なので今日は鬼塚紀八郎という人物というところと、あとは鬼塚紀八郎が亡くなってから現代で一体何が起きているのかっていう大きく二つのテーマを伺っていきたいなと思うんですけど、まず創業のところですね。鬼塚紀八郎、1949年に神戸で鬼塚商会を創業したと。
ジャンルとしていろいろある中で、やれる中でシューズを選んだっていうところなんですけど、結構やっぱり創業のエピソードってその会社のその後にも続くDNAがそこに詰め込まれているのかなと思うんですけど、そのなぜシューズだったのか、その当時の時代背景、ちょっと本の内容と一部重複するんですけど、中部さんはどういうふうにご覧になりましたか。
非常に終戦直後の企業ということなんですけども、企業というよりも今風に言えば敗戦の直後のやけの原というのは、実は日本の第一スタートアップブームなんですよ。
多分ソニーもホンダ、これ有名ですけども、京都の堀場製作所をはじめ、のぎ波その終戦直後の苦しい時代の中から、いわゆる戦前というよりも戦中派の人たちが中心になって、戦後スタートアップを次々に作っていくと。
その中で共通しているのは、当時敗戦直後の様子っていうのは、いわゆるいろんな映画とかドラマ等々であるいは小説も含めて、僕が思うにやっぱり一面的なんですよね。
本当に苦しい、あるいは過酷な、あるいは非人道的な面もある一方で、ある種の希望のあった時代なんですよ。非常に矛盾するんだけど、食いや食わずで犯罪だらけでという中で、希望ってなんだ。
それは単純に戦前の国家主義的なものから自由を得たっていうだけではなくて、そういう理念的なものを超えた、なんか全部が終わって、空襲の恐怖からも解放されて、おっとしたっていう。
その中で日本の将来を本当に前向けに悩む、そこに答えを出していくっていうのがストーニーでありホンダなんですね。
アスティックスも、当時はオニズガっていう会社名ですけど、清町さんも間違いなく、自分が生きてる意味、戦後の道策さんの中で、金儲けをして、自分が生きながら言えばいいという生き方をせざるを得なかった時期もあるんですけども、
このまんまで人間としていいのかっていう、特にたまたま自分の同級生から文武官僚側になった自分の友人からですね、健全なる体に健全なる魂を養ってほしいと、こういう多分日本の保健体育の、今でも言われてると思うんですけども、原点を聞くんですね。
それはその通りだと、この闇市の中で喧嘩をしたり、物を盗んだりしてる子どもたちを、こいつらが大きくなって、日本という国はどうなっちゃうんだっていう、今の若い人たちも非常にそういう、こう、社会課題を解決する中で自分の存在意義を確認したいっていうような人が多いと思いますけども、
それはどっちかというと平時であり、客観的に言うと非常に恵まれた時代の中での社会課題を解決したいっていう、非常に恵まれた時代の中での発想なんですよ。
でも本当に悔いや悔ずの中で、アメリカの占領地下にあった時に、それでも日本の将来を考えづらいないという、きれいごとではなくてどうなっちゃうんだよっていう、そういう思いを持ってる企業家がたくさんいたんですね。
その中の一人が清一郎で、彼はどうするかっていう時に、その友人の健全なる身体と健全なる精神という、身体性に急に彼は着目して見た時に、このどうしようもないやんちゃなガキどもをまともにするには、まずスポーツをやらせなければいけないと。
説教も何も言ってる場合ではなくて、スポーツにかつるを乱そうと。そのスポーツの最初の一歩は何と言っても靴、シューズであると。
みんな穴の空いたズック靴、ズックなのも仕様ですよね。学校の上屋梯のような、穴の空いたスッポイ靴を履いている子どもたちにちゃんとしたスポーツシューズを履かせようという、これが鬼塚の原点ですよね。
そうですね。今の中でもいろいろなメッセージがあったと思うんですけど、身体性に着目したんですよね。身体性って、この情報が極まった世界でも身体性が大事ってことは今言われてますけど、終戦直後にその本質に気づいていたってことなんですかね。
そこがやっぱり素晴らしいところで、あの終戦直後ってのは、生きるために物を食うとか、どうやって食料を調達するとかっていう、そういろんな視点があったはずなのに、そこでやっぱり身体性に着目したのは、
目の前にある子どもたちの風景っていうものが多分、鬼塚さんは非常に強くて断れない人間なんですけども、その一方で非常にナイブな感性を持っていて、その様子が多分、なんか一つの映像を見るように彼の頭に残ってたんでしょうね。
やっぱり創業に至るまでの鬼塚紀八郎が見聞きしたもの、体験したものも結構、すごくビビットに書かれてると思うんですけど、やはり闇市で子どもが騙し騙されみたいな、そういうことをやっていたり、あとは最初に勤めた会社が怪しげなビジネスをやっていて、
土作さんに紛れて土地を自分たちのものにするとか、あとは体育館を、ある意味綺麗事を言って体育館を作って、それを別のビジネスに転用しちゃうとか、そういう何でしょうね、志はありつつも、綺麗事じゃないっていう現実をずっと見てきたっていうのが、やっぱり自分がやることは健全な身体であり健全な精神なんだっていう、そこに繋がっていったってことなんですかね。
