに存在するんだよねぐらいの話になってるよねっていう話をゼルーズはしたと。
今言った出来事は純粋な出来事の方ね。兄貴も多分今分かって話してくれたと思うんだけど。
純粋な出来事の方。ああ、いや多分分かってなかったわ。そっかそっか。
そうそうそう。だから、ものが現実に起きたっていう方じゃなくて、その人間が捉えきれない、何かが起きるっていう可能性とか、何かを起こし得るっていう可能性そのものっていうのが意味っていうのとイコールなんだと。
可能性と実現
なるほど。はいはいはい。
すごいね、ちょっと抽象的というか、まさに構造の方の話をしてるから、人間を取り巻いてるね。
言葉とは何かみたいなのに近い話をしてるね。
そうそうそう。意識しない分、ちょっと理解がなかなか見えにくいところはあると思うんですけど。もうちょっともう1回改めて説明すると、まさに兄貴が言ってくれた通り、このゼルーズが言うところの意味とかその出来事っていうのは、
人間が存在する、もっと根底にあるとか、まさに構造としてある、人間がその中で生きてるような、そういう次元にあるものなんだっていうふうな話をしてますと。
はいはいはい。
そこによって出来事がどういう状態であるかっていうと、まさに何かが起こり得るとか、現実の世界に出てき得るみたいな、そういう可能性としてあるんだけど、その可能性っていうのは実現されると、
可能性ってまだ起きないから可能性であって、起きたらその可能性自体は消えちゃうじゃないですか。
例えば自分の持ってる宝くじが当たるかもしれないって思い続けてるうちは、その当たる可能性を持ってるんだけど、当選日を過ぎたらそれはもう当たってない、ただの紙切りになっちゃうわけよね。
そうね。
そんな感じで、要はその出来事そのものっていうのは絶対に現実には現れてこない可能性だから。ここ伝わるかな。
うーん。
うーんってなってる。
うーん?そうなの?可能性は現実には現れてこない?その中の一つがたまたま現れたものとかっていう感じでもなく?
可能性っていうのは抽象的な概念としての可能性ね。
例えば、何がいいんだろうな。宝くじが当たるっていう可能性は、あり続けるじゃないですか、当選日のその瞬間まで。
うん、そうだね。それOK、大丈夫。
それが当選日のルレットが止まった瞬間に、それは当たらなかったっていう事実に変わってしまって、当たるかもしれないし当たらないかもしれないっていう可能性はその瞬間に消え去るんだよね。
はいはいはい、そうね。可能性っていうものはなくなった。
だから、一瞬、すごく刹那みたいな瞬間、その可能性が事実に切り替わる瞬間っていうのはあるかもしれないけど、それはもう人間には掴みようがないっていう意味で、可能性とかそのポテンシャルとか、それを出る純粋な出来事みたいな、
ある種、出来事って言ってるんだけど、出来事そのものがもうその瞬間に過去に行ってしまうとか、それは実現されない。
純粋な出来事と宝くじの例
実現されないっていうのが分からないな。今の宝くじの例で言うと、例えば当たってない状態って、例えば海のお風呂みたいなのがあった時に、出来事が純粋な出来事のプールというか海、風呂があった時に、
その状態って当たるかもしれないし当たらないかもしれないっていう状態?だから、今、ハヤトが言ってるのってもしかして、当たるかもしれないし当たらないかもしれないっていう状態、不確実なというか、
その状態が現実に現れることはないよっていう話。なんとなくここ分かってないのが、当たるかもしれないし当たらないかもしれないよっていう状態っていうふうに、ひとつのような一元の時に一個パーって一個の丸に入ってるんだけど、
今想像してるその出来事とか、純粋な出来事のプール、お風呂、お風呂入りには、宝くじが当たるっていう出来事と、当たらないっていう出来事、二つの丸もある。
