1. 深層心理ラジオ
  2. 『ユング派心理療法入門 ー治..
『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(2)
2026-09-21 1:26:35

『ユング派心理療法入門 ー治療的関係性ー』デイヴィッド セジウィック(2)

今回は

心理療法と分析の違い

創造的無意識

治療的感染


について語っています。特にした二つの概念はセジウィックらしさが出ている概念かと思いますので、長いですが聞いてみてください。

感想

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サマリー

セジウィックの『Introduction to Jungian Psychotherapy』をもとに、心理療法と分析の違い、想像的無意識、治療的感染の三つのテーマを取り上げる。心理療法は薬物療法や宗教、テニスのレッスンまで含みうる広い概念であり、分析との違いは頻度や形式ではなく治療の性質と治療的関係性にあると説明される。ユング派の無意識は抑圧された過去だけでなく、まだ形になっていない発達の可能性を含む創造的な場所として捉えられ、「集合的無意識」を「想像的無意識」と呼ぶ提案が紹介される。一方、神話やスピリチュアルな壮大さが、具体的で個人的な生活上の問題から逃れる防衛になる危険も語られる。治療的感染では、患者のコンプレックスが治療者に移り、治療者がそれを感じ取り扱うことが治療の基盤になるとされる。コロナ禍の「感染」や隔離の経験と対比しながら、治療者は関係の中に入り、相互に影響し合う運命を引き受ける必要があると論じられる。フロイトの転移、メラニー・クラインの投影同一視、サールズの考えにも触れ、自殺念慮のある人との面接では無力感などが治療者に感染する例が示される。神話や原型よりも感染という比喩は、人と人との触れ合いと信頼関係を身近に説明しやすく、治療者自身も関係の中で運命を共にするという結論に至る。

心理療法と分析の違い
はい、深層心理ラジオの実感会やってまいりました。
話してはMaeと、お相手はIさんで、ちょっと話をしていきたいと思います。
お願いします。
はい、お願いします。前回に引き続いて、セジウィックのイントロダクショントゥユンギアンサイコセラピーについて、お話をしていきたいと思います。
で、今回は、チャプター2とチャプター3から、それぞれ気になるものっていうところを話をしていくという形で進めていきたいと思うんですけど。
3も入ってないっけ、今回。
3入ってないんだっけ。
チャプター2だけかな。
使うものは、1つ目が心理療法の分析の違い。
2つ目が想像的無意識。
3つ目が治療的感染っていうテーマでですね、お話をしていきたいと思います。
まず、最初の心理療法と分析の違いっていうので、そもそもこの第2章、チャプター2ってタイトルが、ユング派のアプローチ、厳選された理論的権利っていう、そういう名前がついてるんですけど。
理論的な章なのかなと思いきや、開けてすぐ込み出しとしては、サイコセラピーvsアナリシスなんですよね。
心理療法対分析って、ちょっと不思議な構成になってると思うんですけど。
どうですか、この構成。
でも、この本のタイトルが、ユンギアン・サイコセラピーって書いてあるので、ユング派の心理療法の本。
心理分析とは違うっていうようなコンセプトっていうのかね。
そういうのが、ちょっとはっきりさせておくみたいな感じなんですかね。
そうね。結構、ある意味、意味がね、ある重要な部分でもあるのかなと思うんですけど。
本文っていうかね、本文の中に心理療法っていう言葉、文字通りにとれば、再建のセラピー。
心の治療ですよね。
で、スジックはこの文字通りの意味でとれば、いろんなものが心理療法的だって言ってるわけなんですよ。
だからすごい、まず心理療法の定義がすごいグッと広がってる感じなんですけど。
その中にはこの薬物療法もそうだし、心理療法もそういう位置形態だと。
ある意味では宗教もそうかもしれないし、これを訳しててすごい印象的だったんですけど、
テニスのレッスンもそうかもしれないって書いてあるんですよね。
ここは何なのかというと、冗談なのかな?アメリカンジョークなのかな?わかんないけど。
何らかの助けになれば心理療法ですみたいなのが書いてありますね。
ちょっとね、条件みたいなものも書いてあって。
治療者が普通に使う意味での心理療法には、心理学的な治療状況におけるその人への心理学的な理解が含まれている。
そういったのが心理療法の条件じゃないかっていうお話をしてるんですよね。
それでも結構広いんじゃないかなと思うんですよね。
そうやって見てみると、精神分析とかも心理療法の位置形態ということになるとセジリックは言ってるわけです。
セジリックはね。
難しいところというか、精神分析は心理療法じゃなくて精神分析なんだっていう人たちの考えもあったり。
精神分析は細かいことはわかんないけど、本当に決まってて週4日とか3日以上とかやるのを精神分析っていうふうに言って、
例えば週1回だけのものは精神分析的心理療法っていうふうにしてるんですよ。
そうだよね。精神分析っていうと毎日分析のような形式でなきゃいけないとかね。
カウチを使ってとか、いろいろな条件があって。
セジリックが本文の中で書いてるように、精神分析は精神分析っていうものを心理療法から区別してきたような歴史があると書いてあったんですよね。
構造だったり方法で結構区別をしてこようという流れがあった。
ここからユング派と精神分析的な違いというか、セジリックの言うことから何かを連想されることなんですけど、
すいません、私結構感覚的な話をしてるんで、よくわかんない人もいるかもしれないんですけど、
分析と心理療法の間にヒエルアルキを感じてる人っていませんかね。
