おはようございます。Studio Kitschの水木裕蘭です。
ということで、Studio Kitsch本編のルネサンス女性美編第9回ですね。
前回までは、まずヨーロッパ史の話をして、その後、何回かに分けて美術史の話をしました。
そもそも、ルネサンスというものは何だったのか。
あとは、ルネサンス以前に行われていた美術というのは一体何だったのか。
そこら辺がどのようにルネサンスに関わってくるのかという話をしました。
前座的な、第8回分もかけて前座をやったのはすごく申し訳ないですけど、その分今回からがジェンダー論の話が関わってくるところになるので、
すごく楽しく見れるのではないかなというふうに思います。
ということで、ちょっとさっき言っちゃったんですけど、今回からジェンダー論の話がようやく入ってきます。
全然ジェンダー論の話をしていなかったので、申し訳ないというような気持ちがあるにもあるんですけど、
正直あんまり思っていなくて、歴史づけにリスナーをするという意味では、僕はすごく気持ちが良かったんですけど、ここまでどれだけの人がついてこれたかというのが気になるところではありますね。
ということで、ちょっと話に入っていきましょうか。
今回からは、そもそもルネサンス、何だったのかという話を前回までしてきて、ルネサンスに入ってくるとラタイガがめちゃめちゃ登場してくるんですよ。
皆さんがルネサンスという言葉を聞いて、目に浮かぶ、頭に浮かんでくる絵画たち、そのほとんどがラタイガだと思うんですね。
特に有名なところで言うと、ボッティッチャリの春とかね。服は着るには着てるけど、半分ラタイなので、ああいうのも一応ラタイガに含まれるんですね。
ボッティッチャリの春を出しちゃったから言うんですけど、サイゼリアに描かれている、あれだってルネサンスの時代にイタリアで描かれた絵なんですけど、あそこら辺はだいたいもうラタイガですよね。
天使の絵とかサイゼリアに飾ってありますけど、それ以外ほとんどラタイガだと思うんですよ。
西洋美術に関する疑問で、よく言われることが、なんであんなラタイガを描くんだよって。僕も思います。
僕も思うんですけど、今回ルネサンスのことを話すにあたって、ルネサンスに関して言えば、なぜラタイガを描くのかっていうのは、明確な理由があるし明確な系譜、歴史があります。
そしてそれが、なぜルネサンスの時期に出てきて。逆に言うと、ルネサンスの時期に古代復興なんていう言葉が使われるけど、正直あんま古代復興ではない。
細かく言うとこういうことが言えるんじゃないかなと思います。別にルネサンスが古代復興だということに僕は異論はないんですけど、もし細かくルネサンスについて勉強したいのであれば、ルネサンスは古代復興でもなんでもないよということは覚えておいていいんじゃないかなと思いますよ。
ここまで言うとクソリポおじさんになるんで言わないですけども、すごく細かいところまで言うと全然古代復興でもなんでもないのがルネサンスですね。ということでここら辺を話していくのが今回になるんじゃないかなと思います。
じゃあルネサンスにおける絵画、現代的な言葉を使うと表彰ですかね。このルネサンスにおける表彰の対象っていうのはつまり何が描かれているかっていうのは、それは具体的な肉体性を帯びた人間だったんです。つまり身体を持った人間だったんですよ。
じゃあそれまでは違ったのか。それまで人間に身体を持たれていなかったのかというと、キリスト教の教義の下では肉体的な人間の表彰っていうのは否定的に扱われてきたんです。
特に中世ですね。前回中世の話をしたんですけど、いわゆる異根画のようなもの、すごく抽象的な宗教的な絵を描いていた、そういう時代において肉体的な人間を描く、その人間の身体性を描くというのはマイナスイメージを持った、批判されてきた、そういうようなイメージの表彰だったんですね。
そういう肉体的な人間の表彰が再びこの資格表彰のモチーフとして美術作品の中に登場してくるのがこのルネサンスなんですよ。
具体的に言うと古代以来、肉体的な表彰が登場するのは、古代に出てきて中世の中ではそれは失われて、ルネサンスの時期にまた美術の場に、その公の場に帰り咲いてくる、こういうような流れをたどっているんですよ。
