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スピーカー 1
彼はブルックリン海軍交渉の造船所長になったりとかして、蒸気船の建造に貢献もしてるし、その後アフリカ艦隊とかメキシコ湾の艦隊司令長官を歴任していって、その後東インド艦隊の司令長官として日本に遠征をして指揮を取ってるんだよね。
ここで最初にちょっと日本へペリーが行く目的なんだけれども、これは一つは補給基地としたいっていうところがあって、この頃やっぱりアメリカっていうのは主に捕鯨などで長期にわたる航海をよく行っていたんだけども、そういった中で途中の地点で水燃料を補給できるところが必要だったんだよね。
そういう目的が一つあるのと、もう一つは日本との関係を強めたかった。これは鎖国体制を取っている日本を開国させたかったっていうところなんだよね。
これには当時イギリスなどの列挙国の支配がまだ日本っていうのは及んでなくて、特にイギリスっていうのは中国とかシンガポールとかアジアの重要な拠点を抑えていたんだけども、アメリカはその反面、こっちのアジア方面に出遅れていたんだよね。
そこで日本っていうところに目をつけたっていうのがあるんだよね。ペリーは日本への任務が与えられる2年近く前から独自の基本計画を海軍長官に提出をしてるんだよね。
この内容は、任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、そのうち3隻は大型の蒸気軍艦であることっていうことを言ってるんだよね。
これは軍事力の差を見せつけるっていうところが狙いで、その後ペリー提督に日本への派遣が実際に決定すると、さらにペリーは搬送船だったり補給船を加えて13隻なる大艦隊を組む計画をしたんだよね。
ただこれは費用がかかりすぎるってことで、どんどん縮小されていったんだよね。
実際に出発時期が迫る中で、機器の不具合とか準備の遅れが目立って予想以上に時間がかかったことで、もう蒸気軍艦1隻のみのミシシッピー号だけで最初実は出発してるんだよね。
後でアジア方面に行った時に艦隊は合流してるんだけども、これが1852年11月24日にアメリカの東海岸、ノーホークを出発するんだよね。
航路は東に進んで大西洋を渡ってアフリカ大陸の南端をぐるりと回ってインド洋に出て中国を経由してって日本へ行くっていうような航路なんだよね。
今だったら例えば西海岸から日本に行くのが一番近いかなと思うんだけども、この時期アメリカっていうのはメキシコ戦争に勝利したばかりで、カリフォルニアがアメリカ領土になったばかりだったんだよね。
だからまだまだ軍事拠点とか軍艦なんかも東海岸に集結してたんだよね。
そういった理由で東海岸から出たっていうのもあるし、あと東海岸から出てパラマウンガっていう渡るっていうルートも今だったらあるんだけども、当時はまだ開通してないから大西洋を渡ったんだよね。
あと大西洋を渡るとそれぞれ陸沿いに行くことができるから途中途中燃料とか食料の補給ができるっていうのもあったんだよね。
半年以上かけて日本近海にたどり着くっていう航路なんだよね。
これ一つ一つ話そうかなと思ったんだけど、かなりこれだとすごい長いストーリーになっちゃうんで、日本近海の中国大陸の方から今日は話したいと思うんだけども。
スピーカー 2
もう長いストーリーで2話分でもいいんだぜ。
スピーカー 1
これそれにしても1回で終わんないです今日は。
スピーカー 2
そうなの?