心理師とかで自分が実践やってる人とか、そういうふうに感じてる人って結構いるんかなと思うんですけど、
私がやってるのは分析じゃなくて、心理療法です、カウンセリングですなんていうときに、
二流の響きみたいな。
そういうのを自分で感じちゃうし、少なくとも私は感じることがあるんですよ。
劣等感みたいなのを感じちゃったりする。
なんか深いところまでやれてない、本格的なものじゃない、簡易版の方やってるみたいなね。
でもそういうのをすごく権威づけてる立場、制度としてとか、訓練のあり方として、
そういうのがどちらが上とか明示されないまま共有されてブラブラしてる感じがあると思うんですけど、
でも私たちが日常にやってるのは心理療法であることが圧倒的に多いわけで、
週に1回とか、40分くらい終わっちゃったり、学校だったりとかね。
いろいろな枠の中でやってると思うんですけど、
そういった感覚を解除仕掛けに来てるのが、結構セジューとも言ってるようなことなのかなっていうふうに思うんですよね。
なるほど。
ユングの言葉を引いてるんですけど、最大で週4回、治療が進むにつれて週1回か2回に減っていくと。
そういうふうにユングが書いてるんですよ、自身の分析の頻度について。
それを受けてセジュー行くは、もし頻度で分析を定義するっていうんだったら、
ユング派の分析っていうのは集中的な心理療法に過ぎないことになるんじゃないか。
これはなかなか強い言い方だなと思うんですけど。
でも、本質的には精神分析も基本の定義に戻れば、心理学的な理解っていうことに戻れば、結局は同じじゃないのかっていうふうに話は立ち戻ってるんですけど。
そうですね。
どうなんだろうな。精神分析とかは割と精神分析と精神分析的心理療法みたいな感じで分けたけど、
ユング派はそんなに良くも悪くもカッチリしてないというか、分析と心理療法の違いみたいなのはあんまりうるさくは言ってきてなかったんじゃない。
っていうところがありますよね。
精神分析は本当にしっかりしてる時代だけど、きっちりしてる。
そうね、きっちり構造化してあるというか。
かといってユング派に形がないのかといえば、形もあって、
精神学の整理だとユング派の分析には大きく2つがあって、
1つは古典的、象徴的なもの。自我とセルフの対話を促進するっていうような言い方をされるやつですね。
もう1つは精神分析の理論や技法を取り入れたもの。発達派って言っていいのかな。
面白い言い方としては、どちらとも異なるものとして、ユング派の心理療法を定義してるっていう文章が本文にあるんですね。
それがどんな立場かというと、治療的関係性に焦点を当てる。古典派ほど原型的ではないし、発達派ほど解釈的でもない。
それがある意味ユング派の心理療法なのではないかって書いてあるんですよね。
そうですね、書いてあるんです。
だからこの込み出しのところっていうのは、ある意味この本がこれから何を書くかっていう宣言でもある。治療的関係性に焦点を当てるってことなんですよね。
そうですね。
あとは重要なのは頻度ではなく治療の性質だとも言っています。
その辺は週に何回か会うかっていう話ではない。結構言い切ってるんですけどね。
この辺は言い切るっていうのはなかなか難しいんですけど、せじりくんはそう言ってるって言ってるんですよね。
なんかちょっと逃げてるみたいですね。
現代的に考えたら週1回、2回でも多いっていうのはありますよね。
そうだよね。
聞いてる方が心理師の人で実践してる方なのか、心理の実践をされてない方なのかによりますけど、やっぱり今の時代で毎週会ってるっていう人は多分相当少ないんで、
2週間に1回とか、月1回みたいな面接も多いと思うんですけど、結局そういう問題にもつながってきますよね。
頻度じゃなくて性質ってなると、本当に月1回とかの低頻度でも変わらないのかみたいな。
ちょっと難しいっていうか、名言しづらい。
名言しづらいですよね。
でも負担はすごい重いと思うんですよね。
習い事でも週に1回行く習い事って、かなり生活に大きな変化を作るっていうことは間違いないかなって思うんですよね。
ある意味で、頻度や構造に意味がないっていう話ではないのかなと思うんですよね。
やっぱり週4回と週1回でやっぱり当然できることって結構違うのかなっていうふうに思いますし、
そこも慎重に考慮が必要であるというふうにもセイジュリック自身は書いてある。
けど、そこで優劣が決まるわけじゃないんだよっていう話をしてるんですよね。
ちょっとさっきヒエラルキーみたいな話をしたんですけど、分析も心理情報も変わらないっていうふうに、
セイジュリックが分析家にも関わらずそう言ってしまうのが、なんかカッコええなと。
カッコええし、分析家である存在からこういう言葉が出てくるっていう重みというかね。
最後の方にはですね、ユングの言葉が引用されていて、ユング自身が心理療法を何と呼んだかといえば、魂の治療だと。
そもそもこの言い方自体には、週何回かっていう話は入りようがないということなんですよね。
これが心理療法vs分析ということで。
あとは何か言い残したことありますか?
でもこう、何なんだろうなと思うんですよね。
その分析の方が深くて偉いわけじゃないけど、そういう固定観念みたいなのって気づいたら自分の中にあったし、
割とそういうのが訓練していく中でね、多くあったりとか。
あともともと深いイコールEみたいなね、そういうのは分析に限らず世の中の当たり前みたいな感じで今あったりするけど。
割と深いことのデメリットみたいなのも、ここでは話さないですけど、あったりする。
どっちが良い悪いじゃないですよね。
この深いことが良いっていう固定観念っていうか、そういうものにある意味で次の話題が関わってくるのかなというふうにもちょっと思うんですけど。
想像的無意識と神話の防衛
ちょっと想像的無意識の話とか入っていっちゃっていいですか?
次の。
次の。もうちょっと話したかった?
