00:30
現在、圧は取っております。
では、今日はまず考察してみたことを話していきたいんですが、
自分の考えはですね、一貫してないってことが嫌で、
貫くことに価値を感じてるんですね。
ポッドキャストも、当初の初めての動機を貫くことで、事故の証明になると思ってるんですよ。
で、極めたいとかいう思いってないんですけど、
なんか掘り下げていくことができるような感覚ってのもあって、
あと重みも生まれるだろうし、自分の中での重みが何より大事なんですね。
聞いてる側も重みを感じてくれるかもしれないですね。
それはあると思います。
ただ、状況とか自分自身の感覚が変化したら、ある程度柔軟に変化していかなきゃいけないかもしれないです。
でも、過去の動機、当初の目的みたいなのを貫かなきゃいけないという義務感が出てくるのもおかしな話で、
そういう義務感ではいけない。
今思ったんですけど、目的、意識、そもそも初めてのかってことだけど、
ただ人間の行動って、いや動物もそうですけど、目的は全くないことはないんですよね。
少なくとも変化する場合。
例えばAという道とBという道どっちか選ぶという場合は、別に目的意識なんかなくても選ばざるを得ないけど、
何か大きな変化を起こすっていうのは何かしら考えがあると思ってるんですよ。
でも最近気づいたんですけど、自分ってかなり衝動的っていうわけでもないんだけど、
かといって物事にそこまで理由を感じたり目的意識を持ってるっていうよりも、
体が動くから勝手にその行動をしてるっていうことが多いような気もしたんですよね。
03:04
ポッドキャストに関してはちょっと話が別で。
今までいろいろ考えてきました。
何をもって変化しないと言えるのか、貫いていると言えるのか。
ちょっと新たに思ったのが、手段を変えるという方法がありますよね。
やってること自体は変えても、なぜやってるかという根本的な、
そういう衝動さえ変わってなければ、ある意味貫いていると言えるし、
何かを変えることによって何かを変えずに済むかもしれないし、
やってることは柔軟に変化させて、やっぱり考え方とかも変わってきますしね。
状況も変わってくるし。
でもそれだけだったら何か貫いているものがない感じがする。
その逆の方法もありますよね。
なぜやってるかなんてことは忘れちゃって、
でもやってること自体変えなければそれで、
行動自体変えなければ問題はないだろうという考え。
でも難しいですね。
結構やっぱり当初の目的って、ある程度指針になってて、
もし手段を全く変えないのであればいいんだけど、
ある程度柔軟に対応していくにあたり、
全く軸となるものがぶれてしまってはいけないというのと、
そもそも何か一つの貫くものが本当に必要なのかと思ったんですけど、
さっき話した通り、
軸となるものがあってやっとそことの比較ができるわけですよね。
なんとなくイメージできると思うんですけどね。
全てがもう混沌としてたら、それこそただ漂流してるだけになるし、
あとはですね、これもちょっと難しい話。
初めの動機を貫くのではなくて、
その時の衝動に耳を傾けるという方法もあるんですよね。
そしたら、当初も自分の衝動に正直でいたし、
その時々の自分に正直でやり続けるという一貫した態度になりますよね。
まあでも当初と目的変わってるんじゃないかと思うかもしれないんですけど、
その時の自分に正直にいるっていうのは一貫したしかなと思うんですよ。
確かにその時、始めた時も目的意識があったし、
目的意識っていうか何かの目的があったし、今は今で変化してるんで、
06:00
これって結構重要な哲学的な問題な気がしてて。
論理的に言えばですよ、絶対にAという理由でBという行動をするのであれば、
Aという理由がなくなればBを続けるって矛盾してるんですけど、
人間の頭で考えればそうなんですけど、
でも実際にはそうやって考えとか感情とか変わるのが人間なんですよね。
それは否定できない事実なんですよね、いい悪いじゃなくて。
これも人との考え方なんですけど、
人間の最初の動機って単なる点火装置みたいなもので、
一回火をつければずっと火つけてなきゃいけないってことなんですよね。
放っておけばいいわけですよね。
最初の動機ってそれぐらいのものなのかもしれない。