そうですね、その怪しげな商社に彼は結果就職するわけですね。自分も食べていかなければならないし、養父母もいるというので、非常に怪しげな商売に手を貸すわけですけども、でも客観的にはそれは怪しげでも何でもなくて、戦後の日本史そのものなんです。
勝手に不動産の線引きをやって、腕力のある者が制していくと、で、のし上がっていくと、たぶん日本経済の戦後のスタートは、東京も大阪も神戸も福岡もみんな同じような成り立ちだったんだと僕は想像してるんです。
それは今だからこそ道徳的に良いの悪いのを有名にしますけども、そんな時代にとにかく稼いだものが正義、金を持っていることが正義っていう時代に、だから清一郎さんもそこに勤務をしたわけですよ。でも根が優秀だから。
そこで軍軍たちを上げていって、最後はその怪しげな勝者の社長の右腕まで行くわけですね。ある意味人生としてみれば結構ラッキーでやったって感じなんですよ。この苦しい戦後の土作戦の中で十分な資力を得て生活を再建した。
でもその中でこんなことをやっていていいのかというのは、それはよく言われますけども、そこは彼の軍人としての、やっぱり自分だけが生き残ってしまって、その生き残った自分がこんなことをやって、ただ金を稼ぐ人生でいいのかっていう。
そこはね、やっぱり生き残った元陸軍兵士将校の、ある意味戦前間違った価値観ではあったけど、そうは言っても国のために働くっていうね、そこは間違ってただ思ってないわけですよ。全員が兵士が。
たまたまそういうもので動いただけであって、それが負けて戦後になったという時に方向感は失っちゃったけれども、もっと根っこにある、なんか国のために役に立ちたいっていうね。そこはね、やっぱり軍人ならではの価値観があったのではないかというふうに思いますね。
そうですよね。確かに創業したのが49年で、この時が31歳ですかね。ってことは終戦がその4年前なんで、27歳とかだったと思うんですけど、27歳で終戦ってことは当然その20代は軍隊で過ごしていて、それがきっと刻み込まれていたわけですよね。ちょっとさっき第一次スタートアップブームってお話もすごく面白いなと思ったんですけど、スタートアップがその後大企業に伸びていく過程では、多分これ一般論でいくつか重要なポイントがあって、
最初は多分、どうやって生き残ったのかっていうところ。その後に、いつ非連続的な変化というか、ブレイクしたポイントがあったのかっていうところがあるかなと思っていて、ちょっと順に伺っていきたいと思うんですけど、最初その生き残るというか、まずそのものを作って売らなきゃいけないんで、色々やったじゃないですか。
つまり、靴の工場に修行に行って、1年間修行したりとかですね。後は高校のバスケ部に通って、選手の記憶をずっと見て、何が一体ポイントなのかっていうのを研究したりとかですね。物ができた後には、トン屋に売りに行くんですけど、でも無名のメーカーなんで、全然相手にされなくて。
デッチ暴行ですかね。デッチ暴行の小僧さんからも、来んな来んなみたいなこと言われて怒るみたいなシーンがあって。多分色々、その創業期の苦労があったと思うんですけど、どの辺りの行動っていうのが、この鬼塚、そして鬼塚喜八郎を生き残らせたというか、ビジネスとして成立し得た。どの辺がポイントだったというふうに思われますか。
アベベが優勝したローマオリンピックっていうのがあったんですけど、その前のオリンピックで初めて鬼塚が作ったスポーツシューズで、オリンピックでメダルを取ったのがレスリングなんですね。
多分これはブランディングっていうことと、そのブレイクするっていうことは結構リンクしてくると多く思っていて、ちょっとものが売れましたっていうのではなかなかブレイクができそうでできないというときに、
シックスの場合はオリンピックっていうね、この4年に1度の世界中から評価されるっていう、これが大きく効いたんだと思うんですよ。
たとえば今年もワールドカップがあってね、そこで活躍すると日本国内では有名だけども、世界的には無名な日本の選手が突然素晴らしいシュートを打ったからといって爆発的に野球が高まってケア金つぼるケア金で移籍してますよね。
あれと同じだと僕は思っていて、千八郎はやっぱり国体とかアジア大会とかオリンピックとかというその大会で結果を残してもらう。そのために選手に寄り添って、もちろんものづくりは徹底的にやるんだけども、最初の思想としてその選手に寄り添うところがその選手が気に入る。
あるいは気持ちよく、あるいは100%出せるようなシューズを作ることによって鬼塚ブランドを広げていきたいという。結果、これが一気にブレイクしたというよりはアジア大会、日本もちろん国体、そういうものを通じて徐々に徐々に結果を残していく。
その中でオリンピックでメダルを取るっていう。これが最初のブレイクのきっかけであり、生涯千八郎さんは4年に1度の人生を歩んできたのもその成功体験のあったんじゃないですか、大きくね。