今のなんかちょっと深すぎるっていうか、想像的無意識っていう章もこの本の中では結構重要なのかなと私の中では結構思ってる章がありまして。
非常に簡単に言うと、この想像的無意識っていう章では、集合的無意識じゃなくて、想像的無意識って呼んだらっていう非常にシンプルな提案でもあるんですけど。
ただ私自身ね、その集合的無意識っていう発想自体は非常に有機的なものだって感じていて。
有機的、オーガニック。
少しね、また私感覚的なんだけどと。
個人的な感じ方、そんなつもりでちょっと聞いてもらいたいんですけど。
フロイトの理論の動いて、どこか軍のメタファーっていうかね、そういうのを用いる言葉があるかなと思うんですよね。
検閲とか、抵抗とか、あとは防衛とかさ、あとは美球みたいな。
美球ね、はいはい。
なんか押し留めようとする力と突破しようとする力があって、その傾向とかで心が説明される。
なんか、リンチがあって、前線があって、みたいな感じ。
その一方で、有画派の語彙ってすごく有機的だって感じるんですよね。
これは勝手に私がそう感じているだけなのかもしれないですけど、
実際、この本文とかでもね、無意識について、何か新しいものを孵化させるみたいな言い方とかしてたりするわけですね。
英語で言うとhatchingみたいな、孵化する。
これは機械の語彙でもないし、軍の語彙でもないし、卵です。
卵の語彙ですよね。
これって単なる比喩とか趣味の問題じゃなくて、無意識の捉え方そのものに関わっていると思うんですよね。
本文でまた、ユングは最初、コンプレックスというものを無意識の中の傷ついた部分として記述したんですね。
ソワスポって傷む程度の差はある。
トラウマによって生じたものというかね。
これはわかりやすいし、押し込められたものが溜まっている場所っていうイメージで、
ちょっとフロイトにも近いような感覚もあるんですけど。
でもユングっていうのは、そこに別のものを付け加えたわけです。
無意識の中には抑圧されたものだけじゃなくて、
対に未知で発達の途中にある個人的な特性とか感情とかも含まれている。
これが非常に大きいユング派としての考え方としてあると思うんですけど。
つまり、無意識の中には過去に押し込められたものだけじゃなくて、
まだ形になっていないものとか、これから出てくるものとかが入っている。
トラウマの保障として生じたものであっても、
トラウマを超えた発展を指し示しているようなものだったり。
だから無意識はクリエイティブプレイス、創造的な場所なんだと。
新しいものを孵化させて、新しい行動とか感情とか、
新しい機会を生み出す場所なんだと書かれているわけなんですけど。
この捉え方が非常に重要だし、
心の中にまだ目の状態のものがあるっていう感覚なんですよね。
心が、こういった有機性ということよりも先に起きてしまうことが、
この集合的無意識にあるわけです。
話長くなっちゃったあれなんですけど。
難しいでしょ。
難しいと思うんですけど。
何に有機性というものを感じる前に起きてしまうかというと、
神話の渦に巻き込まれるということなんですよ。
原型、神話、イメージ、象徴、そういう豊かなんだけど、本当に豊かだし面白いし、
でもそこに巻き込まれるとね、わけわかんなくて戻ってこられなくなるみたいな。
面接の中でも壮大な話が始まったり、
あるいはこっちが壮大な話を始めると、
深いところに触れてるような感じがする。
でも実際には何も覚えてないんじゃないかっていう言葉ですね。
世襲が言ってるわけですよ。
もっと厳しい言い方で、
彼が指摘してるのは、
集合的無意識を本文の中では、
現代の科学から拒絶された精神的な可能性の倉庫のようなものだと。
立ち場があると。
これは神に似た知恵の源泉だと。
でも彼はこういった心理力は必ずしもそちらの方へ進まないと。
刑事上学的な期待を持って治療に来ると、失望を招くことがあると。
ここが非常に刺さる。
刺さったんですけど、私の中では刺さったんですけど、
スピリチャルな飛躍への願望は、しばしば個人的無意識に対する防衛であると。
これがきつい一文だと思うんですけど。
ユング派のオリエンテーションに来るクライアントさんの中には、
傾向だったり、あるいは治療者自身の側面、神話だったり、宗教性だったり、
そういったものに関心というのはすごく強いわけですけど。
だけどよく見てくださいと。
一部の人にとっては、神話的なものだったりとかが防衛の役に立ってしまうということを、
セリウッドは言ってるわけですね。
壮大な話が始まったときには、その下で語られないままになっている、
具体的で、みっともなくて、個人的な生活があると。
そういった問題の確信、個人の生活にあるんだと。
そこに触れる必要があるんじゃないかっていうことなんですよね。
そうですね。
これなんかは、すごくわかる話というか。
なんていうの、いますよね、そういう人って。
そういう人たちを置いておいて、見かけるというか。
見かけるし、体験もしてるかなと思います。
そうですね。
私自身の個人的な、例えば教育分析なのですよ。
とても口が裂けてどの人だかって言えないですけど。
面接の中で、話が自分の内容が大きなものの話題に移っていく瞬間に、
ほっとしている自分に気づいたときがあったんですよ。
やっぱり、個人的なソワースポットじゃないけど。
そこからある意味、離れちゃってる感覚というか。
そこにほっとして、神話的なものの渦に助けられている。
それは患者さんだけの防衛じゃなくて、治療者側にもあるかもしれない。
教育分析では、自分はそんな体験も個人的にしたということもあって、
そういった危険性への提案をしているこの章が非常に刺さったわけなんですけど。
こんなことから、彼は実践的な目的からは、
集合的無意識を想像的無意識と呼ぶ方がいいんだと。
なるほどね。
さらに危険性として、心学的な考察に巻き込まれたり、
本文の中では集団心の理論って書いてあるんですけど、
これは集団そのものが一つの心を持っているみたいな。
物と言葉的に誤解されちゃう。
集合的無意識が、言葉が近くて。
あとはシンボルとかイメージの過剰な焦点が当たってしまうということから、
こんな言葉を想像的無意識と呼ぶ方がいいんじゃないか、
実践的にはいいんじゃないかっていう、そういった提案をしているわけですね。
じゃあ、原型論を捨てるのか?