だから自分が思っているほどのものではない、大したものではないと考えれば、
すごい楽に生きれますよね。
別に楽に生きるためにこういうことを基にする必要もないんですけど、
でもなんとなく誰にとっても諸子貫徹しないことはいけないみたいな感覚があると思うんですけど、
というよりもそれもそうだし、
何か考え方が変わって、その3Pに変化させてたら、
なんでそれをやっているのかわからないという感覚になる可能性だって、
随分あります。
趣味だったら楽しめればいいっていう話だけど、
例えば何か目的があってボランティア活動を始めましたとか、大学に行きましたとか、
でも全く当初とやっていることも考え方も変わっていたら、
それって鼻肌おかしいではないかという考えにもなると思うんですけど、
でも最初の動機がなければ単に人間何も始められないというだけの話で、
実際に後から考えてみたら最初の動機なんかどうでもいい話で、
どの道に進むかなんてどうでもいい話で、
もう進んでしまったし、今いる場所でやるしかないですよね。
なぜかというと過去に戻れないからですよね。
別の世界線に移動する手段なんかもないですし、
目の前にあることを与えられたことをやっていくしかないですよね。
自分にとってはそれは非常に耐え難い事実なんですけど、
今はでもそんなことないです。
なぜかなら、人生どの道に進んでも大した変わんないと思ってるからですね。
09:07
ただやっぱりその論理的に矛盾していることが、
自分というものを失ってしまっている感覚があれば、
それはやめざるを得ないんだろうし、そういうことっていうのは。
じゃあ次。
そういえば、自分の目的、ゴールを設定してそこに向かって、
人情を立てて何か行動するっていうのが全然ダメなんですよ。
未来にゴールを置き、
そこに向かって目の前の行動を一つ一つこなしていく感覚って自分は無くて、
非常に効率性とか効率性って無いなと映ると思うんですよ。
目的によって動く人って。
かといって衝動的に動くタイプでもないっていうのはですね、
今の何か刺激とか何かに感化されて、
その瞬間の欲求でとか、それがエンジンになっているってこともないんですよ。
そもそもそういうエンジンが必要ないと言われればそういうことなんですよね。
エンジンが必要ないんだと思います。
じゃあ次。
自分にとって救いとか希望とかって何なのかって考えてみたんですけど、
最終的には自分を壊す要因っていう一言に尽きるんですけど、
救いって言ってもいろいろあると思うんですよ。
単純に神様とかいうとこを起源とするならば、
救い自体が基本的に、
救いって言葉が広いけど、
宗教的な意味で使うならば神が元になるから、
そういう意味では単純に自分の中ではもういないと確信してるし、
でも希望とかっていうのは自分で作って、
希望を作ること自体に結構意味があるところがあって、
それが本当に叶うかどうかは分からないようなものであるっていう感覚もあるかもしれないですね、多くの人。
でですね、
だから物によってはないこと自体を信じること、
ほぼないかもしくはあるとしてもあんまり意味ないものってあるんですよね。
定義も分からなければ、
そういうものってあって、
そういうものを妄信する恐ろしさもあり、
あと希望とかっていうのは、
12:03
ある意味共通してて、
ある意味違って幻想ですよね、頭の中で思い描くもの。
最近話した通り、
ある意味そういうものが自分にとって救いにならないんですよね。
結局希望とかも、神もそうかもしれないけど、
結局信じて救われればそれでその機能はあると言えるんですけど、
自分にとっては機能になるどころか、
自分というものを悪化させるもの、
救いを持つっていう何か理由がありますからね。
その悪い状況を悪化させるものでしかなくて、
ただですね、意味を持たせる何か装置が自分にあるとすれば、
それがもともとあったし、
周期をやめても壊れてるわけでもなくて、
じゃあ今何なのかっていうと、意味は生み出すんですよ。
物事に意味は感じざるを得ないんだけど、人間の構造上。
他の動物と違って多少意味は感じるわけですよね。
だから自我を持つなんていうのもそうです。
自分というものの意識がある。
ないとたぶんポッドキャストはできないですよね。
