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みなさん、おはようございます。 雷鳴龍馬です。
今日は、あるお坊さんがお書きになった本から、非常にハッとさせられた、そういう部分がございましたので、みなさんと分かち合いたいと思います。
子供の時こそ鍛えよ。というくだりです。
子供たちが遊んでいるところへ、頭上から雀の子が降ってきた。
たぶん、松の枝に巣を作っていたのが、何かの弾みで落ちたのだろう、ということでした。
そのうちの子供たちの一人が、最初驚いた様子で、まだ飛び立つこともできぬ雀を見守っていたのですが、
こわこわ手を出して拾い上げた、ということです。
その様子を見ていたお坊さん、小さな命をいたわるように教育をしていたので、どうするのだろうと見ていたところ、
拾い上げた子は、小さな手で小さな生き物をひねりつぶそうとしたのである。
そのお坊さんは、とっさに飛んでいき、その子の首根っこをつかまえて、
急所は外していたのだけれども、かなりきつくつまみあげた。
子供は悲鳴をあげて、手の中の雀を放した。
お坊さんは許さなかった。
子供は身をもがいて苦しんだ。
どうだ痛いか。
痛い。
私はやっと手をゆるめたと書いてあります。
そして、雀はもっと痛かったかもしれん。
お前が痛いように雀も痛いのだ、わかったか。
わかった、わかった。
そんなやりとりがあったそうです。
その子供、その本人は、
40年以上たって、50年の人生であれほど怖かったことはありませんとおっしゃったそうです。
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それはそうだろう、怖い目に合わそうとして、そうしたのだから。
怖かったという印象を与えぬような大罰なんぞ、へのようなものだからであると書いてあります。
何でも人間というものは、頭脳の発達する時期は、
4、5歳が一番だということです。
幼稚園や保育園の時代であります。
仏教では、その4、5歳の頃、
学ぶ内容識ということです。
知識の識ですね。
具体的に言えば、心が対象を認識する作用のことだそうです。
さて皆さん、この話を聞いていかがでしょうか。
痛みに至らすこと、これは大罰でしょうか。
私は大罰ではないと思います。
痛みを体で感じる、
そういう経験は、
幼い頃、特に必要なんではないでしょうか。
本来、知識の識というのは、
そうでなければならない、というふうに書いてあります。
報復はダメだとも書いてあります。
報復、カッとなって逆上して、
手が出るのは良くないと。
報復はあってはならないが、
識を与えるのは良いのだということです。
このそういう体験をしていないと、
大人になって、いろんなことが降りかかってきますよね。
極そのまま大人になってしまうと、
人によって与えられる教えというのは、
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幼稚園の頃とはまた違い、
非常に難しくなっていくのではないでしょうか。
そこには自らの気づきがないと、
人は自分を自ら変えよう、変容させようとは思わないのではないでしょうか。
特に幼稚園生、保育園の頃に、
こういった素晴らしい大人が周りにいてくだされば、
とても大切なことを学ぶ機会はあるのかもしれません。
そういう機会に恵まれた子は幸せですよね。
ただそうではないと、
気づくという主体的な思いや感動、
そして体験、体感がないと、
気づくことも難しいのかもしれませんね。
お坊さんの書きになった本から、
子供の時こそ鍛えよというくだりを皆さんと分かっちゃいました。
身体根、県荘苗梨、打根子一帯、雷鳴生光、
地層木柱、加速水田、
生きとし生けるものに平安を。
愛はの世を作る。
今日も一日健やかにお過ごしください。
ありがとうございました。