というと、そうじゃないですけどね。
ああ、そっか。
確かに原型…
そう考えたら難しいですね。想像的無意識みたいなところは、
確かに原型とどう繋がってくるのかね。
そうね。
でも彼は原型視点っていうのは、別に否定してるわけじゃなくて、
その無意識自体がなぜ想像的であるのかっていうことを説明するのに優れた理論であるとも書いてあるんですよね。
だけど、その説明がなくても無意識は想像的なんだよと。
なるほどね。
優れた理論だって認めてるけど、説明理論としての地位でよくて。
そういった原型的な内容、例えば宗教についてだったりだったら、宗教的なものを切り離して宗教に返せばいいって書いてあるっていうことなんですよね。
純粋に無意識が神秘的な体験の場所じゃなくて、心理的な発達の可能性の貯蔵庫として扱えるようにするためには、
こういった言葉への配慮というか、そういうこともできるんじゃないかっていうのが提案としてあるんですよね。
なるほどね。
非常に難しい内容だったと思うんですけど。
でも結構、この辺の内容が特徴的なものというか。
実はね、のいまんさんもですね、想像的無意識っていう言葉を使ってるんですよ。
うん。
芸術と想像的無意識みたいなね、そういうものを使ってるんですけど。
でもちょっとね、意味が、それを説明してる内容は全然違くて。
今言った話は、セジュイック独自なのかな。
あまり私自身はそこら辺の、それ以外に見たことがない。
見たことがある人がいたらぜひ教えてもらいたいんですけど。
ちょっとね、のいまんとはちょっと違うっていうことなんですよね。
ただ、ここまで長く話してきて、ただね、わからないところが一つあって。
例えば個人的な要素で苦しんでる人がいるとして。
この苦労は誰にも、誰もそんな体験してる。
こんな不幸なのは私だけだ。
自分だけの問題だと思って、自分を責めて孤立してるような人がいたとしたらですね。
でもこの原型とか、そういうものって、
その人が、これは単に個人化されたものじゃなくて、
いわば共通性も持つものなんだっていう、知る瞬間があると思うんですよね。
すごい難しい話なんですけど。
子から全体への視点の転換というか、そこに結構癒しもあったりすると思うんですよね。
そうね。
そういった原型的な物語に触れた時に、自分の運命というものとのつながりを感じたり。
あなたの苦しみはあなただけのものじゃないみたいな。
そういう保証を与えるような、集合的な無意識の概念だったはずなんだけど、
そこがね、創造的無意識という呼び方にして、
そこの部分をあまり見ずにやった時に、
こういった人たちはどうやって癒しを作り出すんだろうかっていう。
その辺がね、ちょっと私にはわからないところで。
全部捨てるか全部残すかっていう話じゃないんだろうなっていうふうには思ってて。
両方大事というか。
何だろう。
まあ創造的な面もあるし。
まあでも今の話とかも、
こうなんだろうな。
中心的な話だからね。
そんなに矛盾してないと思っている。
逆に。
要は、そういう自分だけの不幸みたいなところが割とこう、
他にも似たような、似たようなじゃなくてもいいかもしれないけど苦しんでいる人がいるって気づけるみたいな話って、
まあ確かにあるし、
なんかまあそれ自体が創造的なプロセスな気もするというか、
そういう、
自分だけだ、なんで自分だけみたいな思ってた人がこう、
少しこう、
共有できる。
まあ共有できるというか、人と共有されていくみたいなプロセスでは、
創造的だと思うし、
まあそういう話ってよくあるよ。よくあるって言ったんだけど。
それこそこう、
集合的にある話だなっていう。
それこそ集合的にある話だよね、確かに。
っていう意味ではあんまり矛盾はしないのかなとか思ったりもしたけどね。
確かにね。結果としてはあまり矛盾しないのかもしれないね。
やっぱりまあ、
強調点っていうかね、
結構文脈の中で、
リュング派の実践っていうものが、
臨床の中で、
まあ選択されるようにっていう、
どこかこう、
そういう面での考えもなんか世襲行くにはあるような気もするんだよね。
どういうことだ?
あの、なんか、
どっかにね書いてあったんだけど、
分析っていうのは、
本文の中にね、
分析っていうのは長い間、
広い治療の世界においては、
選ばれる治療法ではなかったっていう記述があるんですよね。
そこに、まあやっぱりこう、特にリュング派の場合、
そこにスピリチャル的な要素だったり、宗教的な要素が絡み合っていくことで、
選択されてこなかったっていう部分も、
世襲行くはあるのではないかって言っていて、
でも世襲行く自身は、
治療的な関係性に焦点を当てる、
そのリュング的な観点から当てたそのやり方自体に、
すごい治療的な効果を感じているからこそ、
その辺がもっと受け入れられてほしいのではないかと。
なんかそういう願いが、この本の中には、
テーマとしてちょっと感じる部分もあるんですよね。
なるほど。
だからそういった意味で、この呼び方っていうものを、
結果としては、
無意識が創造的な役割を持つ。
それは原型的なものに強調しても、同じなんだけど。
ただ、受け入れ、より受け入れられるものとしては、
何か呼び方や強調点っていうものを、
調節していく必要性を感じているのかなっていうふうに、
感じたんですよね。
感じたというか、今話をしててそういうのを、
そういう文が書いてあったなっていうのを思い出しました。
確かにこう、
たぶんっていうか、
セリフさんあれですよね。
改良されてる。
改良されてる。
だから、
さっきもあったように、
クライアントさんがたぶん、
自分で探してとか、
他の心理師とかに、
セリフさんの改良先を紹介されてみたいな形で来られる人が、
多いからやっぱり、
他の心理療法と比べられたりとかするし、
おそらくセリフさんのところに来る人って、
ある程度言う心理学だったり、
宗教性とか、
神話、神秘、そういうのに、
それに関心がある人が多い、
だろうなっていうとこありますよね。
だからこう、
形状学的な話ばっかりして、
個人的な話がない人が多かったりとか、
言ったように、
そもそも選ばれにくいので、
ポカルティックだったり、
近代化学的な感じがしない。
我々というか、普通に働いてる心理師のほとんどは、
どっちかって言うと、
クライアントさんが内なり療法とか内なり学科に興味ができましたっていうかは、
住んでる地域の自治体で使える心理師だったり、
またも病院にいる心理師だったりとか、
クライアントさん自身が選ぶっていうところが、
そもそも少ないみたいなところがあったりするので、
ちょっとこう、
そういうのも影響してるんだろうなって思います。
そういうのも影響してるだろうし、
結構なんかあれじゃないですか。
本の中にも保険のこと?
