2024-12-30 11:34

アーカイブ配信|「国際テロの魔女」、2022年5月に出所した重信房子(前編)

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「国際テロの魔女」などとも呼ばれた日本赤軍の元最高幹部、重信房子元最高幹部が2022年5月に刑期満了を迎え出所した。獄中でがんを患い、体調は思わしくないというが、関係者は出所後の動向に注目している。産経新聞で過去に掲載された関係者のインタビューを中心に日本赤軍事件を振り返る。

・「重信房子」がいたあの時代 デモ、バリケードの「政治の季節」
・「重信房子は普通の子だった」 亡き赤軍派議長の記憶
・理論的支柱だった元赤軍派議長、かつての日本のレーニン、今は駐車場の管理員

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

重信房子元最高幹部が5月28日に出所し、彼の過去の学生運動や国際テロ活動について振り返られます。彼の出国から日本籍軍の創設、さらにはハーグ事件に至る経緯が語られ、当時の学生運動の状況や社会背景も明らかになります。

重信房子の出所
注目の記事から、産経Podcast、国際テロの魔女、重信房子受刑者が、28日出所、同行に注目。
国際テロの魔女、などとも呼ばれた、日本籍軍の元最高幹部、重信房子元最高幹部が、5月28日に景気満了を迎え出所した。
獄中で癌を患い、体調は思わしくないというが、関係者は、出所後の同行に注目している。
学生運動に参加し、世界革命を掲げる審査役グループ、籍軍派に加わった。
海外拠点を建設する、という籍軍派の方針に基づき、昭和46年に出国。その後、日本籍軍を創設した。
日本籍軍は、イスラエル・テルアビブの空港で、自動焼銃を乱射し、およそ100人を死傷させるなど、各地で事件を繰り返したとされる。
重信元最高幹部は、オランダのフランス大使館が武装占拠された、ハーグ事件に関与した疑いで、平成12年に大阪府高槻市で逮捕された。
裁判では、ハーグ事件に関して無罪を主張したが、懲役20年の判決が確定し、復役していた。
獄中で日本籍軍を解散する声明を発表している。
重信ふさこがいたあの時代。でも、バリケードの政治の季節。
数々の国際テロを起こしたとされる、日本籍軍の重信ふさこ元最高幹部が、5月28日に景気満了を迎え出処した。
昭和46年に出国し、オランダのフランス大使館が武装占拠されたハーグ事件で国際手配されたが、平成12年、大阪で逮捕されて復役していた。
学生時代に審査翼グループ、籍軍派に加わり、革命運動に関わったが、当時の学生を巡る状況は現在とは大きく異なっていた。
1960年代後半は、学生運動が盛んだった時代。学生が大学にバリケードを築いたり、抗議をストライキしたりする現象が相次いでいた。
学生がデモ行進をする風景も日常的にあった。当時の学生は今は70代だが、現代の学生にとっては想像することすら難しい状況なのかもしれない。
インターネットもなく、パソコンも携帯電話もなかった時代。集会を開いて討論したり、自分たちの主張をビラと呼ばれるチラシに印刷して配ったりする学生も多かった。
デモ隊が警察と衝突して怪我人が出ることも、学生たちはヘルメットをかぶって拡大を持つといった出立ちでデモに臨んでいた。
一方、投石、火炎瓶と次第にエスカレートする学生たちに顔をしかめる人も少なくなかった。
ただ、紛争の発端には大学による多額の死と不明金問題などもあり、学生たちの言い分にも一理あると理解を示す人もいた。東大では学生たちが安田行動を占拠。
昭和44年1月には警察との激しい攻防戦が繰り広げられ、東大入試が中止になるといった前代未聞の事件も起きた。
時代を読み解くポイントの一つはベトナム戦争。米国も深く関与し泥沼化した。第二次世界大戦の敗戦の記憶も鮮明な時期とあって、日本も間接的に戦争に関わっている、などと反戦運動が盛り上がった。
もう一つは大学の大衆化だ。現在の大学進学率は50%を超えているが、当時は15%程度。それ以前は進学率はもっと低かったが、戦後のベビーブーム世代が大学の進学年齢に達し、学生数が急増した。