ローマ五輪が1960年ですかね。なんでその4年前というと1956年なので、創業して7年ぐらいということですね。そうですよね。もうオリンピックで結果が出る前に選手に直接自分たちのシューズを送って、無料でもいいから使ってください、その代わりフィードバックくださいというのもずっとやっていたわけですもんね。
文人にも変わらず、マーケッター的なセンスがあるんですよ。ただ資料の端々には、当時有名であったマーケティングの理論を読んだんだろうなっていう縁はあるんですけども。
でも読んだからやったというよりは彼のほとんど動物的観によって結果マーケティングの理論に合うような行動を取ったけども、もっとね、千八郎さんというのは行動一つ一つに魂が入ってるんですよ。
この選手に応援したいと言うんだと、応援する選手が本当に寄り添って何欲しいんだっていう、どうして欲しいんだって、いつまでやって欲しいんだっていう、そういう感じなんですね。
理論でまとめると、不倫愛で、僕も書き方を書くときも、ある意味何も知らないおじさんとして書いてるわけですよ。千八郎さんがあらかじめものすごい優秀で、
そのBSトレンドを自分がかぎつけ、あるいはそれを分析し、マーケティング的にはどういうふうに、どんなマーケットにどういうようにいいのかっていうものが全体像が見えていて、取り組んだというよりも、本当にここまで言うと厳密にはわかんないけども、
少なくとも僕が感じた千八郎像は、バータリー的にバータリーなんだけども、それはすごい魂から出た行動の積み重ねによって、結果的に見ると構成何々の理論に乗ったような、という体裁を取ってるねっていうことですね。
私も結構同じ印象を感じまして、確かにスポーツマーケティングの元祖というか、その選手に使ってもらって、それをデータに生かしてっていうのは、今やられてる手法の先駆けなんですけど、多分スポーツマーケティングをやろうと思ってやったんじゃなくて、必要に駆られてと、多分選手ファーストっていうんですかね、そこがまずあって、その行動になったのかなっていうのは個人的にも感じましたね。
いや全くその通りで、選手のためにっていう、それだけなんですね。シューズを作るっていう開発においても選手が頭にあるし、その障害という部分で選手のコーチや、あるいは選手個人に作った製品を送るということも、それを気に入ってもらってすぐOKというつもりは全くなくて、
一回履いてもらって、これはどうなんですかっていうそのフィードバックもあって、最初から答えを出そうという気がないというか、正解を出そうという気がないというか、正解は一緒に作っていくっていう、多分ね、言ってもいないし、資料にもないんだけど、彼の行動パターンをずっと追っていくと、その正解を用意するのではなく、
自分がまず正解に近いなというものを出して、それを選手の感覚、選手、アスリート、トップアスリートでしか感じられない感覚で判断してもらったら、そこを調整する。でも選手は言語化になかなか問題があって、感じたものを言葉にするって結構難しいですよね。
ましてやアスリートになっちゃうと、余計言語化が難しくなるんで、そこをまた汲み取るというわけのわかんないことを、ちゃんとそれを、じゃあこういうことですかと、問いかけしながら言語化していく、その障害というセクションのプロとチームが生まれてきて、
それはまた開発に戻してっていう、そういう意味では、到底ある意味では理論に収まるようなものではない、すごいことをやってるんですね。
現実に当ててみて、フィードバックを受けて、それを何回でも何回でもしていくっていうことですよね。これちょっと後で伺おうと思ったんですけど、それを可能にしたご本人の気質であり、また組織体制っていうのがあったと思うんですけど、
オニツカキハショウってどういう人だったのかなっていうのは、ぜひタカラミさんに伺っていきたいなと思うんですけど、すごい明るそうだなというところもあれば、多分厳しいんだろうなっていうところもあり、あと新卒の入った方々が家族のように寝泊まりして、その方々の後の発展を支えていくっていうストーリーもあるんで、親分肌だったのかなみたいなことも想像するんですけど、どういう人間だって書かれていて調べていて思われましたか。
ヒエシロさんはすごく明るくて寝なかな雰囲気なんですけども、幼少期から鳥取一中を卒業する頃までは病気のせいもありますけども、鳥取っていう地域性は山陰と言われるように決して明るくないというか、暗いわけですよ。
地域性としては蛍光としたってことですね。
もう蛍光としてても明らかな実態として、それは日本海側の人に行くとみんな自ら言います。その島根も鳥取だけじゃなくて島根も、徳井とか新潟行ってもやっぱり日本海に面している地域は気候的にほとんど年間通して晴れる日が少ないという意味では、
やっぱり寝やかな輪郭っていうのは育ちにくいですよね。で、清一郎さんも間違いなくそういう鳥取技術というものを引いてるんですよ。面白かったのは、本の中にも登場する鳥取大学を卒業した大卒一期生がいるんですけども、
彼にオレゴで話をいっぱい聞いてるんですけど、清一郎さんが生まれた明治村っていうのはどんなところなんですかって言ったら、山奥なんですね。鳥取大を卒業した一期生は海沿いの漢村だって言うんですよ。
