1. もっとPRの話をしよう。聴く「PR TALK」by talentbook
  2. 聴く「PR TALK」はじめました。
2022-02-21 28:42

聴く「PR TALK」はじめました。

初回放送は、PR Tableの大堀航とクボケイタの二人が、それぞれのPRのキャリア遍歴や出会い、思い出に残っているPRの仕事について語り合います。お耳のお供に、ぜひランニングしながら、家事をしながら、横になりながら気楽にお聴きください。

トピックハイライト

  • それぞれのキャリアとPRとの出会い
  • なぜPR Tableを創業したのか?
  • ふたりの馴れ初め
  • 思い出に残っているPRの仕事
  • なぜPR TALKをはじめたのか
00:02
もっとPRの話をしよう。聴くPR TALK。
はい、みなさんこんにちは。聴くPR TALK、パーソナリティーのくもっけーたと申します。
そして、PR Tableブルーチメディアックの大堀光です。
この番組は、PR Tableで働く我々2人がテーブルを囲み、
PRを実践する様々なゲストを呼びして、もっとPRの話をしようという趣旨の番組でございます。
コウホーPR支援サービス、タレントブックの上でお送りいたします。
はい。
ということで、コウさん、始まりましたね。
始まりましたね。
ついに。
第1回ということで、同い年2人でお送りしたいんですけれども、
ラジオとか普段聴けますか、コウさん。
ラジオは、仕事中家で聴き流したりしてますよ。
そうなんですか、そう。
PR Table、今フルリモートでやってるんで、仕事しながらラジオ聴いたりとか、やっぱり増えましたよね。
増えましたね。音があると逆に集中できるというか。
そうですよね。結構会社でラジオやってたりとか、割と最近増えてきてるじゃないですか。
増えてますね。
なので、僕らもゆるりと始めていきながら、普段はゲストをいろんな人を呼んでやっていこうかなと思ってるんですけれども、
今日は初回ということで、2人でまったりとPRの話をしようかなという回になっておりますので、
みんなお伴いに、ぜひランニングしながら、家事をしながら、横になりながら気楽に聴いていただければいいなと思っております。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
自己紹介がまだだったので、ちょっと簡単に自己紹介していきましょうか。
そうですね。
申し遅れましたが、私改めてPRテーブルのPRエヴァンジェリストの久保圭太と申します。
北海道札幌出身、二次の父でございます。
もともとPR業界よりもウェブ広告の業界の方が長くて、そこで11年くらいですかね。
人事広報を終えて、2018年にPRテーブルにジョインしました。
最近、11歳となった息子もクラスの委員会で広報担当になったそうでして、親子で広報PRを探求しておりますという感じです。
応援うずりのお母さん。
よろしくお願いします。
私は1984年7月生まれの男でございます。
神奈川県図志に生まれまして、
そこから大学に行って、イギリスにも留学したりして、
そこで広報とか、いろんな周りの働いている人を見て広報の仕事を知り、
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2009年に大島PRというPR会社に入りました。
そこからレアジョブというオンライン映画会話の会社で広報チーム立ち上げ、上場というのを経験して、
2014年12月にPRテーブルを創業しました。
なので、ずっとPRの畑を歩んできているキャリアなんですよね。
そうですよね。
さっき同い年の話もしましたけど、84世代ですか?
