1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2024-04-27 10:32

#646 『じぶん・この不思議な存在』(再帰代名詞) from Radiotalk

主要参考文献
久野暲. 1983.『日本文法研究 第9版』東京: 大修館書店.

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育

サマリー

今回のエピソードのタイトルは、この不思議な存在についてです。この話題は、和志田清和先生の本に触れていると思いますが、講談社から新書として出版されています。和志田清和先生は、再帰代名詞を使用しています。

自分この不思議な存在
今回のエピソードタイトル、自分この不思議な存在、これは和志田清和先生の本で、講談社だったと思うんですけどね、新書で出ております。
和志田清和先生の書かれたものはね、僕は高校時代、教科書に載ってたんでね、記憶にございます。
で、それを文字ってるっていうか、パロディ的に今回エピソードタイトルにしているわけですけど、似たようなことをやっちゃってんですね、実はね。
シャープ198 複数この不思議な存在っていうタイトルで配信しております。
まあ確かに言語学において複数っていうのは不思議は不思議なんですけど、自分っていうのも相当不思議なので、
そのまんま自分この不思議な存在っていうタイトルで、先にこっちの内容を配信しとけばよかったなぁと思いますけど、
自分っていうのは言語学的な意味で言うと、再起代名詞というもので、この後お話ししますけど、大抵主語と称をするんですね。
称というか主語と同じもの、同一指示ですよっていうための単語ということになっています。
基本的にはね。もちろん代名詞的に使われることもあります。
自分はそうは思いませんって言ったら一人称代名詞だし、何言うてんねん自分って言ったら二人称代名詞になってるわけですけど、
そういったものは一旦置いといて、今回はこの再起代名詞、自分についてお話ししていきます。
BGMかかれい。
始まりました4月15のツボ、皆さんいかがお過ごしでしょうか。瀧谷小丸先輩です。
今回は日本語に限ってお話ししていきます。英語だとmyselfみたいにね、なんとかセルフっていう形が再起代名詞にあたります。
どんな言語でもあるかというと、これは微妙かもしれませんね。
さっきもちょっと言いましたけど、特に日本語においてですね、基本的には主語と同一指示であるということを表すのが自分、再起代名詞です。
太郎は鏡で自分を見たといった場合、この自分っていうのは太郎を指していることになります。
太郎が自分の本を出したって言った場合も太郎の本を出したと当然解釈されるわけです。
この場合はこの文の中に太郎っていう登場人物が一人しかいないので、ある意味問題ないようなとこがあるんですが、
もし登場人物が2人だったとしても、やはり主語と同一人物っていうことを表します。
例えば、太郎は花子に自分のことについて話した。
まあこれもやっぱり太郎のことについてっていう解釈になります。
太郎は花子に、花子のことについて話したという解釈にはならずに、やはり主語である太郎と同一指示であるということを表すんですね。
ただ必ずしも、なんか主語と同一人物とは言えないんじゃないかみたいなね。
そういった例もございます。
今回参考にしておりますのは、久野進先生のご研究で、久野先生は日本語を生成文法の手法を使って分析した第一人者と言っていいと思うんですよね。
その自分という最奇代名詞についてもかなり詳しく書かれております。
何回も繰り返してますけど、最奇代名詞っていうのは基本的に主語と同一指示のはずなんですが、
解釈の揺れが生じるっていうのは、
詞彙気分の時なんですね。 要はセルさせるっていうのが動詞につくようなものですが、
例えば、太郎は花子に自分の部屋で勉強させた。
太郎は花子に自分の部屋で勉強させた。 さてこの場合、誰の部屋で勉強したかということなんですね。
これは両方あり得ると思います。太郎の部屋で勉強させた。 これは主語と同一指示ということで、今までの話と筋が合ってるわけですが、
太郎は花子に花子の部屋で勉強させたという解釈もできるんですね。
さてこのような一見主語と 同一指示ではない自分に思われるもの。
太郎は花子に自分の部屋で勉強させた。 まあ花子の部屋という解釈が出てきてしまう。
これをどのように久野先生は説明しているかというと、 詩域文っていうのを
一種の副文みたいなもの。 文がある文に含まれている、埋め込まれているみたいな構造と考えると
いいんではないかと、そういった分析をなさっております。 まず小さい単位として
花子が花子の部屋で勉強する。 花子が花子の部屋で勉強する。
そういう小さい説というかね、文があるとして、 これ全体が詩域化されていると考えるんですね。
確かに勉強するにせるさせるがついて勉強させるになっているわけですけど、 そうではなくてせるさせるがついているというか
動詞だけが詩域化しているというよりは、文全体、説全体、あるいは出来事全体が 詩域化されているというふうに考えるんですね。
で、さっき言ったように花子が花子の部屋で勉強する。 この場合花子っていうのがドイツ人物なので、花子が自分の部屋で勉強するというふうになります。
それ自体は問題ないですよね。 で、それ全体が詩域化されて、その詩域の、詩域者みたいな言い方をするんですけど、
詩域文における自分の使い方
詩域者として太郎はっていうのが出てきて、で、させるっていうのがついて、 そうなると花子側のところが
動作主と言われるものから非詩域者になります。 詩域の影響を受ける、実際に動作をする人のことです。
それで花子がが花子にになり、全体として太郎は花子に自分の部屋で勉強させた。
この場合は自分っていうのは花子と同一支持だというふうに考えられるんですね。
で、もう一個の解釈は、小さい文っていうのが、 花子が太郎の部屋で勉強する。
この場合、花子と太郎っていうのは当然同一人物じゃないので、自分っていうのに置き換えることはできません。
花子が太郎の部屋で勉強する。 で、これ全体がまたさっきと同じように太郎っていうのが新しく参加して、
時代全体が詩域化されると、 太郎が花子に太郎の部屋で勉強させるというふうになります。
で、こうなると新しく出てきた詩域者の太郎っていうのと、 太郎の部屋の太郎っていうのが同一支持で、
そこで自分というのに置き換わって、 太郎は花子に自分の部屋で勉強させたというふうになります。
こういうふうに詩域っていうのを、 説全体にかかっているもの、時代全体を詩域化してるんだと考えると、
もともとの主語と 自分っていうのが同一支持の場合、この場合花子ですけど、そういった場合と
新しく参加した詩域者、この場合太郎と 自分というのが同一支持である場合と
見分けはつかないんですよね。見た目ではわかんないんですけど、 そういった理由で2つの解釈ができるということになるんですね。
というわけで今回は自分、この不思議な存在についてお話ししていきました。
いやほんと不思議ですよ。基本的には何度も言いますけど主語と同一支持なわけなんですけど、
詩域文だとちょっとうんと思うようなね現象があります。 がこの場合も
小さい文みたいなものを想定すると まあ一応主語と同一支持ということにはなるんですね。
ただ出来上がったものはさっきの例だと花子2っていう風に2っていうので表されますので、
出来上がったものは確かに主語とは言えないんですけど、 出来上がる前の段階では確かに主語だったものということができるんですね。
というわけで今回はここまでということで、また次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いします。 お相手はシガ15でした。
またねー!
10:32

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