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2024-06-06 1:44:56

第百五十三回:Tak.さんとハイパーテキストについて

サマリー

第百五十三回では、新しい録音環境やPodcastプラットフォームについての話題が始まります。また、ブルースカイのダイレクトメッセージ機能やコセンスというサービスの名前変更についても言及されます。さらに、ジョニーデシマルという情報整理法についての議論も行われています。開いているページに対してのサブウィンドウというものがありますが、このサブウィンドウは、ブラウザーで表示されるいろんなものがない状況で、基本的にアドレスバーしか表示されないウィンドウなんですね。 統一感のないブログが読者に失礼であるとされ、SEOを頑張ることが決まりごととなってしまいましたが、これがブロガーを抑えつけ、重い負担となりました。また、ランダム性は実用的な意味を持っていましたが、現代では通用しない時代になりました。 ハイパーテキストについての意義や進化について考えています。 ハイパーテキストについては、形式には価値がある一方で、プロセス型で形式に沿って作っても上手くいかないこともあるという考えが示されています。このテキストはリニアである一方で、中身は脱構築され再構築されています。 テキストによる情報の伝達やコミュニケーションにおいてリニア性は避けて通れない要素であり、ハイパーテキストはテキストの意義や伝達方法について再発見する道となるでしょう。

新しい録音環境とPodcastプラットフォーム
スピーカー 1
うちあわせCast第百三十五回:となりまして、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。あれ、百三十六じゃなかったでしたっけ?
スピーカー 1
あれ?本当に?百三十三…百五十三回ですね。今回は録音環境がちょっといつもと違うので、だいぶバタバタしておるんですけど、
気がついたら、Zoomのプレミアムが切れてたので、結構悩んだんですけど、費用対効果があまり良くないので、
一回サブスクリプションの更新をパスしまして、今回はリバーサイドというところから録音しております。
元々、そもそもこのうちあわせCastって、AnchorというPodcastプラットフォームがあって、
iPhoneさえあればPodcastができるという、しかも無料でという感じのノリで始まったんですけど、いつの間にかAnchorがSpotifyに売出されて、
アプリが無くなって、結局Zoomに移ったんですけど、Zoomの40分以上がいつの間にか有料になってしまい、
仕方がないよなという感じで、仕方がないよ感があまり好きではないので、ここで一回環境を再構築してみようということで、
Spotifyが提起しているのがリバーサイドという、また別のPodcastプラットフォームから今回はお送りしておりますということです。
しばらくぶりでニュースが1作あるんですが、細かいところで言うと、
ポストツイッターと言われているブルースカイにダイレクトメッセージ機能が搭載されまして、いよいよSNSっぽくなっているなというのが1点と、
ブルースカイの初期投資者であるジャック・ドーシーが取締役からいつの間にか抜けていたというようなことも明らかになり、
スピーカー 2
今後どうなっていくのかというところが、暗雲立ち込めているとは言いませんが、SNSを発展させていくのって難しいんだろうなということはちょっと感じますね。
スピーカー 1
ジャック・ドーシーには取締役があるのはおかしいとか、投資を集めて動向というのは何か違うんじゃないかということをおっしゃっているらしいんですが、
とはいえ、お金も必要ですし、特にこういう投稿は認める認めないとかモデレーションみたいな機能をどれだけSNSに設定するかというところで、
意見が分かれるみたいなんですけども、当然差別的な発言はいけないみたいなことはそうなんですけど、
どこで誰がどう選挙するのかというのはまた別の問題と立ち上がってくるので、だからといって自由に好き勝手やればいいかというところもまた難しく、
公共の場としてのSNSはなかなか難しいんだろうなというところですね。
細かいニュースで言うと、Notion 2.39が新しいアップデートしまして、別に全然大したことではないんですが、
今まで新しいページ作るのって結構ワンツーステップぐらい必要で、人によってホーム画面になっているページに自作でボタンを設置して、
そのボタンを押したら新しいページが作れるみたいなハックで乗り切っているパターンが多かったんですけど、
ちゃんとサイドバーの上の方に新規ページ作成というボタンが2.39で初めてつきまして、
偉い遅いなとは思うんですけども、これでちょっとメモツールノートツールとして使いやすくなったんじゃないかなと個人的に思ってます。
今までこれがなかったのが驚きなんですけど。
スピーカー 2
確かに。
スピーカー 1
で、これデカめのニュースなんですけど、スクラップボックスというこのPodcastのノート代わりに使っているサービスもあるんですけど、
サービスの名前が変わりまして、コセンス。これ伸ばさんでいいんかな、コセンスと伸ばさんでいいんかな。
コセンス、C-O-S-E-N-S-Eということで。
コはトモニーというコーポレーションのコですけど、わかりませんけど。
センスは感覚という意味のセンスで、相当大事件というか、最終的にドメインも変わるらしいですが、
スクラップボックスと呼ばれたツールが段階的にコセンスになっていくということで。
いやーこんなことあるねんなーって驚いたんですけど、よくよく考えたらツイッターがXになってるってことを忘れておりまして。
そういえばあるなーと思ったんですが。
やっぱり名前を変えるっていうのは大きいことで、当然社内でもいろいろ意見はあったんでしょうけども。
そもそもスクラップボックスを運営している会社そのものが、もともとノータという名前だったんですけど、今ヘルプフィールになってますし。
名前を変えることにそこまで躊躇がないんだなというのは、歴史や傾向としてちょっと感じますし。
一つ面白いのは、スクラップボックスっていうサービスそのものが、ウィキなんですけども、ウィキのタイトルを書き換えても全ページにリンクを貼り直してくれるのと、外向けに貼っているリンクも内部で勝手にリダイレクトしてくれるんで。
言ったら書き換えていいよっていうサービスなんですね、ノースクラップボックスっていうものが。名前にこだわらないっていう。その精神性がサービスのネーミングにも生きているなという、ある種有言一致みたいな感じはありますけど。
僕が観測するとき、ちょっとこの名前ダサいっていうのとアイコンがあんまり良くないっていう意見が6,4ぐらいで多いかなという感じですね。
スピーカー 2
今の新しい名前ですか?
もうちょっと違う名前がある方がいいっていう意見と、スクラップボックスっていう名前に愛着を持っている人が結構多かったという印象でしたね。別にどっちでもいいんじゃないかなと思います。
ツイッターXになる問題って、インパクトとしては当然大きいですけど、やっぱり使ってみてもわかるんですけど、これ一人で使うよりは複数で使った方がはるかに役立つツールなんですけど、やっぱりスクラップボックスという名前では見えてきにくいっていう会社側の発表もあったんですけど、これはその通りだなと思いますね。
インパクト自身は大きいですけど、長期的なプロモーションというかマーケティングというか位置づけとして、こういうのは早いけど早いほどいいわけですから、もちろん。このタイミングで踏み切られたということなんでしょうね。
スピーカー 1
懸念があるとすれば、僕スクラップボックス情報整理術みたいなのもしてるんですけど、これも広報知観が効かないというか、古前数で知ってる人が例えば本屋行ったときに、僕の本を目に留めてもらえないということがあって。
そこまで考慮してると一生名前が変えられないわけですから、なかなか難しい。ほとんど2冊ぐらいしか言及する本は出てないんで、被害は警備といえば警備が含まれているとはいえ。
インターネットで最近、古前数とスクラップボックスを括弧の中に入れて両方言う人も多いんで、そういうログが残っていけば、この2つの名前って一緒なんだなと想像されることも多いでしょうね。
あんまり予算じゃないですけど、芸能人の方でも芸名が変えられて、全くたどれないことがあっても、例えばwikipediaを見たら両方載せたりして、ああこういうことかみたいなこともあるので、そこはある程度仕方がないなという感じですね。
名前が変わってもサービスそのもののシステムは全然変わらないらしいんで、ユーザーは当たり前の、これまで通り使っていけるということらしいです。
ジョニーデシマルと情報整理法
スピーカー 1
ミリアムか何かで記事を読んで見つけたんですけど、ジョニーデシマルっていう、ジョニーの受信法みたいな意味だと思うんですけど、情報整理法かな?概要ページにURL貼ってるんで見てもらったんですけど、
すーごいね、古式ゆかしい感じのシステムなんですよ。現代ではネットワーク型で情報を管理するべきだと、リンクネットワークだという話なんですけど、この名前からわかる通り、受信法のカテゴリーを作ろうと。
基本的に人間の認知から考えて、数が多すぎるのは困るから、まず10に区切ろうと。10区切って、それをせいぜいあと10個、だから10のうちの10で、おそらく100ぐらいまでが最大の規模として、それぞれのカテゴリーの中で連番に情報を保存していきましょうと。
例えば11番目のカテゴリーの1つ目の情報だったら11.01、それに続くものだったら11.02という感じで、カテゴリーのナンバーと連番のIDを振ることによって、例えばパソコンのフォルダーをそのような高層解像化に置けば、必ず情報がすぐ見つかるようになりますよということが提唱されてて。
