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始まりました、志賀十五の壺。最近ですね、ラジオトークでコラボトークができるようになりましたね。
僕もですね、昨日初めてラジオトークは、はなみさんとコラボトークいたしました。
初めてコラボトークしたというか、初めてはなみさんと昨日お話したんですよね。
でも、はなみさんと僕は割とラジオトークの番組の内容が似てたりとか、もっと広く言えば、教養に対する姿勢というか、かっこよく言えばね。
そういうところで似通っているところがお互いあってですね。
初めてでしたけど、あんまり気まずいとかそういうのは全然なくですね、楽しくトークできました。ぜひ皆さん聞いてみてください。
はなみさんの他のトークも面白いので、本当学べますよ、いろいろ幅広く。
世の中は知らないことがいっぱいあるなというのがよくわかりますよ。
でですね、そのコラボトークの中でですね、昨日翻訳の話題が出たんですよ。
一つトークテーマとしてね。
そこでちょっとお話ししたのが、日本語という言語は話す言語の形式と和社の特性というのが密接に結びついているみたいなお話をしたんですね。
後でちょっと詳しく言いますけど。
本当はもうちょっと大きい話をしたかったんですよ。翻訳に関わる言語の問題というか、その言語が違えば世界が違って見えるという考え方が一つあるので、
それは翻訳にどういう問題を引き起こしてそれをどういうふうに対処しているかみたいなお話をしたかったんですけど、
ちょっと狭い視点のお話になっちゃって、ちょっとはなみさんに申し訳ないなと反省しました。
そこでお話ししたのが先ほども言ったように、日本語というのは言語の形式と話している人ですね、和社の特性というか特徴が密接に結びついている言語であるというお話をしたんですよ。
例えばですね、よく言われるのは日本語は一人称がたくさんあって、俺って言ったら和社は男だということがわかるし、わしって言ったら年寄りっぽいのかなというのがわかったりとかそういうことですけど、
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こういうのは別に言語学をやってなくても皆さん実感としてあると思います。
今日はですね、こういう言語の形式と和社の結びつきという役割語といったりするんですけど、これをちょっと掘り下げてお話ししたいと思います。
日本語の役割語って結構豊富なんですよ、種類はね。
例えば俺って先ほども例に挙げた、俺とかわしとかいう一人称もそうだし、面白いのはですけど、これはフィクションの中限定ですけど、例えばなんとかあるみたいにね、カタカナであるっていうのを語尾につけたら中国人みたいな、
えせい中国語っていうかね、なんていうんだろう、えせい中国語じゃないけど、あるをつければ中国人っぽさが出るっていうね。
実際そんな話し方はしないらしいですけど、実際しないんですよ、中国語和社の方って。
わざわざあるっていうのを語尾につけるってことはしないんですけど、なぜか我々はそういう認識があると。
あるいはですね、お姉言葉っていうのも一つありますよね。
松子デラックスが喋ってるのを想像すればわかると思うんですけど、あれってもともと当然女性語というか女言葉だったわけですけど、歴史的に遡れば。
今はどっちかっていうとお姉言葉として定着しちゃってるようなとこはありますよね。
和よとか、よとかね、過剰に使うというか、実際の女性よりもお姉の方が女言葉を使ってるっていうような状況になってます。
こういう感じでですね、わりと日本語っていうのはその発話を文字で書かれたのを見たときに誰が喋ってるのかっていうのが結構わかっちゃう言語ということになります。
そういうことって文学においてですね、結構重要なポイントだと思うんです。
僕は別に文学は全くどしろとですけど、その会話だけで男女の会話っていうのがすぐわかったりするんですけど、日本語の場合。
これも翻訳にかかわったりすると思うんですけど、そういうのが全く翻訳された場合なくなっちゃったりするわけですから。
あるいはですね、さっきのお姉言葉で言えば男は言った、その後なんとかよとかなんとか和よみたいな会話が書き括弧の中にあったら、
