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2025-03-29 20:56

スピノザ哲学と仏教の意外な共通点。

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サマリー

このエピソードでは、スピノザ哲学と仏教の意外な共通点を掘り下げています。特に、仏教の教えである縁起とスピノザの神と自然の関係が類似した思想として示されています。スピノザの哲学と仏教の教えには、自由意志の欠如という共通点があります。スピノザは世界の出来事が全て必然であるとし、仏教も因果関係を重視し、自我の解消を説いています。エピソードを通じて、スピノザの哲学とブッダの教えの間に存在する意外な共通点を探求し、自己改善と自己啓発の取り組みを通じて精神的な自由を追求することの重要性が強調されています。

仏教の基本概念
おはようございます、しゅうへいです。この番組では、1年後のあなたが楽になるヒントを、瀬戸内海の島から毎日リリークをお届けしております。
はい、ということで今日はですね、仏教とスピノザの共通点みたいな話をしたいと思います。
リスナーさんの方だとね、僕たまに仏教がね、すごく自分の人生を救ってくれたというか、
きつい時にやっぱり仏陀の考え方、諸行無常だったりとかさ、一切皆苦とか思い出すと心が楽になるよね、みたいな話をしてますよね。
で、最近ですね、国文広一郎さんのスピノザ哲学の入門書みたいなものをちょっと読み進めていて、
いや、これなんか仏陀と同じこと言ってんじゃねえのかな、みたいなことをね思ったんですよ。
で、スピノザ哲学って、僕最近ちょっと哲学に興味を持ってかじってる身なんですけど、
まあ、もう知ってる人からだと多分スピノザ哲学ってちょっとややこしいというか、神とかね、自然イコール神すべて決定してますみたいな、
なんかちょっとスピリチュアル的な要素というか、ものを感じたり、読みにくいとかって結構言われたりするんですよ。
で、僕も原本とかは翻訳本読んでるわけではなくて、国文さんの解説本を読んでいる身なんだけども、
でもね、めっちゃ面白いなって思ったの、スピノザ哲学。
で、それは国文さんが言われてる通り、あの当時17世紀ですよね、いろんな産業革命とか起こって、
国とかそういう、僕らの国民の主権だったりとかさ、社会契約説だったりとか、
そういう本当に今の国とかこの秩序みたいなのを作った、その原型みたいなのが17世紀にできたんですけど、
その時にもしかしたらもう一個の世界こうなってたかもね、みたいなのを出してくれてるのがスピノザなんですよね。
そうそうそう。で、僕ももちろんね、全部分かった上で話してるわけではないんですが、そういう面白さがあると。
で、スピノザ哲学を勉強するにあたって国文さんが言ってるのが、
スマホだったらiPhoneとかにアプリを入れていくじゃないですか、カントだったりとか、
あとデカルトだったりとか、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、わからない、いろんな哲学者がいて、
そういう哲学本を学ぶと、そのスマホ自体がいろんなアプリが入ってアップデートされていくみたいなイメージなんだけど、
スピノザ哲学に関しては、そのアプリで入れても互換性がない。
つまりOSから違うっていうような考え方が、それぐらい考え方が違う哲学らしいんですよね。
なんか面白いよね。だからスピノザ哲学ってあんまり、僕もそんなめっちゃ聞いてきたわけではないので、
ちょっと少しニッチな方なのかもしれないんだけど、学んでみるといいのかなというふうに思うんですよ。
で、今日はそのスピノザ哲学、もちろんちょっと概要話すんだけども、それよりも結局これブッダと言ってること、
入り口は結構真逆な感じなんだけど、結論同じようなこと言ってんなみたいな、そういうことを感じたので、
ちょっと今日は僕視点なんですけど、そのブッダとスピノザの面白い共通点みたいなテーマで話せたらなというふうに思います。
スピノザ哲学の特質
で、まずその、まあ仏教のおさらいからいくと、もうめっちゃ簡単に言うと仏教って一言で言うと全部縁起ですと、縁起。
要するにその、例えば僕がいるのは僕の父親と母親がいなかったらいないし、
じゃあその僕の母親と父親がいるのはやっぱりじいちゃんばあちゃんそれぞれ必要だしっていう、
