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2025-07-29 11:13

#777 「シャボン玉飛んだ♪屋根まで飛んだ♪」強風説に対する日本語学的解説 from Radiotalk

主要参考文献
白川博之(監修)庵功雄・高梨信乃・中西久実子・山田敏弘. 2001.『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』東京: スリーエーネットワーク.

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育

サマリー

このエピソードでは、歌詞の「シャボン玉飛んだ♪屋根まで飛んだ♪」において、日本語の助詞「まで」に焦点が当てられ、その解釈が深く掘り下げられます。特に、格助詞としての「まで」と取り立て助詞としての「まで」の違いやその機能について説明されます。

シャボン玉の飛び方
シャボン玉という動用がありますよね。
シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。から始まりますけど、
これは当然、シャボン玉が屋根のところまで高く飛んだ。
ある意味、そのシャボン玉の行く先というかね、終着点みたいなことを表してますが、
これはもう一つ解釈があって、
ひねくれものであればね、そういう解釈をすると思います。
シャボン玉が飛んで、屋根までもが飛んだ。屋根もろとも飛ばされた。というような、
その日はものすごく風が強くって、シャボン玉だけではなくって、屋根も一緒に飛んでしまった。
シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。そういう解釈もやろうと思えばできます。
今日はこのまでについて、日本語学の観点からお話ししていこうと思います。
BGM ゆけい。
始まりました。4月15日のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。アーノルド・シュワレツ・ネガーです。
ここでは、までという助詞を2つに分けて考えてみるのがいいと思います。
つまり、ただ1つまでという助詞があって、それに複数の意味、機能があると考えるよりは、
2つまでがある。そう考える方がいいのではないかと思います。
外して、こういうのは日本語教育でどう教えられているのかというのが、非常に参考になるのではないかと思います。
2つのまではそれぞれ、「格助詞のまで」と、「取立助詞のまで」と呼ばれます。
格助詞というのは、名詞が述語に対してどのような関係を持っているか、文法関係を表す助詞というふうに言われています。
までを含めて日本語の格助詞は、「が、お、に、え、と、で、から、まで、より」
だいたいこういったものが格助詞として日本語教育では教えられていると思います。
例えば、「が」というのはその動作を行う動作主を表します。
「を」というのはその動作の影響を受ける対象を表します。
それぞれ主語や目的語を表すと言われたりもしますが、いずれにせよ動詞ないし述語との関係を表しているのです。
では、「まで」というのはどういった関係を表しているかというと、
までが表しているのは着点とか,あるいは終着点とか,あるいは行き先みたいなものを表しています。
これがさっきのシャボン玉の第一の解釈の方で,つまり格助詞のまでは終着点を表すので,
シャボン玉飛んだ屋根まで飛んだだったら,屋根の地点までシャボン玉が移動したということです。
「まで」というのは空間的な着点だけではなく,時間的な着点も表しますので,
6時まで働いただったら,その6時という時間的な着点まで働くという動作を行ったということです。
「まで」のほかにも,その動作の方向性というか,ゴールを表すものには,2 とか a というものがあります。
非常に意味が似ているというか,かぶっているようなところもあるのです。
例えば,駅まで自転車で行くに対して,駅に自転車で行く,駅へ自転車で行く。
あまり意味の違いがないような気もしますが,
「まで」というのは,2 や a に比べて,途中だというような含みがあります。
またシャボン玉の例だと,屋根まで飛んだというのは,どんどんどんどんシャボン玉が飛んでいって,
その途中の,途中経過として,一旦ひとまず屋根のところまで飛んだというようなニュアンスですね。
歌詞の続きとしては,その後シャボン玉は割れてしまうわけですが,
までが使われていることで,本当はもっと飛ぶはずだったのに,途中で壊れてしまったみたいなのがまでで表されていると言えるのではないかと思います。
