果報は寝て待ての考察
今回は、果報は寝て待てについて考察していきたいと思います。では始めます。
どっから始めればいいか。まず
高校野球児が日々練習してプレー野球選手を目指していたとして
こんなのは、ドラフトの日も決まってくるわけだし
全く当てはまらないんですよね。で、果報は寝て待て
っていうのは倉木はね、これに受ける印象としては。 印象というか、これが現体験と言ってしまってもいいんだと思うんだけど
小学生の時ありましたね。 こういった神経の時ありました。でもね、これって本当に子供騙しだと思っててね。
だって人に何かいいことをしていれば
いつかいいことありますよ的なことでしょ。 ないじゃないですか、そんなことは。
人にいいことをしたからではないでしょ。いいことがあったとしても。 まあもっと言ってしまうと
まあある程度分別のある大人でいれば
いいこととか悪いこととか あんまりそういう表面的な考え方をするのもどうかと思うし
で、高校野球時の次の例ですけど
受験生なんかも
テストの日にちなんて 決まってくるわけですから
で、受けた時点でも受かってるかどうか決まってるんだからね。 加法は寝て待てって
これもふさわしい考えではないんですよね。 学生さんにとってもあまりふさわしくないでしょうね。
もう一度言いますけど子供にとってはいいと思うんですよ。 クラッキーもそういうことありましたし
そうやって気づいたら思ってたようになる。 だからそんな焦らないで
いればいいみたいな。 まあそれは通用した時期もありましたよ。もちろん
ある意味じゃとても言えてみような気もするんですよね。 あの
クラッキーがねクリスマスプレゼント買って
でも焦るっていうか 待ち遠しいわけですよ
でもこういうのは気を長くして 待ってれば
その後もらえるんだって。そういう意味ではいいと思うんだけど 要するに今回話したいのはね
そんな 受動的じゃなくてもう自分からガツガツ
家宝をもらいに行けとかそういうことじゃなくてね 3つ目の例えですけど
音楽にやろうとしてね何十年も
チェロ弾いてきたとか言えばいい でもね
結局何十年とはいえ だいたい何歳までに
こういう学校入って何歳までにこういう ところに
受かってってやんないとダメだって流れはわかってくるでしょ だから別に片方を寝てもらってっていう言葉が響くことはないと思うんですよ
やっぱりこうやって話しててもねオカルト的な意味は強く感じますね なんかボランティアしてたら
自分にも帰ってくるみたいな 人に優しくしてれば
巡り巡って自分に帰ってくるみたいな そもそもそういうニュアンスが混じっちゃってる以上
なんかこの言葉の一番伝えたいところがうまく伝わらないような気がするんだけど でもねこういう言葉ってね
もっともっと深い意味があったりするんですよね 例えば大学受験で落ちても
その時やってたことは 後々帰ってくるみたいな
だとすれば なおさら
クラキュアはこれを 問題視したいですね
もうそれを言ってしまったらね
まあそもそもクラキュアはポジティブシンキングが嫌いだし こういう自分の都合の
いいようにこういうことわざを使うのはあまり好きじゃないですね このことわざを考えた人って
まあ自分がやったことは自分に帰ってくると思いたいんだろうな すぐは帰ってもなくてもいつかは絶対帰ってくるとそう思い込みたいんだろうなーっていうね
感じがしてならないですね この人にはぜひ人間万事作業がうまいって言葉をしてほしいですね
それだしだっけ