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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。ブルースブラザーズです。
言語っていうのは変化するものですよね。 まあ最近の若者言葉についていけないっていうのも変化の一つかもしれませんし、
我々が中学や高校で古文を習うのも 変化してしまってるからですよね。
全然別語の言語に思われるけれども、 なんとなくね、日本語っぽい感じはするというか。
日本語であることは確かなんだけど、現代語とは全く違うみたいな。 だからこそ、
学校で学ばなければ、 全然理解できないということですよね。
で、どんな言語でもそうです。 変化っていうのは付き物で、
その変化することっていうのが言語の本質だというふうに主張している人もいます。
コセリウっていう言語学者なんかはそういった言い方をしてるんですね。 ただ言語っていうのは
デタラメに変化しているというわけではなくて、
ある程度の方向性というか、 流れみたいなものがあると
いうふうに考えられています。 これは結構いろんなレベルでそうだと思うんですが、
言語変化の要因そのものもね、 いろんなものがあると思うんですよね。
その言語接触とか、 つまり
他の言語からたくさん釈用、日本語で言うとこの外来語が入ってくるとかね、
そういったことで変化するっていうこともあるでしょうし、 あるいは発音がだんだんルーズになっていって、
発音の変化が起こるっていうこともあるでしょうし、
同じ単語を使っていても、 昔と今じゃ意味が変わってしまってるっていうようなものもありますよね。
まあそういった意味の変化というものもあります。 で、今回はもうちょっとね、大きな枠組みのお話をしようと思います。
ズバリ言語というのは類型論的にも変化していくということです。
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類型論っていうのは、 まあ類型っていうのはタイプのことなので、
言語をタイプ分けすることがあります。 で、この辺りの話は関連エピソードがあるので聞いていただけたらと思います。
で、そこでもお話ししているはずなんですが、 伝統的に
その言語を タイプ分けした時、類型論的にこう見た時に3つのタイプを
こう想定するっていうことがよくあるんですね。 まず孤立語
そして交着語、最後に屈折語。 孤立語、交着語、屈折語という3つのタイプをこう
認めるっていうのがよくあります。 屈折語っていうのは融合語みたいな言い方を最近ではされることもあるかと思うんですけど、
ちょっと伝統的にね、孤立語、交着語、屈折語でお話ししていこうと思います。 まず孤立語っていうのは一つの単語に一つの意味しか乗っかっていないような言語です。
まあ中国語とかねベトナム語っていうのがこういった言語の例としてよく挙げられ ます。
例えば単語の語形変化っていうのがなくて、 動詞に過去形とかね現在形とかそういったものがないような言語です。
それに対し交着語っていうのは 日本語がこれに当たるんですけど
一つの単語に複数の要素が集まっているような、 そうやって単語を作るような言語を交着語と言います。
例えば食べるに対して食べられるっていう風に、まあられみたいなね。 受け身の成分がこう
くっついているわけですよね。 でこういうのを交着語と言います。
で最後の屈折語というのは よくそのヨーロッパの古典語が例に挙げられて
ラテン語、ギリシャ語、サンスクリットとかですけど、まあこういった言語も 交着語と同じように一つの単語に複数の意味があるんですけど
ただ交着語と違って その分解できないような言語です。
さっきの日本語の食べられるだったら食べとられとるっていう風に その語彙的要素があって受け身があって
まあ現在のるーがあるみたいに分解できるんですけど 屈折語っていうのは
まあそういうのが一色体になっちゃって
パーツごとに単語を分けることができない まあそれが屈折語ということになっております。
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で、大まかにこの3つの言語のタイプがあって 言語っていうのはこういったタイプが変わることがある
変化することがあるというふうに考えられてるんですね でその方向というのも
予想されていて 孤立語から交着語、交着語から屈折語
そして屈折語から孤立語というふうに変化するとグルグル回るっていうふうにね 考えられてるんですね
まあこれはねなかなか大胆で 言語の変化っていうのはまあ早いものもあるかもしれませんけど
こういうふうに言語のタイプが変わるっていうのは すっごい時間がかかることなので
実際にそれが観察できるかというと微妙なとこもあるかもしれませんが
でもなかなかね面白いことだと思います 孤立語が交着語になるってことは中国語が日本語みたいになるということですよね
でそういった傾向はねちょっとあるといえばあって 例えば一例ですけど
中国語の 給っていう字、給食の給っていう字は
与えるっていう意味の動詞としても使われるんですけど それが誰々に英語のtoみたいな前置詞として機能することもあるんですね
でもしこの給という字が 後ろの名詞句と一緒くたになって
一つの単語として認識されるようになったら 名詞の拡折当時を中国語が持つようになったということで
交着的な特徴を持つということになるんですね つまり一つの単語が誰々にのにの部分と
まあその 本体の方というかねその誰々の部分にこう分けることができる
一単語になっていくということです で逆に日本語みたいな交着語が
屈折語みたいになるということなんですが まあそういった傾向はあるといえばあって
現代日本語の形容詞ですね 赤いに対して赤かったっていうのがありますけど
これはもともと赤くあったっていう 存在動詞のあるっていうのをこう使って
過去形っていうのを表してたんですね 現代語では赤かったっていうふうに一単語になっているということで
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だんだんこうパーツごとに分けづらくなっています あるいは交互で僕はっていうのが
僕はとか言った場合これは僕とはっていうのにきっちり分けられなくなっているので まあちょっと屈折語っぽくなっているかもしれません
で最後に屈折語が孤立語っぽくなるっていうのは英語で起こっている変化で 英語っていうのは普通名詞にも
格変化っていうのは昔あったんですね 犬がと犬をと犬にっていうので違う単語の形
語形変化していたんですけど現代英語ではその変化がなくなっています つまり一つの単語に一つの意味という孤立語に
なりつつあるというかもうなっていると言ってもいいかもしれません こういうふうに考えると言語っていうのはぐるぐるぐるぐる
循環して変化しているということができるかもしれません まあさらに言うと
日本語っていうのは今交着語なんだからもともと孤立語だった 孤立語っぽかったっていうことが予想されるということですよね
まあこの辺の話もねまた機会があったらやってみたいなぁと思います というわけで今回はここまでということで最後まで聞いてくださってありがとうございました
番組フォローも忘れずよろしくお願い致します お便りも募集中ですそれではまた次回お会いいたしましょう
お相手はシガー15でした