それはもう、今いらっしゃる奈良江塾の町の中で
いらっしゃる方の存在を知ってて話しかけたみたいな形ってことでしょうか?
そうです。奈良江塾の中に、
奈良江塾だともう2人ぐらいですかね、行者。
普段山節っていうのは半生半俗って言って、
半分神様、仏様に使える存在ですけど、
半分は俗、存在なので、
普通に仕事をしている人ばかりなんですね。
仕事をして夜とか土日とか休みの日に
行神参加したり山に登ったりするんですけど、
普段山節の格好でいるわけじゃないんですよね。
だから全くその辺にいたらわからなくて、
ただたまたま町の中で神事みたいなものがあって、
その山節の方が所属を来ていらっしゃったんですね。
なるほど。
それで気づいて話しかけてみたっていうのがきっかけですね。
面白い。
神事っていうものが残ってるんですよね。
法作をお祈りする祭りとかそういうのじゃなくってことですよね、神事。
でも難しいものはあると思います。
やはり僕が住んでる町って、
土地は狭いし寒いし、
あまり農作物とかは見抜いた土地じゃないので、
あまり法作を願う神事はないんですけど、
一方で山に囲まれて山に守られている地域なので、
毎年一部の人だけなんですけど、
山の神様にご挨拶に行くっていう、
本当に村の中だけの小さな行事があるんですね。
そこでその方が所属を来ていたと。
なるほど。
山節はお勤めがあるんですもんね。
そうですね。
もちろん山節って一言に言っても、
僕は尾崎さんをホームにしてますけど、
日本各地、奈良県だと尾峰さんだったりとか、
京都でも大吾さんとか四国だと石渕とか、
山形に行けば出馬さんさんとか、
いろんな宗派があって、
宗派によってやることは少し違うんですけど、
僕らも定期的に神様、仏様にお祈りをするっていう行事があるので、
それは定期的な行事として参加しつつ、
他にも例えばお寺が主催する五間崎という、
斎藤五間って言ったりするんですけど、
大きな火を焚いて祈願するっていう行事があったりするので、
そういったものをお手伝いに行ったりとか、
いろんなそういう行事のお手伝いがあったりしますね。
毎月録画つく日は言ってませんでした?
そうですね。
僕が所属しているところが、
これも所属している教会とかによって違うんですけど、
僕のところは毎月3のつく日と8のつく日っていう日は何かしら。
結構多いですよね。
そうですね。
月に最低6回ぐらいはありますね。
それ以外にも歓迎するお寺だったりとか、
ご縁のあるお寺のお手伝いに行ったり、
京都とか滋賀の方に行ったりするので、
大体月に10回ぐらいなんじゃないかしら。
すごい。忙しいね。
参加しているのかなと思います。
そうですね。結構忙しいかもしれないです。
その話じゃないですけど、
反省・反続っていうのがすごく面白いなと思ったんですけど、
例えばお寺の住職さんとかは、
どっぷりと神事に使えるっていう感じだと思うんですけど、
その行者の考え方とお寺さんとの考え方の違いって何か根本的にあるんですか?
そうですね。やはり行者は反省・反続っていうのが本当に重要視されていて、
やはり神社の新職だったり、お寺のお坊さん、住職の方だったりとかは、
今おっしゃったように、基本的にはそれ一本なんですね。
もちろん他の仕事をしている方もいらっしゃるんですけど、
基本的にはそれが中心になっている。
でも行者っていうのは、もともと1300年ぐらい前に
縁の行者さんって言われる、修玄堂を開いた人がいるんですけど、
その方がもともと在家・僧侶でも出家している方じゃないんですよね。
もともと一般人のまま修行をしていた人、簡単に言えばそうですね。
なので、修玄堂の歴史の始まりがそもそもそういったところにあるっていうのもあって、
神様・仏様に仕えて、そういった修行を積んでいくっていうことを半分大事にしつつも、
俗の世界にもちゃんと身を置いて、俗世間の人たちの苦しみを学ばせてもらうとか、
学ばせてもらうことで神秘に御祈祷できるようになったりとか、
ということを目指すので、同じことをする行といって同時行って言ったりするんですけど、
なので、仏様は神様に仕える意味でありつつ、
俗世間にもちゃんと身を置いて、苦しみとか悩みを一緒に味わうっていうのが、
行者としての在り方って言われてますね。
おもろいっすね。
どのぐらいのテンションでこの話をしているのかがいつもドキドキしちゃう。
ドキドキしちゃうんですかね。
全然大丈夫です。普通に何でも聞いてます。
ちょっと聞いていいですか?もうちょっとだけ。
修行をするという行為の目的っていうか、
目的っていう言い方楽しいのかわからないですけど、
よくある煩悩をなくしていくとか、そういうのはあったりするんですけど、
そういうのって山口の方はどういう考えのもとで修行をされるんですか?