それに出したら切れないけど。
意味は感じないとほぼ動物状態ですからね。
知的障害でもなければ自我もあるし、意味っていうものを持つわけですよ。
なんだけど、それを採用しないんですね。
ほぼほぼ採用しないんですよ、それを。
例えば、今これをやってたらうまくいくとか、
引きこもりになったけど意味があるんだろうとか、
そういった生まれてくる意味をあまり信じてない。
信じてはいけないっていう感覚なんですね。
では次の話ですが、
そういう意味とか物語とか救いとかって、
特に物語ですね、人間のパターンによって出てくるんですよ。
どういうことかっていうと、何回も同じことが繰り返されてると、
たまたまと思いながら何かあるんじゃないかと。
神がこの世界を思う台本を書いてるなんていうのは、まさに点綺麗ですよね。
何か悪いことが起きたら、たまたまだと思うかもしれないけど、
過去にもそういうことがあったとか何回もそういうことが起きた場合、
そこに何か物語を書かないですか。
これは自分の普段の行いが悪いからだとか、
あいつは自分に悪気があるとか、
15:01
いつも最後自分はこういう惨めな思いをするとか、
何回も繰り返すから人間と物語を描くんですよ。
これ人類、ホモサピエンス、みんな共通してると思います。
国とか関係ないですね。そういう人間の脳の構造上、そうなってるんですよ。
現在朝です。
今日はいつもとちょっと違うルーティンの日で、
さらにですね、そのパターンの日ともまたルーティンがちょっと違ったり、
あとは腹壊したりで、朝からタイヤワイヤーで、
いつも通りできないことはまあいいんですよ。
それよりこういう時って迷うんですね。
いつも通りやれば迷わなくて済むんですけど。
でですね、メモにしておいて、ここから話ししようと思って空間を空けといたんですけど、
今日4,5回スクロールして見てるんで結局見つからないんですよ。
見つからないのはいいんですけど、
そのメモ自体のデータがなんかおかしくなってるんじゃないかと思ってですね、
その確認作業聞いてるんじゃないかとかそれがまた大変で、
いやー不安だし、本当に神隠しになった気分です。
他のファイルも見てみたしでもない。
では次の話です。
自分はですね、まあそういう何か信じれないものがあるっていうのではないんですね。
人間不信だとか何も信じれないみたいなのとは明らかに違うんですよ。
まあでも信念は持ってないのは正しいんですけど、
何も信じれないっていう人たちって何か信じたいっていう思いがあるんですよね。
あと自分からしてみたら世間の人みんな絶望してる人でさえ希望があるようにしか見えないんですね。
18:00
まあそもそも希望がないと生きれないから生きてる限り希望持ってるのは当たり前なんですけど、
じゃあ自分は何故か希望持てないし持ってはいけないし、
まあ今ここで話してる希望ってなかなかわかりづらいと思うんですけど、
絶望の先にも希望があるなんて言ってもよくわからないですよね。
ちょっと一回とりあえず次の話いきますけど、
野球部時代ですね、監督は自分で厳しかったんですよ。
でも他の先生はたぶんひきこもりじゃないと不登校だったことを知ってるから、
晴れ物に触るような感じではあったと思うんですよ。
たぶん給食の時も自分なんか食べるの遅くて、
それを原因にまた不登校になられても困るとか思ってたと思うんですよ。
だから野球部の先生はなぜ厳しかったのか不思議だと思ったのと、
あとうちの親がコーチしてたんであんまり気にしないで
ベシベシ教えてくれって言ってたのかもしれないし、
あとはこれ空想ですけど、
野球の練習家でやってるけどあの練習は壁打ちは意味があるのかって先生に親が聞いて、
そしたら先生がなんて答えるか、
自分だったら練習して偉いですねってことを先に言うかなとかそんな空想をしてました。
難しいですよね、相手が何を意図してるのか単純に褒めてほしいだけかもしれないし、
単に質問してるだけなのかもしれないし、
そういうのってなかなか難しいですよね。
自分のしっかり含みを受け取ってほしいわけですよ、自分は。
真に受けられても困るし、だからこそ自分もそこら辺気を使わないんですよね。
まあそんなんで番組名やっと決まったんですけど、また朝から、
