はい、深層心理ラジオの実感会やってまいりました。
話してはMaeと、お相手はIさんで、ちょっと話をしていきたいと思います。
お願いします。
はい、お願いします。前回に引き続いて、セジウィックのイントロダクショントゥユンギアンサイコセラピーについて、お話をしていきたいと思います。
で、今回は、チャプター2とチャプター3から、それぞれ気になるものっていうところを話をしていくという形で進めていきたいと思うんですけど。
3も入ってないっけ、今回。
3入ってないんだっけ。
チャプター2だけかな。
使うものは、1つ目が心理療法の分析の違い。
2つ目が想像的無意識。
3つ目が治療的感染っていうテーマでですね、お話をしていきたいと思います。
まず、最初の心理療法と分析の違いっていうので、そもそもこの第2章、チャプター2ってタイトルが、ユング派のアプローチ、厳選された理論的権利っていう、そういう名前がついてるんですけど。
理論的な章なのかなと思いきや、開けてすぐ込み出しとしては、サイコセラピーvsアナリシスなんですよね。
心理療法対分析って、ちょっと不思議な構成になってると思うんですけど。
どうですか、この構成。
でも、この本のタイトルが、ユンギアン・サイコセラピーって書いてあるので、ユング派の心理療法の本。
心理分析とは違うっていうようなコンセプトっていうのかね。
そういうのが、ちょっとはっきりさせておくみたいな感じなんですかね。
そうね。結構、ある意味、意味がね、ある重要な部分でもあるのかなと思うんですけど。
本文っていうかね、本文の中に心理療法っていう言葉、文字通りにとれば、再建のセラピー。
心の治療ですよね。
で、スジックはこの文字通りの意味でとれば、いろんなものが心理療法的だって言ってるわけなんですよ。
だからすごい、まず心理療法の定義がすごいグッと広がってる感じなんですけど。
その中にはこの薬物療法もそうだし、心理療法もそういう位置形態だと。
ある意味では宗教もそうかもしれないし、これを訳しててすごい印象的だったんですけど、
テニスのレッスンもそうかもしれないって書いてあるんですよね。
ここは何なのかというと、冗談なのかな?アメリカンジョークなのかな?わかんないけど。
何らかの助けになれば心理療法ですみたいなのが書いてありますね。
ちょっとね、条件みたいなものも書いてあって。
治療者が普通に使う意味での心理療法には、心理学的な治療状況におけるその人への心理学的な理解が含まれている。
そういったのが心理療法の条件じゃないかっていうお話をしてるんですよね。
それでも結構広いんじゃないかなと思うんですよね。
そうやって見てみると、精神分析とかも心理療法の位置形態ということになるとセジリックは言ってるわけです。
セジリックはね。
難しいところというか、精神分析は心理療法じゃなくて精神分析なんだっていう人たちの考えもあったり。
精神分析は細かいことはわかんないけど、本当に決まってて週4日とか3日以上とかやるのを精神分析っていうふうに言って、
例えば週1回だけのものは精神分析的心理療法っていうふうにしてるんですよ。
そうだよね。精神分析っていうと毎日分析のような形式でなきゃいけないとかね。
カウチを使ってとか、いろいろな条件があって。
セジリックが本文の中で書いてるように、精神分析は精神分析っていうものを心理療法から区別してきたような歴史があると書いてあったんですよね。
構造だったり方法で結構区別をしてこようという流れがあった。
ここからユング派と精神分析的な違いというか、セジリックの言うことから何かを連想されることなんですけど、
すいません、私結構感覚的な話をしてるんで、よくわかんない人もいるかもしれないんですけど、
分析と心理療法の間にヒエルアルキを感じてる人っていませんかね。
心理師とかで自分が実践やってる人とか、そういうふうに感じてる人って結構いるんかなと思うんですけど、
私がやってるのは分析じゃなくて、心理療法です、カウンセリングですなんていうときに、
二流の響きみたいな。
そういうのを自分で感じちゃうし、少なくとも私は感じることがあるんですよ。
劣等感みたいなのを感じちゃったりする。
なんか深いところまでやれてない、本格的なものじゃない、簡易版の方やってるみたいなね。
でもそういうのをすごく権威づけてる立場、制度としてとか、訓練のあり方として、
そういうのがどちらが上とか明示されないまま共有されてブラブラしてる感じがあると思うんですけど、
でも私たちが日常にやってるのは心理療法であることが圧倒的に多いわけで、
週に1回とか、40分くらい終わっちゃったり、学校だったりとかね。
いろいろな枠の中でやってると思うんですけど、
そういった感覚を解除仕掛けに来てるのが、結構セジューとも言ってるようなことなのかなっていうふうに思うんですよね。
