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みなさん、こんにちは。ということで、やっていきましょう。
前々回ですかね、もう卒業されているクライアントさんから、ラジオでこういう話をしてほしいなっていうテーマをいただいて、それについてお話をしてきたんですけど、
今日ももらっているテーマがあるので、それについてお話をしていきたいと思います。
今日は、自分と向き合うってどういうことかなっていうテーマで、それについて考えていきたいと思います。
自分と向き合うっていうのは、もう今本当に飛び交ってる言葉だなと思っていて、もう何度も何度も見たことも聞いたこともあるだろうし、
多分自分自身も使ったことがある、よく使ったことがある表現なんじゃないかなって思います。
かくゆう僕も、最近はだいぶ減りましたけど、一時やっぱね使ってましたね。自分と向き合おうみたいな。
なんかやっぱ使いやすいんですよね。使いやすい言葉だし、なんかみんな使ってるから、なんとなくこうニュアンスが伝わりやすいし、
耳障りもいいし、なんかいいこと言ってる感じが出るんですけど、僕はあんまりそのなんか上部だけの使いやすい表現とか、
当たり障りがなくて耳障りが良くて、なんかいい感じの表現っていうのがあんまり好きじゃないんですね。
で、この自分と向き合うっていうことに関して、いろんな解釈があると思うし、あるって然るべきだと思うし、
もっと言うと、この誰でも使える、もうなんかあちこちに落ちてる自分と向き合うっていうこの表現に自分の解釈がなければ、
そもそも誰にも響かないなって思ってます。なんか自分と向き合おうとか自分と向き合うって大事だよねって。
まあそうなんですけど、それだけだと誰でも言ってるからね。全然それは発信の受け取り手には僕は響いてないと思うので、
今日は僕自身の解釈をお話ししていきたいと思います。
結論何かっていうと、今の、今のですよ。現時点の、今日の時点での僕が思う自分と向き合うは、感情を言葉にすることが向き合う。
もっと一歩踏み込むと、ポジティブな感情って言葉にするの簡単なんですよね。
あれがやりたいとか、あそこに行ってみたいとか、ああいう挑戦をしたいとか、割と簡単なんですけど、
逆にネガティブな感情って、なんかこうだるいなとか面白くないなとかは簡単ですけど、
僕の思う自分と向き合うっていうのは、ポジティブではない感情を言葉にすることっていう風に今は捉えてます。
で、僕はこれは簡単じゃないと思います。
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さっき言った、なんかこうつまんないなとか面白くないなとか、もう何もしたくないなとか、
確かにポジティブではない感情なのかもしれないですけど、
うーん、なんかこれも、なんだろうな、自分自身に負荷がかかってないというか、
そうだな、自分自身に負荷をかけてポジティブではない感情を言葉にすることっていう解釈の方か定義の方がより近いかもしれないですね。
若干長いですけど、自分に負荷のかからない言語化は対して向き合ってないと。
自分の心だったり、メンタル、気持ちの部分に対して負荷がかからないと、
負荷がかかって始めて向き合ってるっていう風に言えるのかなって今思います。
最近で言うと、ラジオを聴いてくれたりとかウロゴを読んでくれたりしてる方は、
その話かって思ってくれるかと思うんですが、
ちょうど5月なんで母の日がありましたね。
僕は母の日とか父の日とか、親の誕生日とかがすごく苦手というかね、
なんかあんまりすっきりしなくて、どちらかというともやもやしてる。
なんなんだろうなこの日ってみたいな感じで、
なんでそんなみんな贈り物してありがとうとか言ってんだろうとかって思ってて、
本当にひねくれてるなって思うんですけど、苦手だったんですね。
なんとなく自分の中に母の日か嫌だなとか、誕生日かとかって思ってたんですけど、
でも誕生日とか母の日とか父の日に、
僕の本音は別になんか贈り物なんてしたいと思ってないから、
したくないんですよ。したくないんだけれども、
それを言葉にできてなくて、なんとなくみんなやってるから、
やっといた方がいいんだろうな、息子としてみたいな風に思って、
とりあえずパフォーマンスとして何か贈り物とかありがとうって言葉を伝えたりとか、
あとは身近な妻が自分の両親とかにもちゃんと毎年毎年やってるから、