いや違うんだよなと考え始めるんですよ。
というかまあ話戻りますけど、絶望してる人って希望の陰の中にいるんだと思います。
希望を持っててから救われないとか、未来が良くなるはずだとにならなかったっていう
現実を目の前にして絶望が生まれるわけですよね。
それと自分のものは、絶望に浸ってる余裕があるとはまだ希望を見出してるんですよ。
じゃないと絶望してる自分に絶望しますからね。
人生に意味はないって言っときながらでも真実を知りたいっていう人もいるんですよね。
次の話です。また意味の話なんですけど、自分に意味がないのではなくて、意味がないと信じてるわけでもなくて、
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生きる意味はこの世界になくて幻想だと思ってるんですね。
でもその思想を伝えたいわけではないんですよ。
しかしですね、それ幻想だよねっていう話はしてるんですね。
もちろん意味があると信じてる人っているのわかってるし、たくさんいるのわかってるし、
意味ないといくら言おうが一人の知見に過ぎない。
だから意味ないことを主張したいわけではないんですね。
しかしですね、意味があると思っている人を幻想だと気づかせてやりたいみたいな野望が全くないかと言われると、
そういうわけでもなくて、それよりも宗教やめてから救いに逃げず、いや、逃げることはできなかったんですね。
しかしそれでも生きなければならない、生きなかったわけです。
別に生きることに義務を感じているわけではないし、そういうわけではないと思ってるけどね。
で、使命感、義務感で生きてるわけではない。
気づいたらとりあえず道がない道を1日生きてたら今になったって感じなんですね。
で、虚無主義の主張じゃなくて、意味っていう概念を外側から、
社会から離れたところから観察してるような感じなんですね。
信じる信じないとは外れた場所でできれば見ていたい。
自分はもともと二項対立みたいなのが嫌いなんですよ。
ニュートラルじゃない気がして。
目的もなければ方向も、物語もないまま1日単位の連続だけが積み重なって現在に至ってきたって感じなんですね。
新たな物語を書いたり、希望・絶望を持たず、虚無に17年いましたが、
本当におこがましい話かもしれないですけど、人生の意味分からなかったり生きる意味感じなく、
生きるの嫌になってる人、または絶望してる人に救いに逃げたらただの幻想で、絶望も物語描いてるだけ。
だから虚無と向き合い直立しないといけないんだと伝えたいですけど、
みんながみんなそれができるとは思ってもいないんですよ。
ただこれは強いか強くないかの問題でもない気がしてて、
強くないからこそ虚無と向き合わなきゃいけないのかなって思うけども、
24:04
これも単なる一つの理念でしかないと受け取られかねないので難しいんですよね。
しかも自分の生き方でそれが伝わってくれればいいんですよね。
別に自分の思想を話してるわけでもないし、何かの思想に着地してるわけでないし、
かといって生きる意味があるかどうかわからないというわけでもないんですよ。
普通ですね意味があるか意味がないかの二択なんですよ。
意味がないと信じてるっていうのとも違うんですよね。
意味がないと信じることはできないと思います自分は。何かを信じることはできないですから。
意味がこの世界にあるか用意されてるかを置いといて意味なく生きてきたのも事実なんですよ。
そしたらどうなるかっていう実験をしてきたみたいなもんですよね。
普通は虚無って落ちる場所として語りますよね。
落ちぶれた結果だとか。でも自ら虚無にいるんですよね。
虚無に生きていたいんですよね。虚無を恐れてないし。
一番正直意味は否定してます。否定してるんだけど、どっちかっていうと観察対象として見てる感じ。
人間ってこうやって意味を見てしまうんだなと。自分もそうだし次元の人もそうだし。
それに対して意味が生まれる瞬間を見てる感じですね。
それは救いに対しても同じだし。
自分はそんな虚無に逃げてはいけない、救いに逃げないとか物語に逃げないっていうことを言いたいっていうよりも
どちらかというと、そういった姿勢でいるっていうだけなんですよね。
そういう事実がある。