なるほど。
ユングの言葉を引いてるんですけど、最大で週4回、治療が進むにつれて週1回か2回に減っていくと。
そういうふうにユングが書いてるんですよ、自身の分析の頻度について。
それを受けてセジュー行くは、もし頻度で分析を定義するっていうんだったら、
ユング派の分析っていうのは集中的な心理療法に過ぎないことになるんじゃないか。
これはなかなか強い言い方だなと思うんですけど。
でも、本質的には精神分析も基本の定義に戻れば、心理学的な理解っていうことに戻れば、結局は同じじゃないのかっていうふうに話は立ち戻ってるんですけど。
そうですね。
どうなんだろうな。精神分析とかは割と精神分析と精神分析的心理療法みたいな感じで分けたけど、
ユング派はそんなに良くも悪くもカッチリしてないというか、分析と心理療法の違いみたいなのはあんまりうるさくは言ってきてなかったんじゃない。
っていうところがありますよね。
精神分析は本当にしっかりしてる時代だけど、きっちりしてる。
そうね、きっちり構造化してあるというか。
かといってユング派に形がないのかといえば、形もあって、
精神学の整理だとユング派の分析には大きく2つがあって、
1つは古典的、象徴的なもの。自我とセルフの対話を促進するっていうような言い方をされるやつですね。
もう1つは精神分析の理論や技法を取り入れたもの。発達派って言っていいのかな。
面白い言い方としては、どちらとも異なるものとして、ユング派の心理療法を定義してるっていう文章が本文にあるんですね。
それがどんな立場かというと、治療的関係性に焦点を当てる。古典派ほど原型的ではないし、発達派ほど解釈的でもない。
それがある意味ユング派の心理療法なのではないかって書いてあるんですよね。
そうですね、書いてあるんです。
だからこの込み出しのところっていうのは、ある意味この本がこれから何を書くかっていう宣言でもある。治療的関係性に焦点を当てるってことなんですよね。
そうですね。
あとは重要なのは頻度ではなく治療の性質だとも言っています。
その辺は週に何回か会うかっていう話ではない。結構言い切ってるんですけどね。
この辺は言い切るっていうのはなかなか難しいんですけど、せじりくんはそう言ってるって言ってるんですよね。
なんかちょっと逃げてるみたいですね。
現代的に考えたら週1回、2回でも多いっていうのはありますよね。
そうだよね。
聞いてる方が心理師の人で実践してる方なのか、心理の実践をされてない方なのかによりますけど、やっぱり今の時代で毎週会ってるっていう人は多分相当少ないんで、
2週間に1回とか、月1回みたいな面接も多いと思うんですけど、結局そういう問題にもつながってきますよね。
頻度じゃなくて性質ってなると、本当に月1回とかの低頻度でも変わらないのかみたいな。
ちょっと難しいっていうか、名言しづらい。
名言しづらいですよね。
でも負担はすごい重いと思うんですよね。
習い事でも週に1回行く習い事って、かなり生活に大きな変化を作るっていうことは間違いないかなって思うんですよね。
ある意味で、頻度や構造に意味がないっていう話ではないのかなと思うんですよね。
やっぱり週4回と週1回でやっぱり当然できることって結構違うのかなっていうふうに思いますし、
そこも慎重に考慮が必要であるというふうにもセイジュリック自身は書いてある。
けど、そこで優劣が決まるわけじゃないんだよっていう話をしてるんですよね。
ちょっとさっきヒエラルキーみたいな話をしたんですけど、分析も心理情報も変わらないっていうふうに、
セイジュリックが分析家にも関わらずそう言ってしまうのが、なんかカッコええなと。
カッコええし、分析家である存在からこういう言葉が出てくるっていう重みというかね。
最後の方にはですね、ユングの言葉が引用されていて、ユング自身が心理療法を何と呼んだかといえば、魂の治療だと。
そもそもこの言い方自体には、週何回かっていう話は入りようがないということなんですよね。
これが心理療法vs分析ということで。
あとは何か言い残したことありますか?
でもこう、何なんだろうなと思うんですよね。
その分析の方が深くて偉いわけじゃないけど、そういう固定観念みたいなのって気づいたら自分の中にあったし、
割とそういうのが訓練していく中でね、多くあったりとか。
あともともと深いイコールEみたいなね、そういうのは分析に限らず世の中の当たり前みたいな感じで今あったりするけど。
割と深いことのデメリットみたいなのも、ここでは話さないですけど、あったりする。
どっちが良い悪いじゃないですよね。
この深いことが良いっていう固定観念っていうか、そういうものにある意味で次の話題が関わってくるのかなというふうにもちょっと思うんですけど。
ちょっと想像的無意識の話とか入っていっちゃっていいですか?