ハヤトが言ったら宝くじが当たらなかった時って、当たる玉、当たらない玉みたいな時に、当たらない泡が出てきたよみたいな。そういう意味で出来事って実現してるじゃん。
ハヤトは実現しないって言ってるから、そこがちょっと矛盾っていうか、意味が分からないポイント。
今分かった。何が分かったかっていうと、兄貴は今当たるっていう出来事の玉と、当たらない出来事の玉があるって言ったじゃない。
でも、この出来事は純粋な出来事だから、当たるとか当たらないとかっていう意味を持ってないのよ、その出来事自体には。
え、そうなの? 当たるっていうのはその時点で特定の実証になっちゃってるじゃない。
当たるも外れるも。 これはだから、純粋な出来事じゃないんだよね。
うーん、ああ、そうなんだ。 純粋な出来事っていうのはエネルギーとか、そういう抽象概念として捉えてほしくて。
ああ、そうなの? すごい一気に今日終わりかなと思ったんだけど、一気に難しい話になったね。
そうなんだ。もうあの、今日楽しかったねって話に行くかと思ったけど、なんかここが確信だ気がするよ、今回の。
やばい、30分くらい話したけど全然ずれてることが分かったぞ。 なるほど。
だから、いろんな沢山の泡があるとか、可能性のカオスがあって、そこに走る可能性と走らない可能性と、当たる可能性と当たらない可能性があるとかではないんですよ。
出来事と意味の関係
OK、例えば、0から9まで、1から9まで、どれかが当たりますという宝くじがあったときに、純粋な出来事っていう意味では、7が出ましたまでなんだ、例えばね。
もう一回、もう一回、ちょっと待って。 宝くじさ、1から9のどれかを1個選んでくださいという宝くじがあったときに。
7が当たりであるっていう前提があるわけだよね。
それは、ハヤトが言ったように、例えば当日さ、ルーレットでしか分からない状態があったときに、ハヤトが言うとこの純粋な出来事とか意味っていうのは、その状態ではまだ抽選がなされていない状態があります。
ルーレットの結果、例えば7が出ました、当たりがね。一応その瞬間までは出来事、純粋な出来事と言ってよくて、それが「はい、7当たりました」で当たった人が出たりとか、外れた人が出たっていうのは、それはもう実現した出来事になっちゃうから。
そこにさっきハヤトが一瞬みたいにこだわってたのは、そこの切り替わる瞬間っていうものは確かにあるんだけど、本来的には当たるか当たらないか分からない、ふわふわっとしたものっていうものこそが意味だったりとか、純粋な出来事みたいなふうに捉えてるみたいな感じなのか。
そうだね、そうだね。だいぶ揃ってきたと思う。
難しくない?
難しいのよ。
だからさ、さっき猫が走ってるかもしれない、走っているっていう意味もあるし、お腹が空いてるって意味もあるしみたいな感じで、どれかが出てくると思ってたんだけど、違うんだね。猫がなんかあるみたいな、そもそも猫かも分からんみたいな、めちゃくちゃふわーっとした、
それこそ言葉とか人間のイメージを超えた世界の生き物かも分かんない、何かが、それこそ実存主義的になっちゃうんだけど、何かが目を捉えているぐらいの、何かが物があるかもしれないぐらいの、ふわふわーっとしたものがあって、
だから誰かが猫が走ってる状態を見たときに、猫が走っているって言った瞬間、それを猫だって断定した瞬間っていうのにも、それは実現されちゃってるし、みたいな話か。
そういう話。
この話に何か意味あんの?それこそですね。何の話してるんだこれ。
あまり言葉とかイメージを超えすぎてて、何がすごいのか分かんなくなっちゃった。
その不思議さを感じるのは面白くない?何を話してるんだっていう。
そうだね、ここからそうだね。ズルズがどうしたかったの?
