1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #333 無標と有標とバンギャ fr..
2021-07-14 10:13

#333 無標と有標とバンギャ from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:01
ビジュアル系バンドの追っかけをしている女性のことをバンギャというのに対し、
ビジュアル系バンドの追っかけをしている男性のことはバンギャルオというそうです。
始まりました志賀十五の壺。今日も志賀十五の壺をやっていこうと思います。
これはですね、僕が最近仕入れた知識で、
ラジオトークで番組なさっている佐藤さんのトークを聞いて知った知識となっております。
該当のトークは詳細欄に貼っておくので、よかったら聞いていただけたらと思いますし、
佐藤さんの番組の他のトークもね、ぜひ聞いていただけたらと思います。
これなかなか面白いですよね。女性がバンギャで男性がバンギャルオということで、
男性の方がやや長い形式を使っている。ある意味女性の方がデフォルトっていうことですよね。
おそらくこれはビジュアル系バンドの追っかけしている人は、
女性がマジョリティというか多数派で、
男性の方がやや珍しいというか少数派なので、女性の方がデフォルトの形を使って、
男性の方がやや特別な形を使うということになってますね。
こういったことって結構、なんていうかな、日常の言語でもあることではあるんですが、
どちらかというと、男性の方がデフォルトになっていることの方が多いんではないかなと思います。
例えば、英語ですけど、チェアーマンみたいな言い方をしますよね。
最近はこのチェアーマンもチェアパーソンみたいに、
なんかマンが入っている単語をパーソンに置き換えるみたいなことが起こってるんですけど、
あるいはマンって言っただけで人類っていう意味にもなったりするし、
そういうふうに考えると、英語では男のマンの方がデフォルトと言えるかもしれません。
まあこれは色々センシティブな問題を含むところも多少あるんですけど、
こういうふうに対立するような概念があるときに、
一方が短い形というかデフォルトの形を使って、
もう一方がそれに何か付け加えたりとか特別な形を使うようなことがあります。
言語学ではこれを無表と有表みたいな言い方をするんですね。
03:04
つまり、万華と万華露は前者が無表で後者が有表ということになってます。
この無表と有表の話は何も男と女に限ったことではないんですね。
言語のあらゆるところで見られるものです。
例えば、食べるという動詞に対して、受け身の食べられるというのは有表ということができます。
つまり、受け身でないときは何も付かなくて、
濃度帯のときは何も付かなくて、受け身のときはられというのが入っているということですね。
なので、日本語では受け身の動詞の形は有表ということになります。
これはどんな言語でもそうではないかなと思います。
あるいは否定もそうですよね。
食べるに対して食べないというのは、
やはり食べるの方が無表で、食べないの方が有表であると言えると思います。
これもどんな言語でも当てはまると思いますね。
否定文の方が無表で、否定じゃないときに動詞の形を変えるみたいな、
そんなネガティブな言語はおそらくないでしょうね。
そういう人工言語を作ってみても面白いかもしれませんね。
他にもこういう無表と有表の対立っていうのはあって、
英語だと動詞の現在形と過去形とかですね、
playに対してplayedみたいにedというのが過去形は余計についているので、
英語では現在形が無表、過去形が有表となっています。
日本語はちょっとこれは、食べると食べた、どっちが有表で無表かというのは、
現代語だけ見ているとちょっと分かりづらいですね。
歴史的に見ればやっぱり食べたの方が有表であるとは言えるんですけど、
ちょっと日本語の食べる食べたの対立は、
どっちが無表有表っていうのはにわかには言いづらいものとなっています。
こういうふうに何が無表で何が有表かっていうのは言語によって異なるんですね。
例えばさっき日本語で食べるみたいな能動体みたいなものが無表で、
食べられるみたいな受動体は有表だと言いましたけど、
タガログ語、フィリピンで話されている言語ですけど、
タガログ語では能動体と受動体みたいなものがあるんですが、
どちらが有表かとはちょっと言いづらいんですね。
06:03
というのが受動体みたいなものが能動体に何か付け加えてできたとはちょっと言いづらくて、
能動体も受動体も何か動詞にくっついているので、
どっちが無表かっていうのはかなり難しいんですね。
フィリピンで話されている言語は山ほどあるんですけど、
そういったフィリピンの言語の特徴と言えるんですね、これは。
つまり無表の動詞の形っていうのが結構決めづらい言語ということになってます。
日本語の場合もよく主語を表すと言われているがっていうのはちょっと珍しくて、
というのが他の言語を見たときに主語を表すときは普通何もつかないんですね。
何もつかない、つまり無表の形が主語を表すっていうのがよくあることなんですが、
日本語の場合は主語を表すときもがっていうこの有表のものがついているということになってます。
ただ歴史的に見れば日本語も主語を表すときは無表でした。
タケトリの大きなというものありけりみたいに、
タケトリの大きなというものがとかこういうがっていうのはついてませんよね。
ただまあ諸事情によりですね、
現代日本語では主語を表すときも何かつくということになっています。
こういう無表と有表の関係っていうのは、
やっぱり言語の経済性というか、人間が楽したいっていうようなところが関係していると思います。
例えば受動体の食べられるに対して、
脳動体の食べるの方にもなんか余計に要素をつけてっていうことになると、
覚えなきゃいけないことも増えるっていうこともあるし、
頻度としては何もつかない脳動体の方をよく使うので、
そちらは短い形式の方がいい、つまり無表の方がいいっていう話になってきますよね。
つまり何もつかないことが何かを表しているってことは、
言語でよくあることで、
それは記憶の負担を軽減したいとか、話すときの労力を減らしたいとか、
そういったことが関わっていると思います。
まあ簡単に言えば、いちいち対立する2つの要素に、
それぞれ何か形式を用意していたらしんどいっていうことですね。
というわけで今回のトークは、
バンギャとバンギャルオから、
言語の無表と有表というものについてお話ししました。
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なかなかバンドマンの方もね、ライブとかできなくて大変だとは思いますね。
っていうか今話してて、バンドマンって、
これもやっぱり男のマンの方が無表になってますね。
僕は高校時代バンドを組んでたんで、バンドマンだったんですよね。
主にコピーバンドですけど、
で、文化祭の時とかに活動するみたいな、そういったことをやってました。
その文化祭のフィナーレで、最後体育館で全校生徒の前で演奏したんですけど、
その時の興奮というか感動っていうのはものすごいものがありましたね。
多分全校生徒1000人ぐらいいたと思うんですけど、
この歓声がうわーっと上がって、
その歓声が自分たちの方に向かってくるっていうのは、
今までにない興奮でしたね。
というわけで今回のトークはここまでということで、
最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回のトークでお会いいたしましょう。
ごきげんよう。
10:13

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