まあ家族で考えたら当たり前。自分には親がいて、その親には親がいてっていうこと。
これが繋がって今の自分がある。当たり前だよね。
で、例えばうちの果樹園にはビワの木があるんですけど、ビワの実がそうだろ、6月ぐらいできるのかな。もうちょっとだね、楽しみ。
で、そのビワの実がなるのって何でかっていうと、急にそこに現れたわけじゃなくて、やっぱりビワの花が咲いてたから。
ビワの花は冬に咲きます。冬にビワの花が咲いたのは、まあビワの木がそこにあったから。
で、そこのビワの木があったのは何でかっていうと、たぶん何かが、誰かがビワの種か何かを植えたから。
それはもしかしたら鳥かもしれないし、僕のひいじいちゃんが植えたかもしれないし、っていうね。
でもそのもともと植えるにあたったビワの苗だったり種もどっかにはあった。
で、それどっから来たんだろうかっていうことは、要するにビワのこの実っていうのはいきなり出てきたわけじゃなくて、
全部縁起でつながっているよということを言ってるわけですよね。
だから、なんだろうこう、自分自身という存在みたいなものは、ある意味こう無い、無我とか言ってるでしょ。
だって仏教ってあなたいないからねって言ってるでしょ。
まあこれはいないっていうか、その絶対に変わらないあなたみたいなのは存在しないと。
例えば囚兵がいて、じゃあ妻のあれ子さんに対する囚兵のイメージと、
こうやってポッドキャストとかボイシーのみんなに話すイメージと、
僕が島のコンビニにいたときの、よく兄ちゃんがいるなと思われてるときの囚兵とって、
多分いろんな囚兵がいるわけですよね。
どれかがフェイクなのか、どれかが本物かというとそうでもなくて、全部本物。
これは平野啓治郎さんとかよく言ってる文人主義とかとも考え方が似てると思うんですね。
仏教の無我という考え方は。
だから自分というのは存在しないぐらい言ってくれてるのは仏陀なんですよ。
で、じゃあこっからスピノザ哲学的に倫理学ですよ、まさにどう生きるか。
じゃあどう生きるかってまず自分たちって、この自分という存在があるわけですよね。
じゃあこの自分がどう生きるかのその自分って何なのっていうと、
完全体って言ってます。
スピノザ、ごめん、ちょっと間違ってるかもしれないけど、でもおおよそ間違ってない。
僕らは、まず神がいますと。神がいますっていうのはスピノザは自然。
僕がパッと見たら山とか川とか海とか、それこそ今治市で山火事があったんだけど、
あれも火の不始末というよりも多分自然発火っていうふうに言われていて、
いやそうなんだよね。乾燥してたら自然に発火するんだって。
だから山火事って結構起こったりするんだけど、もうどうしようもなかったんです。
本当にどんなに消防の方がやっても、やっぱ全部を沈下するってことはかなり難しい。
かなり燃え広がってるし、風もあるし。
人間と自然の関係
結局昨日か、どっさりと雨が降っていただいて、最初そんなに降らない予定だったのか、
みんなの願いが通じたのか、めっちゃ降ったんですよ。
本当にもう自然様々ですよね。どっちにしてもね。
どうしようもないなとあるしも思ったし。
でもこれも自然の脅威とかって僕らは思うわけですよ。
山火事とか、それこそちょっとタイだったりミャンマーで大きな地震がありましたよね。
タイにいらっしゃる方とかもしかしたらいるかもしれないからね、安全に過ごされてください。
で、そういったこともさ、もう僕らからしたらどうしようもないわけ。
で、自然ってもう本当に僕ら本当にできないじゃん。
この自然をスピノザはほぼ神、自然イコール神だと言っているんですよ。
だからどっかになんとか神とかっていうのがいるっていうそっちのスピキュアとかではなくて、
どちらかというともう神ですよと。
神はそれ自体の存在を外部に証明とか心理の物差しを求めないみたいな感じなんですよね。
ものがそこにある、それ自体そうだからみたいな。
光があるっていう証明しなくていいよね。光ってるからっていうね。
なんかそういう感じらしいんですけど、ちょっとこの辺り難しいのでちょっとスキップしますね。
で、そういう神がイコール自然で、
じゃあ自分たち、僕ら人間は何かというと、神が変状したものらしいんですよ。
変状っていうのは、変わるに状態の、要するに状態が変わって出現しているみたいな。
でも確かに考えてみたらさ、飯食ってさ、例えばパンとかご飯食べて、
それが消化されて便利になって排出されるわけでしょ。
そのプロセス、僕ら何か関わってます?