保険会社とのやりとりみたいなね。
保険点数がつくのかどうかみたいな。
それは効果があるのかみたいなね。
せっかく選んで自分のところに来てくれる人が、
なんかね、保険得られないとかさ、
そういう実理的な面でもなんか、
いろいろ考えるところがあるんだろうね。
効果を示さなきゃいけない。
いろいろな難しさもしかしたら、
あるかもしれないけど、
なかなか、
特にこういうね、
真相心理系のものっていうのは、
なかなか数値化しにくいものだから、
なかなか難しいですよね。
というぼやけみたいな感じになってしまいましたけれども。
で、どうですかね。
治療的感染と転移
次のこの治療的感染って、
これは実は2人ともね、
なんか興味が、興味がというか、
すごい関心がある。
そうだったりすると思うんですけど。
アイさんはちなみに、
どんなところが気になりましたか、
この治療的感染っていうのは。
そうですね、やっぱり、
なんていうんだろうな。
やっぱりこう、治療的感染っていうのは、
広い意味で言うと、
転移現象なんですよね。
トランスファレンスっていう。
で、
変はなんていうのかな。
すごいこう、読んでて、
リリティカルだなっていうか、
あるあるだなと思うというか、
その、
なんて言うんですかね。
要はさっきの話から見ると、
形状学的な話じゃないなと思ったんですよね。
言ってることは、
抽象的なんだけど、
感染。
カウンセリングしたことある人だったら、
誰でも感じたことあるんじゃないかなっていうところを、
出してくれてる感じがあって、
それがどういうことかっていうのをちょっと今から、
話していければなっていう風に。
けど、
そうね。
そうね、転移っていうこともあるけれども、
なんか結構、
言葉ですよね。
ちょっと私は、
すごく感覚的な人間、
何回言うねんみたいな感じですけど、
感覚的な人間なんで、
本文の中の言葉として、
治療者は患者によって汚染される、
心理的に感染するっていうね、
そういうメタファーがあるわけですけど、
すごくあれじゃないですか、
言いようによっては、
現代の感覚としたら、
汚染されるって、
すごい強い言葉じゃないですか。
コロナがあったりとか。
コロナがあったりとかね。
もちろん瀬尻がこれを書いたときは、
そんなのなかったけど。
そんなのなかったんだけど、
実はこの本に出会って、
訳してたときって、
まさにちょうどコロナ禍だったんですよ。
そこがすごく、
個人的に印象があって、
この時期ほど、
感染っていう言葉が、
誘致された時期ってないと思うんですよね。
毎日数字が出て、
誰がかかった、どこで広がったとかって。
目に見えない何かしらの働きに対して、
すごく一気に自由するような、
そういう空気があったと思うんですけど。
だから世界は、
感染とかそれを排除する方向に、
世の中動いてるわけですよ。
距離を取る、
遮断する、消毒する、隔離するみたいな。
混ざらないようにするみたいな。
でも、
ここの書いた内容って、
そういう世界の状況の中で、
治療者はその場にどっぷりはまれと。
感染を味わえと。
むしろ味わえと。
なんならそれが治療の基盤なんだと。
避けるリスクじゃなくて、
引き受けるべき運命なんだとまで書いてあげる。
私自身はここに、
すごくね、
強制性みたいなのをね。
ある意味この時代だからこそ、
全く逆のことを大事だって言ってる、
この本っていうのは、
同じ感染っていう言葉を使ってるけど、
世界は反対の向きで語られてるけど、
この本は近づけって言ってるわけですよね。
近づけっていうか、
近づかざるを得ないっていうか。
得えない。
それが運命なんだよっていうこと。
個人的にはね、
そういう点ですごくね、
印象に残ってるんですよね、
この治療の基盤っていうのはね。
治療的感染っていうものが。
でもなんか、
そもそもユング派的、
ユング派的というか、
この本として、
定員っていうのは、
もうすでにいろんな状況で始まってて、
そこの中にもう、
関係を持つこと自体が、
そこには定員の働きがある。
そこが他の分析だったりとかと、
何か、
最近はユング派的にも、
ユング派が精神分析に近くなってる部分があるから、
明確に何か違うっていうのは言いにくいけど、
いいか悪いかは別にしても、
定員自体はもうすでに発生してるというかね。
そういうところが結構なんだろうな。
それが感染っていうことなのか、
どうなんだろうね。
一応、
聞いてる人は多分感染がどういうものか、
まずはわからないと思うので、
そこの説明を、
まず簡単にしていこうかなと思います。
せじりくさんは、
サイコロジカルコンティションっていう風に
書いていて、
訳すと心理的な、
伝染とか感染とか、
そういう感じなんですけど、
さっきコロナの話が出ましたけど、
もう一つ、
感染とか伝染って意味だとインフェクションがあって、
違いみたいなのをちょっと、
AIで聞いてみて、
インフェクションってもうちょっと、
病原体ウイルスとか細菌とかが、
体内に入っていったりとかして、