極一部のスーパーエリートだけが行くところと考えられていた大学の位置づけも変化した。当時の学生たちが皆参加していたわけではないが、学生運動が巨大なムーブメントになっていたのは事実だ。
こうした学生主導の反体制的な動きは世界各地でも頻発。政治の季節とも言われた。茂信久子は普通の子だった。
赤軍派の歴史
亡き関軍派議長の記憶。5月28日、日本関軍の茂信久子元最高幹部が出所した。
茂信元最高幹部は国内では審査役の中でも最も過激とされる関軍派のメンバーで、昭和46年に出国。後に日本関軍を創設する。
産経新聞では平成20年から21年にかけ、かつて学生運動などに関わった団塊の世代らを取材した連載、さらば革命的世代を掲載したが、その際関軍派トップで議長だった塩見孝也さんにもインタビューしている。
塩見さんは平成29年に亡くなったが、インタビューした当時、茂信元最高幹部の印象について、「最初は普通の子だった。リーダーになるようなタイプに見えなかった。」と話していた。
そして、茂信元最高幹部と仲の良かった友人女性の名前を挙げ、「むしろ彼女の方がリーダータイプだと思っていた。」と振り返った。その女性は後に昭和47年の連合関軍事件で仲間に殺害されることになる。
今は駐車場の管理員、かつて日本の霊人と呼ばれた男は、東京都清瀬市の市営駐車場で汗を流していた。昭和40年代半ば、世界同時革命を掲げて武装闘争路線を指揮し、覇望法違反罪などで19年9ヶ月の獄中生活を送った元赤群派議長塩見孝也さん。
昨年末から市のシルバー人材センターに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。この年になってようやく労働の意義を実感している。一人息子も、「親父がまともな仕事をするのは初めてだ。」と喜んでいます。
それまでの政系は寒波や高円寮に頼ってきた、というが、あえて働き始めたのは昨週。心臓を患ったのがきっかけだった。もっと自活能力をつけたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい、と思ったという。
赤群派は当時最も過激な集団とされ、交番の連続襲撃や首相官邸選挙を狙った軍事訓練、大菩薩峠事件などを起こす。
背下には、ヨドゴグループのリーダーだったタミヤ・タカマロ最高幹部や、後に日本赤群を創設する茂信久子元最高幹部ら数百人がおり、連合赤群の朝間産総事件や日本赤群のダッカ・ハイジャックなど現代史に残る重大事件の源流には、常にこの組織の存在があった。
その理論的支柱だったしおみさんは、「彼らも全共闘の世代の連中も、みんな僕がオルグした。僕らは若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた。」と振り返りながらも、当時の手法については未熟だった。軍事史上主義だったと率直に認める。
一方で、不況だろうと、バブルだろうと、時代は変わっても資本主義には矛盾があり、労働者階級が解放されるべきだという基本路線は当時と一緒だ。これからは無欠革命という大理念を大事にしたいとも述べるなど、その思想は根本的には変わっていない。
ヨドゴー事件も間違い。文学青年だったしおみさんは二老の末、昭和37年に京都大学に入学。アルバイト先の政教の先輩の影響で学生運動に入った。
三回生の時、東京に出向いて中央大など首都圏の学生のオルグを担当。学費値上げ反対闘争を勝ち抜き、全京都の原型を作った、という。
赤軍派が好前と登場したのは44年9月。東大安田高等の落場から8ヶ月が過ぎており、全京都はすでに行き詰まっていた。最後はドンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた。
しおみさんの逮捕後に起きた45年のヨドゴー事件は、北朝鮮のテロ支援国家指定解除に絡み、メンバーの引渡しが議論に昇るなど、今なお注目される事件でもある。
しおみさんはこの事件についても、人民を盾にしたという点で誤った方針だったと総括する一方、彼らは帰ってこないほうが良い。仮に帰ってきたなら、その時は不屈に最後まで戦うと意地を見せてほしいとも話す。
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