つまりルネサンス美術の最大の特徴というのは、人間の身体性、そしてエロス性の再発見なんです。人って肉体持ってるよねと。今考えると当たり前ですけど、当時の価値観からするとこれがすごく意外だったんです。人間って体持ってるわと。
じゃあ体描こうやと。そこにもエロス性がちゃんとあるわと。これ描こうじゃないかっていう風になったのがルネサンスなんですよ。この厚みを持った人間ですよね。肉体的な厚みをはらんで描かれる人間。
その肉体に表情であったり身振りであったり動きであったり、そういうようなアクティブな動きというものを通して表される精神的なドラマ。ここも描かれるのがルネサンスです。
前回の話でイコン画の話をしたと思うんですけど、中世の美術において描かれたのは宗教美術、イコン画と呼ばれるものでしたね。イコンです、アイコンですね。つまり信仰のために必要な道具でしかなかったんです、絵というものは。
なので、その道具でしかない絵に動きとか身振りとか表情とかそういうものはほとんど描かれないんですよ。そもそも必要がないんです。
細かいことを言うと、ある程度は宗教神話の物語、キリストの次男伝とか、時代告示の場面とか、そういう聖書のお話を伝えるためにある程度の動きは表現されることはあります、イコン画の中に。
けれども、それも最低限なんですよ。そこまで熱のこもった、人の感情の乗った絵というのは描かれなかったんですね。
ただしですよ、それがルネサンスの時代に移り変わっていけば、人間の肉体的な表情というのが登場するので、それと同時にその肉体に表情であったり身振りであったり、そういう動きが搭載されていく。
そういう動きが加わるとどうなるかというと、ドラマが描けるわけですね。なので、より人間的な絵を描いていく。絵画の中に描かれた人間というのはより人間的なんです。
何言ってるかわからないと思うんですけど、中世までは人間じゃないんですよ、描いているのが。神や聖人を描いているので、その絵画というものの中に描かれる人はほとんどが人間ではない。だからこそそこには人間性がないんですね。
しかし、ルネサンスのところに入ってくると、人間が人間として描かれる。こういうような絵になっていくわけですね。何のことかわからない方もいるかもしれませんが、こういうような描かれ方というのがルネサンスの最大の特徴なんだよということを覚えてもらえれば嬉しいなと思いますね。
ルネサンスの美術芸術というものは、ちょっと面白い特徴を持っているとか、内部構造になっているんですね。絶対に矛盾するんですよ、ルネサンス芸術っていうのは。
具体的に何が矛盾するかというと、まずさっき言ったように、キリスト教の価値観においては、これまでの伝統的な美術においては、キリスト教というのは精神性が優位なんですよ。精神、心というものをより重要視するような考え方で。
かつ、禁欲主義的な、そういうような価値観を持っているのが、これまでの伝統的な文化であった。しかし、このルネサンスの時に登場した文化っていうのは、快楽主義的な肉体の描き方なんですね。
ある程度異教的な面も含むんですけど、つまりこれまでの伝統では禁欲主義的なキリスト教観、肉体観なんです。が、このルネサンスに入ってからは快楽主義的な肉体観に変わっていく。
それは快楽主義的っていうのは、より人間的ですね。より人間的に身体を持った人間、肉体を持った人間、かつそこにエロス性が付与された人間。つまり、ルネサンス芸術の時に何が起こったかっていうと、快楽主義的な肉体観と禁欲主義的な肉体観のアンビバレントが起こるわけです。
絶対に矛盾するんです。こんなの。すごく面白い文化ですよ。これはね、異教的な肉体というふうにさっきちょっと言ったんですけど、いわゆる快楽主義的な肉体観ですね。
ルネサンスというのは視覚表象、絵画ですね。視覚表象における肉体的というものの復活でした。この肉体的っていうのは何かというと、つまり古代的ですね。古代ローマやギリシアにおいて描かれてきた、作られてきた芸術。これはすごく肉体的な芸術でした。
有名なもので言うとギリシア彫刻、皆さん知っているものが多いと思うんですけど、特にギリシア彫刻の後期のもの、ダビー像であったりラオコーンであったり、あそこら辺というのは人間の肉体というのがしっかりと描かれていく。