そうですね。84世代でいうと、ペンチャー業界で言ったらスマートHRの宮田さんとか、
ウォンテッドリーの中さんとか、
タクシーの松本さんとか、
幼たる84の方々がいるので、僕らもそこに追いついていきたいですね。
そうですね。僕も前職のアドベースって会社の同期が今、
京都キャンペーンさんの社長になったんで。
山野社長にもね。
そうですよね。
コウさんの場合はPR、最初のキャリア、ファーストキャリアからPRに変わったんですけど、
僕は結構PRがかかりが遅くて、2015年とかだったんですよね。
営業ですよね。
そう、営業とか人事とかやってたんですけど、
また候補担当が辞めてしまって、サポートで入ったのがきっかけで。
初めての仕事で言うと、
下町ロケットのドラマ撮影のロケでオフィスを提供するってなって、
花江街の情勢とか立ち会いが最初の仕事でしたね。
いい仕事ですね。
だからその後、ちょうどPRテーブルのメンバーも
みんな下町ロケットが好きだって話で盛り上がったのを覚えてますよ。
みんなで観賞会とかしてましたもん。
続編やった時とかにみんなで観賞会しましたよね。
最高ですよね。
そうなんですよね。
なので結構PRの話っていうところで、
それぞれのいろんな経験してきたこととかも、
ぜひ今日エピソードトーク的に話せればなと。
改めてこういう話する機会意外とないですよね。
ないですね。
ふうごうさんとの出会いは面白かったですもんね。
最初の出会いは病院だったんですよね。
僕の同居人が救急搬送で病院に行って、
その時に上司の方が来ると言ってて、
上司の方確か2名くらいいらして、
僕も付き添いでいたので、
ご挨拶した時に、
なんか若い上司の方々なんだなって。
その時の1人が久保さんで。
そうですよね。
ちょうどメンバーが入院するって言って、
駆けつけて病院に行ったら、
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どうも同居人ですって言って、
名刺交換、名刺を走らされまして。
その時僕レアジョブですもんね。
すごくロン毛で細くてですね。
下北の売れないスリーピースラックのような感じだったんですけど。
金ないからね。
遅かったんです今より。
今も金ないですけど。
当時、PRテープ立ち上げる前だったと思うんですけど。
最初はそこがきっかけだったんですけど。
あの時のね。
もちろん最初はそれ気だったんですよ。
名刺交換したくらいだったんです。
そこから1年後くらいですかね。
それこそさっきの広報の仕事のサポートをし始めることになって、
色々とリサーチしてたんですよ。
たまたま見つけたサービスがあったんですよね。
さっき入院してた彼と飲みに行った時に、
このサービスがあるみたいだねって話をしてたんですよ。
それ僕の同居人がやってるサービスですよって言われて。
それがPRテーブルだったんです。
今すぐ連絡してって言って、その場で電話かけてもらって、
クリスマスイブに再開したんですよね。
反流ドラマみたいなんですけど、それが慣れそめですね。
一緒に飲んだんですよね。
同居人と一緒にね。
当時はそれこそPRテーブルと福田製作所下町ロケットを
重ね合わせて見てたなっていう記憶が僕の中にありますね。
物作りの会社だって言ってましたよね。
リアジョブさんにずっといらっしゃって、PRやってた中でも
改めてPRテーブルをね、それこそPR会社でもなく
プロダクトを作ってPRテーブルを立ち上げて勝負するぞって
決めたのって改めて何でだったんですか?