あ、お釜が喋ってんだみたいな、お姉が喋ってんだっていうのがすぐわかっちゃうみたいな。
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ただそういうのが外国語に翻訳された場合は消え去ってしまうということになりますね。
こういう役割語っていろいろ日本語は豊富だっていう研究があってですね。
さらに言うとですね、この役割語っていうのは和書のアイデンティティとすごい密接にかかわってるんですよ。
言語っていろんな側面があります。
普通に一般に考えられるのはコミュニケーションのツールとして言語は存在しているというのが皆さん思い浮かぶことだと思うんですけど、
先ほど言ったコラボトークの中でもちょろっと出てきたんですけど、
世界を反中化するというか世界を捉えるために言語は存在するという見方もできます。
もっと別の見方をすると、和書のアイデンティティと言語っていうのもすごい関わってるんですよ。
こういうのって例えばですね、第二次世界大戦が終わった後、東南アジアをはじめですね、
いろんな国がどんどん独立していったわけですけど、
その過程で国語っていうナショナルランゲージっていうのを定める国が非常に多いんですよ。
これはですね、国が成り立つための条件は領土と国民と主権っていうのがあればいいので、
言語って別になくてもいいんですよね。他の国の言語を使ったりしてもいいので。
でも一般に言われて、その領土・国民・主権と並んで、
言語っていうのは非常に国としてのアイデンティティとか国民としてのアイデンティティっていうのにね、
かなり欠かせないものだと思います。
日本語和書にとってこれはかなり意識しづらいんですよね。
日本ってかなり単一民族的なんですよ。
実際はアイヌの方とか在日韓国・朝鮮人の方とか他にも諸外国の方がいらっしゃるわけですけど、
ただ世界的に見ればかなり民族的に均一性の高い国であって、
この民族と言語がほぼイコールで結べるような国なんですよ。
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こういう国って珍しくてですね、これどういうことかというと、母語と母国語が違うっていうことは
大いにあり得ることなんですよね、その世界的に見たら。
国の言葉と自分の母語っていうのが違う、第一言語が違うっていうことは大いにあり得ることで、
フィリピンとかインドネシアとかだと、フィリピンは一応タガログ語が国語みたいな位置づけで、
インドネシアもインドネシア語っていうのが国語になってますけど、
それぞれ何百という言語が存在してるんですよね、その国の中で。
ただ国として統一性を築くために、ある意味言い方が正しいかどうか分かりますけど、
言語っていうのは使いやすいんですよね、統一性というのを目指すために。
そういうのはですね、大阪直美さんが国籍どうするんだみたいなのが過去問題になったときにですね、
日本語がろくに話せないのにどうなんだとかね、そういう心ないことを言う人もいたわけですけど、
そういうのもやっぱり同じ言語を話すっていうことがアイデンティティにつながってる人との証拠としてですね、例として挙げられます。
こういうことがですね、先ほど言ったお姉言葉って言われることにも当てはまると思うんですよね。
鶏と卵みたいなとこありますけど、お姉だからお姉言葉を使うのか、お姉言葉を使ってるのがお姉なのかっていうのは両方当てはまると思うんですけど、
ある意味ですね、同じ言語を話すグループというか共同体というかね、そういうアイデンティティを確立するために言語が一躍勝ってるということですね。
こういうことってね、国語っていうすごい広い規模の大きい話からお姉言葉みたいなのも含め、もっとレベルの小さい話で言うと、
仲間うちだけで通じる言葉とかありますよね。
なんか業界用語とかもそうですよね。
ジャーマネとかザギンでスーシーとかね、ああいうのも一つある意味でアイデンティティの確立に言語が機能してると考えられるわけもないです。
そういうことでですね、言語っていろんな側面があって、その一つにアイデンティティっていうのが一つ関わってるというお話でした。
ではまた次回お会いしましょう。
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