自分がやってないっていうのは良くないのかなって思ってやったりしていて、
本当は何もしたくないとか、なんとも思ってない日に
なんでこんなことしなきゃいけないんだろうっていうのを
自分の中で思ってはいたんだけれども、言語化はできてなかったんですね。
やっぱりそれって言葉にすると若干センシティブな話題というか、
例えば別に表に発信する必要はないんですけど、
いざ自分がそれを認めて、自分は何もしたくないんだって、
もう母の日だろうが、ただの何曜日、日曜日と一緒なんだっていう風に思った時に、
でもそれって世間一般的に見たら、親不幸な息子だっていう風に思われるんじゃないかなとか、
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圧倒的に少数派でこんな気持ち誰にも共感してもらえないんだろうなとか、
そういうことを考えるとなかなか言葉にしづらい。
でもそれが不可だと思うんですよね。
僕は今回言葉にできた、本当にもう何もしないって決めて、
うちの妻にもそれ話をしたりもしたし、何なら僕はノートにも書いたしラジオでも喋ったので、
別に公の場でそれを宣言する必要はないんだけれども、
僕は発信のコンテンツとしてその言語が自分と向き合ったっていう経験もコンテンツに落とし込んだっていうだけなんですね。
これは僕は向き合えたっていう風に解釈しています。
単純に母の日か、やだなぁ、は別に僕は向き合ってないと思います。
これは別にスカーでもなんでもないからね。
ただやっぱりこういうふうに解釈するのって、こういうふうに自分が認めるのって違うんだろうなとか、
こういうふうに思われるんだろうなっていうとやっぱり気持ち的にはちょっと揺らいだりとか、
しんどいなって思ったりする部分があったので、これは不可なんじゃないかなって。
だから向き合えたんじゃないかなっていうふうに僕は思っています。
他にもちょっと全ては話せないんですけど、
ちょっと親との間で僕は過去にいまだに僕自身は許してないような経験があって、
それを親はもう多分覚えてないし、そもそも僕が傷ついてることも知らないし、悪いことをしたというふうにも思ってない。
何ならこう、真実を知らない。
僕は真実を隠さざるを得なかったので、真実を知らないんですけど、親はね。
でもそういうことも僕は今まではずっとこう、自分が本当に傷ついたっていうのを認められなくて、
辛かったっていうのを言葉にできてなくて、
親も別に悪気はないんだろうなーみたいな感じで、
それっぽいところで落ち着かせていたんですけど、
僕がコーチから数年前にコーチングを買ったとき、一番最初、違うな。
コーチングを買うときかな。体験セッションのときにこの話題に触れたんですよ。
この話は詳しいことはうちの妻とコーチしか知らないんですけど、
そこでコーチとの対話の中で僕は初めて自分が傷ついたことに気づいて、
許せてないことをそれに気づいて、
自分にとってその経験はものすごく大きいものだったんだなっていうことをやっと理解して、
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その悪気はないと思うんですけどねーみたいな、
まあまあ人間だし間違いもするでしょうねーみたいな状態だと、
これは別になんかね、さっきも言いましたけど、
特に向き合ったみたいな話じゃないと思っていて、
でもなんかそれを認める瞬間に僕はすごく苦しかった。
やっぱり自分は紛れもなく傷ついたんだなっていう。
親に傷つけられた、親にこんなに苦しい思いをさせられてしまったっていうのを認めると、
多分もっとなんか心理的距離が遠くなるだろうとか、
もうなんか許せないんだろうなって思ったりとか、
一応知恵は繋がっているわけじゃないですか。
だからそれを認める、受け入れる、そうなんだなっていうことを薄々は気づいていながらも、
やっぱりそうなんだっていうふうに自分の中に落とし込む作業にすごく負荷がかかって、
でもなんとか僕はコーチとの対話の中でそれを認められた。
あ、そうなんだって。
それ以来僕はこの話、もちろん具体的な話はちょっと2人以外にはできないので出せないんですけど、
でもなんかたびたびこうやって一つの事例として発信の中でも紹介できるぐらいにはなったし、
これも僕は負荷をかけて、全然ポジティブではない感情ですけどね、
でもそれでも負荷をかけてなんとか言葉にして自分の中に落とし込めた、