そうですね。
久保さんに初めて会った時って全く起業するとかって考えは
あんま持ってなかったんで、
ブログをやったりとかして、
2社目にいたリアジョブで上場した経験っていうのが
その会社もサービス、プロダクトを通じて
ユーザーさんの英語を話せるようにしていくっていう
多くの人を幸せにできるみたいな
コンサルティングだと限界あるじゃないですか。
そこがこう、
リアジョブの中でも
コンサルティングだと限界あるじゃないですか。
そこがこう、
こういう風にやったらいいのにっていうのを
製品に詰め込めるロマンみたいな。
そこはね、こうやっぱり
ぐっとのめり込んでいったって感じかもしれないですね。
なんかすごい最初から世界観がありましたね。
プロダクトというか、目指してるもの。
世界観はあったんですけど、
機能的価値が全然伝わらないっていうのが
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最初の課題だったんですよね。
今でこそ、
お客さんに開発の意味で機能的価値、
効果を埋めるっていうのを説明できる。
当時はもう思いだけだったんで。
そうですよね。
思いが先行してる感はありましたけど、
どうやって営業したらいいんでしょうかって
相談を受けた気がする。
それから、今8期目ですけど、
8年も続いてるのは奇跡だと思いますけどね。
すごいですよね。
そんぐらい経つっていう感じですけど。
そうですよね。
その後、僕も最初当時は
入社する会社というか、
働く場所としては全く見てなかったんですよね。
そうですよね。
僕の飲食坊さんのアドベースで、
上に着実に昇進されて、
上手くなっていくのかなって思ってたんで。
そのきっかけみたいなので言うと、
それこそ2018年の頭ぐらいに、
PR3.0っていう機構を掲げて、
これからパブリケーションアップデートしていくぞって話を聞いて、
結構これまで特にPRっていう仕事に対して、
あんまりこれからもそこをやっていくぞみたいな気持ちって
当時なかったんですけど、
初めてPRってかっこいいっていう印象を持ったんですよ。
やってることに。
その領域がPRだっていう。
そこで結構一緒にやりたいって思いが芽生えて、
ボランティアでいいからですがやりたいっていうことで確か掛かり始めて、
気づいたらカンファネンスの2ヶ月前くらいに入社してましたね。
そうですね。
本当でも嬉しかったですね。
いわゆる助長企業で、
新卒で入って、
しっかり積み上げて、
経験された方が入るっていう意味では、
初めてだったのかな。
初めてくらいの人だったんで、
そのインパクトはとても大きいですよね。
今やかぼさんも、1、2を争うフルカバーになっちゃいましたし。
そうですね。
当時のピアティブとは、
僕は結構いい意味で変化していったんじゃないかなって感じますけどね。
本当に当時は男子校っていう印象がありましたけど。
今は女性比率も半分以上かな。
半分くらいで働くママも多いですし、
ママも多いですし、パパも多いですし。
とてもカルチャーが180度変わった感じがしましたよね、
ここ数年で。
本当に最近入ってくる方、
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子持ちの女性の方とか、
その意味で変化していったタイミングで、
改めてこういう話はそんなにしないですけど、
振り返りをしましたというところで。
じゃあ次のテーマで、
せっかく今日お話しできるんで、
思い出に残っているPRの仕事みたいなのを、
お話しすればいいなと思っているんですけど、
コウさんは、
そうですね、ありますね。
色々やってると思うんですけど、
まずコウさんからありますか?
そういう意味では今のやってるサービスに繋がるみたいな、
経験で、
オズマPR時代に、
タキー種苗っていう、
当時は京都創業175年ですね、
当時。
無借金経営で、
本当にいい会社のタキー種苗さんの、
広報支援をしてたんですよ。
何やってたかっていうと、
種の、
桃太郎トマトとかを始めたタキー種苗さんなんですよね。
いろんな種、品種がリリースされるんで、
そのリリース書いて、
業界誌にお届けしたりとか、
あとは、
このプロジェクト、
特に思い残っている理由の一つが、
白鳳堂ケトルのシマさんと一緒にお仕事させていただいて、
そのシマさんのプランニングが、
本当に社会を捉えたプランニングで、
ベランダサイエンとか、
当時すごく流行ったんですよ。
ベランダで植物育てるとか。
今も逆に流行ってると思うんですけど。
そうそう。
農業とか、
ビジネス的な切り口とか、
ライフスタイル的な切り口で、
本当にいろんなメディアを巻き込んで、
タキー種苗さんっているんだよ、
みたいな仕事を結構してて、
フランフランと一緒に、