たぶん1990年ぐらいのあれかなと思ったら、ちゃんと2024って下に書いてあって、全然現代的な話なんですけど。これがどこまで機能するかはどうかは別として、でも確かにこの方法をちゃんとやろうとすると、ある程度うまくいくと思うんですよね。
この提案者が言ってるのは、まずあなたにとってこの情報はどんな関心ごとに属するのかを見極めなさいと。それに沿って整理すれば、自分がその情報を取り出すときにあれだと思うはずだから見つけられるだろうと。
いわゆる情報分類でよく使われるような客観的なカテゴリーわけじゃなくて、あなたにとってのコンセプトで分類しなさいと。カテゴライズしなさいという話で。当然保存していくたびに、この情報は自分にとって何だろうって考えてフォルダーを作って位置づけるわけですよね。これは要するに。そのような知的作業を通せば確かに見つかるようになると、僕はこれを読んでて思いましたね。
逆に今、何でも検索する時代に育った人にとってものすごく新鮮かもしれないんですよね。
スピーカー 2
検索じゃなくて、システムの中から見つけるわけですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
見つかるように整理するという。
スピーカー 1
そういうことです。まさにそういうことですね。見つかるように整理しましょう。
でも例えばその階層をサブ以上は作らないとかっていう、アウトラインあるあるをちゃんと理解されてルール化されてるんで、おそらく著者本人も熟成させてきたこの手法なんだろうなっていうのは読んでて感じましたね、これは。
スピーカー 2
そうですね。むしろ若い人がもしかしたら衝撃を受けるような人がいるかもしれないですよ。
スピーカー 1
そうですね、確かに。こういうツリー構造で情報整理することに慣れてない可能性がありますからね。
そういう人がいきなり例えばMacとか使い始めた時に、このファイルどこに保存していいやろうみたいなことにはきっとなるでしょうから。
考え方として、これは有効の度合いは高いかな。カテゴリー作るのはやっぱり難しいと思う。最初のカテゴリー作るのは難しいと思いますけど。
まあ、著者から言うには基本的にカテゴリーがあってそのカテゴリーをまとめるエリアっていう考え方があるんですけど、先にエリアを作るなと。
まずカテゴリーっていうのを考えると。カテゴリーからボトムアップでエリアっていうのを見出した方がいいみたいなアシストもあって、これも実際にその通りだろうなと。
だから結構アウトライナー使っててもそうなんですけど、レベルアップしていくと自分の関心ごとのツリーが初めて見えてくるみたいなところがあるんで、
そういうのをファイルレベルで実際にやっていこうと。現時点でもやっぱりある程度ファイルを作らなあかん業態というか触手とかっていうのはあるわけですから、
そのファイルの保存方法をこのような少なくとも2階層だけのファイル構造で保存していくような考え方だし、
スピーカー 2
こういうクラフトされたシステムを読むのが大好きなので、最初から最後まで全部通して読みました。
スピーカー 1
この雰囲気がね、全然内容は違うんですけど、ホイックのWikiを最初に見たときに似た感じがありますよね。
こういうのはやっぱりその人の思想も見えてきますし、実践経験の裏打ちも感じられますし、
何より大胆で断言的やけど押しつけがましくないというところも非常にいい雰囲気ですね。
一切自分でマネーしようかちょっと思ったんですけど、もう出来上がっちゃってるんで僕のMacのフォルダ構造が。
さすがに直すことはないですが、整理の構造としてこういうのを、
特に自分自身のカテゴリーを作っていくという考え方はドマにもちょっと近いものがあるんで、
割と知っておいたほうがいい情報源の一つにちょっとカウントされそうですね、これは。
スピーカー 2
考え方はいろいろ応用が効くかもしれないですね。
スピーカー 1
うん、結構面白い。普通に同じアウトライナーをこの構造で作るということも全然できると思いますけどね。
スピーカー 2
そうですね。ただこれは固定する。
スピーカー 1
そう、固定する。連番で並べるときのポイントで。
でもこの前誰かのツイートを見て思ったんですけど、アウトライナーを使うと順番を入れ替えられるわけですけど、
入れ替えなくてもいいじゃんっていう使い方があるけどねっていう話を見て、
まあ確かにそうだよねとは思ったんですけど。
ただツリーに上から下に並べていくだけのツールとしても別に使えるわけですから、それはそれでありかなと。
まあ結構プチテンションが上がった記事でしたね。
前回マルチウィンドウの話をしてまして、
ビバルティでワークフローリーとかタイムラインを開く、ツイッターを開くみたいな話を教えてもらって、
早速やって、今もうビバルティでワークフローリーを開いてるんですけど、
発展というか、結局メインブラウザーがFirefoxなんで、
Firefoxとしてサブディスプレイ的なものを使えたらいいなとは思ってたんですが、
メールの中にも書いてあるんですけど、
note.comとかでこの記事をツイートするってボタンを押すと小さいウィンドウが開くんですね。
で、小さいウィンドウが開いてそこにツイートの内容があって、
あと投稿ボタンっていうものが表示されて、
投稿したら自分で窓を消すなりしてっていう、
JavaScript的にwindow.openっていうので開けられる、
ある開いてるページに対してのサブウィンドウって呼ばれるものなんですけど、
このサブウィンドウが、いわゆるブラウザーで表示されるいろんなものがない状況、
アドレス版しか基本的には表示されないウィンドウなんですね。
これ求めてるものやん!って思ってしまいまして。
僕は最近Twitterはサブウィンドウで開いてません。
あと同じ考え方でテキストボックスもwebページの一つなんで、
それもコマドで開いておけばいいんじゃないかなと。
それを例えば壁紙とかもそこで表示させておけば、
自分で好きなパーツをウィジェットみたいに画面にいろんなものを置いていけるじゃんということで、
マルチウィンドウ化がどんどん最近は進んでいるという続報でしたね。
スピーカー 2
素晴らしいんじゃないですか。
スピーカー 1
なんかいいですね。ページをデザインしているという感じがすごくあって楽しいですね。
スピーカー 2
みんなね、ウィンドウデカすぎるんですよ、今。
昔は細く使ってたはずなんですけど、いつの間にかどんどん長くなって。
スピーカー 1
例えばワークフォーリーもビバルディで開いているときもあれば、
ファイアフォックスで大きい画面で開くときもあって。
ある意味それができるのがwebツールのいいところだよなとはちょっと思いますね。
スピーカー 2
そうなんですよね。
だからもうちょっと自由に変えるといいですけどね。
自由を制限する方向にUIが進化してきたんで、
それはそれで意味と目的はあるんだとは思うんですけど、
スピーカー 1
ちょっと不自由な使い方に強要されている感じはありますね。
そこからこのマルチウィンドウなしのサブウィンドウを使うことで、
ちょっと改造できるんではないかなという感触は感じているのが直近のニュースですかね。
今回のメインテーマなんですけど、
まずその話のきっかけとして、
マックテックラボっていうハッシュタグ、全部アルファベットですけど、
過去のマックの懐かしいソフトウェアとかが紹介されているハッシュタグなんですけど、
ツイッターXで見ていただいたら分かるんですけど、
僕は全然知らんのもあれば、
このエンジンとかで見かけたようなのもあって、
ウォーという感じなんですけど、
その一連のツイート、
多分同じアカウントの方だと思うんですけど、
1990年のハイパーテクスト論っていうのを再発掘すべきだという話があって、
背景となる思想
スピーカー 1
ハイパーテクスト論に背景となる思想として、
現代思想があって、
特に脱構築とかリゾームみたいな感じですね。
リゾームが一番近いのは。
網の目に広がる情報網というものが、
ツリー構造との二項対立になるみたいな概念だと思うんですけども、
今はハイパーテクストというのは、
ハイパーリンクを含むテクストのことだと思うんですけど、
ハイパーもつけないんですよね。
リンクって普通に言いますけど。
ある意味だから意識されなくなっているわけですけど、
例えば千葉先生の現代思想入門とかっていう本も評価されているように、
同じ文脈で現代テクノロジーと現代思想っていうものを結びつけて、
もう一回、つまり思考のエンジンがやっていたようなことを再検討してみる価値があるんじゃないかなということが、
今回のテーマなんですけども。
ハイパーテクストって結局どうなったんでしょうね。
スピーカー 2
だからやっぱり、さっき倉下さんも言われましたけど、
結局ハイパーテクストっていうものが語られていたときって、
もっとすごく広い概念だったと思うんですけど、
スピーカー 1
結局、ハイパーリンクがついたテクストのことになっちゃったんですよね。
ワールドワイドウェブからなんですけど。
スピーカー 2
それが結局、インターネットとウェブというものが組み合わさって一般化していったために、
リンクしたテキストのことをハイパーテクストだという感じで、
ある意味では小さく理解されてしまった。
スピーカー 1
倍小化ということですね、要するに。
スピーカー 2
そうそう、倍小化なんですよね。
でも実際にはもっとずっと広いものだった。
要は、紙のテクストの限界を超えるテクストのことをハイパーテクスト。
たぶんテッド・ネルソンがそういうふうに言ったのかな。
それが本来のハイパーテクストで。
だから本当は、工技のハイパーテクストには例えばアウトライナーとかも含まれるんですよね。