うん。いや、頑張って象徴を動かして消化させますよ、いつも意識的にって言う方いたらちょっと別だけど、
やっぱ呼吸するのも無意識だし、酸素と二酸化炭素の交換、
あとミートコンドリアとかATPが出てきてとかさ、そんなの僕は意識してないけどできるでしょ。
あとこうやって喋ること。
僕も言葉ペラペラペラペラ言ってるようで、なんかこれどうやって喋ってんのかよくわかんないんだよね。
なんか、そうそう、英語を学んだりとかするとさ、なんかこう、副詞がこうで、形容詞がこうでとかさ、
なんか文字構文がこうで、ウィッチがなんかこっちにかかっててとか、いろいろ考えて文法見て読むことあるけど、
日本語ってそんな意識しないじゃん。
でもさ、日本語の文法を教えてくださいって言われても、僕らはあんま多分教えられないと思うんですよね、適当に喋ってるから。
無意識的に喋ってるから。
だからそういうふうに考えると、僕らもこれ自然なものっていうふうに考えられるかもしれないよね。
ってことはさ、僕らはすでに神なんですよ。
スピノザの自由意思
これは本当になんか、なんていうのかな、ほんとそっち系の神っていう意味ではなくて、要するに自然であると。
で、それ自体はもうそれだけで完全であるみたいなことを言ってるんですよね。
面白いよね。
しかもスピノザは、世界に起こること、この世に起こることは全て必然的だと言ってるんですよ、決定の。
全部もう決まっているんだよと。
だからこれモギさんが言ってるクォリア、脳のクォリアだったっけ、なんかさ、ちょっと違うかも、ごめん、クォリアは違うかもしれないけど、
例えば今僕は右手を握りましたと、左手も握りましたと、肘を上げましたと。
っていうこの動作も、なんか僕たちが、僕がこうやろうとする前に、もうなんか電気信号が出てるらしいんだよね、脳からは。
だから僕らは、水を飲もうと言って水を飲むんだけど、それは自分が決めて飲んでるというよりも、もうなんかその数ナノ秒前か何かに脳で決まっていると。
その決まったやつを自分がそうしたいと思ったと思わせて動いてるらしいんですよ。
これはなんかその脳科学の実験とかでわかってるらしい。
ってことはさ、あれ、自分の意思とかないんじゃないのってことなんですよね、脳科学的に見ても。
で、これは実際スピノザが言ってるんですよ、自由意思はないと。
そう、だって決定してるからね。面白いよね。
自分というものはもう完全体で、完全体ではあるんだけども、自分自身が何をするとかそういうのはもう勝手に決まっているって言ってるんですよ。
面白いね。仏教は全部縁起だ、そしてあなたはいないって言ってる。
能動と受動の関係
で、スピノザはね、あなたは完全体で、あなたの判断は関係ないって言ってる。
あなたの判断は関係ないっていうか、全部決まってるよって言ってる。
うん、面白いね。
で、じゃあ、なんでこれがブッダとスピノザが繋がってくるのかっていうことなんだけど、
これね、面白い。スピノザ哲学の中では、まあちょっと自由意思を解説するとこの回がちょっと長くなるので、
またもうちょっと本を読み進めてわかりやすく話せたらいいし、なんかリクエストもらえたら話そうかな。
なんかもうこんなややこしい話いいよとか、スピノザとか興味ないんですけど、とにかくいいんですけどって方が多かったらね、
なんか話すのもあれだから、そうそうちょっとみんなの感想も知りたいんだけど、ちょっとあんまり自信がないんだよね。
自信がないんだよね。
で、スピノザは自由意思はないって言ってるんですよ。
なんだけども、自由意思がないのにスピノザは能動と受動をちゃんと考えていて、
で、僕らってその能動と受動ってさ、なんかたぶん能動は要するに自分が決めてこうするっていうこと、
で、受動体っていうのはこうされること、なんか何かを肘を縛られたとかさ、
わかんないけど、なんかこう先生に走らされたとか受動体みたいな感じだよね。
じゃあさ、全部決まってる決定論的なスピノザ哲学などであれば、能動も受動もねえだろうが、
だって全部決まってるんでしょ。僕らはもうどんなことをしたって、いやそう決まってたんだよっていうことができる。
そこの逃げ道、スピノザはどう考えてるかというと、実はちゃんと能動があるよと。
え、だって僕らは神の変状した形で、完全体で存在していて、しかも全部やることなすこと決まってるのに、
なんで能動があるんだと。自分たちで決めれないんじゃないかと。自由意思がないんじゃないかっていうことなんですよ。