ですから僕も鳥取市内から見ればとんでもない田舎だと、また海が荒れて暗くて本当に暗い村でしたと。でも昼帰って明治村に目を寄るとあそこはあんな山奥で自慢じゃないけど、オレの村の方がまだいいっていう。
そういう言い方をしてたぐらい、なかなかな田舎の決してアクロギーとは思えない雪深い地域なんですよ。そこで大々商屋として、実際に明治村の経済を回す事業もやっていて、町に物を売りに行く。
そういう責任を負った家にいた人間として、きちんとして粘り強いっていうね。明治村そのものを持っている鳥取県もそうですけども、中でも明治村という山奥の地域で育った木屋城さんの、
たぶん本質的なネイチャーは決して値上げではなくて、その物事を真面目にしっかりコスコスとそして粘り強くやっていくっていう、このね、性質がたぶん一番のネイチャーではないかと僕は思うんです。
だから出自がそうなので、やっぱりこうなんでしょうね、決してたぶんその自然環境としても恵まれていたわけでもないと。でその中で生活をしていくんで、こう足腰の強さっていうんですかね、コツコツやっていくっていうところがひょっとしたらこう気質としてはあったかもしれないですよね。
明らかに写風としてはその木屋城さんのネイチャーの方が写風にしっかり反映しているんだと思いますね。ただね、値上がっていうのも嘘ではなくて、誰に聞いても本当に太陽のようだとか、で実際に本人もひまわりを絵が好き、ひまわりを描くことが好きだったり、
本当にそういうものがあったことも事実なんですけども、たぶんそれは軍隊経験。彼は陸軍師範学校に結果的に受からなかったんで、普通の一平数として陸軍に採用され、そこでその幹部の昇格試験を受けて昇校になったんですけども、
軍隊を持っている流人な暗さというか、戦争の体験をもとに流人な経験をしていくと、その中で自分が本当に世話になった先輩の兵士であるとか、その鬼塚夫妻とか、明るい器用になるものを少しずつ見出しておくわけですね。
で、それが戦争終わって暗いけれども、もう一方ではどんどん発展していく、あるいはアメリカのが占領家で持ち込んできた様々な文化とかっていうものの中で、人はやっぱりその軍隊式に頑張れるわけでもなくて、明るくあるいは希望を見出す中で人は伸びるんだっていうものを、
豊天的に身につけていったんだろうと思うんですよね。ちょっとさっきお話になりましたけど、新卒一期生の活躍ってね、合宿所生活のような中で明るかったっていうものもあるんだけども、本当に根垢の部分ってのは新卒一期生とともにもう一度第二の創業のようなこれ、そこから始まってる気がしますけどね。
そうかもしれないですね。新卒の方が入られて、新職をともにしながら、つまりあれですよね、尾根塚貴八郎夫妻自身もオフィスとか仕事場ですかね、に今日構え、そこに新卒も寝泊まりさせて、奥さんがみんなのご飯を食べながらという生活をしていたわけですもんね。確かにそれって第二のスタートな感じがしますね。
これもね、言い方難しいんだけど、自分の両観の世話になった関係ないご夫婦の養子となって面倒見るわけですね。そこに突入できた奥さんは、嫁姑の問題もあるし、結構辛かったっていう話もあるわけですよ。
そうすると新卒規制が来て、合宿所のような形になって、奥さんも言えば嫁姑の問題からも解放されて、貴八郎自身も養父母への気遣いというものからある意味みんな解放されたんですよ。
終戦で日本人はだいぶ解放されたけれども、貴八郎は起業した後もその養父母の問題でプライベートでは気を使いまくってたんだと僕は思うんですね。それが新卒一期制の合宿所を作ったことで、いろんな意味で解放感があったんではないかっていう、これは確証ないんで本には書いてませんけども、僕はそう思ってますね。
すごいリアルな話ですね。可能性ありますよね。やっぱり仕事とプライベートって表裏一体というか、プライベートで何らかの懸案事項があると仕事に100%集中できないってことってあるじゃないですか。だからそこがひょっとしたら上として下がったから、仕事の方に邁進できたっていうのはあるのかもしれないですね。
だから最初にこのストーリー持ってきたわけなんですね。アベベに靴を履かせるっていうのを一番最初に持ってきたと。結局その結果としては、アベベに60年の五輪から64年東京五輪までアプローチをし続けて、ただ最後は契約の壁に阻まれてしまうじゃないですか。
一方で、つぶらや広吉含め、銀メダリスト銅メダリストの靴は鬼塚だったっていうところが結果。これもやっぱりなんでしょうね。アベベはかなわなかったんですけど、やっぱりそこまで高い目標を掲げたから、一つの結果につながったってことなんですかね。
そうですね。やっぱり今のね、オリンピックのマラソンレースで金銀銅が独占するとか、そのうちの二人が自分のメーカーの靴を履くっていうのは大変なことですよね。
それはやっぱり東京オリンピックってまだようやくもうや戦後ではないという言葉がやっとできた当時で、でもそれは戦後ではないだけで、世界的には全然踊ってるわけですよ。何もかもが。