要するに紙のテクストでできないことをするという意味では、
折り畳んで入れ替えてっていうことができるのもハイパーテクストの一種だし。
必ずしもリンクしたテクストのことだけではないということがまず前提としてあって。
80年代から90年代の前半ぐらいにかけて、その可能性というのがいろいろ論じられたし、
実際に実験的な実装もいくつか作られて、いくつかというか結構たくさんあるんですよね。
一番コマンシャル的に成功したのはハイパーカードだと思うんですけど、あれはテクストじゃないんですよね。
リンクできるカードなんですけど、ちょっとハイパーテクストっぽくはないかな。
そのあたりは調べるといろいろ。
80年代にこういうハイパーテクストの実装があったみたいなのが出てきます。
スピーカー 1
名前が覚えにくいんですよね、これね。
名前が覚えにくい時点。
スピーカー 2
そうそうそう。覚えにくい時点で問題なんですけど。
ちょっともう負け戦ですね。
あと結構大学のプロジェクトみたいな形でね。
インターメディアとか。
インターメディアはブラウン大学学科で実験的に作られたハイパーテクスト。
あとジェロックスでノートカードっていうのがあったり。
スピーカー 1
地味な名前な。
みんな特定のジェロックスのスターっていうワークステーションでしか使えないとか。
スピーカー 2
インターメディアは、
Appleの当時のMacで動くAUXっていうユニックスがあったんですけど、その上でしか動かないとか。
そういうものすごいニッチなものだって。
その機能を見ると結構すごかった。今見ても結構すごかったりするんですよね。
30何年の前にこんなものが作られてたんだっていうようなものが結構ありまして。
スピーカー 1
調べると面白いです。
いろいろ開発はされていた。その時期当然思想的な盛り上がりもあって開発されていたけど、
現代ではあんまり生き残っていないというか、ほとんど死滅していて。
あいつリンクっていうものだけがハイパーテキストの可能性というか、実装的実現性として生き残っている。
簡易化したハイパーテクスト
スピーカー 1
そうですね。やっぱりシステム全体として作らないと機能しなかったんですよね。
スピーカー 2
理想的なハイパーテキストって、あまりにもいろんな複雑な機能が入っていて、
ネットワークにつながった全ての人が同じ端末を使って、同じシステムを新しく勉強して、みたいなことになっちゃってたんで。
それをもっと簡易に気軽に使える、理想的じゃないけど、
最大限ハイパーテキスト、特にリンクのメリットを得られるものが欲しい。
自分たちが欲しいっていう理由で、ティム・バーナーズ・リーが、
スピーカー 1
自分たちが使うようにワールドワイドウェブというものを開発したというような話だったと思います。
でも、観点帯ではないものが、もともとのリソートされたものを上書きしてしまったわけですから、
ある種の実装が脱構築したという感じがしますけども。
完璧なものをある種ハードウェアからソフトウェアまで統一的にしなければならないのであれば、
それは入らないのは当然ですよね。
スピーカー 2
そうなんですよね。結局、簡易化したことによって普及したと。
あとちょうどその時期にインターネットが商用利用に窓を開いていったということと、
ちょうど時期的に重なったのもあるし。
スピーカー 1
だからものすごい簡易なハイパーテキストだったんですよね。
でも簡易であった分、ある種のフレキシブルではあったということですよね。
ウェブだけじゃなくてノートツールでもリンクというものが実装されているわけで、
スピーカー 2
より適用されやすい概念として生まれ変わったという感じなのかな。
でも今のウェブしか知らない人が、
スピーカー 1
その時期のウェブがどれくらい簡易だったのかって多分想像つかないかもしれない。
スピーカー 2
そうかそうかそうか、確かにそうだな。
ものすごい簡易でしたもんね。
Windowsのメモ帳で書けるレベルのものだからね。
基本的にテキスト以外は重すぎて送れないというところですからね。
それでもWindowsのメモ帳でHTMLのタグ辞典みたいなものを見ながらポツポツ打っただけで、
スピーカー 1
一応ハイパーテキストっぽいものができてしまうという。
いやでもあれは感動的な体験で、
アラン系がイメージしていたような子供とコンピューターの出会いみたいなものが
あの形だったからこそ可能だったという気はしますけど。
より複雑なのが、
Wordpressを導入しましょうみたいなことに比べればはるかに敷居が低いわけで、
それこそ簡単な文字を打ってタグで囲んでFTPでアップロードしたら、
世界に自分のページがみたいな感動がそこにあるわけですからね。
スピーカー 2
そうなんですよ。
だから結局このインターネットで何かを作るためには、
あれを覚えなきゃいけない、これを覚えなきゃいけないっていうのがほとんどなかったわけですよね。
そうですね。
それこそA4の用紙1枚のタグ辞典を見ながら作ればなんとなくできちゃうっていう。
そうですね。地域が増えるだけそれっぽいものが作れていくという工場の楽しみももちろんありましたし、あの頃は。
その代わりにこっちのブラウザで表示できるものとこっちで表示できないみたいなことが普通に起こったりはしたわけですけど。
スピーカー 1
起こってましたね、それはもう。
そういうのも含めて面白かったっていうのはもちろんあるんでしょうけども。
うーん、そうか。
理想としてのハイパー、僕の中でもハイパーリンクイコールハイパーテキストのイメージが固まっちゃってますけど、
言われてみると確かにアウトライナーも確かにハイパーのことはしてるなという感じで。
いわゆる脱構築の思想とアウトライナーの思想はほぼ重ねることができるわけですから。
今データがどれくらい読まれてるかは知りませんけど、
そういう思想的に見てアウトライナーはまたこうだっていう、
つまり思考のエンジンがやったことをさらに現代でもう一回考え直すっていうことには、
コマーシャル的にどんだけ影響力があるかは別として、思想的・実用的な意味はあるでしょうね、きっと。
スピーカー 2
そうですね。実用的に言えば、
もちろん環境を今とは80年代は全く比べ物にならないんですけど、
コンピューターを使うとこんなことができるんじゃないかっていう、
その想像力と実験精神というか、
そういうものの深さと広さがどれくらいだったのかっていうのは、
スピーカー 1
もしかすると、むしろ今から見たほうが想像つかないかもしれないんですよね。
深さはあったでしょうし。
やっぱり現代に向けて、さっき言った乾燥やからこそ起こる不具合をソフトウェアが潰してくれた結果、
僕らはEasyにテキストを扱えるようになったわけですけど、
でもその後は逆に言うと想像力のマージンを奪ってきたという歴史でも多分ある気がしますね。
スピーカー 2
そうですよね。
それは民主化でもあって、
アカデミアの中で高いインフラと、
難しい言葉を喋る人たちが難しいようなことをやって作っているものだったものが、
それこそ我々にも小学生にも使えるものになっていったという民主化のプロセスでもあるし、
それは間違いなくいいことだと思うんですけど、
アウトライナーと思考のエンジン
スピーカー 1
その過程で忘れられていってしまったすごいアイディアとかはあるんですよね。
この2024年でアウトライナーというものの存在を知らないし、
知っていたとしてもいわゆるアウトラインを作るものとして捉えられないということは、
極端に言うと思想的な貧弱さがそこにあるわけですから。
つまりハイパーなテキストになっていないわけですね。
だから現行用詞的テキストの扱い方しかテキスト論が育っていないということですから。
結局現代思想が解体してきようとしてきたことっていうのは、
ある種のイディア的なものを紙の上で原伝させるというアプローチで、
デリナなどはいやそうじゃないんだよっていう抵抗をし続けてきて、
一定の成果を上げたわけですけど、
まさにアウトライナーはそれを地理でやるわけですよね基本的には。
プロセス型のライティングっていうものをツールの形で補助してくれるということで。
別にアウトライナーの開発者がデリナの思想をどれだけ育んできたかどうかは知りませんけど、
少なくともその観点で見たときに僕たちがテキストとどう付き合うのかっていうことを、
それこそ脱構築するためにそういう思想をもう一回点検することの意義みたいなのはちょっと感じますね。
スピーカー 2
そうですよね。
だから大事なのはアウトライナーを自由に使ったときに自然にやるようになるようなこと。
それこそ難しい概念を知らなくてもごく自然にやってしまうようなことを、
例えば後からデリナを読みましたと。
これあれじゃんって思わせられるところがあるわけですよね。
そこがツールの力としてはすごく大事なところなんですよね。
スピーカー 1
何というか、概念が実体化するというか。
スピーカー 2
そうですね、まさにそうですね。
質の高いツールがあるとそんな難しいことに思えないね。
スピーカー 1
ごめんなさい今声が。
まあそうですよね、確かにそれはその通りです。
だからアウトライナーを使って順番を入れ替えたりとか、
特に概念をレベルアップしようだてを変えるっていうことをしているときに、
いやそれって脱構築してるんだよっていうことはあまり思わないですもんね、普通は。
思わないと思いますね。
それは結局脱構築って言葉を使わなくても、
テキストってどう作られるもんだよねっていう観念そのものをひっくり返すわけで、
スピーカー 2
それが結局ハイパーテキストってことやとは思うんですけどね。
スピーカー 1
そうですね、そうだと思います。
だから僕の理解していたリンクイコールハイパーテキストっていうものは、