改めて皆さんにお伝えすると、まさにアインケーって書いてある7のルーレットの話はすごく分かりやすいなと思って。
例えば、0から9の数字で7を持って、何があったのか分からない状態の中で、ルーレットがぐるぐる回ってますと。
その状態はまだポテンシャルというか可能性の状態だよね。
それが止まりかけて、止まった、見たとか止まったとか、7っていうNの音を出す前にもそれは現実化してしまって、実現されたということになっています。
その瞬間にはもうポテンシャルはポテンシャルじゃなくなってるんだよね。
だから、何が当たるかもしれないとか、当たるっていう可能性、これはもう当たるって一個も一緒にやっちゃってるから、それはもう純粋な可能性じゃないんだけど。
その可能性自体そのものが、7っていうNの音を出すその手前にもうなくなっているっていう、この時間的な瞬間性。
ちょっと言葉で言い晴らしにくすぎて、僕も多分何言ってるかってなってるかもしれないですけど。
今のは何言ってるんだろうな気がするけど。
そうだね、今の話を踏まえて、多分前回か前々回に言ってたさ、やっぱり今回の意味っていうものが、前に言ってた何回も出てくるけど、イスラム哲学で言うとこの存在が話するんだ。
っていうのと、存在は意味するんだっていうのがほぼニアイリー=みたいな感覚みたいな話があったと思うんだけど、その観点からいくとものすごく納得はする。
存在が意味する
だから、すごい難しいね。確かに前半は猫が走っているっていうところ自体に意味だったりとか、思い出してたんだけれども。
確かにさっきの存在が何かわかんない。猫って断定した瞬間にすでに実現した意味になっちゃってるレベルで考えると、まずその存在が話する、存在が意味する、存在が出来事になるみたいな。
存在が実現した出来事になるみたいなね。感覚はわかった気がする。
それが、スタートラインがめちゃくちゃLCC。まさにそうだね。存在が実現した出来事になるとかの方が近い、今日の言葉で言うと。
そうすると、その意味で言うと、その例えで言うと、確かに何か存在が何かわからないものがあった時に、
あと今日ハヤトが出してくれた例で言うと、ふと公園に座っていて、木を見上げた瞬間に、それが「あ、緑だな」っていうのは緑化する。
存在が緑の木になった瞬間だよね。何かが。それイコール意味であるんだよね。それがイコール存在であるとかじゃなくて、イコール意味とか、
実現された出来事である、イコール意味である、みたいなものはとても納得性は高いよね。
だって本来、ということは、人間の認識から言うと、それは事実だとか、真実だと思っていたような、存在そのものだと思っていたような根っこだったりとかね、
木が緑だ、みたいなものすら、実はそれは事実でも何でもなくて、ただの意味だったんだぞとか、ただの実現された事実だったんだぞっていう気づきだよね。
たぶん、一個認識の殻をパカッて開いてくれた瞬間だと思う。
そうだね、本当にそんな感じです。
でも、だから何なんだけど。
それが分かったとしてね。
クーとかゼンの話に近い。だからどうすればいい、俺たちはってなっちゃうんだけど、
でも、なんとなく意味というかね、早友と伝えようとしたことは、こんな感じで、どうですか?
でもね、本当にそんな風に捉えてもらえたら嬉しいです。
やっぱり、これまさに兄貴が言っていた通りで、その抽象的な意味そのものを扱うのって、僕らが今、まさに現に生きてるわけじゃん。
僕らは実現された出来事の世界に生きているから、その純粋な意味とか出来事の世界について知ることに何の意味があるんだって、まさに思って叱るべきだと思うのよ。
だって僕らも生きてるし。
そうだね、なんか一周回ってさ、ポスト構造主任まで来たけど、プラトンに戻ってんじゃん。
そうだよね、ちょっとまた抽象的な。
まさにそれは正しいというか、実存的な生きてる人間として正しいあり方なんだけど、別にそんなことはよくわからんことは言わずに飲んで歌って楽しく生きてればいいじゃんっていうのでも全然いいんだけど、
でもやっぱり僕はその、前回言った、生きてることに意味がないっていう前提から話してるから、だから意味がない存在がどうして意味付けられるのかっていうところがめちゃめちゃ興味があるわけね。
なぜ意味というものが人生にはやってくるのかとか、そもそもどういう構造があって、まさに構造の中に人間が生きてるから意味というものが意味を持つのか価値を持つのか、意味と価値は違うんだけど大事になってくるのかっていうところがある種知りたいみたいなのがあって、
まねてこんなよくわからんことをテーマとしてやろうとしている。
なるほど、ある意味周り黒かったりとか、それこそ意味不明な感じはするんだけれどもって話だね。これが今ちょっと実存主義っぽい感じから捉えてはいるんだけれども、実際は多分もっと構造主義的な視点から、
意味だったりとか出来事っていう話をすると、このドゥルーズの言う話みたいになってくるよねってことなんだね。人間は意外とそれを構造的にそうなっているのに、自分主観でとか実存主義的に意味とか出来事っていうものを捉えちゃってるよねっていうところを、
ある意味客観視させてくれてるっていうところに凄みがありそうだね。
だからやっぱり論理学なんだよね。論理って人間と話えてるじゃないですか、別に自分がカラスはハトだとかって言ったとしても、どんなに主観的に自分にはこのカラスはハトにしか見えないとかって言ったとしても、論理的にはカラスはハトではない。カラスはカラスだ、ハトはハトだっていう風にバッサリ言えちゃう。
みたいな感じで、やっぱりもちろん人間に、こういうこういうの、このぬいぐるみには私にとってものすごい意味があるとかって意味はもちろん存在するんだけど、それとはもっと違う次元、人間を超えた次元にもっと意味っていうものとか出来事っていうもののやっぱり根幹があるんだみたいな。
意味と出来事の関係
そういう考え方は、やっぱり普通はそうしないんだけど、なんかすごい魅力的に感じるんだよね、僕は。
なるほど、なるほど。
そうだね、言葉とかやっぱりそんな感じの驚きはあったもんね。
そうそうそう、言葉もね、やっぱり自分が覚えてとか使ってとか生み出してって思ってるけど、実は言葉の中で生きているみたいな話もさ、やっぱり言われれば納得するじゃない。
そうだね。
だから、意味とか出来事に関してもそれと同じような構図がある。僕らが意味を生み出したら操ったりしてるように見えるけど、実は意味の中で僕らは生きてるんだみたいな、そういう視点の転換というか、逆転ってなんかあるよねみたいな。
はいはいはい。
ちょっとこれも単純化していってるから、うちデルーズがそう言ってるわけではないんですけど。
まあ、2冊ぐらいの本をね。
そうそうそうそう、めちゃめちゃね、もっと細かい色を描いてるから。
デルーズは結局この本では、今の意味=出来事だよねみたいなところが一応テーマではあるって話なのかな?