でもその中で圧倒的なマラソンシューズという世界で銀銅を取るっていうのは世界一を目指したからできた結果で、鬼塚は本当にアベベに履かせていれば金銀銅独占だっていうことを思っていたらしいですよね。
いやー、でもそうですね。それはかなわなかったですけど、でもそうですよね。世界一を目指したからそこに行き着いたってことですよね。
結構その後も鬼塚喜八郎とアシックスの歴史で、オリンピックっていうのが不思議めに書かれてるんですけど、それで言うと1976年のモントリオール五輪で決勝の前夜に選手のスパイクを2ミリ削るというシーンが非常に印象的でした。
まあこれは本書の山場かなと思ったんですけど。
僕も取材をしていて、本当ですかっていうぐらいびっくり驚いたんですけど、でもシューズの構造がわかってないかったから、後でシューズの構造をよく詳しくさらに取材を重ねて聞いて、
するとその選手の要求がどれほどあり得ないものなのかっていうことがわかるわけです。
実際それはシューズを作る工程を知っていて、またそのシューズを作る時に必要な機械とか道具が揃っていればなんてことはなくはないけども、そんな不幸ではない。
でも何にも持ってきてないんだから、そこでどうやって圧着をくっつけるのかとか、どうやって削るのかとか。
つまり当時の人たちにしてみれば、当時ハイテク技術によって成し得たものを突然手でやってくれっていう。
手でやるしかなかったわけですね。そういうと、選手も選手だけども、それは突然というよりもそこがポイントで、選手の足っていうのは朝起きたら変わってるんですよね。
ハリモリさんが金メダルを取ったときも同じようなことがあったらしいんですけども、この時はもう準備済みって話なんだけど、選手本人が履いていて、午前中まで履いていたらいい感じだったものが、
午後履いてみたらちょっと違うってあるらしいんですよ。そこでやっぱり素人とトップアスリートの違いで、そうなんだろうなってことは鬼塚のスタッフもみんなわかってるんですね。
だからこそ受けたんですけども、途中で剥がれちゃうっていうね。
これってもうブランディングどころか、鬼塚の靴は途中でぶっ壊れちゃうらしいぜっていう、もう許されないリスクを取ってるわけですよ。
仮に起きたらもう再起不能ですよね。
再起不能です。もうこのほうが出なかったですね。
そこで選手に寄り添うってね、ここでやっぱり今のものづくりはそうだし、日本の企業社会全体を覆ってるそのガバナンスっていうものを考えた時に、
あるいはディスクをどこまで取るんだっていうね、こういうものを考えた時に、あの行動が本当に全員されるのかどうかっていうのは疑問なんだけども、でも少なくともあれをやっていなかったら、今の6はなかったんじゃないかと思いますね。
これ結構本書の山場だなと思ったんですけど、2ミリ削るって、リスナーさんはあれ彫刻刀でちょっと削りゃいいじゃんみたいなふうに思われるかもしれないんですけど、精密機械に近いんですよね、靴っていうのは。
本当に細部まで計算しつくされていて、それを本番前夜に手を入れるっていうのはまずありえないっていう、ただその機械も全くなくて手作業でそれをやるしかないっていう状況に当時行っていたメンバーは追い込まれたってことですもんね。
本当に一か八かですね。シューズの製造工程を分かればいいんですけども、靴の底っていうのは3層になってるわけですね。
それで2ミリ削るっていうのは真ん中の層を2ミリ削るっていう行為なんですけども、真ん中の層を削るにしても一回剥がさなければいけないんですね。
剥がしたら貼るわけですよ。で、剥がすのも消えちゃう可能性もあるんで、相当用心深くやるんですけども、本当に必要な器具はない。
で、剥がれました。でも今度削ってくっつけるときに、DIYもそうですけども、物をくっつけようとすればきれいに表面を削んなければきっちりつきますよね。
そうですね。平らにしなきゃいけない。
平らにしません。どうやって削るのと。それはもう手に入る道具で代用したんですけども、そういうことやって全然全部できましたと。
できましたけれども、実際そのシューズっていうのは、糊付けをした後、一晩とか二晩とか、ゆっくり時間をかけて乾燥させるんですよ。
はい。
それを数時間後に走るっていう。
そうですね。
ありえないだろうって、まっちくっていってものすごい強い万力で、強い力をかけながら、付けたものをさらに乾燥させるんですけども、
すべての工程を短縮してやるっていう。でもそれは、ひとえにそのアスリートが2回連続にじむく制覇っていう、誰もやったことのなかったチャレンジをするわけですよね。
そうですね。何個かにエントリーしていたアスリートだったんですよね、当時。
そのアスリートに寄り添うとしてやってきたのに、そこがさっき言ったマーケティングが魂のマーケティングなんですよ。
はい。
そこで選手に寄り添うってスポーツマーケティングの一環なんだけど、それはもうマーケティングじゃないですよね。
そうですね。はい。