テキストを読むという体験を変えるわけなんですね、あれは基本的に。
つまり文脈、これまでのテキストは一つの定められた文脈があって、
読み手はそれにある種従順に読むしかないというものがあったのに、
リンクというものがあったおかげで、読むという体験がある種、
読み手のリンクを押すかどうかっていう判断に委ねられるようになった。
文脈の対応化というか、読み手に引き付けられるようになったという読みの変化なんですけど、
スピーカー 2
アウトライナー、書きの方からの変化があるわけですね、きっと。
そうですね。その文脈でいうと、
ハイパーテキストも80年代の理想的なハイパーテキストは書く方も含んでたんですよね。
スピーカー 1
うん、でしょうね、きっとね。
スピーカー 2
要するにHTMLを書くという意味合いではなく、
コードを目にせずに、普通にワープルで書くような感覚で書きながら、
スピーカー 1
ハイパーテキストを作っていくっていう、もっと双方向なものがイメージされていて。
スピーカー 2
そうか。
でも、書くことと読むことの境界が曖昧になるっていうような書き方を、
このハイパーテキストを進めている人がしてるんですよね。
何かというと、テキスト自体は今までのテキストより普通に書かれたとしても、
それがハイパーテキストシステムの中でお互いにリンクされたネットワークになっていると。
そのときに読み手がどういう順番でそれを読んでいくのかは、読み手のほうに委ねられていると。
スピーカー 1
はいはいはい。
スピーカー 2
つまり編集しているのは読み手の側なんだと。
スピーカー 1
うん、なるほど。
スピーカー 2
ある意味では読み手もまた書いてるわけだと。
つまり読むということを通してテキストを完成させる力を持っているのは最後の読者ってことですね。
そうですね。どのように読まれるかは、書き手は実は規定できないと。
スピーカー 1
自分の書いたテキストが、誰か別の人が書いたどのテキストにリンクされるかもわからないし、
スピーカー 2
どこから自分にリンクされるかもわからないと。
だからどんな文脈の中に自分のテキストが組み込まれてしまうかも、読者の中で組み込まれてしまうかもわからないと。
実は旧来のテキストでもそうだったんですけど、引用したりされたり。
だけどそれが書くという行為と明確に結びついちゃうわけですよね、このハイパテキストの世界では。
スピーカー 1
そういう意味で、読むということと書くということの境界線を曖昧にさせてしまうものだというようなことが言われていたり。
スピーカー 2
そういうことをそもそも意識して作られてるっていうことですよね。
スピーカー 1
はいはいはいはいはい。
例えば、現代史と言うとローアンバルトの作者のシーンみたいな言い方があるわけですけど、
そこでも読者が最終的に文脈の決定権を持っているというようなことだと思うんですけど、
その時代は少なくとも、インターネットで個人が発信するという話は別に含まれてないわけじゃないですか。
読むと書くが曖昧になるという行為の中の連続性とともに、
誰でもが発信できる以上、誰でもが書き手でもあるわけですね。
スピーカー 2
読み手でも書き手でもあるという役割の曖昧さもあって、そこを混じり合う地点がまだ論じられてないんかな、きっと。
そうですね。あともう一つは、80年代にそういうことを書いていた人たちというのは、やっぱりアカデミックな訓練を受けた人たちであって、
アカデミックな訓練を受けた人たちがイメージしているテキストというものは、ということなんですよね。
それは今の目で見るとすごく感じますね。
スピーカー 1
ああ、そうか。なるほど。
スピーカー 2
テキストはそういうものばかりではない。
スピーカー 1
大衆化されてしまったテキストをもう一回再考する必要があるか。混乱してますもんね、そこが今。
そうですね。
そっか。
ブログの更新とSEO
スピーカー 1
ずっと長い間ブログを更新してきてきたわけですけど、それより前はおなじみのhtmlサイトを運営してたわけですけど、
さっきの書くことの非文脈化で言うと、ウェブサイトのページって一個一個がどこにあったファイルになっているので、別にあの通りに書いているわけでもないですし、
並んでいる順番というのはリンクしただけであって、
ツリーの話を書いた次の日にカードゲームの話を書いて、でもページ上でリンクは別々やから連続性はないけど、自分の中では連続性があるみたいな、
本のように書かなくてもいいという、別に本だってそういう風に書いてるんですけど、本のように続けて、脱文脈的に書いていける体験がその頃のサイトには多分あって、
ブログ化されて、特にテーマブログっていうものになってくればくるほど、ウェブなのに連続的に書かなければいけないみたいなことになって、
ちょっと対抗しているようなニファンスも今感じますね。
スピーカー 2
それはすごいありますね。
スピーカー 1
もっとバラバラに書いていけたはずなんですけどね、昔は。
スピーカー 2
本当は興味の赴くままに、誰もがその時に書きたいことをその時に書きたいように書いていったものが相互にリンクされるっていうのが、
スピーカー 1
初期のイメージだったんですけど。
スピーカー 2
ただ、現実的にはそうはならないということも、ずっと経緯を眺めていれば想像はつくんですよね。
スピーカー 1
まあそうか。
どうやってやろうな。
でも少なくとも書きたいように書いた後で構造化するっていうことはいつでもできるわけじゃないですか。
同じ構造を取るにしても、構造を立ててその通りに一書から書いていくっていうことじゃなくて、
スピーカー 2
後から構造化できるっていうところは別に今でも普通に生きている考え方で、それこそありとあらゆるツールで、デジタルツールで言えることなんですけど。
スピーカー 1
でもあんまりそれも意識されてないかな、なんとなく。
スピーカー 2
特にやっぱりブログは時系列に並ぶからかな、特に。
逆に時系列に並ぶというルールというか決まりごとがあるからこそ、その時系列の中でどんなランダムでもよかったはずなんですけど。
そうですね、まさにその通りですね。
おそらくSEO的な観点が一番大きいのかもしれないんですけど、
一つのきっちりしたテーマがないと読まれないよっていうことが一番大きかったんですかね。ランダムであってはいけないというか。
いけない感じがやっぱりありますし、やっぱりRSSというのがある以上、
スピーカー 1
この話題を期待して高読してくれている人みたいな読者像が勝手にブロガーの中で生まれてしまい、
だとしたらこんなきっちり投下するのはどうかなみたいな妙な遠慮が生まれてしまう。
デイヴ・ワイナーはそんな気にしないと思いますけど、
スピーカー 2
なんとなくやっぱりRスタイルでは書きたくない記事みたいなのが自公規範的に生まれてきたっていうのはありますね。
そこが本来正しいことであるはずの読者のことを考えるということが悪いほうに出る場合もあるんじゃないかと思うんですよね。
なぜなら読者は、期待したものが流れてこなかったら読むのをやめるだけの話なんですよね、本当は。
だけどまあ、書き手としてはやめてほしくないから、期待に応えたいというふうに思ってしまうし、
期待に応えようとすることは決して悪いことじゃないんですけど。
いろんな意図をしたわけじゃないけれども、
スピーカー 1
人を抑えつける力というか、不自由な方向にどうしても行ってしまう力が働きましたよね。
後代はあるんですけど、昔はそもそもブロケーシキじゃないし、RSSもないから好きなウェブサイトをブックマークしておいて、
毎日のように見に行って、ニューみたいなリンクがあったらそれを踏んで読むっていうことがやったわけですよね。
そうひと手間なことをしたわけですけど、その場合ってその人が見に来ない限りは目に入らないし、
目立たないところにリンクを置いておけば、読むか読まないかはその人次第っていうことを結構思いやすいと思うんですけど、
やっぱり新着RSS注目っていうと、これが俺のエントリーだみたいなものを出しつつなるっていう傾向は、
少なくとも僕はRSSをやってて、今RSSは出してますけどナレッジウォーカーは出してないんで、
出してないとやっぱり気軽に更新できるというところはありますね。
気軽にできてない時点でやっぱりちょっとなんか重いものを背負ってたんだなというところは感じますね、なんとなく。
スピーカー 2
そうですよね。
なんとなく気分的に、こんな内容はちょっと更新しづらいみたいな。書き手側の気持ちもあるし。
やっぱり広告というものをつけるようになり、その広告から利益を得るためにはSEOを頑張る必要があり、
SEOを頑張るということは、こういうふうに、記事もこういう傾向を揃えるタイトルをこういうふうにするとか、こういう書き方をするとかっていう、そういう決まりごとができていったわけじゃないですか。
失礼なブログ記事
スピーカー 2
できていたっていうか決まりごとじゃなくて、それはノウハウだったんですよね、本来。
スピーカー 1
そうですね、ノウハウですね。
スピーカー 2
ところがそうなった後にブログを始めた人は、ブログというのはそうしなきゃいけないものだと思ってしまい。
だいぶ前ですけど、ブログの始め方みたいな記事があったんですけど。
統一感のないブログは読者に失礼ですみたいなことが書いてあったんですね。
マナーがとって書いてあるんですよ。
どこにでも出るな、その言いの。
そういうふうに働く力って一体何なんだろうと思うんですけど。
資本主義で別なんでしょうけども。
スピーカー 1
単にある目的を達するためのノウハウだっただけのことなんですけど。
それをマナーという言葉でパッケージングするのが、日本社会は大好きですよね、なんか知らんけど。
マナーのほうが人を誘導しやすいのか、つまりこうすれば儲かりますよというよりはもっと柔らかい感じがする?