彫刻で言うと彫られていくかな。そういうようなきちんと人間の肉体性を扱った芸術っていうのが古代芸術なんですよ。それが復活していくのが今回のルネサンスなんですね。
なので同時に、金欲主義的な価値観が主流であったキリスト教の文化圏の中に快楽主義的な肉体感が復活してくるわけですね。やばくないですかこれ。
この肉体的な表彰というのはこのルネサンス以降だいたい400年ぐらいかな、400、500年は続いていくモチーフになってくるので、この西洋美術史というものの中でね。なので非常に重要なターニングポイントになったのがこのルネサンスの時期ですね。
じゃあルネサンスより前の中世においてはその肉体性の表彰というのはなかったのかと言われると、中世にも実は肉体的な表彰はありました。どういうことかというとですね。
だいたい中世後期かな、中世の終わりぐらいの資格表現とか文学表現の中にはですね、徐々にこういう肉体的な表彰というものが登場してきていました。
つまりこれは中世の終わり頃の時代では人間の身体であったり愛やエロ性、ここへの関心の高まりがあったんですね。キリスト教は裸体というものを非難していましたよ。それはすごく俗物なのね。
キリスト教側からすると裸体に対する批判、非難はありました。けど一般人、平民からすると別にそれは嫌いのものではなかったんです。裸体に対する嫌悪感、非難なんてものは一般人はしていなかった。
キリスト教的な禁欲主義的な価値観が浸透していた中世ではあったんですけど、裏文化として現代的に言うとサブカルとして、身体制であったりセクシャリティの表彰、古代的な表彰ですね。こういうような表彰は途切れず存在していたんですよ。
もちろん公的な場所からは排除されました。教会とかみんなが来るような公の場所には置かれません。けどあまり人目のつかない場所ではきちんと存在していたのがこの肉体的な表彰だったんですね。
今で言うと駅や学校こういうような公の場には置かれるポスターではない。しかしちょっとしたコミュニティが使うようなところ。
だから例えばその地域性とかにもよるかな。秋葉原の駅にはよく見るんだけど新宿の駅にないみたいなものかな。あとは全部秋葉原になっちゃうんだけど。自分の中の例が薄すぎて。秋葉原とあるビルの中ではよく見る広告なんだけど、その広告は絶対に学校にはないし新宿駅にもない。
そういうような広告って現代にもあるじゃないですか。僕は広告ポスターでよく例示を出したんだけど、こういうようなものと非常に似ているかなというふうには思えるんですけど。
いわゆる公的な場所からは排除されるんだけど、そうではない人目のつかない場所において描かれてきた肉体的な快楽主義的な表彰っていうのは実は中世の時代にもあったんだよというお話ですね。
こういうような潮流の氾濫がルネサンスだったんですよ。つまり中世の時代から肉体的なもの快楽主義的なものに対する関心が高まりつつありました。
それはキリスト教的な価値観の社会においてはそういう快楽主義的なもの肉体的なものは批判非難されていた文化ではあったんだけど、しかしながら社会においてはそれに対する関心があった。
だからそれに対する期待であったり興味であったりそういうものの高まりが徐々に徐々に徐々に増加していって、それが氾濫してしまったのがルネサンスだったなと。こういうような解釈もできるのがルネサンスというような芸術文化運動なんですね。
さっきちょっとしたアンビバレンスという話をしたんですけど、具体的にどういうことかというと、人間の肉体美であったりセクシュアリティーを肯定する快楽主義的な肉体観、いわゆる古代的な肉体観ですね。これが一つ。
もう二つ目は、人間の肉体というのを罪の厳選として否定し、精神性の優位を主張するキリスト教的な禁欲主義的肉体観。これが二つ目ですね。
で、この二つが混在するのがルネサンスの芸術家なんです。すごいアンビバレンスでしょ、これが。何というか互いに矛盾し合っている価値観なんですよ。けど、この二つが同時に来ちゃうんですね。