でも最後は一生懸命やってる偉大な記録に挑戦する選手に寄り添うって。その寄り添うという言葉が命がけの寄り添い方なんですよね。個人というよりも会社全体が命がけで応援するっていう。
今回、今のエピソードに象徴されるように、ものづくりとしての鬼塚っていうところがかなり厚く語られていると思うんですけど、
同時に語られていて私が面白いなと思ったのが、経営のダイナミズムっていうんですかね。つまり競争環境っていうのがどんどん変わってきていて、
それにある意味停滞した時期もあるんだけど、都度都度復活をしていったっていうところで、
76年のモントリオールオリンピックでは、結構オリンピックの商業化っていうんですかね、それが進んでいて、
靴だけ自分たちのものを使ってくれではなくて、ウェアも全部このメーカーで契約してますみたいな状況になっていて、
鬼塚が戸惑うっていうような描写があったじゃないですか。やっぱり、靴だけじゃダメなんだみたいなのって、
結構鬼塚木柱にとってはインパクトだったんですかね、そこっていうのは。
衝撃ですよね。その総合化っていうね、ウェアもやります、いろんなグッズもやりますっていうような、
総合スポーツ用品メーカーっていうのは、その前も一度トライをしていて、失敗をしてるんですね。
あるいはボーリングブームの時に、福島町委員会幹部がいまいちゃうっていう経緯もあったりして、
環境がどんどん変わる中で、そのモントリオール・ゴリンの当時は、もうシューズメーカーではもうやっていけないと。
もう要はもいず総合化を図るって言ったらえないと。ただ、これがね、またすっごい面白いんですよ。
確かに競争環境が変わったから、その組織の形を変えるっていうのは当たり前だし、極めて納得性のある話なんですけども。
千矢千郎さんっていうのは、そこで、ただ純粋にそういう行為で終われない人なんですよ。
海外の一流ブランドがみんな総合化ですと、じゃあうちも総合化だと。
でも、今更それを早くキャッチアップするには合併しかないと言うんで、3社で合併するんですね。
これ自体はいいじゃないですか。
まあなんか、まっとうな意識って感じはしますよね。
寄せばいいのに、その2社のオーナー企業だったんですね。
ですから、スタジオがオーナーで、息子もそれぞれ、息子も会社に行って、ちゃんと手法学を学ばせてきたわけですよ。
そこに鬼塚っていう、娘向こうには継がせないというね、インバレーでやってきた会社が主張になると。
そうすると鬼塚さんは、その点は絶対自分に従ってほしいと。
でも説得するんですけども、その時にそういう無理を相手に頼んで、対等合併をやるっていうその枠組みの中で、本当に対等な合併を目指すんですよ。
だから鬼塚さんが一番有名なんだから、鬼塚タイガーっていうブランドを残しましょうよと言ったにも関わらず、
いや、対等なんだから、うちもそのブランドを捨てると。捨ててまさか違う名前を作るっていうね。
ここの縁がね、千八郎さんならではの。経営さんよりも、やっぱり魂の経営者だし、その言葉に対しての責任感というものが圧倒的な人なんですよ。
自分が語る言葉は結果的に皆それが代々パワーバードになっちゃうような、そのくらいパワーが結果としてパワーバードになるような言葉を魂から吐き出してるんですね。
で、今有名な鬼塚タイガーブランドはその時に一旦死んでるわけです。
そうですね。
この縁がね、なんと効率性というものを一切無頓着にやってる感じがしますね。
私は40前なんで、今おっしゃっていただいた真ん中の世代で、確かに77年にASICSになってるじゃないですか。
今のアロフォーの世代は、もう物心ついた時には、生まれた時にはもうASICSなんですよね。
で、たぶん校内化けのように、普通に学校から選ばされたものみたいなイメージがあって。
この後伺いたいと思うんですけど、かっこいいって言うとNikeとかの方がかっこいいっていうイメージがあったんですよね。
大人になってから、鬼塚ってかっこいいんだっていうふうに気づいた世代なんだろうなと思いますね。
今ちょうどNikeっていうところで伺いたいなと思ってたんですけど、ちょっと時間も来たらあと2、3問伺いたいなと思うんですけど、合併するじゃないですか。
合併した以降は語られ方として印象的だったのは、常にNikeとの戦いになっていたと。
特にそのエアですね、Nikeのエアが開発されて、もうそれがブームを巻き起こして、その中でASICSとしてはどういうふうに戦っていくのかっていう話であると。
これは結構有名な話ですけど、Nikeの創業者はPhil Knightで、もともと鬼塚のアメリカ販売代理店をやっていたんですよね。
若かれし頃に修行にやってきて、というその因縁もあったりっていうものなんですけど、ASICSにとってNikeっていうのはどういう存在だったっていうふうにお感じになりますか。
これは表だって正直な思いは誰も語らないんですよ。
これは世代中もあまりなかなか聞けませんでした。
でも実際にはASICSの社員からすると、自分たちは年度を見てあげて、
Nikeの前身はブルーリボンという販売会社ですけども、ブルーリボンを助けて、結果的にNikeというシューズメーカーが誕生するできたのは鬼塚ってのとですね。