そうですね。僕らは菩薩道の修行と言うんですけど、
やはりそれこそ欲とか煩悩をなくしていくとか、
あとは自分の中の穢れを取っていくっていうのは一つ大事になることではあるんですね。
そのために木の上を歩くこともあれば滝に打たれることもありますし、
山に入ることもあるんですけど、
基本的には人助けっていうものが中心にあると思っていて、
やはり困っている方々が育って来られる方も多いんですよね。
こういった悩みを抱えていてどうしたらいいかわからない。
そういった時に僕らは御祈祷したりとかおかじとかを払いをしたりするんですけど、
そういった困っている人を助けるっていうのがやはり一番身近な目的としてはあって、
ただその時にいろんな悩みに対して応えるために、
めっちゃよくわかりました。ありがとうございます。
すごいちょっと回想があった。
ありがとうございます。
すごいですよね。
それを聞くと名音のことすごいなって思いますね。
やっぱり山って、
二人ともかなり山とか森とかに関わられてるからあれですけど、
どんな山にも小さな祠があったりとか、
鳥居があって神社があったりとか、
日本ってあらゆる山に神様が住んでいる。
結構特殊な国だなと思うんですけど、
やっぱり神様っていうのは祈られなくなると、
力を発揮できなくなっちゃうんですよね。
やはりなので、
僕らが意向倍増とか言い方をするんですけど、
神様たちの力をちゃんと発揮できるように、
お参りに行くっていうのも一つ目的としてはあります。
そうですね。前にもおっしゃってましたよね。
その山開きでしたっけ。
山の神様が眠っているところを起こしに行くような。
そうですね。そういったことは。
そういう目的なんですね。山開き。
誰にも祈られなくなった山。
信仰の対象じゃなくなった山の神様を、
起こしに行くっていうのが正しいのか分からないですけど。
そうですね。ちょっと時間がなくて、
なかなかできていない部分でもあるんですけど、
やっぱり日本全国そういった山がたくさんあると思うので、
有名な霊山ではなくても、
神様が祀られている山ってたくさんあると思うんですよね。
なので、本当は無限に時間があれば、
一つ一つ山を巡って、
一つ一つ神様にご挨拶して回りたいなって思うんですけど。
そういう山の、山というか自然との向き合い方をされながら、
もともとはデザインとか、
デザイナーとして活動されているっていうところの、
なかなか聞かない組み合わせだとは思うんですけど、
ふみやさんならではの視点というか、
自然と向き合うこととデザインみたいな話を、
自然史本論的に聞いていけるといいのか。
めちゃ面白そうです。
思うので。
まずはデザイナーといったときに、
ふみやさんは何のデザインをされているというふうに言っているんですか。
僕はですね、
いわゆる具体的なグラフィックデザインをするってことはあまりなくて、
全体の企画だったりとか、
インターフェースの基本設計みたいなのは、
例えばウェブサービスとかですね。
の基本設計を手掛けることはありますけど、
基本的にはそのあたりですね。
もともとユーザビリティとか情報アーキテクチャっていう、
どうすれば情報が分かりやすく伝わるかとか、
使いやすいサービスになるかっていうのをずっとやっていたので、
そこから始まったんですけど、
ただいくら使いやすいものになったとしても、
そもそもの企画だったりとかがいいものではないと、
なかなか意味がないってことから、
企画とかに入るようになって。
なるほど。
それは結構ありますよね。
そうですね。逆もあるんですけど。
上流にいかないと。
そうですね。上流にいかないとできないことがやはり、
かなりあったので。
なので、最近だと経営層とかと話して、
デザイン、戦略として全体の方針を決めるとか、
そういったお手伝いをさせてもらってます。
そうっすよね。
マーケターの人も結局、
ブランディングとかコンセプトがないと、
できないみたいになってて。
そうですね。
上流に。
一部だけ切り取っても、なかなか難しいってところがあるよね。
苦しくなりますよね。
そう、苦しくなる。
どうしたらいいんだろうみたいなところからスタートだなって。
いいですね。
なので、今日はデザインとかマーケティングとかに近いメンバーなので、
しっかりそんな話をしていけたら楽しいのかなと思うんですけど。
山節になられてから見る、
自然の中にどっぷり体験を通して入っていく中で、
UXデザインとか、
そもそものデザインみたいなことに、
考えうる中で変化とかって、
していくもんですか?
