万博の開会から半年。入場者数はうなぎ登りで、閉幕直前の時期は身動きもできない程だった。そして事件は起こる。午後10時半の閉門時間が近づいても、一部の客が帰ろうとしない。その数、およそ5000人。

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00:01
戦後史開封
昭和45年の大阪万博
最終話
最大の危機
居残った5000人が野宿
日本での初の万博は昭和45年3月14日
大阪千里丘陵の会場で開会式を行った後
15日にオープンしました。
広報などを担当する事務次長だった今枝信夫は
毎週土曜日の夕方5時
翌週のそれぞれの日の予想入場者数を発表するのが
仕事になっていました。
会場内の食堂の仕入れや
場内警備の人員などに関わってくるからです。
今枝には虎の巻がありました。
案内役は私
ナレーターの中川睦です。
今枝は振り返る。
あるシンクタンクに調査してもらった数字を元に
4500万人という挿入場者数を出し
これを適当に会期の183日に割り振った数で発表していたら
最初の頃はよく当たりました。
大したもんだなぁと思ってたら
春休みの頃から上回ってきて
姉妹には5割増しで発表しました。
入場者数は落ち込みを予想していた梅雨時からさらに勢いを増し
結局予想をはるかに上回る6421万人余りを記録した。
そして閉幕1週間前の土曜日の9月5日
万博は思わぬ危機に見舞われる。
朝から各ゲートに長蛇の列ができた。
夕方までに会期中最多の83万人以上もの入場者があった。
山梨県や福井県の当時の人口がそっくり会場に入った計算で
ほとんど身動きもできない。
午後10時半の閉門の時間が近づいても
一部の入場者たちは帰る気配を見せない。
当時の万博協会秘書課長は
午後9時過ぎ帰宅していた事務総長の鈴木俊一に電話をかけた。
お客さんに少し変な動きがあります。
鈴木はすぐに駆けつけた。
職員は居残った観客に
閉門ですからお帰りください
と呼びかけているが観客たちは
まだ何も見ていないぞ
終電に間に合わないという人もいて
そのまま会場にのじくし
03:00
翌日パビリオンを見るという雰囲気になった。
その数はおよそ5000人。
対応を誤ると大変な騒ぎになりかねない。
鈴木はすぐ止まってもらおうと決断した。
元秘書課長が振り返る。
危機管理が試されました。
鈴木さんはともかくお客さんなのだから不自由させられない
と大阪府や水田市自衛隊に協力を要請しました。
弁当屋さんやパン屋さんに一件一件電話して
4000人分の夜朝昼の3食を用意しました。
9月とはいえ夜は冷えるから
府や市から毛布を持ってきてもらい
お年寄りや子供のために二段式ベッドを100床用意しました。
皆さんお祭り広場のあたりでのじくしたんですが
クレームはほとんどありませんでした。
翌6日の日曜日は夜間入場を止めるなど入場制限した。
だが万博にとって別の危機もあった。
回帰中に鈴木が自民党から東京都知事選の候補に
引っ張り出されようとしていたのだった。
鈴木は東京都副知事を辞めた直後の42年7月に
万博事務総長に就任した。
鈴木企業の最大の狙いは
それまで通算省と大阪府でやっている印象の強かった体制を
国を挙げてのものに変えることだったとされる。
鈴木はそれに応えて持ち前の政治力を発揮し
各省庁から万博協会に人材を派遣させる一方、
それまであまり協力的ではなかった他の自治体にも支援を働きかけた。
中でも難関は京都府の革新知事、二永寛三だった。
鈴木は就任してすぐ、万博協会会長の石坂大蔵とともに
二永を訪ね、「近畿は一つなのだから、ぜひ協力してください。」
と協力を求めた。鈴木はこう振り返る。
二永さんは、「鈴木さんに来られたのでは知らん顔はできませんね。」
と言いました。
私が自治省にいた時、京都府の財政が苦しいので
協力させてもらったこともありましたからね。
鈴木は事務総長就任前年の四十二年の東京都知事選でも
自民党の候補者として本命しされていたが、
四年後の四十六年の知事選を前に
自民党は現職の水部良吉を破るためには鈴木しかいない、
と出馬要請を決めた。
06:02
鈴木の著書、私の履歴書によれば、万博が開幕して間もなく、
総理大臣の佐藤英作から石坂に、
鈴木君をくどいてほしい、と電話があった。
石坂からこれを聞いた鈴木はきっぱりと断った。
馬で川を渡っている時に別の馬に乗り換えるようなことはできませんよ。
しかし、自民党は諦めず、副総裁の川島生二郎、
幹事長の田中角栄らを次々に送り込んでくる。
中でも、6月に万博施設に訪れた田中角栄のくどき方は、
いかにも角栄らしかった。
午前中アメリカ艦を見た後、秘書を通じて、
今日ゴルフをしたい、と言ってきた。
鈴木は知事選の話だとわかっているので断ったが、
最後は折れてゴルフに付き合った。
だが、知事出馬は拒否し続けた。
万博の最中に事務総長が選挙に出ることになれば、
協会の組織が乱れ、万博事態がどうなっていたかわからない。
9月13日、万博は終わった。
鈴木はその後、首都高速道路公団理事長などを経た後、
マンを辞していた可能性がある。
54年の東京都知事選に出馬して当選し、4期勤めた。
お届けしたのは産経ポッドキャスト戦後紙開封、
昭和45年の大阪万博の最終話でした。
案内役は私、ナレーターの中川睦でした。
戦後紙開封。最後までお聞きいただきありがとうございます。
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09:14
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