係り結びの基本
始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。ドストエフスキーです。
今回は、係り結びをテーマにお話ししていこうと思います。
増南夜化という助詞が出てきたら、文末を連体形に結んで、故相が出てきたら、依然形で結ぶみたいなね、まあそういった
係り結びの法則、みなさん古文の時間にね、やったはずでございます。
今回は特に連体形の方のね、話をしていこうと思います。で、似たような話は、まあ過去に結構やってると思うんですよね。ちょっと探すのが
しんどいので、まあとりあえず1個だけ関連エピソードとして概要欄、リンクを貼っておきますので、まあ多分似たようなこと
半分ぐらいはね、似たようなこと言ってるんじゃないかなと思いますが、聞いていただけたらと思います。
この係り結びの法則っていうのは、まあ古文の時代においては、まあ当たり前のことだったんですよね。
増南夜化が出てきたから、文末を連体形にしなきゃと思って、連体形にしているわけではなくて、
まあ言語ってそういうもんですからね。そういうふうになってるっていうか、無意識のうちに
話者が従っている法則です。で、当然現代には
係り結びというのはなくて、まあ方言とか見るとちょっとまた話は違うんですけど、
まあ共通語にはね、少なくともいわゆる共通語には係り結びというのはありません。
というか、そもそも連体形というものがないと言ってもいいかもしれません。
連体形というのは対言に係る形、まあすなわち名詞の前に出てくる形と言っていいと思うんですが、
まあ公文だと例えば、らへん同士のありっていうのが、まあ終止形ありなわけですよね。
ですので、男ありみたいになるわけですが、 もしこれが係り結びとなると、
男ぞある、みたいにこうあるというね、連体形になるということです。 ですが、現代日本語において
終止形も連体形も両方あるという形になっております。 で、これが今回の答えというかね、係り結びが
滅んだ原因というか、 まあそれで話はあらかた片付いてしまいます。
どういうことかというと、 終止形と連体形が一緒くたになってしまったから、
さらに言うと、連体形が終止形になってしまったからなんですね。 現代日本語で我々が終止形と言っているものは
全部もともと連体形なんですね。 まあらへん同士のあるっていうのは非常にわかりやすいですが、
あるっていうのはもともと連体形で、終止形のありっていうのは、 まあある意味で
追いやられてしまったんですよね。 で、これは動詞に限らずそうで、
形容詞もそうです。 例えば寒いっていう
形容詞があって、これ終止形と呼んでいるわけですが、 この寒いっていうのは
古文だと寒しですけど、 現代語の寒いの
そのご先祖の形っていうのは連体形の寒きなんですね。 こういうふうに古文では終止形寒し、連体形寒き、
あるいはありとあるみたいに終止形と連体形っていうのは 形の上で区別されていたんですが、
それがどんどんどんどん文末で使われるようになってしまったんですね。 終止形っていうのは
その名の通り終止する形ですので、ある意味文末の形なわけですけど、 連体形がその役割を
担うようになってしまったんですね。 で、係り結びっていうのが
連体形が文末に出る例外的な存在というか法則だったわけです。 男女あるみたいにこのあるっていう連体形が
文末に出るっていうのは係り結びというある種 特別な環境で
見られる現象だったんですが、 途中に増南夜巻みたいな係助詞がなくっても
文末を連体形で終わらせるっていうのがどんどん流行っちゃって、そうなると 係り結びの法則っていうのが
あんまり意味を持たなくなっちゃうんですよね。 元来普通は終止形で終わるところを連体形で結ぶっていうところに
まあちょっと特殊な感じがあったんですけど、 係助詞があろうがながろうが
連体形で結ぶようになっちゃったので、結果的に係り結びの法則は 崩壊してしまったということなんですね。
文の構造の変化
で、この終止形と連体形が合流しちゃったことで係り結びがなくなっちゃったっていうのは よく言われていることで、過去にも多分何度かエピソードで
取り上げていると思うんですが、 今回は別の説明の仕方をまたご紹介しようと思います。
今回参考にしているのは山口仲美先生の日本語の歴史という本です。 岩波新書から出ております。
2006年に出ております。新書でかなり一般向けに書かれているものなので すぐ読めるんではないかと思うんですが、
そこで係り結びがなくなってしまったという話が取り上げられております。
今言った終止形と連体形の話もあるんですが、 山口先生はもう一つ
日本語が文の構造を明示するようになったから、 そのために係り結びが崩壊したというふうに書いていらっしゃいます。
どういうことかというと、 昔の日本語、古文の時代とかだと
主語を表すのに特別な助詞っていうのはなかったんですよね。 現代日本語だとがというのがありますけど、
古文の時代ではこのがっていうのは 主語を表す助詞ではなくて
名詞に係る助詞だったんですよね。 だからまあ現代日本語ののに非常に近くて
それは君がよとか我がやみたいなとこに残っております。 こういうふうにがっていうのは名詞につく
あるいは体現に係る助詞だったわけですが そのがという助詞が
主語を表すのに使われるようになりました。 つまり男ありとか言ってたところが
まあ男があるみたいになるわけですよね。 でこういうふうに主語を明示する文の構造を明確にするようながみたいな助詞があると
まあぞーなむやーかーみたいなのは入り込みづらくなって 男がぞあるとか言いづらい
まあこういったことが係り結びが滅んだ原因だと書いてらっしゃるんですけど 僕はねちょっとどうかなと思うとこはあるんですよね
というのがこのがっていうのが主語を表すようになったっていうのは 結局
連体形と終止形が合流したせいなんですよね 連体形っていうのは体現に係る形でもあるしそれ自体で体現的な
機能があるので なのであるみたいなのはもともと体現的なものでそれに係るから男があると言ってたわけ
ですけど今度はそのあるっていう連体形が 終止形になっちゃうと今度はこのがっていうのが
体現に係るというよりは要言に係るみたいになっちゃって結果的にこう 主語を表すようになっちゃったんですよね
ということはがっていうのは主語を明示するために使われるようになったというよりは 連体形が終止形になっちゃったのでそれに付随して
主語を表すようになっちゃったと言えるんじゃないかなと思うんですよね それともう一つ
がっていうのが ある意味なくても
主語っていうのは表せると思うんですよね 男ありみたいに言えばある意味ゼロというものがついていないということが主語を表して
いるのでそういった言語はいくらでもあります ですのでがというのが
ついていることによって 主語を明示的にあらわし
てるとは 言えないんじゃないかなと思いますね
主語を表す標識っていうのがゼロっていうものから まあ明示的な標識につまりがというものに変わったっていうだけなので
係り結びの衰退
日本語が文の構造を明示するように変化したとは ちょっと言えないんじゃないかなとも思います
それと男がぞあるみたいな言い方が まあ変だっていうふうに書いてらっしゃるんですけど
まあ現代語でも例えばはっていうのは がとは凶器せずに男はあるみたいになるわけですよね
男がはあるとはならないので まあそういうことで
まあ僕自身はちょっと納得いかないようなところもあるんですけど 日本語は文の構造を明示するようになったから
かかり結びは滅んだという説明もあるようです というわけで今回は
日本語のかかり結びの衰退 崩壊についてのお話でございました
ぜひ気になる方は日本語の歴史読んでみてください それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう
番組フォローも忘れずよろしくお願いします お相手はシガジュゴでした
またねー