気づいたらそうしてたっていう感覚ですね。
普通ですね、宗教を辞めた人もそうだし、絶望してる人もそうだし、
27:03
宗教とか恋愛とか家族とか夢とか成功とか哲学とかニヒリズム、どれかに着地するんですよ。
自分で着地できなかったんですね。
自分は虚無を美化する必要もないし、虚無が最高だとも思ってないし、これが真理だとも思ってないんですよね。
別に虚無が救いになるとも思わない。
物語を描いてしまったとしても、単なる物語を物語として見るだけならいいですよね。
物語を描いてしまうこともそうだし、そこから変に結論付けてしまうのもどうかと思うんですよね。
生きていく上で。
無自覚に着地してしまうのが怖いんですよね。
希望が悪いとか絶望が悪いっていうよりも、
それを絶対的な現実だと思い込んでしまうことが怖いことだと思っていて。
でも人間ってそういうものを求めてしまうんですよ。
だからブッダがいちいち修行無常だっていうのもそういうことですよね。
どうしても何かに固定してしまう、執着してしまうんですよ。
では次ですが、意味はなくても続けているだと。
30:07
他に意味はなくても続けているだけだと。
それも間違っていて意味はないと確信している。
この世界に意味はないという意味で、意味はないと思っているんですね。
でもこの世界に意味がないということを言うのとも違って、
自分の人生に意味がないっていう発想はないんですね。
意味がないことに大きく不況したいんじゃなくて、意味があることへの懐疑ですね。
意味があると思い込んでいる人に、それって本当に見えているものなのですかと問いたいんですね。
次。
発達障害っていうのがあって、将来天外孤独だし、仕事10年できるものを探したけどなくて、
崩壊しないために諦めざるを得ない。
未来は絶望的で、生きていく方法じゃなくて道がない。
道がない道を生きているような変な感覚なんですね。
生きる意味がないと確信しているし、そんな物語、幻想を持ってはいけない。
世間の人は生きる意味を信じ、しかし自分は勝手に人生の意味を設定してしまっていると思っているんですよ。
自分は両方なんですね。
だから救われないし、救われたくもないし、救い自体恐怖でしかないんですね。
生きる意味を感じていないし、道がないけど生きててもしょうがないと。
考えるのも物語だとわかっているし、崩壊に向かわせるんですね。
だからといって生きなければいけない。理由なんていうのもないし。
生きるかどうか。生きるのかどうか。
虚無のいるくせにどちらも同じと捉えながら
生きるべきと考えるのっておかしいのもわかっているんですよ。
生きることに意味があるも採用しないし、生きる意味がないから、人生を終わらせるべきだというのも採用しない。
つまり生きるべきも採用しないし、生きるのはおかしい、やめるべきだも採用しないですね。
だから生きる意味がないというより先に、判断の土台そのものがないという感じ。
33:04
だから道がない道を歩んでいるという感覚なんですね。
こっちに行けば幸せとか、これが人生の目的とかという、普通の人は見てますけど、その道が見えてないんですよ。
だけど道がないから終わりだと思ってね。
だから道がないまま続いているという奇妙な状態なんですね。
救いという構造そのものへの警戒があってですね、不確かなものを確かなものとして思い込むのって、それは恐怖でしかないと思っているんですよ。
だから生きる意味がないと思っているけど、生きる意味を感じたいというだけであって、実際に生きる意味がないことを存在したなんていうふうにも思っていないんですよ。
普通は壊れた状態で虚無に立つと思うんですけど、私は壊れないために虚無に立っているようなものなんですね。
順番的におかしいけど、自分でも分かっているんですよ。
普通壊れた時点で虚無に立つんですけど、虚無に立つことによって壊れないんですよ。
もしかしたら道がないと思っているけど道がないというよりも、宗教を辞めた時点で考えが変わって、未来の欠如というよりも未来を物語化しない態度だったのかもしれないです。
道がないと思い込むことによって何か保っていたのかもしれないです。
未来って想像した時点で何か物語を描いているんでしょうね。
それが分かっていたのか、分からないですけど。