いや、それもね、一部の話で、もっと言うとこの手前に出したのがなんだったかな、ちょっと名前忘れちゃったんだけど、前の本と繋がってるのはその大きなテーマとしては確か。
だからこの本だけ読んでもわからんよみたいな感じになってて。
全体の主張の中の一部みたいな話なんだね。
そうそうそう、その中の意味についての話とか、そういう出来事とか、自分と人間の世界どうかがあっているのかとか、そういう領域の話だよみたいな感じだから。
やっぱデルーズ全体の思想を話そうと思ったら、やっぱりそれこそ5回とか6回分ぐらい、ちゃんと話さなきゃいけないっていう感じですね。
はいはい、なるほど。
うん。
まあでも、そうだね、また前回の言語学的な感じとも全然雰囲気違うね。
そうなんだよね、なんかここがすごく僕もまだどう表現してるかわからないんだけど、やっぱり言葉と意味ってすごく密接にかかってると思うし、言葉があるから意味があるぐらいに普段思っちゃうんだけど。
うんうん、多少同じじゃんぐらいだね。
そうそうそうそう、やっぱデルーズからすると、意味っていうのは言葉を超えてるんだと。
そういう言葉がそもそも意味っていうものを表しているのは、その手前とかもっと外側に意味の世界っていうのがあるからな、みたいな考え方なんだよね。
はいはい、まあそうだもんね、やっぱ存在とかなんか見たときに、猫だとかって、あと木が緑だって思うのって言葉超えてるもんね、言葉がなくてもイメージだと思うかもしれないもんね、原始的に。
言葉を使えない赤ちゃんを見たときに、あ、きれいとかってもしかしたら思ってるかもしれないもんね。
言葉の意味を超える次元の意味
そう思ってるかもしれない、とか、例えばそれこそね、前回動物の話もあったけどさ、動物もだから、例えば、なんだ、花がいい香りがしたら蜜を取るっていう、そういう取っていい合図みたいな、そういう次元の意味っていうのは捉えてるわけじゃない。
だからやっぱりその、なんだろうな、言葉っていうものはすごく便利だから、やっぱりこう、それに頼ってしまいがちなんだけど、見る聞く話す、聞く話すは言葉か、見るでも、嗅ぐでも、味わうでも、触るでも、やっぱりそういう語感っていうのは当然意味を生み出すっていうか意味を感知するし、
でも別にそれがなくても意味っていうものは存在し続けている。意味が存在するってちょっと語弊があるな。意味っていうものはありうる世界に。
ヨウ:でもそうだね、なんとなくこう、バーっと意味とかってこう、バーっと使うよりも、確かにさっきの純粋な出来事みたいな風に言ってもらえると、なんとなくその意味っていうものをどう定義しようか、みたいなものはすごく伝わってくる感じですよね。
そうですね。 ヨウ:でもさ、今回確かにすごい面白いというか、またね、その人形認識っていうものをまた違う側面から、言葉とか違う側面から見せてもらった感じはするんだけれども、
今回ハヤトがやっていく意味だよね、という中で、次回以降どんな風にこれは絡んでくるのかなっていう。
ヨウ:はいはいはい。 多分一つの雑学とかじゃなくて、一応ハヤトの意味っていうものはなんだろうかっていうところの中でも話だと思うけど、
ヨウ:この話はそのハヤトの中ではどういう位置づけなの? それはですね、最後にまた話したいなと思ってて。
僕も正直明確にこれだって、やっぱりイケてるかって正直イケてなかったりとか、
次はその山内職隆さんっていう日本の哲学者の方を、それこそ今日もちょっと言った意味と価値って何なの?みたいな。
マーチさんは意味と価値は違うって明確に言ってるのね。 まあそんな違いについて考えたことないけど。
