おはようございます、STUDIO Kitschの三木裕蘭です。
前回からの続きでございます。
前回はですね、男の女の歴史を途中まで見ていったのかな。
脳の比較研究が始まったよ、ぐらいでのところでしたね。
で、前回からの続きでございます。
前回はですね、男の女の歴史を途中まで見ていったのかな。
脳の比較研究が始まったよ、ぐらいでのところでしたね。
で、なんか赤髄の変な奴の話しましたね。
赤髄の変な話とか、まあまあまあ。
要するに、脳の比較研究が始まったとしても、
男の女の、男脳の方が優れてるよね、みたいな言い方をし始める。
てか、し出す。そんな奴らがいたという歴史でございました。
ということで、今回はですね、時代がですね、20世紀になります。
20世紀、20世紀のもう終わりぐらいですね。
当時の科学の権威であった学術雑誌、サイエンスですね。
今もありますね。
このサイエンスに掲載された論文に意義を唱えた一人の科学者。
これを見ていきたいと思います。
だから当時のですね、間違ってるじゃないかっていう風に言った科学者がいたということですね。
で、その科学者の名前はルース・ブライアーという人です。
ルース・ブライアーの言ったことにはですね、当時の1987年、
ブライアーは全米科学振興協会で、学術雑誌サイエンスに掲載された
デ・ラコステ・ウタムシンらの研究に大きな欠陥を見つけたといって報告を行いました。
デ・ラコステ・ウタムシンっていう人の研究だそうですね。
なんかファッションデザイナーみたいな名前しますよね。
多分晩餐館とかの雑誌に載ってそう。勝手な偏見です。
この研究の内容、ウタムシンらの研究の内容っていうのは、
人間の両方の半球を繋ぐ部分、能量って言ったりするんですけど、
この能量が男性より女性の方が大きい。
で、この能量が女性の方が大きいから空間能力が劣っているんだっていうことを示唆する。
そんな内容の研究でした。
で、ブライアーはどのように言ったかというと、
どのように意義を申し立てたかというと、
この研究はですね、男性9人、女性5人の能しか見ていない。
さらにブライアー自身が自分でですね、この能量っていうのの精査を調べてみたんですけど、
実際にはブライアー自身が調べたら、精査を見つけることができなかったんですよね。
で、この報告の発表の際も、能量の写真を男女で比較するスライドを作って見してみたんですけど、
やっぱりそこのスライドで見ても、男女の能量に差があるかと言われたら、そうは見えなかったんですよね。
つまり、このデ・ラコステ・ウタムシンラの研究というのは、
いわゆる再現性のない研究だったというやつです。
ほら、例えばあるじゃないですか。
雪にいい言葉を吹きかけると、雪が綺麗な結晶になって、
雪に悪口を言い続けると、雪が汚い結晶になり上がりますよ、みたいな、
ああいう衛星科学ですね。
そういう研究だったということです。
この異議をサイエンスに投稿しようとしたんですけど、
サイエンスからは政治的すぎるという理由で却下されたんですよ。
このブライアーの提言、異議というのは、最近になっては支持されるようになってきていますが、
当時は全く支持されていなくて、
というのも、現代では男女の差があまりないような認識を持っている人が多いし、
そういうバイアスを抱いている人がほとんどじゃないかなと思うんですけど、
だからこういうブライアーの異議も受け入れられるんだけれども、
当時の社会では、ブライアーの言っていることと俗世の世論、俗論みたいなものが
あまりにも違いすぎる。やっぱり男性と女性は違うよみたいな認識が一般理解だったので、当時は。
だから許容されることはなかったんだろうということですね。
つまりですね、ブライアーの提言が世間の認識と同じタイプになったから今は支持されているだけなんだ。
というふうにも言うことができるし、
当時はブライアーの提言と世間の認識が同じタイプではなかった。
っていうこの構造によって彼女の異議は認められなかっただけです。
だから私たちが今このブライアーの言っていることが比較的正しいよねって思ったり、
そう発言したりするのも結局は時代がそういう時代に生きているだけだからというふうにも思えるわけです。
悲しいけどね。
私たちが何か千里眼のようなものを使って社会を見て、
そこにあるこのラコステ・ウタム神羅の研究とか、ブライアーの提言を見て、
こいつの方が正しい、こいつは間違ってるねみたいな言ってるのも、
それは私たちがこの現代に生きているだけだからなのかもしれない。
本当の真実は見えていないのかもしれないというふうにも捉えることができるということです。
ここでは何が起こっていたのかというと、
19世紀だろうが20世紀だろうが、現代だろうが、いわゆる権力を持った人を支持する、
そういった研究っていうのは正当なものとして受け入れられやすく、
これらの信念に対して疑問をもたらす可能性がある研究っていうのは、
政治的な目的に動機づけられているとかいう理由で知り遂げられてしまうということですね。
とはいえ現状を肯定するような研究にも政治的な理由があるんじゃないかと言われたら、
そうも捉えることができるわけで、ここはあまり認識されないところですよね。
政治や科学の現場を管理している人にとっては、
そういった歌無心とかの研究によって、
自分たちがすでに信じているものが真実だと確証されたに感じるにすぎないんです。
だから何も疑問に思うこともなく、それ以外のものを、
例えばそれこそブライアンの提言とかを跳ねのけたくなるのも当たり前普通の感覚だということですね。
ここで僕が言いたいのは、だから科学者ってダメだよねとか、
権力者ってダメだよねっていうことを言っているわけでもなくて、
どうしてもこういう構造ができてしまうということですね。
こういうその当時権力がある人を支持するような考え方っていうのが、
政治的なものだと見られないということ。
こういう構造に陥る、そういう構造ができてしまうっていう話です。
もちろんね、私もこういう構造に陥ることだって必ずあるだろうし、
現状すでに陥ってるかもしれない。
で、こういう時に科学者とか権力者が愚かな奴らだよねみたいに批判したり悪口言ったりしたり、
なんかわかんないツイッターでコメント書いたりしたり、
インスタのリールとかにコメント書いたりするのは正直って意味がなくって。
で、最も大切なのはこういう構造が生まれてしまうんだっていうことを認知することです。
まず私たちの社会と過去の社会とか、それこそ自分たちのいる場所と、
その当人がいる場所では社会が違うんです。
社会が違えば、私たちの一般認識も異なります。
私たちの持っている一般認識っていうのは、何か真実を捉えているようで、
それが何か確証というか、ちゃんとした理論とか理屈をもとに、
私たちの一般認識が出来上がっているわけではなくって、
その社会、その時代に生まれて、生まれ育って、勝手に染み付いているものなので、
そこに絶対的なものみたいなものは存在しないんですよ。
だから批判は意味ないということですね。
そして結局ね、我々はその時代と文化の産物に過ぎないんですよ。
私が今こうやって歌無心の研究が間違っていて、
ブライアーはいい意義を唱えたみたいな感じで言いましたけど、
そういうふうに言っているのは、私が真実を言っているわけではなくって、
私がこういういわゆるジェンダーレス、ジェンダーフリー、
そしてこういう研究が比較的盛んになった時代に生きて、