正直ですね、未来がないことが何かちょっとした生きる土台になっていたような感覚もあるんですよ。
自分は生きる意味がないと信じているんじゃなくて、意味というもの自体は人間が作り出したものでしかない、概念でしかない。
つまり幻想だっていう。
意味があるかないかという意味論っていうのはあまり不要なものだとしか思えないんですよね。
どちらかというと救いという物語を作る装置だし、依存構造でしかないと思っているんですよね。
そういうものが必要になる人もいる時にはそういう場合もあると思うけど、やっぱり宗教20年あててそういうものは捨てましたね。
本当に変な状況ですよ。生きる意味はないけども、かといって人生辞める理由もない。
だからどちらも物語だから選べないっていう状態。
選べないから気づいたら生きているっていう状態。
でも生きていることを選んでいるっていう感覚もない。
36:02
だから何か意思があってとか、そういうので生きているわけじゃないんですよね。
虚無に反抗してとかじゃないんですよね。
さっきも言ったようにあったち生涯孤独、仕事ができない。
普通は絶望の物語に落ちるんですよね。
普通は事実があって価値判断があって行動が生まれる。
人生に意味があるからだから生きる価値がある。で、生きる。
人生に意味がないなら生きる価値がないから生きるべきではない。
っていう流れだと思うんですけど。
だから生きなきゃいけないとか、生きてはいけないとか、
それを別に決定しなきゃいけない理由もわからないって感じ。
だから気づいたら続いていたっていう感覚なんです。
例えば雨が降ってるとき傘をさす人、焦る人、気にしない人いろいろいると思うんですけど、
事実と行動の間にその人の価値観があるんですよね。
同じように人生に意味が見えないという事実から、
普通ならばだから生きるべきだ。
これも哲学者でそういう考え方はありますね。
でも普通であればだから生きるべきではない、生きても意味ないという結論になると思うんですけど、
傘の例えを借りるなら雨降ってても別にささなきゃいけないわけでもないし、
気にしなくても別にどちらか決める感覚がないというかですね。
傘はもちろん別だけど人生において。
だから生きる方を選んでるって感覚ではないんですよ。
気づいたらここにいたって感覚なんですね。
自分は使命とか天命とか救いとか人生の意味とか、
こういうものに納得してないし宗教やってたんで、
このために生きてるとは言えないんですね。
ただ自信を持って生きる方を選んでるというか、さっきの話と矛盾しますね。
自信を持って生きる方を選んでるんですよ。
そういう感覚もあるんですね。ちょっと矛盾するけど。
理由がないけどそっちを選択してるって感じ。
自信はあるって感じ。
どっちか価値観があって生きるべきかどうかは決めてるわけじゃないけれども、
かといって他性で生きてる感じでもない。
39:00
こっちを生きるべきだとも違うんだけど生きる方を自ら選んでるって感覚。
なんか大丈夫ですかね、今回。すごい暗い話に聞こえるかもしれないですけど。
もしそれが暗く聞こえるのであれば、もしかしたら、
自分の意図とはちょっと違って物語を描かせてしまってるのかもしれないですけど。
まあでもこれは厳粛たる事実だと思うんですよ、人間の。
生きる意味があってほしいけれども、
ないと分かり生きる人だっているわけですからね。
自分は感性とか習慣とか生存本能とか体の動きで日々は続いてるっていう風に思ってるんですね。
だから意味があるから生きてるんではなくて、
そういうシステムが動いてるって感覚。
生きるべきという物語を否定してるのに、実際は生きる方を選んでるっていうことなんですよね。
でもこれはもうしょうがないんですよ。
そうせざるを得ない。
選ばざるを得ないですからね。
でも違和感はあるわけですよ。
生きるべき理由はない。
でも生きる方を選び続けてる。
やっぱり理由と選択って別なんですよね。
例えばどんな音楽が好きか聞かれて、答えれなくても別に聞くのは自由ですよね。
だからなぜ生きるのに答えれなくても、生きる方を選ぶのは間違いではないですよね。
おこりうる。
自分は自信持って生きる方を選んでるし、覚悟を決めてるんですね。