柔らかいかどうか知らんけど。あんまりガツガツした感じがしないということなのか。
まあ人を誘導しやすいということなのかな、どっちかっていうと。
スピーカー 2
そうですね。
確かに、例えばランダムでいいと言いながら、
例えばですけど、親と子供が一緒に見る良さげなコンテンツを、
いくつか並んでいるところに突然アダルトコンテンツが挟まれるから、
それはダメだよなっていうのはありますよね。
それは常識として。
ランダム性の意味
スピーカー 1
コモンセンスとしてね。
スピーカー 2
そうですね。
それこそアウトライナーの使い方の記事の次に変なエッセイが並んでいるということは、
個人的には許容されると思うんですけど、読みづらいと思うかもしれないですね。
スピーカー 1
だから情報を求めてる人には邪魔ってことでしょうね、きっと。
スピーカー 2
そうそう。
本当に実用的な記事を書いて、ちょっと伸びたりしたときにフォロワーさんが増えたりするんですよね。
その次に全然違う記事を投下すると、あっという間に減るということを繰り返しながら来るわけですよ。
それはやっぱり、何かを求めてこられた方に対して失礼なことをしているのかもしれないんですよね。
ある種の角度から見れば。
スピーカー 1
それは失礼とは言わないと思います。どう頑張ってもそれは失礼という方が間違ってる気がしますけどね。
例えば不親切という言い方はできるかもしれないですけど、失礼ではないでしょう。
別に礼は意思せないと思いますね。
スピーカー 2
まあ、物の言い方ですけどね。
たとえばあと3記事ぐらい待ってくれると、また同じような記事が来るかもしれないんですけどね、とは思うんですけど。
スピーカー 1
まあそういうことではないんですよね。
たとえばそのブログのトップにですよ。
ブログはアウトライナーの記事を専門的に発信しているブログですって書いてるのに、エッセイが入ってたとしたら、それは不義理かもしれませんけど。
メディアのあり方はそれぞれ自分のメディア主が決めていいはずですから。
スピーカー 2
やっぱり失礼ですという方がおかど違いという気がしますけど。
ただその失礼かどうかは別にして、ランダム性に実は実用的な意味があるということは昔からすごく思うんですけど、やっぱりそれが通用する時代ではなくなったとも思うし。
時間的にね。時間的・効率的に。
ハイパーテキストの理想的な世界
スピーカー 2
たとえば木村泉先生のワープロ作文技術のAmazonのレビューにですね、レビューが書かれてて、とにかく余計なことがいっぱい書いてあるみたいな。
雑談が多いとかね。
逆にどこのことを指してるのか全くわからないですけどね。
余談というかね、説明する過程の中でオペラ歌手の話とかが出てきたんですよね。
スピーカー 1
はいはいはい。
スピーカー 2
そういうことを言ってるんだと思うんですけど。
スピーカー 1
余談とか脱線も含めて、総合的にパッケージされたコンテンツというふうには捉えられない場合も増えてるような気がしますね。
なるほど。
もっと無味感想に情報だけが並んでるものが良いとされる人がいっているという感じか。
スピーカー 2
まあそうですよね。
そこでその話を元に戻すと、ハイパーテクスト、ハイパーリンクされたネットワークの理想的な世界では、すべてがランダムであると。
自分が読みたいものを読みたい順にポンポン飛びながら読んでいけば、
誰にとっても自分の読みたい理想のテクストを読むことができるというものだと思うんですね。
誰もが自分の興味のもむくも。
例えば実用的な話ばっかり連続して読みたければ、その実用的なところにポンポン飛びながら読んでいけば、その人はそれで満足できるし、逆にどんどん脱線していくのが楽しい人はそうすればいいし。
同じネットワークの中から、正反対の好みと目的を持った人がそれぞれ満足して読むことができるっていうものだったと思うんですね、本当は。
本来あるべきハイパーテクストの世界というかは。
それが成立しなかった理由も今から見ればよくわかるんですけど、
ただ、もう一度その理想論的なものをもう一回見直してみると、その中でもそれなりに現代に役に立つヒントみたいなものはあるんじゃないかなというふうにはいつも思うので。
何ですか、このさっきの。
ハイパーテクスト論再発するべきっていうのも本当にその通りですよね。ものすごい共感しましたね、これは。
スピーカー 1
うーん、そうか。
やっぱりハイパーテクストイコールリンクってだけで考えてると、ちょっと射程は狭いし。
例えばウィキペディアで好き勝手に気になるキーワードを読んでいくっていうような読書体験っていうのは、ある種そのハイパーテキストの原体験みたいなもんやと思うんですけど、
一方で僕らが普段使ってるリンクってタイムラインが流れてきて、気になる記事をポッと押して帰ってくるみたいな感じなんですけど、
リンクやけど、先ほど言ったハイパーテキスト的リーディングの原体験とそれどこまで重なってるかっていうと、あんまり重なってない気がするんですよね、それって。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
一つのラインで流れてくるものの興味があるものを読んで帰ってくるっていうのは、なんか違う気がするんですよね。
現代のハイパーテキスト感の喪失
スピーカー 1
例えばですけど、リンクした、さっきタイムラインで流れてきたページがある、それを読みに行く、読みに行ったそのサイトの別のページを読むっていう発掘作業が行われてたら、そのハイパーメディア感、ハイパーテキスト感があるんですけど、
僕らの日常の情報セッションは多分そうなってない。僕らの奥は。
スピーカー 2
なってないですね。
正直、ちょっと見出し見て帰ってくるみたいなことで、ある種の掘ってない、リグしてないっていう感じで、それを促すようなメディア体験になってる気がするんですよね、全体的に。
スピーカー 1
しかも最近のウェブサイトは、だいたいそのページ移動の時に広告が表示されて、だいたい鬱陶しいことになるから、ますます掘らないことが増えてて、だからリンクそのものの力は変わってないけど、
それを表示するプラットフォームそのものが、ある種資本主義系になってきて、僕らの注意を一箇所に集中させる、つまりタイムラインに集中させるっていう方向に向かってきているがゆえに、
どうもハイパーテキスト感が失われてるんじゃないかなというのを、今までの話を聞いてちょっと考えましたね。
そうですね。
掘らないですよね。
例えばさっき言った何とか受信口のページ、僕は掘りましたけど、関連ページも読みましたけど、通りに変な言い方、値するページがほとんどないということなんですね、要するに。
スピーカー 2
でも掘るほどの深みって、質の深みじゃなく、物理的な深みを作ってないですよね、今のコンテンツの深みっていうのは。
スピーカー 1
確かに、そうですね。
だからさっき言ったようなタイムラインから見られる読書体験そのものに特化しちゃってる感じがして。
そうですね。
だから広告見せたら価値のゲームしはりますから、あれは。
そうなんだよな。
やっぱり商売、メディアの露出をする道具と考えた時点で、もうそのゲームにはまってしまうし、
例えば広告を載せる、それが例えばその対して害のない広告を載せるだけとしても、やっぱりその文章とかコンテンツがもうある種商品になってしまうわけで、
商品になるとさっき言った失礼みたいな概念が出てきますよね。
その、読んでもらうという体験をしてもらうに値するものにしなければならないというのが、やっぱり芽生えやすいと思うんですね、広告を載せた途端に。
だからやっぱり全てはGoogleがゲームを変えてしまった気がしますね、なんとなく。
スピーカー 2
そうですね。
ただそのGoogleに関しても、本当はそれぞれリンクさえされていなかったものを瞬時に見つけ出せるようにしたんですよね、初期に。
間違いなく、はい。
だからGoogleなのか、まあそうですね。
スピーカー 1
Googleはよかったんだけど、GoogleがAdSenseを発見した時点で、ゲームが変わりましたね。
あのビジネスモデルがなければもちろん潰れてましたけど、おそらくはそんなに持たなかったでしょうけど。
広告とメディア体験の変化
スピーカー 1
まあでもあれがウェブそのものを方向性も変えてしまったと、多分もう何年か後に振り返ったらそれを確実にそう言えると思いますけどね。
スピーカー 2
そうですね。AdSenseとエッジランス、クリックスというものに非常にお金と同義になってしまったということからの、SEOというものの重要度の高まりというか、
はっきり言って大の大人がなんてくだらないことを真剣にやってるんだという類のことを、本当に真面目な仕事として成り立つものにしてしまったわけですよね。
スピーカー 1
はい、そうですね。
スピーカー 2
決してバカにしてるわけじゃなく。
だって今それが仕事として重要なわけですから、SEOも全く変わってますけどね、その構えに比べれば。
スピーカー 1
いやーだって、本当そういう感じでしたよね。SEO的な観点から、こうすれべきだこうすれべきだっていう。
本当に真剣に人生の時間を使ってこんなことを考えなきゃいけないのかっていう類のことだったんですよね。
僕はあまり考えたことがないですけど、でも一つ思うのは、インターネット、例明記、ウェブで遊んでた人たちはどっちかっていうと、形式主義を嫌うタイプの人たちだったと思うんですけど、
そういう人たちは僕も含めて、自由に書きましょう、好きに書きましょうというわけですよね。
それは全く正しいと思うんですけど、一方でどう書いたらいいのかっていう悩みに何も答えてないんですね。クリアーな答えを与えていない。
ある種、答えるという責任の値をしている。一方で片方では、こう書きなさいと言ってくれる人がいると。
さあどうなるかということなんですね、これは。
だから完全に僕はSEOとかGoogleの嫌いゾーンに入ってますけど、
かといってお前は何を成してきたのかと言われたときに、何も答えられないというのはあるんですよね。
スピーカー 2
やっぱり結構ずっと、個人で好きにやったらいいやんとは言ってきましたが、そうやって結局、ライオンが子供を突き落として登ってこれたやつだけが生きたらいいっていうのと同じ世界線の話なんです、それはね。
だから例えば、自分が考える健全なウェブにおいて、こういう書き方のほうがいいですよってことを宣言する矢表に立ってこなかった以上、責任がないとは言えないなという感じはしてますね。
僕もほんとそうですね。
SEOを頑張る人を決してバカにするわけではないっていうのはそういうことですよね。