可愛いキットを発売して、
それをちょっとバズらせるとか。
その中でも、
僕が特に思い残っている仕事が、
タキーさんの中の種を開発している、
すごい人がいるんですよね、
研究チームが。
はい。
その人たちを、
人PRというか、
その人の候補を通じて、
会社の候補をするみたいな案件があって、
京都まで行って、
インタビューさせてもらって、
女性の方なんですけど、
今でいうストーリーですよね。
ストーリーみたいなものを、
パワーポーで作り、
どういう思いで開発しているとか、
どういう苦労があったとか、
それを、
メディアに取り上げてもらうというアプローチをしてて、
朝日新聞、毎日新聞、
全国紙の一覧って枠があるんですよね。
企業内で頑張っている人。
調べまくって、
みんなの方に電話しまくり、
それが朝日新聞と毎日新聞、
両方載ったんですよね。
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ビデオでは違うんですけど、
こういう人の仕事の頑張りっていうのが、
記者の方にも共感をされ、
メディアに取り上げられ、
スクッと広がっていくっていう、
この仕事は、
やっぱり人って、
企業候補におけるアセットだし、
こういう人がどんどん、
世に知られていくっていうのは、
いいなっていう、
体験。
今に繋がる原点みたいな感じですね。
ニュースじゃないんです。
ニュース性も関係なく。
そうですよね。
人なんていうコーナーだったんですけどね。
当時はでも、
商品ブルーとか、
やるっていうのが主流の中で、
そういうことやってる人っていなかったんですか、
周りには。
もちろん人なんていうコーナーは、
メディア各社であったんで、
多分そういうとこにいろんな候補の人が、
ネタ提案をしてたと思うんですけど、
でもなんかこういうのってね、
その人なんていう枠って限られてるじゃないですか。
これを枠が無限にあったらいいなって思ったんですよね。
それが大島さん時代ですか。
大島PR時代ですね。
結構そこから、
割とその時の現体験みたいなものは、
その次のレアジェブさんの時代にまた続いて。
そうですね。
オンエンドメディア始めたりとかも、
結構そこに、
経験は結構強いというか、
社員を出していくみたいなのはあるかな。
PRっていう仕事の、
その捉え方という意味でいくと、
僕も一つ印象に残ってるというか、
思ってた、その当時に、
やってたところで印象に残ってることっていうと、
例えばプレスリリース書いたりとか、
いわゆる、
マーケティング的な活動も含めてやってた時期があったんですけど、
PRの仕事ってどこまでがPRなんだろうって、
やっぱり自分の中では分からなかったんですよ。
当時、社長室みたいな感じで、
社長と一緒に動いてることが多かったんですけど、
当時っていうと、
1000人ぐらいですかね。
もう10カ国で1000人ぐらいの会社になってたんですけど、
僕入社したのが100人ぐらいだったんで、
かなり大きくなったんですよ。
110倍になったんですね、入社して。
10倍になってて、
国も広がっていってて、
社内恋愛とかもすごく多かったんで、
結婚式が毎週のようにあったんですよ。
いい会社ですね。
やっぱり結婚式に呼ばれるじゃないですか、
社長がやっぱり、
社内恋愛だって呼ばれるじゃないですか、
その結婚式のスピーチがあると、
スピーチの話す、
スピーチ文章の添削とか、
練習に毎回付け忘れてたんですよ。
デスクに呼ばれて、
これどう思う?みたいなとか、
この文章どうする?みたいなとか、
最初、これ何の仕事だろうなって思ってて、
18:01
ちょっと分かんなかったんですけど、
やってたんですね。
で、実際にこの結婚式に僕も出席をして、
その話してるのを聞いた時に、
その言葉を聞いて、
社員だったりとか周りの友達とか家族が、
なんかすごく感動してくれてたんですよ。
それ見た時に、
これって結構大事なインターナルコミュニケーションなんだなって、
やはりファミリーケーションの場なんだなって思ったんですよ。
だから久保さんに頼んだんでしょうね。
なんすかね。
これもPRの仕事なのかもしれないなと思って、
腑に落ちたっていうのが1個あって、
それが別に正式な仕事だったわけじゃないかもしれないけど、
こういうのも1つPRなんじゃないかなって思ったっていうのが、
なんかちょっと覚えてる。
でも本当にね、
PRの仕事はスピーチライターっていうか、
そういう仕事もあるし、
確かにそうですよね。
うちの結婚式の時、
久保さんに書いてもらおうかな。
練習しようかな。
これからね、
大きくなっていったら絶対ありますから。
いいことですね。
インターナルコミュニケーションっていうことを、
知った1つのきっかけだったなって思いますね。
なんかあります?