次の。
次の。もうちょっと話したかった?
今のなんかちょっと深すぎるっていうか、想像的無意識っていう章もこの本の中では結構重要なのかなと私の中では結構思ってる章がありまして。
非常に簡単に言うと、この想像的無意識っていう章では、集合的無意識じゃなくて、想像的無意識って呼んだらっていう非常にシンプルな提案でもあるんですけど。
ただ私自身ね、その集合的無意識っていう発想自体は非常に有機的なものだって感じていて。
有機的、オーガニック。
少しね、また私感覚的なんだけどと。
個人的な感じ方、そんなつもりでちょっと聞いてもらいたいんですけど。
フロイトの理論の動いて、どこか軍のメタファーっていうかね、そういうのを用いる言葉があるかなと思うんですよね。
検閲とか、抵抗とか、あとは防衛とかさ、あとは美球みたいな。
美球ね、はいはい。
なんか押し留めようとする力と突破しようとする力があって、その傾向とかで心が説明される。
なんか、リンチがあって、前線があって、みたいな感じ。
その一方で、有画派の語彙ってすごく有機的だって感じるんですよね。
これは勝手に私がそう感じているだけなのかもしれないですけど、
実際、この本文とかでもね、無意識について、何か新しいものを孵化させるみたいな言い方とかしてたりするわけですね。
英語で言うとhatchingみたいな、孵化する。
これは機械の語彙でもないし、軍の語彙でもないし、卵です。
卵の語彙ですよね。
これって単なる比喩とか趣味の問題じゃなくて、無意識の捉え方そのものに関わっていると思うんですよね。
本文でまた、ユングは最初、コンプレックスというものを無意識の中の傷ついた部分として記述したんですね。
ソワスポって傷む程度の差はある。
トラウマによって生じたものというかね。
これはわかりやすいし、押し込められたものが溜まっている場所っていうイメージで、
ちょっとフロイトにも近いような感覚もあるんですけど。
でもユングっていうのは、そこに別のものを付け加えたわけです。
無意識の中には抑圧されたものだけじゃなくて、
対に未知で発達の途中にある個人的な特性とか感情とかも含まれている。
これが非常に大きいユング派としての考え方としてあると思うんですけど。
つまり、無意識の中には過去に押し込められたものだけじゃなくて、
まだ形になっていないものとか、これから出てくるものとかが入っている。
トラウマの保障として生じたものであっても、
トラウマを超えた発展を指し示しているようなものだったり。
だから無意識はクリエイティブプレイス、創造的な場所なんだと。
新しいものを孵化させて、新しい行動とか感情とか、
新しい機会を生み出す場所なんだと書かれているわけなんですけど。
この捉え方が非常に重要だし、
心の中にまだ目の状態のものがあるっていう感覚なんですよね。
心が、こういった有機性ということよりも先に起きてしまうことが、
この集合的無意識にあるわけです。
話長くなっちゃったあれなんですけど。
難しいでしょ。
難しいと思うんですけど。
何に有機性というものを感じる前に起きてしまうかというと、
神話の渦に巻き込まれるということなんですよ。
原型、神話、イメージ、象徴、そういう豊かなんだけど、本当に豊かだし面白いし、
でもそこに巻き込まれるとね、わけわかんなくて戻ってこられなくなるみたいな。
面接の中でも壮大な話が始まったり、
あるいはこっちが壮大な話を始めると、
深いところに触れてるような感じがする。
でも実際には何も覚えてないんじゃないかっていう言葉ですね。
世襲が言ってるわけですよ。
もっと厳しい言い方で、
彼が指摘してるのは、
集合的無意識を本文の中では、
現代の科学から拒絶された精神的な可能性の倉庫のようなものだと。
立ち場があると。
これは神に似た知恵の源泉だと。
でも彼はこういった心理力は必ずしもそちらの方へ進まないと。
刑事上学的な期待を持って治療に来ると、失望を招くことがあると。
ここが非常に刺さる。
刺さったんですけど、私の中では刺さったんですけど、
スピリチャルな飛躍への願望は、しばしば個人的無意識に対する防衛であると。
これがきつい一文だと思うんですけど。
ユング派のオリエンテーションに来るクライアントさんの中には、
傾向だったり、あるいは治療者自身の側面、神話だったり、宗教性だったり、
そういったものに関心というのはすごく強いわけですけど。
だけどよく見てくださいと。
一部の人にとっては、神話的なものだったりとかが防衛の役に立ってしまうということを、
セリウッドは言ってるわけですね。