だって仕事なわけだし、みんな生きていかなきゃいけないわけで、その中で最適なことを今の仕組みの中でやればそうなったっていうこと。
だからそれには必然性がちゃんとあるんですけど。
逆に言えば、それを仕事として、あるいは本気でお金稼ぐぜというわけでもないのに、そんなことを考える必要はないんじゃないとは思いますよね。
それが仕事に直結して、本当に考えなきゃいけない人が考えるのは全然、
自分の好き嫌いとは関係なく、今の環境の中で考えてることを考えればそうなるっていうことなんで、それは全然いいと思うんですけど。
考えなくてもいいんじゃないっていう人が考えてるように思えちゃうんですよね。
スピーカー 1
でも実際そうなったと思うんですよ。
個人のレベルでやってるエッセイとか書いてるブロガーが、SEOを気にして記事を書くみたいになって。
端的に無駄なことだと思うんですけど。
無駄などころか逆効果ですらあるというか。
スピーカー 2
いやそういうのが読みたいんじゃなかったんだよみたいな。
それに似たもので、例えばアイキャッチ画像というものがあったりして。
その有効性はよく分かる。画像に目に行って記事を読むっていうことは当然あるんですけど。
でもやっぱりつけなきゃいけないものじゃないよなとは思うんですよね。
ただやっぱり特にノートなんかやってるとそうですけど、すごくつけなきゃいけない雰囲気に作られてるんですよね。
そうなりますね。
それはなんか違うんじゃないかなっていうか、すごくやむにやまれず書き、読んでほしい、今すごく誰かに聞いてほしい、切実な感じの記事なのにアイキャッチ画像が貼ってある。
この切実な記事を書いたあと、フリー素材の中からこれを探したんだなと思ったりするんですよね。
それもやっぱりバカにしてるわけじゃなく、それはルールとしてそうしなきゃいけないような雰囲気になっちゃってるように思えるんですけど。
あるいはより多くの人に読んでもらうためにはそうしなきゃいけないっていう感じなのかもしれないんですけど。
まあだから競争というか、つまりタイムラインで流れる他の記事にはアイキャッチがついてるから、こっちもつけざるを得ないっていう感じになりますよね。
ついてないと確かにすごくしょぼく見える。
そういうふうになってあるんですよね。
これってすごく、ノートさんにお世話になっていながら、どうなんだろうと思うし。
でもこんなことを言いながら、アイキャッチはつけない時が多いですけど、
こんなことを言いながら、やっぱりこういうのどうなんだろうと思いながらちゃんとやってることっていっぱいあるんですよね、自分にも。
はい、そうですね。わかりますよ。
そういう総合的ないろんなことのうち、マストじゃないものはできることならなくしていったほうがいいんじゃないかなっていうね。
スピーカー 1
今さら広告は邪悪だから全部なくすべきだなんて誰にも言えないし。
スピーカー 2
無責任な立場ならいくらでも言えますけど、責任ある、あるいは何かに関与してる人間は言えないですね、そんなこと。
実際それがなくなったら、いつも使ってるサービスがなくなっちゃうかもしれないわけだし。
スピーカー 1
ただ広告の形が今のままでいいのかというのはまた別の議論としてあるとは思うんですけどね。
やっぱりその表示のされ方が年々邪悪になってる気がするんですけど。
スピーカー 2
広告はそうですよね。一瞬遅れてタップしそうな場所に動いてくるみたいなのはもう本当に邪悪としか言いようがないですよね。
スピーカー 1
だから広告っていうのは健全な邪魔かもしれんけど、少なくとも邪悪ではないというところに押し留めてっていうのは、もちろん業界にとっても必要な議論だなとは思うんですけどね。
うーん。
ソフトウェアって、いわゆるABテストっていうのがいくらでもできるわけですね、現実のものづくりと違って。
ということは、邪悪な方向にすごい速度でスイングしていくっていうことも普通にあるんだなというのはちょっと思います。
スピーカー 2
まあそうでしょうね。
スピーカー 1
邪悪かそうじゃないかっていうことを、このビジネスの中での選択基準として最初に示したのってGoogleだったはずなんですけど、大規模に示したのは。
スピーカー 2
確かに。自分たちはイビルじゃないって言ってますよね。
もちろんその当時のGoogleではないことはもう従順承知しているんですけど。
それでも、よくよく考えたらそんなに大事じゃないSEOとか、よくよく考えたらそんなに大事じゃないアイキャッチとか、その類のことって結構あるような気がするんですよね。
うん、あると思いますね。
あと、プレゼンするときにものすごい作り込んだカッコいいパワーポイントを本当に作る必要があるのかみたいな話も含めていっぱいあるんですよね。
スピーカー 1
そうですね。いわゆる効率化みたいなことが役立つのはそういうのをバッサリと切り捨てるときに、効率化とか生産性向上のマインドセットが役立ちますね。
スピーカー 2
そうですね。そっちに使うといいですよね、それは。
まあ、そうやな。でもGoogleってすごいでかい企業で、今アルファベットの複数の企業を持ってますけど、よくよく考えるとGoogleっていうものの発明以降、あんまりイノベーションしてないなっていう気がするんですけど。
ハイパーテキストの形式の良さとボトムアップ的な発展の良さ
スピーカー 1
Gmailは確かにすごかったんですけど、YouTubeは買収しただけですし、その辺以降、なんかすごいことをしたかなと思って、もちろんそれは僕らが見えないところでいろいろ技術的発展はされてると思うんですけど、
なんかウェブに新しい風を吹き込んできたかなっていう。結局AIも先行されてるわけですから、ジェミンにはありますけど。彼らは何を目指して進んでいるんだろうなというのを、別にバカにしてるわけじゃなくて、何を理念に今進んでるんだろうなというのはちょっと思いますね。私たち何を届けようとしてるのかなというのは。
スピーカー 2
わかんないですね。
わかんないって言ったら、確かに。
もうそれが、自分たちでもわからないぐらい巨大になっちゃってるかな。なんでしょうね。
でも例えば、Google抜きでウェブを語るのはまだ難しいわけですから、ハイパーテキストっていうのを考えるときって、やっぱりプラットフォーム存在抜きでは考えづらいっていうことは間違いなくて。いい影響でも悪い影響でも関わってくるでしょうしね。
スピーカー 1
でも純粋なハイパーテキストの雰囲気を今一番誰もがちょっと体験できるってやっぱりウィキペディアなんじゃないですかね。
スピーカー 2
そうですね。ウィキペディアでしょうね。
スピーカー 1
ウィキの系譜であるスクラップボックスも、複数人でやってるとハイパーリンク感が非常に味わえますね。
スピーカー 2
スクラップボックスとオブシリアンは、ある意味ではハイパーテキストを現代の環境の中に蘇らせようとしているものだと思うんですけど、
やっぱりそれこそ、ワークフローインがアウトライナーっていう言葉を使わないのと同じで、スクラップボックスもオブシリアンもハイパーテキストっていう言葉を使ってないと思うんですよね。
スピーカー 1
そうですね。特にオブシリアンも使ってないですね。
スクラップボックスの当初は新しいタイプのウィキテストは最初のほうに述べてましたけどね。
ウィキって言ってましたよね。だからそこの、何かしら意図があるんじゃないかと思うんですけど。
オブシリアンはどうしても一人用なので、ウィキは基本的に複数人運用なので、その前提が。一人でも使えますけども。
もともとが地を持ち寄るという感じのスタートがウィキっていうシステムそのものが、複数人の地を集めるということが目標だったんで。
スピーカー 2
オブシリアンは個人ノートという感じなんで、リンクっていうものを使ってたとしても何か方向性が違う。
スピーカー 1
タイトルの付け方、つまりリンクの書き方も、複数人で使う場合のタイトルの付け方と個人で使うタイトルの付け方は違ってくると思うんで。
スピーカー 2
だから、似たような機能を使ってても思想か方向性は違ってくるんじゃないですかね、そこが。
スピーカー 1
そうですね。そうだと思います。
書き手が民主化している中での、新たなハイパーテキスト。
スピーカー 2
書くことを含んだハイパーテキスト論っていうことが、予知があるんか。
でも読まれないでしょうけどね、そんなの書いても。
スピーカー 1
読まれないんでしょうね、きっと。
制度者とかから出すしかないみたいな感じにあるでしょうね。
スピーカー 2
制度者。そうですね。
難しいな。
昔だったら、ちょっと前だったら、ジャストシステム出版社さんがそういうものを出してくれたと思うんですけど。
スピーカー 1
今はもう廃棄をしてあるんですか?まだ本を出してあるんですか、そのジャストシステム出版を。
ジャストシステム出版は、今もう出版はやってないんじゃないんですかね、ジャストシステムさんは。
スピーカー 2
少なく僕は本屋でその本を見たことは多分ないと思いますけど。
ジャストシステム出版が80年代末から90年代前半ぐらいの10年間の間に出してた本は、
スピーカー 1
すごい確率で倉下さん好みだと思いますね。
やっぱりその1980年代初頭あたりがどうしようもなく盛り上がってた時代なんですね、ということは。
スピーカー 2
そうですね。あとやっぱりジャストシステム自体が前世紀で、
当時の社会貢献というか企業メセナ的な文明の中で、
地、特に日本での地のコンピューターと地の融合に貢献するのだという姿勢が、
当時のジャストシステムにはものすごいあったんですよ。
なるほど。
これからの日本語を真剣に考えるのは、我々らぐらいの勢い。
実際にそのことは言ってないですけど。
ペトックの開発の過程で国語学者とか言語学者とかそういう人たちを含めて、いろいろやってたんですよね。
ちなみにですね、ジョージ・ランドという人のアイパーテクストという本がありまして、
ジャストシステム出版から1996年に出ていて、
この人がブラウン大学でインターメディアというハイパーテクストシステムの開発はその人じゃないんですけど、
スピーカー 1
中心的な役割を果たした人が、ハイパーテクスト論語を書いたという本がジャストシステム出版から出てるんですね。
ほう。
スピーカー 2
まさに今言っていたような話。
スピーカー 1
現代思想の文脈からハイパーテクストを論じるという、そんな本をジャストシステムさんが出していた。
アマゾンのページ見てますけど、副題が核児とコンピューターが出会うときって書いてあって、これなんかすごい見たことない。
スピーカー 2
どっかで見ましたね。
スピーカー 1
どっちが先なんですかね。
福田さんのほうが後?