そうですね。
もともとデザイン業界にいたときに、
これからどうしていけばもっといいデザインができるのかなって、
悩んでしまった時期があったんですよね。
それで、助けを求めるように山に入っていった。
マジですか。
できすぎる。
素敵やな。
あるんですけど。
やっぱり、僕が作ってたものは特にウェブサービスだったりとか、
そういうテクノロジーの消費が激しいもの、
移り変わりが激しくて、
せっかく作ったものがすぐなくなってしまったりとか、
消えてしまったりとか、
10年前に作ったものがもう見ることすらできないとか、
そういったわりと耐久性の低いものを作っていたっていうこともあって、
自分が作っているものって一体何なんだろうなと思った時期があったんですよね。
ただ今は山に入るようになって、
1300年とか大きな歴史の中に自分の山節としての活動があって、
やはり歴史に貢献するっていうことがすごい大事だなっていうのは思うようになったんですね。
面白い。
そういった観点で、
たとえインターネットのサービスだとしても、
ちゃんと歴史性を大事にしたようなものづくりだったりとか、
歴史に貢献するようなサービスづくりとかデザインができないかなっていうのは今、
考えているところではあります。
山節の修行が体験主義で、
まずは考えずにやれみたいなのを言われるっていう話。
そうなんだ。
そうです。
これすごく最初の頃悩んだところであって、
やっぱりロジカルシンキングだったりとかシステムシンキング的に、
うざいなと相性悪い。
そうなんです。
構造だと分解して仕組みを考えちゃう癖ができてたんですよね。
それを山節の世界に持っていったら、
いやそんなことはしてはいけないと、
ロジカルさんに言うと。
まず山に入って、疑うなというか、
そういった放てはいけないみたいな時があって、
だからついつい頭で考える癖がついちゃってたんだなって、
それが正しいと思い込んでたんですけど、
それはやっぱり一つの側面でしかなくて、
山節とか山の世界に行ったら、
そんなことよりまず山に入るんだ、先に入るんだっていう世界があったので、
もちろんそれが全てではないんですけど、
そういった側面も持ってたので、
ついつい頭で考えちゃうという癖を無くすのに苦労しましたね、最初。
とりあえずやってみて、なぜやるかを考えずにやってみなさいって教えはすごく大事だなって僕も最近思うんですけど、
それでやってるとなんだかんだ感じるというか、
意味が再発見されるみたいなことが起こってくるんですか、修行の中では。
そうですね、まさに本当にそうで、
いまだにやっぱりどういう仕組みなんだろうとか、
やっぱり問うことはしてないので、
答えが別に見つかっているわけではないですけど、
やっぱり何回も何回も山に入っていくと、
それ自体が目的になっていくというか、
別に答えを問わないようになっていくというか、
っていう自分の思考の変化はあるかもしれないですね。
今はもう仕組みとかを問おうと思っていないというか。
それがさっきのデザインでむしろ仕組みとか、
目的と方法を分けて考えるとかっていうことが、
割と重要な視点だったりする中で、
デザインに行き詰まりと、
そういう目的を捉えずに体感するっていうことから見える、
歴史に貢献することの重要性みたいなことが、
繋がっていくのかなみたいなのを聞いてて感じるんですけど。
ですね、やっぱり自分の頭で考えられることしかやっていなかったなとは思ったんですよね。
パソコンに向かって画面に向かって本を読んだ知識で、
あくまでも人間の世界の枠組みで全てを考えていたなっていうか。
しかも現代の人間ですよね。
でも少し外に出て山に入ったらそんなことはなくて、
山口は全員1300年の歴史を背負って、
その先端のところで今も同じことを続けていてずっと。
1300年前と同じことを続けて同じ道を歩いてみたいな。