増えていくこと。
多いって人から人への接触に限らず、
空気感染とか、
水とか植物からの蛍光感染、
虫刺されとか、
そういう使われる言葉としてインフェクションがあって、
一方このコンティジョンっていうのは、
主に接触のことらしいですね、
人から人への接触。
語源がラテン語のタッチ、
フレルに由来しているということで、
やっぱり、
鈴木さんのイメージっていうか、
アメリカの人とかね、
英語はもちろん母国語なわけだけど、
触れ合うみたいなところが、
やっぱり大事というか、
意味あるんだろうなという感じがします。
心と心が触れ合うみたいな、
日本でもよく聞かれるような、
皮肉表現ですけど、
触れ合うみたいな感じですね。
まず、
これに関していうのは、
さっきちょっと前さんの話でも出ましたけど、
コンプレックスの理解がまず必要なんですね、
ユングのコンプレックスの。
コンプレックスっていうのは、
感情に強く
引きつけられたというか、
感情の、
様々な感情の塊みたいな感じで、
言われますけど、
一番有名なのはあれですね、
顔にコンプレックスがあってみたいな話をしたときに、
これと、
コンプレックスが思われちゃうけど、
実はそんなことなくて、
例えばお父さんコンプレックスがあったときには、
お父さんに対する恐れおろのきだったり、
あるいは一方でそういう風になりたいみたいな、
いろんな感情が
ないまぜになっているみたいなのがコンプレックス、
ユングの言うコンプレックスだと。
そういうコンプレックスというのは、
意識の周りを常に
ふらふらしているというか回っていて、
何かのきっかけにそれのコンプレックスが広まる。
強くなってくると、
意識の中にガンって出てきて、
人格が変わるというか、
そういう影響を受けるというところなんですよね。
わかりやすい例だとなんだろうな、
例えば学歴コンプレックスみたいなのもよく聞きますけど、
学歴コンプレックスが強い人だとつい、
例えば高学歴の人と話をするときに
萎縮してしまうとか、自分がバカって思われるんじゃないかみたいな、
そういう感じになっちゃうけど、
別にそういう高学歴じゃない人だったり、
あるいは学歴が知らない状態で接しているときは、
そういうふうに萎縮しちゃえばならないみたいな。
コンプレックスはそういうふうに場面によって
すごく自分の意識の中に入ってきて、
自分の人格のような感じの働きをしたりする
みたいなことなんですけど、
要はこのコンプレックスが
感染するらしいんですよね、
セジウィックさんによると。
この辺がちょっと難しいというか、
とりあえずコンプレックスというのが
移ってくるんだっていう、
その治療者に。
患者の持っているコンプレックスが治療者に
感染してくる。逆もあるらしいんですけど。
そういう中で
やっていくんですけど、
さっき前さんが言ったように、
こういうのを排除しちゃいけないというか、
そういう
気持ちに気づいて
気づいていくというか、
そういう気持ちを無視しないで
ちゃんと感じるってところが大事で、
この辺で
そういう感染するとか、相手のものが
こっちに移ってくるみたいな話っていうのは
精神分析でいうところの
クライン学派
メラニー・クラインっていう人がいて、
別の弟子でいいのかな。
その考えすごく似てるっていうのも
セジウィックさん書いてますね。
クラインっていう人は東映ドイツ化っていう
概念をちょっと考えたというか
それもやっぱり
相手から投げられたものに
投げられるとか、移されてきたというか
放り込まれるみたいなところに自分が
一体化するみたいな話の概念なんですけど
精神分析で
言ってたようなことだ
ということがユング
大使は、セジウィックさんは
さっきちょっとチラッと出た
ユング派の中の発達学派も
この辺にかなり近づいていった
人たちですね、ロンドンの人たち
で、ちょっと話が
前後しちゃうんですけど
フロイトが言ってる定義っていうのはちょっと違う
もうちょっとこう
違う説明のされ方が
こうしてたんですね
フロイトはどっちかというと
ある重要な他者との関係性が
治療者と患者の間でも
再現されるとか反復される
みたいなことで
例えば
こう
あんまりかまってくれなかったお母さんに
根元で育った人がいて
その人が
カウンセリングないしチームにないし
分析に来た時に
ぽろっと言ったりするわけですね
治療者は私のことを
どうでもいいと思ってるんですよねとか
つめたくされてるように思うみたいなことを
言ったりすると
その時に
分析側とか治療者っていうのは
もしかしたらクライアントさんと
お母さんとの間で起きていたことが
今の治療者と
クライアントの間で起きてるじゃないかっていう
そういう過去の出来事が今ここで
生じてるみたいなことを
理解するのが
フロイトっぽい点なんですよね
そことは近しい部分もあるけど
もうちょっと
もっと広いのかもしれないですよね
ある意味では
不適応的な面と
逆に健康的な面も
混ざり合う点もあるんじゃないですかね
感染が?