スピーカー 2
福田さんは1990年なんでずいぶん前ですね。
あ、そうか。なるほどね。
これの原書は、たぶんブラウン大学のインターメディアというハイパーテクストのトコロピーがとんざして、
もうこしゃったあとに、この乱暴さんが書いたんだと思うんですよね。
改装する形で記録に残しておきたいという感じだと思う。
スピーカー 1
それが何年か経って翻訳されたんで、原書に書かれたのはもっとずっと前だと思うんですけど。
まあでも思うんですけど、このハイパーテクストを論じられてるテキストって普通のテキストですね、きっと。
ハイパーじゃないですよね、きっと。
つまり、普通のリニアな文章ですよね。
スピーカー 2
そう。で、まさに普通にリニアな本です。
アウトライナーを使わずに行われる編集の限界
スピーカー 2
すっごい読みづらいですよね。
このランドルさん自身が、この本の中で、私は今ワードで書いているところを。
でも、ワードで書きながら、インターメディアを使えたらどんなにいいだろうと思いながら書いているみたいな。
もともとはこれ自体がインターメディアの中のハイパーテキストにするとして書かれたんじゃなかったかな。そこはあやふやですけど。
ハイパーテクストで書くのに慣れちゃうと普通の文章も書けなくなるみたいなことを書いてますね。
スピーカー 1
と思いますね。それはそう思います。
スピーカー 2
大きな文脈を形成するよりは一つの概念に連なる複数の概念という感じで頭が整理されるでしょう、これはきっと。
すごい読みづらいんですよ、これ。
スピーカー 1
読みづらさがあるわけですね、読みづらさが。
ちょうど思考のエンジンを読んでいる時に、本人が自分でテキストのリライトをしながら進めていくというところで、いわゆる形式に従うのは古めかしの考え方だと。
現代思想というのはその形式に対してアンチテーゼをぶつけてきたわけだが、結局、例えば自分もそうやって論文を整えている時に、形式というものを頼っていると。
これはどうなるかと自分で反論してあるわけですけど、やっぱり形式が整っていると読みやすいですね、これはどうしようもなく。
スピーカー 2
例えば脱構築っていうものをする論文は書かれたら、その論文はちゃんと形式通りに書かれているものであると。
スピーカー 1
ここにどうしようもない、もともとのリニアであるテキストが持つ、あるいはフォーマット見出し回想構造って持つ力っていうのが、いやおなしにあると。
これは僕らはもう一度どうすべきかを、つまりリンクっていうのが当たり前だったこの世界においてリニアな流れあるいはフォーマットで整えるっていうことが持つ力を、
やっぱり再検討しなければならんじゃないかなっていうのをそこを読んでてちょっと思いましたね。
テキストとハイパーテキストの関係
スピーカー 2
そうですね。まさにその部分で、僕でも至高のエンジンを読んで一番感動的というか衝撃的だったのって、
至高のエンジンという本も含めてリニアな従来の意味でのテキストで書かれてるんですけど、
アウトライナーも含めたプロセス的な書き方をすることによって、出来上がった本はリニアで従来の形式に従って書かれているんだけれども、
従来の方法論で書かれたものとは違う内容になっているという形式を守りつつ、実は脱構築されていると。
それを実現するのがアウトライナーであるっていうような、その部分が僕、当時、最初のときはよく理解できなかったんですけど、
今日に至るまである意味では人生を変えられてしまったという感じがありますね。
だから、形式を守っているけれども、中身は一旦解体されて、また再構築されている。
だから、その形式的に書いた内容とは違うものになっているっていう部分。
それはですね、ブックカタリストに呼んでもらったときに、サンダー君の話をした気がしますけど、そこなんですよって言っても、なかなかうまく一人伝えられない部分で、
スピーカー 1
よく考えてみて、それをどうやって一人伝えるかということを考えていたような気がするんですけど、なかなか力不足感がありまして。
スピーカー 2
その部分なんですよね。
スピーカー 1
だからやっぱり、形式っていうのがやる種の権威主義にあたるからこそ、形式っていうのを批判するっていうことが、人としてはわかりやすくて、
じゃあそのままいくと、じゃあ形式なんていらんのじゃないかということにすぐ言っちゃうわけですけど、
でもあの本は、いやいやそうではないのだと。形式にはちゃんと価値があるんだって踏みとどまって、その形式の良さとボトムアップ的な発展の良さを両方を活かすんだと。
実際ね、至高のエンジンって読んでみるとね、結構入り組んでるんですよね、あれ。
読書も絵もとっていると思うんですけど、例えばブロック1で書かれていることがブロック3と繋がってたりするんですよね。
でも読んでても別に普通に読めているっていう、その妙な読書感が、僕1回目読んだときはたぶん気づかなかったです。
読書メモ取って読んで初めて気づいたんですけど、話をつなげるときに矢印でつなげるんですけど、すぐ下に行かないんですよね。
なんかぐるっと回って下の方に行ったりするっていう。
ああ、だからこれがこういうことなんだなっていうのは読みながらわかりましたね。
スピーカー 2
ちょっと独特のねじれ感があったりするんですよね。
スピーカー 1
ありました、ありました。
スピーカー 2
あの、くでさんの文章って。
で、意図的にやっている部分もあるし、思考のエンジンはそうでもないんですけど、
物書きがコンピューターに出会うときのほうがね、明らかに編集失敗してるんじゃないかって思うところもありますね。
スピーカー 1
だからやっぱりプロセス型で形式に沿って作ってないから、上手くいかないことも当然起こるんですよね、これは。
スピーカー 2
あとあの時日本語で書いてたんですけど、日本語で使えるちゃんとしたアウトライナーがなかったんですよ。
別のところでぐでさんが書いてるんですけど。
で、結局バインダーでアウトラインプロセッシングをシミュレートしてたっていう。
そのせいじゃないかっていう気がちょっとしますね。
なるほどね、なるほど。
いちたろうで書いてたんですね、あの時結局。
はいはいはいはいはい。
だけどいちたろうでは本格的なプロセスライティングができないんで、
結局プリントアウトしてハサミで切ってバインダーで組み立てながら、
アナログアウトライナーでやって書いてますみたいなことを当時言ってたんですよね。
だからたぶんアウトライナーを使わずにやれる限界を超えた編集をアナログでやったんじゃないかと思う。
スピーカー 1
なるほど。
そう想像してます、それは予想ですけど。
確かに志向のエンジンでも、例に挙がってる論文は全部英語で書かれてるやつでしたからね、そういえば。
スピーカー 2
そうですね。
でもなんかね、あの独特の変なねじれ感がね、やみつきになる。
スピーカー 1
本当に奥田さんの文章って魅力的なんですよね。
まあそう。
確かにいわゆるビジネッションのわかりやすい文章ではないですね。
まっすぐ筋が通っていくタイプではなくて、結構連想で思いついたことを膨らませていくタイプの感じはしますけどね、あれは。
スピーカー 2
そうですね。
だから実際にリライトするところで、学会かなんかで発表した論文内容の批評で、
来てたどっかの先生に聞いたら、多くの内容を詰め込みして言ってくるっていうのがそこに書いてありますね。
書いてましたね。
スピーカー 1
そこが奥田さんの面白いところだと思うんですけど。
だからハイパーテキストを考えるときに、へなし、逆にテキストについて考えることになるんだろうなという予見がありますね。
スピーカー 2
そうですね。
我々にとってテキストとは何なのかを考えずに、ハイパーテキストは考えられないという気がしますね。
スピーカー 1
結局デリナとかバルトが出てくるんですよね。
そうですね。もちろんそういう研究はあるでしょうけど、それをツール話と絡めてできたら独自の仕事という感じがしますが。
スピーカー 2
そうですね。でも結局、そこを何も見ずに考えると多分、すごいしょぼい車輪の再発明をしてしまいますよね。
スピーカー 1
それはそうですね。
それを読み始めるとまたそれでハマっちゃうっていうね。
そうですね。だから本格的な研究はどうしても無理なので。
ハイパーテキストについての考察
スピーカー 1
自分たちが何をやっているかというベースを考える上で、こういう思想化の話もあるよみたいなところにはなるんですね。
正面記って言ったら、脱構築ってお前なんやねんって説明できるかって言ったらできないですからね、基本的に。
スピーカー 2
そうしたらもうそれで人生が増やされてしまうんですからね。
スピーカー 1
そうですね。
でも、たくさんのアウトライナー本は基本的に脱構築的な思考の方法をツールの使い方を通じて紹介しているということで、
表面に出ていないとしても背後で鳴り響いている思想が多分あって、そこが多分現代思想と響いているから、
スピーカー 2
それはそれでよしという言い方は別にできるでしょうけどね。
そうですね。そうなっているなら嬉しい。
嬉しいというか。
実用書の中に実用書のふりをして自分の…。
そういう言葉を使わずにどれだけそういうことが言えるかと言われることは結構意識した気がしますけどね。
スピーカー 1
そうですね。専門分野だからあんまり言わへんっていうこともありますし、
読者に読まれやすい文章を考えるときに変に思想とかの言葉を出さない方がいい。
どうしても必要なもの以外は最低限にしとくっていうようなのも一つの気遣いというか、コンテンツの書き方ではありますね。
今、例えばハイパーテキストを論じたとして、誰が読むねっていう問題を考えずにはいられないわけですからね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
それを論じることで、僕らの日常生活の何が変わるのかというところを外してはいけないと思うので。
スピーカー 2
ハイパーテキスト論を再考するとか、再報するとか、こういうものになぜ惹かれるかっていうことなんですよね。
単に意識的に好きだからっていうのはあるんですけど、それだけじゃなくて、
やっぱり何かが切実に自分が必要としている何かと繋がってるからだと思うんですよね。
そう思いますね。
そこを言語化して、さらに愚痴を広げるというか、たぶん自分だけの問題じゃないはず。
そう思いますね。
ということですよね。
スピーカー 1
興味は尽きないが、全然探求できてないので浮かぼりできる話でもないんですけど。
まあそうですね。今まで僕は結構、ハイパーテキストイコールハイパーリンク。
ハイパーリンクを備えた文章がハイパーテキストだというふうに、結構単純に考えていたので、
もうちょっと広がりのある捉え方ができそうだなという感じはしてますね、今。
スピーカー 2
そうですね。
テッド・ネルソンの最初のハイパーテキストの話なんて、
あれ結構著作権とか収益化みたいなことも含めて書いてますもんね。
えーそうなんや。まともに読んだことがないですね。
あれもまた読みづらいんですよね。
本当にわけがわからない。
まあそれこそあれはハイパーテキスト的なものがリニアで並んじゃってるんで。
スピーカー 1
そうなんですよね。
まあそういうのが、ウィキであれば読みやすいけどリニアでは読みにくいということがあって。
やっぱりそうすると、じゃあリニアってなんだろうっていうことが気になりますね、ずっと。
スピーカー 2
そうですね。でもリニアって時間なんですよね、きっと。
時間の流れのことだと思うんですよね。
スピーカー 1
時間の流れを設定することで、
スピーカー 2
絶対読者と読み手がその時間の流れを共有できるみたいな価値があるって感じですか?
