恥と罪悪感の違い
フェスティナレンテ、この放送は、SWC、スロースウィーズクリエイターズ、コミュニティメンバーのしらいがお送りします。よろしくお願いします。
さて今日は、恥と罪悪感について、ノートにアップした記事から読み上げていきたいと思います。
早速いきます。
いきなりですが、恥と罪悪感の違いについて書いてみます。
まずは、恥、カッコ、シェイム、息づらさの根っこにあるもの、という書籍から見ていきましょう。
以下引用です。恥と似ている自意識感情に、罪悪感があります。
これは恥のような基本的感情ではありません。
生理的神経的なものでなく、抽象的で文化的なものです。
恥が教えられなくても感じるのに対し、罪悪感はこういう行動は良くないよと教えられることで初めて感じるようになります。
ですから、罪悪感は特定の具体的な行動に対して生じます。
そしてその行動についての後悔や反省、迷惑をかけて相手に対して謝りたい気持ち、問題を解決したい気持ちへと結びつきます。
一方恥は理屈抜きの身体感覚として襲ってくるため、罪悪感よりもさらに強烈な行動規範になります。
恥を感じる対象は特定の具体的な行動に留まらず、その行動をした自分という存在そのものにも及びます。
中略
ですから、罪悪感が周囲との関係修復を目指すとすれば恥は
関係から遠ざかる孤立への方向へ向かいがちです。
引用終わりです。
ボゴタの交通改革
こうやってみると恥は人間誰しもが持っている感情で、罪悪感は文化的なものだということがわかります。
西洋文化では神から見られている感覚、罪の意識が大きく、それは世界的に見ると特殊らしいです。
確かに感情的なものと文化的なものを比べたときに文化的なものが優位になるのは特殊な感じがします。
では別の側面からも見てみましょう。
次は、「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」という書籍から、罪悪感と恥の意識について見てみましょう。
以下引用です。
彼らは二度と罪を犯そうとはしない。
中略
罪悪感は役に立つ。しかしその神類の恥の意識はあまり有益ではない。
罪悪感は限定されるが、恥の感情はずっと広い範囲に及ぶ。
中略
恥の意識はその人を苦しめる。自分を嫌いになり、変わりたいとか身を隠したいと望み、時には自分を消し去りたいと思う。
罪悪感を持つ人は過ちから学ぼうとし、より良い人間になろうと考える。
引用終わりです。
こうやって見ていくと、恥はマイナスに作用して、罪はプラスに作用していそうだなということがわかります。
この罪の意識によって西洋文化がどんどん発展していったのかも、と書きながら思いました。
ガンガンやってみて、間違ったらその過ちから学んで改善していく。その循環によって進歩がますます加速していく、といった感じです。
これを書いていて思い出したのが、1990年代後半にコロンビアの首都ボゴタで行われた改革です。
なぜ皆が同じ間違いを犯すのか、集団の思い込みを打ち砕く技術、という書籍より引用しています。
主導したのは市長で、元数学教授のアンタナス・モックスだった。
モックスが市長に就任した頃のボゴタは、交通事故による死亡率が国内最悪レベルで中略。
交通警察の腐敗もその状況に拍手をかけており、思い切った改革が必要だった。
そこでまずは悪徳警官を一掃、ついで彼らの代わりに町に送り込んだのはパントマイム役者の一団だった。
学校は色鮮やかなブカブカのズボンに長ネクタイ、総勢20人で、いずれもプロのパントマイム役者だった。
彼らは道路横断ルールを守った歩行者を身振り手振りで褒めたたえ、守らなかった歩行者を笑い者にした。
中略
パントマイム役者たちは交通違反を公解症のネタにすることで、悪目立ちを避けたい人間の本能に働きかける。
公の場での居心地の悪さは、人目に触れずに払う罰金よりも影響力があるのではないか、というのがモックスの考えだった。
それは正しかった。
引用終わりです。
この後、ボゴタの交通事故死は10年で50%以上減ったらしいです。
ここから分かるのは、恥には圧倒的な抑止効果があるということです。
ただ一方で、恥から何かが生み出されるみたいなのは起こりづらいかもと思いました。
というわけで、特に結論があるわけではないんですが、恥と罪について書いてみました。
これが何かのお役に立てれば幸いです。
感想等ございましたらコメント欄で教えていただけると大変嬉しいです。
最後までお聞きくださりありがとうございました。
それでは皆さん、スロスロスロース。