でもこのスピノザは面白い。自由みたいなものを、僕らが思っている自由とは違う概念を当て込んでるんですよね。
それがものすごく17世紀にそんなことを考えていて、しかもそう考えたら、僕らの自由意思みたいな考え方とか、
今のこの国とか人間の権利とか、あなたの意思でやったんですかとか、手術を受けますか。
あなたの意思で手術を受けると選びましたよねとかそういった契約みたいなものも、全部結構根底から変わっちゃう。
まさに国文先生が言ってるOSから違うっていうことに繋がってくるんですよ。めっちゃ面白くないですかスピノザ。
そうそう、だからもっとこのスピノザだけ読みたいんだけど、ちょっと一旦置いといて、その熱くなってる部分は。
で、さっきの話に戻りましょうね。全部決定的なんだったら、受動以外ないだろうと、能動なんかないだろうってことなんだけど、
その自由の概念が違うとスピノザで言うとね。
で、それは何かと言うと、確かに例えば、最近僕はあんまり調子が良くない。
なんかいろんな、もっと数字上げたいなとかそういうのを思ってて、なんか自分が嫌だなっていう時間を過ごしていると。
これが要するにその原因みたいなもんだよね。何かもう決まってるもの。
で、じゃあ今この瞬間僕は次の行動をどう取るかっていうと、
仏教との関連
いやだって上手くいってないし、じゃあもうボイシーも撮らなくていいやってさっきまで思ってたし、
なんかもうやっぱりYouTubeとかも頑張らなくていいやとかさっきまで思ってたし、もういいやとかいろいろ思ってたんだけど、
でもやっぱこれ、毎日撮りたいし、毎日届けたいから撮ってるんですよ。
で、スピノザ哲学みんな興味あるかわかんないし、上手く話せるかわかんないけどチャレンジしてみてるんですね。
これはじゃあ決まってたのかなってことなんですよ。確かに決まってたかもしれない話すってことはね。
だけど、まさにスピノザが言ってる能動的、じゃあ能動的があるって言ってるね。
能動があるって言っててそれ何かというと、確かにそういう自分の感情とかそういったものは勝手に生まれてくると。
しんどいな、やりたくないな。でもその感情に対して受動的になるのではなくて、そうだからそうするみたいな。
喉乾いたらもちろん水飲むべきなんだけど、とはいえちょっとここは席を立たずに我慢してもうちょっとやってみようとかさ。
何でもいいと思うんですよ。5キロ走ってしんどいから今日はもう何もしないじゃなくて、5キロ走った後も筋トレしようとかわかんない。
ちょっと上手く例えられないんだけど。要するに自分の感情に振り回されずに、ちゃんと自分の意思で行動を選ぶっていう。
自分自身がちゃんと主導権を持とうみたいな。そうそうそう。ちょっとウェルビーングに近いのかもしれないね。
っていうことを言ってくれてるんですよ。これちょっと正確な説明にはもしかしたらなってないかもしれないし、
自由意思とかの定義だったりとか、もっと前のところから話さないと本当はこれ伝わらないと思うので、
ぜひ今日僕が読んでる本、リンク付けておくのでAmazonオーディブルでも聞けるし、紙の本でも読めるので、どっちでも好きなやつ読んでいただいたらいいんですけど。
そう、なんですよ。要するに能動的な自由ちゃんとあるよと。
それは自分の感情とかそういった原因とかに振り回されずに、こうありたいと思ってちゃんと行動するってこと。
聞くと普通のことのように思うんだけども。
でも決定論とか言ってたりとか、神とか自然とか出てきてる中で、もう全部決まってますよとかって言いつつ、
でもそれは受動じゃなくてそこには能動的自由、ちゃんとした真の自由意思というものがあるんだっていうふうに言ってる。
というのが面白いなと思うんですよ。
で、今日の本題何だったかというと、このブッダとの共通点ですよ。
ここまで聞いて、多分仏教の本とか読んでたりする方は、なんかこれブッダは言ってなかったっけってことですね。
僕はこれまさに下脱だと思うんだよね。
要するにスピノザの自由意思というものは、ブッダからするとそれは下脱でしょっていうことだと思う。
いろんな、生きてると苦しみが起こる、お腹減った、眠いだ、しんどいだ、もう起きてたら、生きてたら起こるよねと。
でもそれにわざわざ振り回されずに、それはもう縁起で決まってるとも言えるじゃないですか。
だってブッダのやつもいろんな縁起が積み重なって今のあなたになっていて、今のあなたも次の何かの縁起につながってると。
その縁起は断ち切れないと言ってるわけだよね、ある意味ね。