しかしやはり生きる理由がはっきりしてる。
生きてるわけでもない。
そして生きてく方法を見つからない。
だから生きてるのか生きてないのかよくわからない変な感覚なんですね。
今まで生きてきた感性の法則で生きてる感じ。
でも生きる方法をしっかり選んで生きてる感じでもあるんですよ。
生きるべきと思い込んでるような感じでもある。
思い込もうとしてるような感じってことですね。
生きるべきなんだと。それはもちろんあります。
で、興味でいなければいけないのに矛盾して変な感じなんですよ。
だから生きるべきだと思い込んでるかもしれないから。
で、そうしないと生きれない人は。
でもそうしないと生きれないんですね。
人は一つ目をつけたがるんですよ。理由を欲しがるだけ。
なのもわかるんですね。ただそれだけの理由だってのもわかるんです。
で、生存本能で生きてるってのもわかる。
宗教辞めてから生きる理由がないっていうよりも、
理由を必要としない生き方に移行してるのかもしれないですね。
人間は理由を持たなきゃいけないっていうか、
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理由を探してしまうしないと生きづらいんですけど、
それを必要としない生き方に移行してるんだと思います。
生きる方を選んでてでも理由はなかなくて、
覚悟もあってでも理由はなくて。
で、これ矛盾っていうよりも、理由を必要としない方に生きてる。
まあそういうことですよね。
無理なんですよ普通は、多くの場合。
理由と行動という物語構造で生きてますんで。
他の動物って生きてるって関係ないと思うんですよ。
人間がなぜ生きてるかっていうと、
自分には役割があるとか、目的があるとか、
使命があるとか、これが生きるのの定義になってるんですよ。
だから生きてるか生きてないかって曖昧なものになりますよね。
でも生存本能があるから生きてるだけでしょっていう、
そこも物語として付与したくないんですね。
事実として、その可能性もあるねぐらいのスタンスでいたいんですね。
でも生きる理由はなくて、生きる方を選んでて、
虚無にいなければいけなくてでも生きる覚悟はあって、
生きるべきとも思ってなくてでも生きる方を歌ってる。
行動レベルでは生きる方を選んでて、
意味レベルではどちらにもよってないっていう状態。
自分は覚悟はあって、自分は全うするっていう覚悟はあるんですね。
だから理由と覚悟はやっぱり別なんですよ。
自分は人生を暇つぶしだと思ってるんですね。
でも普通の暇つぶしと違って楽しいものではないんですよ。
むしろ暇つぶしなんかしたくないんですね。
何もしないと腐食してしまう。
やりたいからとか目的があるからではなくて、崩れるから動くわけです。
普通生活を支えるものって何かっていうと希望、夢、恋愛、家族、宗教。
自分はその代わりにルールとか習慣なんですね。
でも意味がなくても続けてしまうことの不思議さっていうのは何度語っても語り尽くせないですね。
やっぱり自分は意味があるから人間は生きれるものだと思ってるんですよ。
目の前のことができると思ってるんですよ。
意味が見えなくてもなぜか続いてた。
そこに違和感があるからそれを観察してるんですよね。
生きる意味があるかどうかと継続しないかどうかは別次元の話で。
45:01
関係ないだから生きてる。
どっちでもいいけどなんとなく命がなくなるってのは怖いし。
生きてるという、でも生きてるという感じじゃないんですよ。
でも生きる覚悟はある。
自分を全うする覚悟はある。
でも人生は暇つぶしにしか見えない。
暇つぶしなんかしたくないんですよ。
絶対的なくやるわけだからですね。
でも生きてる限り暇つぶししなければならない。
何もしないと虚無の中で腐食される。
引きこもりになり普通と違い。
ストイックに決めたルールを執行して
規律で生きてきたんですね。
自分はですね。
虚無だったけどなんとか生きてきたっていうよりも
虚無に飲み込まれないために
規律そのものを生命維持装置にしてきた。
したら気づいたら今ここにいたっていう感覚なんですね。
でもこういうことってないですか。
例えば悪いですけど
なんか嫌なことなんですけど
嫌なことだけど
なんか必死にそれをやってたら