他に?
これはレアジョブからPRテーブル立ち上げるときの話なんですけど、
いきなり辞めたんじゃなくて、
アルバイトになったんですよ。
アルバイトしながら、
PRテーブルブログやったりとか、
あとはちょこちょこ、
記者の方呼んだイベントとかやったりしてて、
その時僕のポリシーとしては、
PRのコンサルティングの受託の仕事が大事だったんですよ。
だから、
その時僕のポリシーとしては、
PRのコンサルティングの受託の仕事は絶対しないって決めてたんですよね。
そうなんですね。
稼げる。
手っ取り早く稼げるけれども。
そこ一回ちょっと物作りの集中ができないと思ったんで、
物作りに取り憑かれてたんで。
今のダイナミックブックの原型となるPRテーブルを、
プロダクトを作りながら、
使うユーザーさんを先に集めないといけないじゃないですか。
言った時にちょうど、
中高の母校の友達が英語のサービスをやってて、
学校向けの英語のサービスをやってて、
PR手伝ってくれないかと言われたんですよ。
コンサルティングはやらないって決めてるしなと。
ただ、新サービス、PRテーブルのサービスを使ってもらうというのと、
そこに掲載するストーリーがあるじゃないですか。
あれを僕がインタビューして作ってあげるからと。
それは営業の素材でも使えるし、
導入事例でも使えるからと。
その時30万円お金もらって、
3本くらいかな、
出していただいて。
今作っている途中で、
もちろんこうやってやるといいよとか、
しながら、
21:00
初仕事というか、
テーブルとして初仕事という思い出がいい仕事ですね。
それが初仕事としての受注みたいなところだったのか。
そうですね。
サービスリリース前でしたけども、
それは嬉しかったし。
初期の頃とか、
今は全部のお客さんだったり立ち会えないんですけど、
当時は一社一社思い入れがありますよね。
そうですね。
最初の話じゃないけど、
機能的価値をうまく事例もない中で説明できないので、
思いを買ってもらうしかないっていう。
そうですね。
ありがとうございます。
いいですね。
濱田さんそうですか、あります?
そうですね。
濱田さんって海外とかも結構行ってたじゃないですか。
海外のPRとかってどうなります?
ないです。
海外はやってないですか?
海外はやってないんですよ。
僕、もう一つ印象にというか、
本当に挫折を1回した経験としても覚えてるのが、
グローバルPRの仕事ですって。
そうですよね。
それこそ当時中国、韓国、台湾とか、
マジア中心に10カ国ぐらい海外展開をしていて、
全体で1000人ぐらいだったんですけど、
2017年、英語もできなければ海外経験もない自分が、
グローバルのヘッドクォーターの責任者に任命されたんですよ。
海外の拠点庁たちとのリモート会議も、
同席とかをするんですよね。
その拠点庁たちとのリモート会議も、
同席とかをするんですけど、
全ても英語が飛び交ってて、
9割以上何言ってるか分かんないっていう予定から始まった。
通訳なし?