これが矛盾し合っているんだけども、この二つが交錯し合う、そういうような時代がルネサンスです。なので、二律背反的なこの二つが存在しているがゆえにルネサンス芸術というのは、古代にも中世にも見られなかった要素を提出することになるわけです。
ではこれからはですね、そんなルネサンスのちょっとしたコラム的な話を何点か紹介できればなと思います。
はい、ということで3つ目ですね。皆さんがルネサンス芸術と言われて思い出すような、さっきも言ったような裸体画の数々、頭に浮かぶと思うんですけど、ああいういわばエロティックなアートというのは、実は詩的空間にしか描かれていない。
こういうようなことが言えるんですね。実は、公的空間と詩的空間で置かれる作品というのは異なるんですよ。
特に詩的空間、つまり宮廷であったり別荘であったり、あるいは具体的に言うと寝室であったり浴室であったり、こういうような場所で置かれる作品というのはもうなんというかエロティックでしかない。
もうちょっと丁寧に言おうか。もうちょっと丁寧に言うと、セクシュアリティというのを開放し散らかした表彰というのが多いんですよ。
つまり露出度の高い絵とかですね。こういうようなものは宮廷であったり別荘のような詩的な空間にしか置かれないんです。
なぜ詩的空間だけか。これをわかるためにちょっとだけこの説明をしますね。
この場合、詩的空間に置かれる絵、さっき言ったようなセクシュアリティが開放されたような絵というのは、描かれているものが大体女性なんですね。
女性の表彰、つまり女性が描かれている絵で、特にこの絵の所有者の自己目的的なものが多いんです。
また、世俗の主題とかあるいは異教神話であったり、こういうようなキリスト教ではないテーマを描くような絵画がほとんどです。
描かれた場所で言うと、さっき言ったような宮廷や別荘、具体的な場所で言うと寝室、浴室、書斎、客間とかですね。
こういうようなところにしか置かれない。つまりこれ何が起きているかというと、観音的な視覚装置でしかないんですよ。
つまりその主的空間に来る人たち、あるいはその絵の所有者に対して観音的刺激を与えるための道具でしかない、装置でしかない、そういうような絵なんですね。
だから真面目なキリスト教の話題は扱わないし、女性が描かれたような絵しか存在しないんです。
これは本に書いてあった話なんですけど、寝室美術、つまりベッドルームアートっていうのもありますよ。
つまり寝室においてその寝室にいるものに対して性的な歓喜力になるもの、そういうような絵が一応存在もしていた。
現代的に言うとラブホのVODみたいなもんですよね。
俗っぽい言い方だけど、そういうことだと思いますよ。
ということで、なぜ主的空間にしか置かれないとかっていうのはもう皆さんわかったと思います。
つまりこの絵を発注した男性ですよね、ほとんどが。
その男性の興味関心とか要求に応えるためだけの作品に過ぎないんです。
だから男性中心的かつ自己目的的かつ女性が描かれる、こういうような絵でしかないんですね。
これは有名な話だと思うんですけど、ラファエルが描いた最もエロティックな絵というのは、確かどこだったかな、別荘宮殿?
どっかの宮殿の浴室、お風呂場に描かれたものだったらしいですね。
こういうようなものが主的空間と公的空間での絵の住み分けというのがあったんだよという話です。
ちなみに公的空間にはこういうようなエロティックな絵、ロス度の高い絵、セクシュアリティを解放した絵というのはほとんど置かれなかったですね。
ちょっと抑制されたような絵ぐらいしか描かれることはなかったかなといった感じです。
というような話が今回のお話でした。
ちょっとしたジェンダー論の話を交えつつ、これまで学んできたルネサンスについての歴史を少し補強するような形でお話ができたかなというふうに思います。
次回は宗教図法におけるジェンダーセクシュアリティというような話をしたいと思います。
いわゆる聖母子像ですね。マリア様とイエス様、この2人を描いた絵というのを中心に、そこにどんなジェンダー性がどんなセクシュアリティ性が反映されているのか、こういう話をしていきたいと思います。
ということで、今回はこのくらいで終わろうかなというふうに思います。
次回は難しいかなとは思いますけど、聞いてくれたら嬉しいです。
ということで、次回の配信をお楽しみに。