感染の中には
そうね
精神的には割とマイナスっていうか
イライラさせるとか
そういう面を書いてるので
どうなのかわからないけど
まあ
そうなんだけど
例えばユングはよく言うじゃないですか
この治療の半分以上が
医者自身が自分自身を吟味することからなると
自分の中に正せることだけが
患者の中で正せると
そうすると
そこの中には
治療者自身の
対処の仕方だったりとか
ストレス
不適応状況だったり
異物に対しての
それを制御する
そういった健康的な部分が
モデルとして
映っていく
そういった形もあるのかなっていうと
そういったネガティブな面だけじゃない
とすると結構広い
内容が含まれてるのかな
その辺の概念整理は難しいんだけど
本に書いてあることをベースで言うと
治療はそういうところがあって
要は
コンプレックスっていうのが
患者を面接に
導く
同期になってくるわけなんだけど
コンプレックスを弱めていくにはどうしたらいいか
受け入れられる
他者に
コンプレックスが大事なんだ
そういう意味で
感染したコンプレックス
分析的に言えば投げ込まれたコンプレックス
治療者が受け取って
そこで今前さんが言ったような
医者の人格で治療者の人格じゃないけど
その投げ出したものに対してどう
向き合うというか関わるかというか扱うか
そういうのが治療になるんだ
っていう話をしていて
フロイトの定義概念
中身って言っていいのかわからないけど
要は定義が起きるときはこういうことが起きてるんじゃないか
みたいな理解で
感染みたいなのは理解していいと思うんですけど
もう一つこの理論で重要なのは
精神分析家だったと思うけど
サールズっていう人なのかな
精神…心理師なのかわからない
精神科医だったかな
このセジルクさんの博士論文が
ユングとサールズのことについて書いた
ものらしくて
その博論はそのままなのかわからないですけど
ユングとサールズっていう本になって
日本でも翻訳されて
出版されているのがあれなんですけど
サールズって人は統合主張症の方をよく見ていた
らしくて
そういう意味ではユングとも近い
ユングも結構統合主張症の方とかいろいろ見て
フロイトはどっちかというと
神経症の人っていうので
ちょっと
合ってたクライアントさんの質というか
タイプが違うんですけど
サールズはユングよりもっと合ってたらしい
統合主張症の人に
書いてあったことだからあんまり
話し手2人 でもほとんど
シューだったんじゃないかな
ユングの方はもうちょっと広く見てたというか
神経症犬とかね
統合主張症の人もいたけどサールズは
基本統合主張症の人だと
でそのサールズっていうのはちょっと
精神分析の中ではちょっと位置づけが難しい人らしくて
どこに行こう学科で
難しいのがやっぱりその定員だか何かの理解が
ちょっと精神分析の中では特殊らしくて
ちょっと復習する時間
なかったんでうろ覚えな部分なんですけど
サールズの治療の考えの一つに
病気の発生の流れに
お母さんがまず病んでるみたいなのが
前提となって
それが子供である
子供にこう
移ってくるというか
それで子供も病気になるみたいな
説明で申し訳ないですけど
要はそこでもやっぱ感染みたいなことが起きてる
みたいなのをサールズは
言ってて多分そこにもセジークさんは
インスピレーション
寝てると思うんですけど
要はこう
相手のものがこっちに入ってくると
これが感染っていう
現象であって
治療としては感染されたものに対して
受け入れていったりとか
扱っていったり
していくうちにコンプレックス
っていうのが
柔らいでいくっていうところで
ちょっと理論的なことか
理論の背景みたいなその辺のところで
ユング自身も定位の心理学とかで
錬金術を比喩として色々書いてますけど
やっぱりこう
二人が一つになるみたいな感じで
書いてたりするじゃないですか
結合か
あれもやっぱりお互いが
同じものになるっていう意味では
同じものに感染してるみたいなところで
やっぱり
これがなんでさっき言った
面接をしてる人からすると
あるあるなのかというと
なぜというか
ありますよね
まあね
日々体験するんじゃないですか
そういったリアルなものが
ここの章では展開されてるということですよね
そうですね
感染を引き受ける治療関係
わかりやすい例で言うと
自殺しそうな人とかと面接
あるいは自殺機とかある人と面接をした
にするときもあると思うんですけど
そのときに
相手の話を聞いてくるとか
すごいこっちが
抑圧的になるというか
気分が沈んだりとか
どうしようもなさとか
そういうのを感じたりすると思うんですけど
どうしようもなさっていうのは
クラウンさん本人が持ってるものが
感染しているんじゃないか
うん
うん
そうね
だから非常にリスキーなんですよね
リスキー
リスキー
これが言ってることって
なんかね
汚染されるって言い方はあれだけれども
ただ患者が治療者を
やっぱり病気にしうるっていう
そういったリスクを犯してるわけですよね
うん
こっちからするとリスクか
治療者側のリスク
としてはそうなんだけど
ただこのリスク自体は
相互にあるわけだよね
そうだね
感染自体は
お互いに影響し合うっていう
だから結構表現も混ざるとか
映るとか
そういう表現がとても
文中では多い
だから
その辺では患者が
治療者を病気にしうるんだけど
でもこのメタファーが途中で向きを変えて
治療者自身の傷つきっていうものが
ある意味よく
わかっていないと
相手
治療者が
ある意味では感染源になって
出て
っていうことだってありえるわけですよね
それはある意味で
感染とか
そういった脆弱性で
一枚のコインの裏表みたいな
だけど
感染するっていうこと自体
その病とか
そういったもの自体って
免疫がないっていうことが
うん
なんかすごく
そこも意味があるところかなみたいな
そうですね
どうなんだろうね
やっぱり日本人みたいなところもあるんですかね
本音と建前の
感じとか
人と深く関わるみたいなところに対してちょっと
難しさがあるというか
特にね
最近というか現代だと
LINEとか
SNSとか
関わったり
する中で
ちょっとやなことがあるとブロックしたり
リムったりみたいな
関わるっていうか触れ合うみたいなところが
難しくなっている世の中なので
よりこう
心理療法的な
つながっていくっていうところは
難しくなっていったり体験しにくい
時代になっているかもしれないですね
うん
体験しにくくもなってるし
さらにそれがコロナ禍っていうものを通して
それを
加速させているようにも感じますけどね
そうね
混ざり合うとか
感染
汚染されるとかって
ちょっと汚いみたいな