気づいたら時間が経ってたみたいな
なんか
特に
何か考えがあって
理由があってでもなく
とにかく
現実の問題をこなしてたら
気づいたら時間が経ってたみたいな
そういう感覚ですよね。
生きてきたというよりも
気づいたら生きてきたんだなって気づく感じ。
でも
例えばですよ
もしかして
なんとか子供を育てなきゃいけなくて
自分の人生を歩んでるわけじゃないけど
なんか子供の方に生きてるとか
そういうのと違って自分は
48:01
何か目的意識があったり
生きる意味を感じているわけじゃないけれども
でも生きていたっていう感覚
感覚というかそうやって生きてきたんですね。
で、ひまつぶしとはいっても
停止すると崩れるわけですよ。
だからストイックになるんですよね。
だから例外を認めないんですよ。
だから動き続ける。
自分は救いについて
本当か嘘かを問題にしているわけではないのかもしれないです。
救いを救いとして
信じ続けられるのかどうかが大事で
誰かがですよ
家族が生きる意味だと言ったとしますね。
本当にそうかもしれないし
でもその仕組みを見てしまうんですよ。
ある意味
家族が生きる意味って
ある意味正しいけど
ある意味間違ってるんじゃないかなと思ってしまう。
ただその人が思っているほどのものでもない。
そんな
ただ単に信念を持っているだけっていうか
だって
家族が裏切らないとも限らないし
そもそもですよ。
生き物でしかないわけですし。
自分を産んでくれた親だって別に
とはいっても
だから特別だと思っているだけで
同じ
どうなんでしょうか。
他の動物からしてみたら
別に
そこまで特別視している
存在でもないような気がするんだよな。
だから救いっていうのが偽物
だから怖いっていうよりも
救いが救いとして機能しなくなる瞬間が怖いんですよ。
死中だと思うのが死中でなくなるのが怖いんですよね。
今まで宗教でそういう経験があるんで
救済への不信感っていうのがあるんですよ。
救いが
現象がどうか証明したいんじゃなくて
自分は信じられないんですよって体験を語っているんですね。
だからさっき冒頭でお話したように
信じる能力そのものの
欠落の問題なんでしょうね。
虚無の中で崩壊しないために
暇つぶし
ストイックだったわけですね。
虚無にのみ込まれる
隙を与えなかったんですね。
起立で
例外なしで停止しなかったんです。
で、幻想を無意識に抱くか
あとは救いは嘘ではないという人もいるのも分かるんですけど
で、いずれにせよ救いに着地したら
後にそれは幻想だと気づきその瞬間救いでなくなる
と思ってるんで、申しんできないですね
普通、暇つぶしって娯楽ですけど
ちなみに虚無に、まあこれも侵食されないためなんですけど、暴癖であるんですけど
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虚無にいながら虚無に侵食されないってなんか矛盾に聞こえると思うんですけど
ちょっと今回はそれについて話す時間がないですけど
まあ、そうですね
だから娯楽、暇つぶしとは言っても怠惰なわけではないんですよ
戦略なんですね、生きるための
自分はね、救いを否定してるんじゃなくて
宗教にいた分、救いの構造を理解しすぎてるのかもしれない
救いに着地した瞬間、それは物語で、どうしても物語として描いてしまう
だから必要以上に、救いを救いとして描いてしまう
まあそもそも宗教になんか入ったらもう、それはもうとんでもない
これは宗教以上の救いはないですから、とんでもない救いなんですけど
だから必要以上にこの人と一緒にいれば救われるみたいな
必要以上に思ってしまうんですよ、ある程度ならいいけど
自分はそれは嫌なんですよ
幻想だと気づいた瞬間
他の人はどうなるかわかんないですけど、自分にとっては救いでなくなるんですね
だから救いっての成立してないんですよ
拒否してるというよりも成立しないってのがわかってる
自分は虚無に陥るっていう感覚ではないんですね
虚無に立つしかないって感覚
普通だったら虚無に、虚無ってのは落ちるものだと思うんですけど
完全燃焼したら生きる意味なくなったり、宗教離脱で落ちるものだと思ってるかもしれないですけど
違うんですね、逆に土台みたいなものなんですね