ですので,駅まで自転車で行って,電車に乗ったというのは割と自然なんですが,
駅に自転車で行って電車に乗ったとか,その移動の途中を表すのに,2 や a を使うとやや不自然で,
取り立て助詞のまで
そういった場合はまでの方が座りがいいんですね。
さて,もう一つのまで,取り立て助詞のまでを考えていこうと思います。
取り立て助詞というのは格助詞と違って,その名詞が述語に対してどういう文法関係を持っているかというのを表しているわけではなくて,
ひらたく言えば,取り立て助詞というのは主観を表しているんですね。
格助詞を表すのは,より客観的な事実という感じなんですけど,
取り立て助詞は和謝の主観的な態度というのが反映されていると言えると思います。
取り立て助詞は,係助詞とか副助詞とか言われるようなものも含むというか,
この辺のネーミングがややややこしいですけど,
一番メジャーなその係助詞というか,この類の助詞は和だと思います。
よく和と和の違いは何だ?私は行きますと,私が行きますとどう違うんだ?とかね,
和と和というのはよく対比されるんですが,
実際この番組でも何本かエピソードを撮ってますけど,
和というのはさっきお話しした格助詞で,和というのは取り立て助詞なんですね。
つまり和と和というのは並列して考えられることが多いんですけど,
実際にはレベルがちょっと違うんですよね。
例えば取り立て助詞の和というのは格助詞の後に出てくることがあります。
学校で避難訓練があったに対して,学校では避難訓練があったとかね,
あるいは取り立て助詞は名詞だけではなくて動詞につくこともあるので,
行ってはいけないとか,行きはしないとか,
こういうふうに格助詞よりもいろんなものにつけるというような特徴があります。
で,取り立て助詞にはまでというのがあって,
これは格助詞のまでとは異なるものだと考えていいと思います。
取り立て助詞のまでがやっているのは,
意外性を表すと平たく言っていいんじゃないかと思います。
シャボン玉飛んだ,屋根まで飛んだ,
屋根というのは普通飛ぶはずがないんですけど,
その意外性を表すためにまでが使われているということですね。
似たような機能の取り立て助詞にさえというのがあります。
シャボン玉飛んだ,屋根さえ飛んだ,
この場合はまでの方が多分座りがいいと思うんですよね。
というのが,両方意外性は表すんですけど,
までの方は付け加えるみたいなニュアンスが強いので,
そうなるとシャボン玉飛んだという風に,
シャボン玉というのが先に出てきていますので,
それに付け加えて,屋根まで飛んだという方が言いやすいのではないかと思います。
ここでもしシャボン玉の話がなくて,
いきなり屋根さえ飛んだと言うんだったら,
までよりもさえの方が座りがいいのではないかと思います。
いずれにせよ,までには2種類あって,
1つは角助詞のまで,
これは終着点,ゴールを表すような文法関係を表すまで,
もう1つのまでは取り立て助詞のまでで,
これはもっと主観的な働きをしていて,
意外性を表すような機能があるというまででございます。
それぞれ角助詞と取り立て助詞でレベルが違うので,
本当はこのまでというのが続けて出てこれるとかだったら,
それぞれ違う助詞だというのがわかりやすいのですが,
どういうことかというと,
例えば見るという要素が日本語では2つ認められて,
テレビを見るという,肉眼で捉えるという見ると,
やってみると言った時の,
トライの意味の見るというのがあるのです。
これはそれぞれ見るというのが違う要素だというのがわかるのは,
見てみるみたいな言い方ができるからです。
try to see みたいな意味で,見てみるということができます。
同じように,までまでみたいな言い方が,
屋根までまでみたいな言い方ができるんだったら,
前に現れているまでは各助詞で,
後ろに現れているまでは取りたて助詞です,
みたいに言えるのですが,
どうですかね,までまでみたいな言い方が言えるかどうかが,
あまりボコワシャですが,ピンとこないので,
ちょっと何とも言えないところですが,
少なくとも日本語教育ではまでというのは2種類あるぞと,
そういうふうに教えられているというお話でございました。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローまだやっていない方はよろしくお願いいたします。
お相手はシガ15でした。
またね。
11:13

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