例えばハイパーテキストがあって、いくら読者が自分の意図した順番で自由にポンポン飛びながら読めるとしても、
そうやって読んで、例えば何か新しい知識を得たとするじゃないですか。
で、その得た知識を別の誰かに口頭で説明しようとしたら、頭の中でリニアに組み立てるしかないんですよね。
ああ、確かに。
結局そのハイパーテキストというものは、そのハイパーテキストシステムがない場合、
それなしで、口頭とか紙とか、そのシステムがない状態でコミュニケーションをしようと思ったら、絶対にリニアにならざるを得ないと思うんですよね。
スピーカー 1
コミュニケーションがリニアの回路を通るからですよね。
スピーカー 2
そう。コミュニケーションがリニアの回路を通らなければいけないのは時間があるからですよね。
時間というのが一方向に流れていく中で、この話を、これの話なんだけど、実はこれでまずこれがあって、次にこうなって、結果的にこうなったんだよっていう風に伝える以外にないんですよね。
同時に情報を転送するわけにはいかない。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
順を追って話さざるを得なくなって、そうするとリニアに並べざるを得なくなり、
リニアに並べたときに伝わりやすい並べ方っていうと、どんどん狭まってくるんですよね、選択肢が。
スピーカー 1
そうですね、たしかに。
スピーカー 2
それが多分、テキストのリニア性っていうことにそのままつながってるんじゃないかと思うんですけど。
スピーカー 1
ハイパーメディア空間内で情報をやり取りしてる間、僕らはリニアはあんまり意識しなくてもいいけども、
スピーカー 2
そのツールから離れる、つまりほとんどの時間はそうではないと。
だからそれこそスクラップボックスでもご振付でも、
いかにネットワーク型のメモツールが自分の中で充実していたとしても、
その中にある知識とか情報を誰かに伝えようとしたら、どうしてもリニア変換しなきゃいけなくなる。
スピーカー 1
たしかに。
と思うんですよね。
リンクを示す行為自体もテキストで表現しなければいけない以上、何かしらの順番を発生します。
これとこれとこれを読んでおいてっていうことはできますけど、そこにもう順番が発生してますからね。
スピーカー 2
それこそリンクされた文章、一つの文章は結局リニアにテキストが書かれてるからね。
スピーカー 1
そうですね。それは間違いなく。
だから情報の単位として認識される、つまりリンクをたどって読むとか、一つの文章を読むとかでも、
結局は流れとしては意識がリニアやからリニアにならざるを得ないから、
やっぱりネットワークとリニアが補完関係になっていないといけない。
ネットワークはネットワークだけというのはありえない。
スピーカー 2
ありえないって言うとちょっと強いけど、ほとんどありえないという感じか。
そうですね。
テキストと時間の関係
スピーカー 2
あるのかもしれないですけど、
それこそ人間の知能営み自体がそのリニアに文章を記録するということの上に成り立っちゃってるわけじゃないですか。
文章以前もおそらく哲学者が喋ったりしたわけじゃないですか。
スピーカー 1
そうですね。
それリニアな部分ですよね。
知情報の伝達行為は必ずリニアになると。
僕たちの例えば瞬間的な連想っていうのは、ある種複数的にあるいは同時多発的に起こるっていうところと、
いわゆる意識と無意識の二重構造っていう、これはリニアではないと思うんです。
複数のリニアが走ってるかもしれないがわからない。
いや、無意識は言語化されないからリニアじゃないですね、きっと。
いろんなものが走ってますよね。だから僕らの知能相対として見たときに。
他者との交流バイパスを通すときにはリニアである必要があり、発想連想は多分レッドワーク的に広がってて、
無意識は知覚不能な何かというような感じで動いてるんかな。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
だからテキスト、リニアとは何かっていうのは、
スピーカー 2
考えるときにやっぱり情報のやり取りという文脈で考えたらいいんじゃないかな。
そうですね。
伝達、伝える、受け取る。
スピーカー 1
伝える、受け取る。両方においてリニア性が必ず避けては通れないから、
僕たちはテキストを避けては通れないし、
その効果的な表現において形式っていうのが必要になってくるっていうような論打でいいんかな。
スピーカー 2
そうですね。だからその形式が必要になってくるというのが、
本当に必然なのか単にそういう訓練を受けてきちゃったからそうなのか。
でもアカデミックな文章はもう完全にそうだと思うんですよね。
あの訓練の卵だと思うんですけど。
ただそれがそのリニアでなければいけないっていうのは、どこまで論家的なもので。
必ずしもそうじゃない場合もあり得るんですけど、
それでもどんな場合も時間からは自由にならないので、と僕は思うんですけど。
ただこれも単に勉強不足だからこんなことを延々と考えているだけで、
もしかしたらどこかで誰かがズバッと…。
いや、当然どこかで誰かが考えてるんですよね。
だと思うんですよね。
スピーカー 1
うまく説明できる言葉は絶対にあるはずなんですけど。
ハイデガーにとったら存在は時間なので、現実存在っていうのはその時間そのものが私たちなので。
だから現象論的な考え方で言うとそうで。
いわゆる構造主義っていうのはそのヒストリーを持たない、時間を持たないわけで、歴史を持たないわけで。
スピーカー 2
ポスト構造主義において時間が生まれているのかはちょっとわからないですが、なんか生まれてない気がするんですけど。
スピーカー 1
ちょっとこれは難しいですね。
スピーカー 2
意識の中で時間の流れを思想的にどう位置づけるかということか。
もっと現実的に、実用的に、話は順を持って話すしかないっていうことのような気がするんですよね。
スピーカー 1
そうか。
スピーカー 2
もちろん非言語的なことも含めて、いろんなことを瞬間的に伝えるっていうことにはしますけど。
スピーカー 1
だから芸術で言うと絵画が瞬間的な芸術ですね、基本的には。
文章と音楽は時間的な芸術なので、パターンは2つありますが、
スピーカー 2
知識の伝達で言うとそれは文章的なものにならざるを得ないというのはありますね。
そっか。そんな単純ではないですね。
スピーカー 1
だからセンスの哲学で、絵画というところにはリズムって結局時間的なものじゃないですか。
スピーカー 2
そこにリズムっていう考え方が持ち込まれているのは問題だよね。
スピーカー 1
大統一派理論ですよね。いろんな芸術の言い方をリズムという言葉で統合してしまっている。
おそらく部分によっては乱暴な扱いもあるんでしょうけど、素人にはわかりませんが。
さっき言った絵画は全体で印象を与えるけど、人間が絵を見るという動作をするときは意識を伴うので、どうしても点と点を辿っていくっていうことは絶対発生する。
スピーカー 2
感傷としては確実にリズムになりますし、逆に絵を描くときも色の点を打っていかなくてはいけない以上の流れになるので、全く正しい見方ですよね。
スピーカー 1
そうですね。
難しいもんだね。ハイパーテキストは何かはちょっと今から勉強しますけど、それは結局テキストは何かということと再発見する道になるんでしょうね、きっと。
スピーカー 2
そうですね。書くこと、読むこと、情報の伝達。
スピーカー 1
そんなことを何も教わらんまま僕らは日常会話を行っているのが逆にすごいかもしれないですが。
こんなとこかな。
全然取り留めないですけど、ハイパーテキストについて何かコメントがある方はハッシュタグに出会わせていただければクラスターからチェックしたいと思います。
たくさん何か連絡したいこととかございますでしょうか。
何かあった気がするんですけど、また何か思い出したら。
じゃあ今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
スピーカー 2
お疲れ様でした。
01:44:56

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