通訳は後からみたいな感じで。
当時すでに社会人10年目とかだったんですけど、
新卒どころか幼稚園児になったような気分。
30歳からそれを経験したっていうのが、
結構僕の中でまた大きかったんですけど、
それこそ3ヶ月後に、
今オリンピック盛り上がってますけど、
中国の北京でカンファレンスを出席するっていうのがあったんですよ。
で、ヘッドクォーターから出張するっていう風になって、
当時も経営陣にも英語の先生がついてて、
週に何回かレッスンをしてたんですけど、
その方は僕にもつけてもらって、
本当に単語帳買って単語は文法から発音から学び直したんですよ。
今学び直しってちょっとトレンドになってる。
それこそ英語も学び直しをして、
半年後にグローバルPRサミットっていう、
各国のPR担当が集まるのを開いたんですよ。
大変開いて、最終的にそこで英語スピーチをさせてもらうっていうところまで、
成長させてもらえたっていうのが、
後にも先にもあの日々の濃厚な日々は忘れられないっていうのがいっぱいあってですね。
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すごいですね。
あれは結構一気に成長させてもらったのと、
PRって言っても、
本当に幅広いし、
言語もやっぱり通じないと全然できないし、
全然その時だけでは何もわからなかったですけど、
いい経験をさせてもらったなっていうのは覚えてますね。
またいずれやりたいですね。
グローバルの仕事っていうのは。
その時は英語でスピーチをかましたんですね。
当時はそこにめがけて練習してたっていう感じですよね。
レアジェブ、それこそコウさんの言ったレアジェブも使ってました。
毎週レッスンでベトナムの方でしたっけ?
そうです。フィリピン、フィリピン。
それでやってたんで、
すごくレアジェブがすごい思い出深いなと思って話させてもらいました。
知らなかったです。
英語でスピーチをかけて、
いろいろありましたね。
いつかピュアテーブルもグローバル展開もしていくんであれば。
本当に海外の人とかのストーリーとかも絶対面白いと思うんで。
そうですよね。
海外の人にとっても日本人の働く人って、
やっぱり抽象的に日本人の働き方って海外の人捉えてると思うんですけど、
100人以上の人にとっても、
100通りの生き方、ストーリーがあるんで、
そういうのを海外に伝えられたら面白いなって思いますけどね。
そうですよね。
日本的な働き方とか、
日本人の予算みたいなものが伝わるといいなと思う。
いいですね。
ありがとうございます。
改めていろいろありますね、話すと。
ありがとうございます。
いい機会でした。
これ実はテーブルを囲んでって言ってますけど、
バーチャルですからね。
直接、本当はまたいつかテーブル挟んでお酒を飲みながら、
またこういう語る機会作れればと思っておりますが、
そんなとこで初回はですね、そろそろ締めたいなと思っております。
じゃあ最後に、
そうですね、
改めてなぜピアノトークを始めたのかみたいなところですかね。
ちょっと簡単にご説明というかすると、
もともとピアノテーブルって言われている名前の由来が、
テーブルを囲んで膝を付き合わせて、
もっとピアノの話をしようっていうのが、
意味としてはあるんですよね、会社の。
そうですね、ブロガーシアンの、
ブロガーシアンの、
ブログを始めたときに名前どうしようかと、
そこにPRにテーブルを付けて、
テーブルでみんなで語れる、
こんな場所みたいなのを意図してましたね。
そうですよね。
もう一回そこの原点に立ち戻ったっていうところも
一個あるのかなと思っているのと、
ただ今僕らにはプロダクトがあるじゃないですか、
27:02
なので、そこでいろんなPRの実践者たちの声がすごく
溜まっているので、それをより世の中に届けていくべき
なんじゃないかというところで、
PRトークという場を通じて、
より多くの企業やPRパーソナルにそれが届いて、
アクションのきっかけになればいいなという思いで、
PRトークというのを立ち上げました。
PRトークなんでテキストだけじゃなくて、
音声でもお届けしていこうよというところで、
この聞くPRトークという番組も始めさせていただきましたので、
ぜひ状況とかモードによって、
目と耳両方でお楽しみいただければいいんじゃないかなと
思っております。
そうですね。
やっぱりね、これからゲストの方々も呼んで話をするので、
本当に居酒屋でPRの話をすると、
聞きに来るとかぐらいの感覚で、
すり引きしているぐらいの感覚で、
内容にしたいなと思います。
そうですね。
だから、いろんな方たちに僕らからまたお声掛けしていきたいですけど、
出演したいとか、こういう人呼んでほしいとかがあれば、
ぜひメッセージいただければと思いますので、
これからではよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では、河野さん今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
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