壮大な話が始まったときには、その下で語られないままになっている、
具体的で、みっともなくて、個人的な生活があると。
そういった問題の確信、個人の生活にあるんだと。
そこに触れる必要があるんじゃないかっていうことなんですよね。
そうですね。
これなんかは、すごくわかる話というか。
なんていうの、いますよね、そういう人って。
そういう人たちを置いておいて、見かけるというか。
見かけるし、体験もしてるかなと思います。
そうですね。
私自身の個人的な、例えば教育分析なのですよ。
とても口が裂けてどの人だかって言えないですけど。
面接の中で、話が自分の内容が大きなものの話題に移っていく瞬間に、
ほっとしている自分に気づいたときがあったんですよ。
やっぱり、個人的なソワースポットじゃないけど。
そこからある意味、離れちゃってる感覚というか。
そこにほっとして、神話的なものの渦に助けられている。
それは患者さんだけの防衛じゃなくて、治療者側にもあるかもしれない。
教育分析では、自分はそんな体験も個人的にしたということもあって、
そういった危険性への提案をしているこの章が非常に刺さったわけなんですけど。
こんなことから、彼は実践的な目的からは、
集合的無意識を想像的無意識と呼ぶ方がいいんだと。
なるほどね。
さらに危険性として、心学的な考察に巻き込まれたり、
本文の中では集団心の理論って書いてあるんですけど、
これは集団そのものが一つの心を持っているみたいな。
物と言葉的に誤解されちゃう。
集合的無意識が、言葉が近くて。
あとはシンボルとかイメージの過剰な焦点が当たってしまうということから、
こんな言葉を想像的無意識と呼ぶ方がいいんじゃないか、
実践的にはいいんじゃないかっていう、そういった提案をしているわけですね。
じゃあ、原型論を捨てるのか?
というと、そうじゃないですけどね。
ああ、そっか。
確かに原型…
そう考えたら難しいですね。想像的無意識みたいなところは、
確かに原型とどう繋がってくるのかね。
そうね。
でも彼は原型視点っていうのは、別に否定してるわけじゃなくて、
その無意識自体がなぜ想像的であるのかっていうことを説明するのに優れた理論であるとも書いてあるんですよね。
だけど、その説明がなくても無意識は想像的なんだよと。
なるほどね。
優れた理論だって認めてるけど、説明理論としての地位でよくて。
そういった原型的な内容、例えば宗教についてだったりだったら、宗教的なものを切り離して宗教に返せばいいって書いてあるっていうことなんですよね。
純粋に無意識が神秘的な体験の場所じゃなくて、心理的な発達の可能性の貯蔵庫として扱えるようにするためには、
こういった言葉への配慮というか、そういうこともできるんじゃないかっていうのが提案としてあるんですよね。
なるほどね。
非常に難しい内容だったと思うんですけど。
でも結構、この辺の内容が特徴的なものというか。
実はね、のいまんさんもですね、想像的無意識っていう言葉を使ってるんですよ。
うん。
芸術と想像的無意識みたいなね、そういうものを使ってるんですけど。
でもちょっとね、意味が、それを説明してる内容は全然違くて。
今言った話は、セジュイック独自なのかな。
あまり私自身はそこら辺の、それ以外に見たことがない。
見たことがある人がいたらぜひ教えてもらいたいんですけど。
ちょっとね、のいまんとはちょっと違うっていうことなんですよね。
ただ、ここまで長く話してきて、ただね、わからないところが一つあって。
例えば個人的な要素で苦しんでる人がいるとして。
この苦労は誰にも、誰もそんな体験してる。
こんな不幸なのは私だけだ。
自分だけの問題だと思って、自分を責めて孤立してるような人がいたとしたらですね。
でもこの原型とか、そういうものって、
その人が、これは単に個人化されたものじゃなくて、
いわば共通性も持つものなんだっていう、知る瞬間があると思うんですよね。
すごい難しい話なんですけど。
子から全体への視点の転換というか、そこに結構癒しもあったりすると思うんですよね。
そうね。
そういった原型的な物語に触れた時に、自分の運命というものとのつながりを感じたり。
あなたの苦しみはあなただけのものじゃないみたいな。
そういう保証を与えるような、集合的な無意識の概念だったはずなんだけど、
そこがね、創造的無意識という呼び方にして、
そこの部分をあまり見ずにやった時に、
こういった人たちはどうやって癒しを作り出すんだろうかっていう。
その辺がね、ちょっと私にはわからないところで。
全部捨てるか全部残すかっていう話じゃないんだろうなっていうふうには思ってて。