きれいではないっていうか
きれいではないですよね
でも現代は
特にコロナ禍以降
清潔とか汚いとか
そういう分断も結構
加速させているような気はするんですけど
関係性においても
結構同じようなことが起きているようにも
感じるというかね
ある意味
感染するということを運命として受け入れる
ということは
ネガティブなものを含んだ
工程というか
そういった構えがないと
ある意味できないというか
でもそういうものってすごく今
どんどんそういうものから遠ざかって
ちょっとさっきアイさんが言ったように
ちょっと気に入らなければ関係を切るみたいな
そういうのってのは清潔なんだけど
何にも混ざらない
そうですね
今の話と
繋がるかどうかわかんないですけど
もう一つこの感染の
概念のいいなっていうところというか
面白いなと思うのは
なんて言えばいいのかな
要はこう
具体的ではないんだけど
なんて言えばいいのかな
わかりやすい話だなと思ったんですよね
例えば原型とかさっき言ったような
神話的な宗教的な話って
わかる人にはわかるし
難しい人にはすごく難しい話だと思うんですよね
セルフがとか
夢がとか
僕たちは流石に
夢心理学が好きなんで
納得して
会わない人には
とことん会わなかったりするし
さっきも言ったように
僕とか前さんが会う人たちっていうのは
我々のオリエンテーション
夢心理学っていうのを求めてくるわけじゃなくて
たまたま自治体にいるスクールカウンセラーだったり
相談員だったり
病院にいる心理師だったり
そういう立ち位置の人なので
説明モデルとして難しい時があるんですよね
原型的な話だと
こっちから見るとすごいこういうことが起きているし
夢心理学的だと思ったとしても
伝えた時にあっちがポカーンとして
伝える伝えないとこがあると思うんですけど
一方でコンディエーション
コンディエーションだけ
感染の話っていうのは
もちろんこのまま言ったら
うーんってなるかもしれないですけど
現実的な話に置き換えやすいなっていうとこだったり
プラネッサーに説明しながら
理解が得られやすい
誰にでもっていうのかな比較的
そういうので
いいなと思うというか
確かに
本文を見るとやっぱり
筋肉自身
わざわざ書いてるんですよ
錬金術とか養殖器とかいった
いろんなメタファーよりも
最も身近で医学的に近いものだと
この汚染とか感染とか
っていうメタファーっていうのは
より身近で
医学的なものであるというふうに
わざわざ書いてあるんですよね
私たちが日々の中で出会う人って
本当神話とかね
今なんかそういう
そもそも日本だったら
古事記に触れるとか
戦前だったら毎日授業で
やってたみたいだけど
そういうものに触れる機会もない中で
なかなか急に神話のメタファーとか言われても
よくわからないけど
今みたいに医療化が進んでる中で
感染っていうのがある意味で
すごく身近だったし
訳してる時は特にね
すごくたまたま
身近な時期だったっていうこともあり
より個人的には
刺さるところが
あったわけなんですよね
あとやっぱり
ベースが人と人との触れ合い
この概念のベースが
だから分かりやすいっていうか
伝わりやすいなっていうのはあると思うんですよね
結局
この本文でも
精神分析の会記さんだとかフィレンチの話が
常動修正体系みたいなのがありますけど
要はこういう本人の
問題とか悩みみたいなところを
こう和らげていく中で
人と人の関係が大事っていうのは
すごい
基本的で当たり前というかね
専門家っぽくないんだけど
リアルだなって感じがして
信頼関係って言ってもいいかもしれないし
そういう意味で
いいなと思う概念だと思うんですね
その
卑怯人間関係だよね
みたいなところの話だと思うので
感染って言葉を使うかどうかはあれですけど
起きてること自体は感染的な現象だったり
もうちょっと広く転移が起きてるとかでも
いいと思うんですけど
精神分析学科の人たちはそういう
説明ができたと思うんですよ
転移で今起きてることっていうのを
日常的に分かりやすく
ユングの夢とか薬法とか原型って
どうしても難しい中で
こういう感染のメタファー
こういうのって
説明モデルとしてすごい
やりやすいっていうかね
そうね
使いやすいし
分からない人に言っても
なんとなく分かるような内容では
あるかなと思うんですよね
詳しく詰めていくと
そんな簡単な話じゃないんだけれども
細かく見ていくとね
そもそもねコンプレックス
コンプレックスっていう言葉自体だって
コンプレックスってすごく広がりすぎちゃって
日常語みたいになってるけど
ユング派的なコンプレックスの概念って結構
意味合い自体は
感情に色づけられた
神秘クラスターとか言われても
結構難しいですけど
結構ね細かく見ていけば
深い内容だったりもするけど
でも
ここの神的な観戦だったり
治療的な観戦っていうのは
すごく説明しやすいものだし
言ってることはね
すごく基本的なことっていうか
人間関係が
大事なんですよっていう
ところなんだけど
なんだ?
何か言おうとしたのか
何か言おうとしたのか忘れてしまったのか
忘れてしまったけれども
この観戦を
運命としてある意味
引き受けた上で
治療的関係性において
自分が
何かに引き付けられないといけないとも
書いてあるんですよね
だから何か
専門家的な
何か距離を置いた
撮り方とはちょっと違うというか
治療者自身も
その中に入っていて
運命を共にしてるっていうところ自体も
人間関係って
そういうところあるじゃないですか
ドライな関係だったら分かんないですけど
でもこの人のために
人肌脱ごうかみたいなね
昔ながらの
そういったところの関与っていうかな
そこの
重要性もこの章では
書いてあったりもします
そろそろ
あれですかね
何を言おうとしてたか忘れるぐらいなので
そろそろ
締めに
入りたいと思うんですけど
最初
心理療法と分析の違いから入って
想像的無意識
そして治療的
感染
治療的感染って入ってきましたけど
最初にどういう
理論的な枠組みから入って
治療では具体的にどういうものが起きるのか
っていうような話だったかな
というふうに思います
次回は何になるか分かんないんですけど
ただまだ
セジュリックの話はもうちょっと続くかなと思うので
興味がある方はぜひまた
聞いていただければなというふうに思います
あと2章分ぐらいあるので
あと2章分ぐらいあるんで
じゃあ今日はこの辺で
終わりにしたいと思います
ありがとうございました
またよろしくお願いします
01:26:35

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