例えば疫病だったりとか、
先祖の供養だったりとか、
そういった人間世界とか社会を超えた悩みを抱えている人とかもたくさんいて、
自分がデザインという枠組みに見ていた世界があまりにも小さすぎたなっていうのがすごく思うところではありますね。
だからすごく近視眼的になっていたというか、
全部仕組みで文化が生きると思ってしまっていたし、
テクノロジーの業界ってそもそも歴史が浅いっていうのもあって、
あんまり過去の歴史を尊重する文化っていうのはなかったなと思うんですよね。
別にテクノロジーに1000年の歴史があるわけでもないので。
その1300年の歴史、歴史性に貢献するって話があったときに、
これは基本的に過去方向になるんですか?歴史に貢献するっていうのは、
これまでの歴史に恥じぬとか、
これまでの歴史がこれからも続いていくための、
地続きの現在としての位置づけを考えるみたいな話と、
もしくは未来方向も歴史ってあると思うんですけど、
未来に貢献するみたいなこともあり得るなと思ったり。
そうですね。
文脈的にはどっちがどっちも。
はい、それでいうとやっぱりどっちもですね。
テクノロジー単体として見たときには、
そこまでの長い歴史がなかったとしても、
もちろん失われるロストテクノロジーみたいなものは置いておいて、
なかったとしても、でも、
例えばそのサービスが開発される背景だったりとか、
その土地の文脈みたいなものは、
必ずウェブサービスだろうがなんだろうが、
まとわりついているものだと思うんですね。
新潟でサービスだったら新潟の文脈が必ずついてくるし、
僕らとしては。
記事を読ませていただいた時も、
デザインに必要なのが問題解決という束縛から解放されるポーズだ、
みたいなことを書かれていたので、
そういうところにつながっているんだろうなとは思ってたんですけど。
そうですね。やはりデザインをやっている時にずっと課題に思っていたのが、
デザインは問題解決だっていう言論が中心に当時あったので、
そうやって言ってしまうと、デザインって問題解決しかできないものになってしまうなと。
なるほど。
それってやっぱりビジネスに貢献するための道具としてのデザインだなと思ったんですね。
でも僕の中ではデザインってビジネスより上の存在だと思っていたというか、
別にビジネスのお役に立てて光栄ですみたいなものではなくて、
もっといいビジネスを作れるみたいな。
ビジネス自体を良い方向に導くのがデザインだと思っていたので、
そういう意味で問題解決っていう言い方をしてしまうと、
かなりデザインの可能性が小さくなるなと思っていたのがあります。
資本主義に隷属しているみたいな、そういう感覚なんですかね。
そうですね。課題解決ってそうだなと思ってしまいました。
確かにそう言われるとめっちゃそんな感じしますね。
すごいな、重要な視点。
最近僕もめちゃくちゃそれを感じるというか、
デザイン、クライアントワークになりすぎたっていうのが多分結構あって、
クライアントワークから次の時代を想像するようなことっていうのは結構難しそうで、
現状のビジネスの枠組みの中でいかにそれを拡張したりするかっていうようなことだなって考えたときに、
それこそちょうどここ数日でいろんな人と話をする機会があって、
ある人が今40代以下のデザイナーといえばこの人みたいな人が全然出てきていないみたいな話をしていて、
フミヤさんと一緒に滝尾をしたプラットスタジオの石井さんの話をしているときも、
40代以下の単独映画を作るアニメーター監督はいないみたいな話をしてたんですけど、
どちらも多分クライアントワーク、デザイナーもアニメーターもクライアントワークになりすぎた結果、
何かを想像して作り出すってことから、
誰かの課題を解決するためのものとしての位置づけが強くなりすぎて、
自己表現がなくなったみたいな感じってこと?