でもその時にもっと具体的なお金という問題がそこにあって、
フィル・ナイトは自分の事業店の修読で、散々鬼塚のオレクションを書いてますけども、
そこで完全に独立する時に靴のシューズメーカーの使用権をめぐって、Nikeと対立するわけですよ。
これが本当にかなりギリギリの訴訟だったようで、どっちに転んでもおかしくなかったのに、結果的には鬼塚サイトが負けて40万ドルでしたかね。
その当時の40万ドルって当時1ドル360円だったんですかね。今の円安なんて5倍以上。
その莫大な賠償権を取られて、Nikeは鬼塚を訴訟でやっつけたお金で、これがスタートアップの分支金になってるわけです。
逆に鬼塚サイトはこれで本当に苦しい状況に追い込まれて、またマイナスからのスタートになってるわけです。
そういう意味では、でも権利意識の低さっていう点では、残念ながら当時の日本人の権利意識ってそんなもんだったんだろうなというのが僕の認識でもあるし、
訴訟やって、日本の当時の弁護士がアメリカの弁護士事務所に勝てるはずがないじゃないですか。
そうですね。
そういう点では、まるっきりただやれちゃったっていうね、やり損というぐらいな対Nikeに対しては、ような思いしかないんじゃないかなっていうふうに想像しますからね。
多分そういう直接の戦う相手、市場で戦う相手ではなくて法的にも戦う相手だったってことですよね。
そうです。
そうですよね。で、すどつとやっぱりアナシックスが何かをしようというか、このシューズメーカーにおいては、シューズ市場においてはNikeが何かをブレイクさせていくっていうことが起きていたわけですよね。
だからそこに対してやっぱりなんでしょうね、じゃあうちはこれで戦うんだ。
例えばそのNikeがそのエアーでブレイクしたときには、アナシックスは新素材ですね、卵を吸収するっていう新素材で抗戦をかけるみたいなことがあったと思うんですけど、
やっぱりそこっていうのがかなり意識をしていたってことなんですかね。
間違いないです。本の帯にもありますけど、何よりもNikeのエアーを超えろっていう、そのNikeのエアーが爆発的にヒットしてるんだけども、
それを超えろっていうのは、マーケットで追い込むぜっていうだけではなくて、
あのNikeを2分近づっていうね、その訴訟で2分を飲まされて、それこそ敗戦後にこのまま終われるかっていう、もう1回第2の敗戦に近いような、アナシックスにとっては第2の敗戦がNikeエアーですよ。
いやーそうですね、なんか一番最初に宝部さんが、日本で世界に通用するブランドっていうのがどれだけあるんだってお話をされていて、そのうちの一つがASICSだと思うんですけど、
この日米でバチバチにやり合うっていうのって確かに今の若い会社だとそんなにないかもしれないですね。
それをASICSはやっていたし今でもやってんだなっていうのは思いましたね。
そこが本当に素晴らしいところで、やっぱりソニーもね、随分全く違う会社になっちゃいましたね。
でもそれはゲームの会社になり、CMOSセンサーの会社になり、環境に応じて変わりながらも、でも絶対世界一っていう、頂上を取り続けようとしているわけですよ。
そこはASICSも全く同じで、Nike Airを超えろっていう時にそのゲル素材を新しい新素材で作っていくわけですけども、相対的な評価としてはね、Nike Airを超えてないんだけども、
でもそういう意識は伝統的にみやくみやくと流れているっていうのは、これはやっぱり見逃せないポイントなのですよね。
そうですね。個人的な意見なんですけど、今世界の流れで言うと、米中対立みたいなことがよく言われるじゃないですか。なんとなく日本はアメリカ陣営だよねみたいな感じだと思うんですけど、
こと経済の世界においては、日米がこういうふうにやり合っていた時代があり、やっぱりその時のエネルギーを思い出さなきゃいけないのかなっていう感じはしますね。
AIなんてさ、まるっきりそうじゃないですか。みんなAIを使えばってAIを使わなければと、もう何もかもがAIで作られてますけども、そういうことAIも新体制っていう話になってるんですね。
でもその時に新体制ぐらい日本が全部取れよと言いたくなる、そういう発想が今の世の中にないわけですよ。
そうですね、確かに。テクノロジーというか、電子の分野は結構米中が抑えてますけど、新体制は日本が取れよってことですね。
なんかね、それがね、ちょっと抑えられないのは、もうなんか不思議でしょうがないっていうか、現状を報道するメディアも、それから今やってる企業も、なんか依然としてしておけ的な部品メーカーで成功していればいいっていう、そうじゃないんじゃないかっていう。
だからこそ、アシフィクスの復活と、その鬼滅の刃タイガーの劇的な世界一のブランディングに変えているっていう、これの持ってる意味が、これはすごいですよね。
そうですね。でも確かにそういう文脈で捉え直すっていうのは非常に面白いですね。