ヨウ:ないよね。ところから意味をまた切り分けていって語ったりするんだけど、やっぱりっていう時の意味と、さらにその次は僕、禅の話を持ってこようと思うんだけど、禅本法の話。
ヨウ:やっぱりそこでの意味っていうのも同じ意味っていう概念で僕らは捉えてるんだけど、同じところもあるし違うところもあるねみたいなところが今すごい面白くて。
なるほどなるほど。じゃあある意味あれだね。意味最前線みたいな話。 ヨウ:最前線とは言えないけど。
意味の概念に対する異なる捉え方
まあいろんなね。そうかさ、意味をいろんな人がこういう風にいろいろ捉えてるよねっていう中で出た話ね、まず。
ヨウ:そうそうそう。だからそういうのは意味とはこういうものだとかっていうよりは、ちょっとアンソロジー的に意味についてこんな話もあればあんな話もあるしみたいな。
ちょっと今回はそういう感じです。 なるほどなるほど。
ヨウ:そう。なので皆さんもなんか、普段はこう考えない。もう一生考えてて一回考えるかどうかだと思うの。意味とは何かみたいな話って。
でも今回さ、5回分くらいこうやって1時間じゃないか3、40分話してるっていうのは、たぶん皆さんは、たぶん今地球にいる70億とか80億人にいる中でたぶん一番意味について考えてる人たちだと思う。
なるほど。まあそうだね。かもしれないよ。 ヨウ:そうそうそう。
ヨウ:なのでそれを一緒に楽しんでいただきたいっていうすごいわがままな。
ヨウ:それが他の百回軒の趣旨なので。 はいはいはい。
ヨウ:ごめん。 ちょっとそれについてあんまり結論とかは求められるとすみません答えられないかもしれないです。
ヨウ:まあそうだもんね。確かに意味の研究成果の発表ですとかじゃないもんね。
じゃない。そうそうそう。 ヨウ:これ面白いと思ってるんですけど。
ヨウ:はいはいはい。 そうそうそう。こんなもん読みましたって言っただけの話だから。
ヨウ:うんうんうん。
ヨウ:でも面白そう。次もそうか。日本の哲学者の方とあったり禅の話っていうのもまたそっちの視点からこういったね。
ヨウ:意味って何っていう話が出てくるんだね。 あ、そうそうそう。
意味と価値に関する話題
ヨウ:うん。 だからちょっと今回は壮大な雑談なんですよ。自分の中では。
ヨウ:うんうんうん。はいはいはい。 ぐらいのね、ちょっと感じで。
ヨウ:まあとはいえね、マニアックに意味について語ってきたと思うので。今日の時間も。 うんうんうん。
ヨウ:はいはい。 なのでちょっと皆さんもなんか、これはね。
ヨウ:サインキーととり、なんか意味があんのかとか。もし自分にとって意味があるとしたらこうじゃないかとかっていうね。
ヨウ:なんかそれちょっとモヤモヤをね、ちょっと楽しむようなお時間として。 はいはいはい。
ヨウ:はい、あのお付き合いいただけると嬉しいなという感じですね。 うんうんうん。
ヨウ:了解です。あ、でも面白かった。なんかうん、なんか最後の最後で、あ、全然。
ヨウ:なんかね、30分経ってからなんか隠しに入ったような感じがあったけど。なんかそれも含めて面白かったね。 確かに確かに。
ヨウ:うん。わかりました。じゃあ次回は、じゃああの日本の天才学者山内特留さん。
ヨウ:ということで、価値と意味と価値というところの話を見ていきたいと思いますので。 そうですね。うん。
ヨウ:みたいなところをね、触れながら、はいちょっといろいろまたさらに意味についていろいろなこう観点からお話ししていきたいと思うので。
ヨウ:うん。了解しました。はい、では次回も引き続きよろしくお願いします。
ヨウ:お願いします。今回もありがとうございました。
♪~
01:01:50

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