それもあるしと思います。
多分昔はもうちょっと大らかで予算もついた時代のデザイナーの応募書が、
こうやったら面白いやんけっていうことに対して、
じゃあそれやってみましょうかみたいな話が通ったけど、
金銭的にも余裕があるという。
なのかもしれないんですけど、今はむしろ会社の中の階層があるから、
上の人を通すためにこれは無理かもなっていうのをみんなが忖度しまくるみたいなことで、
その忖度を読み込んだデザインができる人たちが、
むしろいいデザイナーになっていっちゃったみたいなのがあるのかもしれないっていう。
中では結構デザインの役割が文屋さんに言われるような、
賄賞化するとか小さくまとまり始めるみたいなのが。
確かにね。企画を通すために余計な枠をはみ出た部分だけ削がれて行きそうな感じするもんね、そういうの。
そうです。それを通せる人がいいデザイナーになっていっちゃうと、
そうだね、クライアントベースなものが増えすぎると、
ちょっとルールが変わるなっていうのは思うんで、
そこはちょっと破壊が必要な気はしますよね。
そうですね。
さっきの悩み、デザインについて悩んだみたいなところは、
やまぶしを通して切り開けたというか、悩みは解決されたんですか?
いや、全く解決はできてないんですけど、
でもこういう形だったらもっといいデザインできるかもなっていう、
ちょっと糸口は見え始めてはいて、
それこそ今の話につながるんですけど、
課題解決のために認知心理学とか行動経済学を駆使して、
人々をナッチによって動かして数字を上げるみたいなものが、
精度されてきてしまったんですよね、ここ10年ぐらい。
それでやっぱり数字が上がっていくので、
つまりデザイナーの存在自体も企業のPGCNの中に組み込まれていくみたいになっていて、
結果本当に良かったんだっけみたいなビジネスとか、
最近の言葉で言うとダークパターンって言われる、
人々を誘導してしまう、強引に意図しない方に誘導してしまうようなデザインだったりとかによって、
売上を上げるとかっていうものが増えてきていたと。
それがやっぱり悩みだったというか、
デザインでそうじゃダメだよなと思っていて、
山の方に助けを求めたっていうのがあったので、
僕が今山節としてやっていることっていうのは、
誤解を恐れずに言うと宗教なんですよね。
日本で言うとやっぱりいろいろ宗教化による問題とかがいろいろあったので、
宗教って言うと嫌悪されたりするんですけど、
でもやはりこう…
ごめんなさい、ちょっと信仰とは違うんですか?
山岳信仰とか自然崇拝的なところの方が近くて、
それって宗教とはまたちょっと違うのかなって勝手に思ってたんですけど。
そうですね、精神性としてはやはり日本古来の山岳信仰だと思いますね。
インドから仏教が中国に渡って、中国で道教と混ざって、
それが日本に来て神道と混ざり、
なのでいろんなインド、中国、日本の信仰がミックスされて、
日本独自の山の信仰ですよね。
なので信仰って言い方も全然できます。
ただやっぱりそれを運営している母体が宗教法人だったりはするので、
そういう意味では宗教でもある。
日本ってやっぱりものすごくお土産より多い数の神社だったりとか、
山に行けば祠、お土産、鳥居があったりとか、
ものすごく宗教性の高い国だなっていうのに改めて気づいたんですよね。
自覚がないだけで。
そうですよね。めちゃめちゃそうだと思います。
めちゃくちゃそうですよね。本当にそうですよね。
例えばありがとうとか、ごちそうさまっていう言葉だったりとか、
おかげさまとか、あらゆるところに全部仏教が由来の言葉なんですけど、
自然に宗教性が組み込まれていて、自覚していないだけで、
ものすごく宗教性の高い国だなと思っているんですね。
それに改めて気づいたことで、やっぱりビジネスのロジックだけでいくと、
いや、こうした方が売り上げ上がるよって話、絶対になってしまう。
こうやって人を誘導した方がいい。邪魔な広告出しておいた方がいいみたいな。
こじるボタンは押しにくくしておいた方がいいみたいな。
っていうことになっちゃうんですけど、
でもそういうビジネスで本当にいいんだろうかって、
企業の担当者だったりとか経営者だったりとか、やっぱり立ち止まることが大事だと思うんですよね。
それってやっぱり法律で制御できなくて、ビジネスのことだけ考えても、
どうしてもこっちに行ってしまう。
やっぱり本当にそれでいいんだっけって、ちょっと足を止めるきっかけっていうのは、
自分自身の中から生まれる倫理的な話。
新人というか。
新人だったりとか、おテント様が見てるんじゃないかとか、