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注目の記事から、産経Podcast
千日ビル火災の概要
千日ビル火災50年
ビル火災で史上最悪の118人の犠牲者を出した千日デパートビル火災から5月13日で50年となります。
周辺の景色は一変し、当時を知る人はもうほとんどいません。
あの日、ここで何があったのか?
刻まれた教訓を忘れてはいないか?
木村強也がお伝えします。
118人犠牲の悪夢
古い建物に今も残る死角
4月中旬、大阪南のビッグカメラ南場店前は、いつもの喧騒の中にあった
元大阪市消防局の救急隊員で80歳の上尾雅彦さんは
久しぶりに来た。当時とえらい変わってる。びっくりしてるわ。とつぶやいた。
この場所に立つと、50年前の記憶が鮮明によみがえるという
今は中央区となった、当時の南区南場新地3番橋
千日デパートビルで火災
昭和47年、1972年5月13日夜
すべてはこの一本の通報から始まった
千日デパートビルは、今のビッグカメラ南場店にあった地上7階、地下1階建ての商業施設
名称はデパートだが、実体は小区画にスーパーや基金属店などが入る雑居ビルだった
30歳だった上尾さんは南消防署から現場に急行
千日を表すSマークがあるビル正面に到着すると、3、4階から黒煙が吹き出していた
電気工事中だった3階のスーパーの医療品売り場から出荷
ただ営業を続けていた7階のキャバレー、プレイタウンに火災の連絡はなく
計181人のホステスや客は置き去りになっていた
土曜の夜だった
周辺は野獣までごった返し
ビルの目の前を走る阪神高速から車を止めて様子を伺う人もいた
ビルに突入した上尾さんは真っ先に7階へ上がろうとした
しかし煙と熱気に阻まれ3階から上には進めない
ビル正面に引き返すと群衆から叫び声が上がった
危ない!
7階の窓から男性が飛び降り、上尾さんの右腕をかすめて地面に落下した
悪夢の始まりだった
2階から4階の延べおよそ8800平方メートルが焼けたものの
7階に炎症はなかった
取り残された人を襲ったのは炎ではなく
エレベーターの昇降炉や空調ダクトを伝う猛烈な煙だった
煙や熱気に耐えられず
ホステスや客は次々と7階の窓からおよそ30メートル下へ飛び降りていく
ドーン!ドシャッ!
隣接する商店街のアーケードを落ちた人が突き破るたび
鈍い音と絶叫が響いた
上尾さんも賢明だった
周囲の人の協力を仰ぎ救助シートを広げ
落ちてきた人を何とか受け止めた
その数は6人程度だったと記憶している
悲鳴が上がる7階から今度は救助袋が地上へ投げられた
災害時に降下させ布状の内部を滑り降りる避難器具だ
これで助かる
そんな期待はやがて絶望に変わった
キャバレーの従業員が使用法を分かっておらず
入り口は完全には開かなかった
藁にもすがる思いだったのだろう
何人かは救助袋の外側を抱え降下を試みた
ただ多くが途中で体力が尽きたり摩擦熱に耐えられなくなったりし
そのまま地面に叩きつけられた
翌14日の未明7階に入った上尾さんは惨状を目にした
窓枠に身を乗り出したまま絶命した人
後遺室で寄り添うように倒れるホステスたち
トイレの便器に顔をつけたまま生き絶えた女性
みんな煙から逃れるように倒れていた
キャバレーでの犠牲者は96人
大半の死因は一酸化炭素中毒だった
一連の犠牲者は墜落死した22人を含め計118人に上り
日本のビル火災史上最悪の大惨事となった
避難の教訓
市消防局に38年勤め
平成7年の阪神大震災などの大災害でも救命活動に従事した上尾さん
それでも先日デパートビル火災は特別
今すぐできる命を守るための術を教えてくれたからだ
象徴的なエピソードがある
あるホステスは健康のためと日頃からキャバレー専用の避難階段を使っていた
煙と停電で真っ暗な中
彼女は記憶を頼りに避難階段にたどり着き無事生還を果たした
現役時代の上尾さんが日々の防災指導で避難階段の重要性を繰り返し訴えたのは
こうした現場を目の当たりにしたからだ
あの日から半世紀
ホテルや商業施設を訪れた際
自身の目と足で避難階段の位置を確認している人は少ないのではないか
それを知っているかどうかで運命は決まると上尾さんは話す
忘れてはならない戒めがある
以上お届けしたのは注目の記事
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戦日ビル火災50年
木村共也がお伝えしました