ちょっと時間がだいぶ来ちゃったんで、最後の一言まで伺いたいなと思うんですけど、鬼塚貴八郎が2007年に亡くなり、その後、アシックスの会社は創業期から支えてきた社員の方であるとか、あとは娘無効の小山さんが継がれたり、いろんな方が経営を継がれていったと。
ちょっと会社の歴史を振り返ると、2010年代はやっぱりちょっと苦しい時期があって、特にコロナ禍前後ですかね、赤字も欠産状継承したということがあり、あとこれも印象的でしたけど、箱根駅伝の靴からアシックス製品が消えたというようなこともありましたね。
そこから今V字回復した後、復活したということで、これはちょっと一口で言えるものではないと思うんですけど、どういう意思決定が効いたというふうに思われますか。
これはですね、かなり乱暴に言いますけども、小山さんという今の会長が三菱商事から小山さんの後任としてアシックスの社長になるわけですね。
後任の方を連れてきたわけですよね。
この全くスポーツ用品と縁のない第三者を呼んできたことによって、これが小山さんの最大の成果であり、そしてアシックスが今復活している最大の原因です。
というのは、これはどの会社にも通じると思うんですけども、本来持っているその会社のポテンシャリティというのは、人間個人と同じで会社の中に眠っているものがあるはずなんですよ。
アシックスの本当に圧倒的な潜在力は、これは言葉だったんですね。
平治郎が言った健全なる体に健全なる魂を得てほしいという、この創業の理念がこれはずっと社内では残っています。今でも残っています。
これをそれこそ社会課題解決の一つとして、今でも新入社員が創業の理念を入社動機に入ってくる子もいるぐらい。
言ってみれば、外国人に入っている創業理念ではなくて、生きている創業理念。
その他に、その創業作戦のように、どうやってマーケットで戦っていくのかっていう考え方、あるいは言葉が残っていて、
それをずっと社内教育で新入社員が幹部研修で残しているんです。つまり創業者の実績と経緯といろんな苦労がその言葉になっている、その言葉そのものが残っているんです。
ただ、それは言葉だけ残っていてもしょうがないわけで、これは今の広田会長が社長に来たときに言っていたんですけど、
6はひどい状態だと。製品が売れていないと。マラソンシューズがひどいと。今、ナイキの靴底に全部入れられているというだけではなくて、会社の失礼というか、組織論的にもちょっとおかしいと。
こんな運営の仕方はありえないというので、三菱商事のコーポレート部門といえば、花形の営業ではなくて、例えば園児とか職員とか営業部隊ではなく、コーポレートという部隊にいたんです。
人事、総務、会計、ということは会社を動かすプロなんです。SXが一番欠けていたのは、2010年代の苦しいSXに一番足りなかったのは会社をしっかり回していく。いろんな良い要素があるのに会社がしっかり回っていないから。
それで、彼が呼んだ。これが大山さんの発見なんですね。
大山さんが入って、会社の構造を大きく変えていくわけですけども、その時に鬼ギャチロウと同じような魂の経験を揺さぶられる経験をするんですよ。
それはボストンで開かれたIRの時に、なんで男がこんなひどいのと、散々Tシャツ短版スカートの兄ちゃんに、投資家ですね、に文句を言われて、こんなガキに文句言う冗談じゃねえよと言って帰ってきて、
マラソン中で本当にいい加減に内緒を追い越せって言ってやったのは長城プロジェクトで。それは今更長城もちょっとあれだろうって言うんで、長城をローマ字読みしてCプロジェクトしたんですよ。
で、その時に年配の社員はもういいと、開発も営業も広報も宣伝も全部基礎研究も若手を中心に一分や一人とか二人集めて、彼らにこれは長城作戦なんだと言って、できるできないではなくて、長城を取りに行く作戦だ。
で、彼らはこれを知ってるわけですよ。入社した時からずっと木八郎の言葉として。
そうですね、確かに。
だから、ひろとさんが行った時に彼らはみんなスパッと画伝が行くわけですよ。やるんですねと。それが今のアシフィクスを作ってる最大の原点ですね。
これすごいことですよね。長城作戦やったのって、いつか木八郎がやったのって1950年代とかじゃないですか。本当に一番最初にアスリートとかコーチに直接シューズを手渡して、これを使ってください、フィードバックをくださいっていうのをやっていたわけですよね。
それのことをこの2020年代の社員がピンときて、それを今やるんですねっていうふうに気づけたってことですよね。
やっぱり新卒1期生に全部変わった時に、それ以降ちゃんと社内教育っていうのをずっと力を入れてきて、会社の理念あるいは精神っていうものを代々伝えてきてるんですよ。
それをやってきたために、ひろたさんにしてみると全然関係ない道章司から入ってきて、この会社の社員に号令をかけるときに、どういうふうに言ったらいいのかって考えたときに、創業者の言葉を借りようと思ったんです。
そうですね。
明確なそういう意図を持って、その意図通りに社員たちがキャシオのパワーワードに意図通りに反応して、意図通りに結果を出したっていう、絵に描いてるような成功物語に結果的になってるんです。
簡単ではないですかね。