で、その縁起が輪廻、輪廻転生をずっとしていくみたいなことを言ってたと思うんだけど。
で、まさにそう考えたらブッダも決定論的なところでもあると思うんだよ。
でもそれに対してブッダは確かにそれを続けていっていい、苦しみの連鎖とか苦しみの輪廻をずっと続けていってもいいんだけど、それを断ち切る方法があるよと。
それを下脱って言ったんだよね。
でも下脱はめっちゃ大変なわけよ。
もうあらゆる煩悩だったりとかを断ち切らないといけない。
でもさ、まさにスピノザ哲学の能動的な自由っていうのは、そういったいろんな僕らが決まっている人間としてのコナッツ、本質みたいなものがあって、
なんかそのホメオスタシスみたいなもんですよ。
暑かったら汗かいて、体温を冷やすみたいなことを僕らは精神的にも行ってるわけですよね。
ずっと毎日仕事したらストレスが溜まって、例えば家族に当たってしまうとかさ、
スピノザ哲学とブッダの共通点
そういうのも多分みんな少なからずどっかあったりするじゃないですか、たまに。
僕はそれをたまにというかよくアレゴさんにやってしまうからよくないなと思って反省はしているんだけども、なかなかすぐには治らない。まさにコナッツですよね。
だからその自分自身のついついそうしてしまう、そういうふうな反応をしてしまうっていうところをちゃんと見て、それを自分で介入して変えていくっていうこと。
まあいわゆる自己改善、自己啓発でもあるんだけども。
それってなんかブッダの下達というか発祥土というか、そういったものとも近いような気がするんですよね。
だからスピノザ自体は何百年、400年ぐらい前の人で、ブッダは2500年ぐらい前の人だから、
だいたいその2人は2000年ぐらい離れてはいるかもしれないけども、何かつながるところがあるのかなと今回は思ったので、
僕ももうちょっとスピノザ哲学に触れたりとか、他の哲学もそうだし、あと仏教のほうもちょっと最近離れてたので、
またちょっと読み直したりとかしながら、また新しい気づきとか視点とかを得たら皆さんとシェアしたいなというふうに思います。
なので面白いですよね、勉強って。役に立たなそうだけどね。別に一切お金にならないんだけどね、これね。
一切お金にならないんだけど、なんで僕はこんな放送してるんだと。もっとプロフリーだったりとか、自分の売り物を宣伝した方がいいんじゃないかと思ってしまうし、
本来本当はそうするべきなのかもしれないんだけど、なぜか僕は一切お金にならない話をしました。
だからかな、会社の売上が下がってるの。まあいいや。大丈夫、すぐには潰れないので安心してください。
潰れたとしては別に、ボイシーとか続けられるからいいんだけどね、ポッドキャストとか。会社も維持しながら。難しいね、会社も存在しているということは何かの苦しみがあるわけですから、必ずね。
いろんな苦しみも抱えながら、そこから本来は逃げたくなるんだけど、褒めをする、多数的に言うとね、逃走、逃走反応したくなるんだけど、それをちゃんと制御して、ちゃんと向き合って、自分を自己改善、アップデートしながら、
スピノザ的な自由意志を持って能動的に生きていくという、それはまさにブッダの下脱とも近いかもしれない。
あとは、ゆげざんまいか、ゆげざんまいだったかな、ブッダの生き方みたいな、仏教思想のゼロポイントだったっけ、書かれてる方がいましたけど、そこのゆげざんまいだったってね、ブッダの生き方って出てますけど、
まさに倫理学ですかね、どう生きていくか、スピノザ的なエチカ、倫理学とブッダのゆげざんまいっていうものは、何か新しい、僕らにとっては次の自由意志だったりとか、次のOS、社会のOSを何か言い当ててるものがあるんじゃないかなと思ったので、
僕自身も猫のように生きる、リブラエガキャット、LLCというプロジェクトをやってますけど、それをもってして、自分なりにその哲学だったり倫理学を、みんなの力、コミュニティの力を借りて完成させていきたいなというような感じです。
コミュニティと学びの提案
ぜひ、LLCの未完成の倫理学、哲学のこの完成に参加していただける方は、ぜひLLCのコミュニティとかもやってますので、参加いただけると嬉しいです。
今日概要欄とかに貼っておきたいと思います。というわけで、今日も聞いていただいてありがとうございます。この後も心地良い時間をお過ごしください。バイバイ。
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