ちゃんと受け入れられたっていうのがもう一つ向き合えた経験かなっていうふうに自分のことを振り返って思います。
なんかこうごまかしてたりとか突き詰めようとしてなかった気持ち、
本当は多分こうなんだけどでもそれを認めたくないとか、
それを認めてしまうと本当に例えば人間関係が終わってしまうとか、
もうなんか建前で付き合いができなくなっちゃうなとか、
なんかそういう本当は何となくもう薄々わかってるんだけれども、
でもそこに踏み入れたくないっていう気持ちがどこかにあって、
だからごまかしてる、突き詰めてないっていうそういう感情を言葉にすること、
それって絶対に楽なものではなくて心に負荷をかかると思うんですよ。
それが向き合うっていうことかなって思います。
僕の場合はさっきの母の日の例に関しては自分一人で完結して、
自分の中でやっとこうなんかこうしようっていうふうに言葉にして、
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なんとかそこに落ち着いた、踏み切れたというか納得できたっていうのがあるんですけど、
過去の親との間でのことに関しては、
これは僕一人では到底無理でずっと逃げてきたことで、
一人では絶対に考えようともしなかったことなんですけど、
それはだから僕は一人では無理だったんですけど、
コーチとの対話の中でちゃんと薄々気づいてたことをちゃんと認識して、
ちゃんとそれを自分が抱いた感情を認められた、
そうなんだなっていうちゃんと認識ができたっていうのは、
これは一人でできた部分と誰かの力を借りてできた部分があって、
これは何と向き合うか、
自分の中での向き合うことに対する代償とか重さにもよると思ってて、
自分でできることもあれば、僕でいうコーチングみたいな感じで、
誰かの力を借りて一緒にやればどうにかなるっていうような、
向き合えるっていうようなことも中にはあると思います。
自分でできるぐらいの重さの時はいいんですけど、
薄々気づいてるんだけれども、それでもそこに踏み込むのが怖いとか、
そいつと向き合うのが怖いなって思う時は、
僕でいうとコーチでしたけれども、
誰かとの対話の中で解決できるかもしれない。
誰かと一緒に考える。
一緒にそこに足を踏み入れることで解決できるかもしれないなって思うので、
その辺は僕はコーチなので、
僕を頼っていただけることもあれば僕はすごく嬉しいし、
別に僕じゃなくてもいいと思うので、
薄々といつかはこいつと向き合って、
いつかは乗り越えていかなきゃいけないんだろうなって思うものがあったりする場合は、
誰かの力を借りるっていうのも選択肢にあってもいいのかなって思います。
ということで今日は自分と向き合うっていうことについて、
僕なりの解釈を、現時点での解釈をお話ししてきました。
多分今後変わったりすることもあると思うんですよ、解釈なんで。
でもその度にちゃんと自分の解釈を持っておくと、
誰かにそれを伝えるときに響くようになると思うので、
上辺だけの聞こえのいい言葉じゃなくて、
ちゃんと自分なりの言葉で伝えられるようになると思うので、
僕自身もね、こういう機会ももらえてすごく良かったなと思います。
ちゃんと定期的にというか、
ちゃんと自分の解釈を持って生きていきたいなって改めて思いました。
というわけで、概要欄の方にちょっと今日の話にも通ずるんですけど、
これブログを書いたんですね。
愛することの怖さについて、過去にブログを書いていて、
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それを多分紹介している放送かなと思うんですけど持ってきました。
愛せることが怖いなって思った。
これはもう自分が、これは一人ですけど、
これは僕一人で向き合って、
負荷はかかったけれども言葉にできた。
愛せることって怖いなって。
でも、だからこそこうしようっていう風に言葉にできた経験をブログに書いているんですね。
それを多分冒頭で紹介している放送かと思うんですけど、
ブログでもいいですし、この放送収録でもいいですし、
僕の自分と向き合った事例としてもう一つ触れてもらえると嬉しいなというふうに思います。
はい、というわけで今日もお話をしてきましたけれども、
こういうことについて話してほしいと言ってもらえるとすごく嬉しいなと思うし楽しいなと思うので、
リクエストがあればいつでもお待ちしています。
ではまた次回お会いしましょう。バイバイ。