両方大事というか。
何だろう。
まあ創造的な面もあるし。
まあでも今の話とかも、
こうなんだろうな。
中心的な話だからね。
そんなに矛盾してないと思っている。
逆に。
要は、そういう自分だけの不幸みたいなところが割とこう、
他にも似たような、似たようなじゃなくてもいいかもしれないけど苦しんでいる人がいるって気づけるみたいな話って、
まあ確かにあるし、
なんかまあそれ自体が創造的なプロセスな気もするというか、
そういう、
自分だけだ、なんで自分だけみたいな思ってた人がこう、
少しこう、
共有できる。
まあ共有できるというか、人と共有されていくみたいなプロセスでは、
創造的だと思うし、
まあそういう話ってよくあるよ。よくあるって言ったんだけど。
それこそこう、
集合的にある話だなっていう。
それこそ集合的にある話だよね、確かに。
っていう意味ではあんまり矛盾はしないのかなとか思ったりもしたけどね。
確かにね。結果としてはあまり矛盾しないのかもしれないね。
やっぱりまあ、
強調点っていうかね、
結構文脈の中で、
リュング派の実践っていうものが、
臨床の中で、
まあ選択されるようにっていう、
どこかこう、
そういう面での考えもなんか世襲行くにはあるような気もするんだよね。
どういうことだ?
あの、なんか、
どっかにね書いてあったんだけど、
分析っていうのは、
本文の中にね、
分析っていうのは長い間、
広い治療の世界においては、
選ばれる治療法ではなかったっていう記述があるんですよね。
そこに、まあやっぱりこう、特にリュング派の場合、
そこにスピリチャル的な要素だったり、宗教的な要素が絡み合っていくことで、
選択されてこなかったっていう部分も、
世襲行くはあるのではないかって言っていて、
でも世襲行く自身は、
治療的な関係性に焦点を当てる、
そのリュング的な観点から当てたそのやり方自体に、
すごい治療的な効果を感じているからこそ、
その辺がもっと受け入れられてほしいのではないかと。
なんかそういう願いが、この本の中には、
テーマとしてちょっと感じる部分もあるんですよね。
なるほど。
だからそういった意味で、この呼び方っていうものを、
結果としては、
無意識が創造的な役割を持つ。
それは原型的なものに強調しても、同じなんだけど。
ただ、受け入れ、より受け入れられるものとしては、
何か呼び方や強調点っていうものを、
調節していく必要性を感じているのかなっていうふうに、
感じたんですよね。
感じたというか、今話をしててそういうのを、
そういう文が書いてあったなっていうのを思い出しました。
確かにこう、
たぶんっていうか、
セリフさんあれですよね。
改良されてる。
改良されてる。
だから、
さっきもあったように、
クライアントさんがたぶん、
自分で探してとか、
他の心理師とかに、
セリフさんの改良先を紹介されてみたいな形で来られる人が、
多いからやっぱり、
他の心理療法と比べられたりとかするし、
おそらくセリフさんのところに来る人って、
ある程度言う心理学だったり、
宗教性とか、
神話、神秘、そういうのに、
それに関心がある人が多い、
だろうなっていうとこありますよね。
だからこう、
形状学的な話ばっかりして、
個人的な話がない人が多かったりとか、
言ったように、
そもそも選ばれにくいので、
ポカルティックだったり、
近代化学的な感じがしない。
我々というか、普通に働いてる心理師のほとんどは、
どっちかって言うと、
クライアントさんが内なり療法とか内なり学科に興味ができましたっていうかは、
住んでる地域の自治体で使える心理師だったり、
またも病院にいる心理師だったりとか、
クライアントさん自身が選ぶっていうところが、
そもそも少ないみたいなところがあったりするので、
ちょっとこう、
そういうのも影響してるんだろうなって思います。
そういうのも影響してるだろうし、
結構なんかあれじゃないですか。
本の中にも保険のこと?
保険会社とのやりとりみたいなね。
保険点数がつくのかどうかみたいな。
それは効果があるのかみたいなね。
せっかく選んで自分のところに来てくれる人が、
なんかね、保険得られないとかさ、
そういう実理的な面でもなんか、
いろいろ考えるところがあるんだろうね。
効果を示さなきゃいけない。
いろいろな難しさもしかしたら、
あるかもしれないけど、
なかなか、
特にこういうね、
真相心理系のものっていうのは、
なかなか数値化しにくいものだから、
なかなか難しいですよね。
というぼやけみたいな感じになってしまいましたけれども。
で、どうですかね。