スピーカー 1
アフリカ大陸そしてインドへ渡って中国大陸の方へ来たペリーなんだけども、
香港、マカオ、関東なんかのあたりを彼は停泊するんだけども、
例えば関東に来たとき彼の第一印象っていうのは失望だったって言ってるんだよね。
ペリーはこの地に関する書物を読んでいて、そこで鮮やかな描写から美しい眺めを想像してたんだって。
実際訪れると不潔な街で貧困の人々も多くて、悪事もはびこっているような感想を言ってるんだよね。
近くには海賊も出るっていうことで、これ外国人ばかりか同胞も容赦なく殺戮して奪い取るっていうようなそんなところもあったんだよね。
香港に滞在している間もすぐそばで海賊行為が繰り返されたっていうのを目撃していて、
ミシシッピー号の乗組員の一人が小舟に乗り込もうとしたところに大勢の海賊に囲まれて懐中時計をもぎ取られそうになったんだって。
ただその取られそうになった彼がまるまると太ってたせいで、時計は無事で鎖だけ持ち去られちゃったっていうことがあった。
ここで学べることは、懐中時計は結構タイトにつけようねってことだと思うんだよね。
スピーカー 2
よくわかんない。
スピーカー 1
このエピソード絶対いらなかったね。
スピーカー 2
いやいや、いるでしょ。
スピーカー 1
そっからね、次上海に行ったんだけども、上海は外国人商人の豪華な邸宅が立ち並んでいるような、それでいて広い道路とか美しい庭園が並んであらゆる娯楽施設なんかも揃っていたんだよね。
スピーカー 1
これはイギリスとの間に起こったアヘン戦争の終結後に立てられたもので、だいぶ西洋化が進んでいたんだよね。
この頃上海に行った間は中国本土で太平天国の乱っていうのが起きていて、これは新朝に対する現地のキリスト教徒の反乱なんだけども、
これによって上海在留のアメリカ省官とかが財産の保護をアメリカ側に要求してたんだよね。
そこでペリーはアメリカ人の財産を守るっていう名目で、その時に合流していたプリマス号っていうのを一隻を残していくんだよね。
この船はまた後で合流するんだけども、この時にあとサスケ花号っていうのが加わって、これがペリーが乗る機関になったんだよね。
サスケ花号結構大きくて、総トン数2450トン、全長78.3メートル、幅13.7メートルっていう、当時ではかなり大きな軍艦だったんだよね。
ペリーを含むその船団っていうのは琉球へ向けて出発をする。
当時アメリカっていうのは結構琉球のことを把握していて、それがわかる文書があって、これがね、琉球がどの国に属するかは今なお議論が続いている。
日本の薩摩港の属領だというものもあれば、中国の属領ではないかというものもある。
日本に属しているのはほぼ確実らしいが、中国に密着物を収めていることにも疑いの余地はないため、いくらかは中国にも従属しているだろうと思われる。
っていうようなことを言ってるんだよね。
結構細かな部分をさ、もう把握をしてるなっていうところがわかるかなと思うんだけど。
ペリーの琉球に近づくにあたって、戦闘準備で演習の実施をしてたんだよね。
そう、万が一に備えてね。ただね、戦員に命令したのは、日本の住民に会った場合も友好的な関係を保つことっていうのを言って、
また遠征隊はあらゆる友好的な手段を用いて彼らに接して、緊急の場合以外は武力に訴えないことっていうのを命じている。
これは常にね、今回の日本へ行く時のペリーのスタンスなんだけども、
以前に彼はアフリカとかメキシコに派遣された時も、経験をもとにこうした方がいいっていう信念があったんだよね。
それとね、日本の中で真っ先に琉球に行ったっていう理由があるんだけども、
これはね、航路的に沖縄が近いからっていうのももちろんあるんだけども、
その他にもね、もし日本の政府、江戸幕府がさ、アメリカの要求に反対する場合は、まずはね、その南の島を拠点にしようっていうのも考えてたんだよね。
琉球を見た黒船側の視点で言うと、非常にね、心を誘う外観を呈していたって言ってて、
海や緑が美しく、高地があって彩り豊かっていうような、かなり綺麗なことを絶賛してるんだよね。
で、ペリー艦隊っていうのはその後、那覇港に入港して、これはね、外国船が入港するのね、1年半ぶりのことだったんだって。
スムーズに上陸の許可が与えられて、その中で琉球を調査も兼ねて滞在をしていくんだよね。
でね、その中でね、種類の応急も尋ねてるの。
で、琉球側はね、ちょっと応急には来てほしくないっていう意図があって、その場所は変えられないかとか、今ね、後退後は病なんだっていうようなことを言って何とか避けようとしたんだけども、
ペリーはね、絶対にその応急を尋ねるってことで、総勢200人を従えてこう、尋ねたんだよね。
で、琉球側はまさか本当に来るっていうのは想定してなかったみたいで、後退後と王子の姿もその時なくて、食事もね、十分なものを用意できてなかったんだよね。
ただその後ね、琉球の摂政が接待をして、自宅に招いて十分な食事を振る舞って、歓迎をしたっていうようなエピソードが残ってるんだよね。
でね、この琉球の後に一回ね、小笠原諸島にその一部の船は琉球に残したまま、小笠原諸島にペリーは行くんだよね。
これはね、目的があって、これもさ、小笠原諸島ってその蒸気船の補給地とかのその停泊地にしたいっていう狙いもあったんだよね。
で、それとこの島の調査とか測量っていうのも目的で行ったっていうのがあって、
で、この小笠原諸島っていうのはさ、ペリーの記録ではボニー諸島っていう言い方してるんだけど、
これはさ、イギリス人が当時つけてた名称で、小笠原諸島ってさ、日本人が最初に発見したっていう記録はあるらしいんだけども、
どこの国の領有かっていうのは、その時はっきりしてない状態だったんだよね。
で、唯一こう、人の住む島、その小笠原諸島の中でも、今、父島って言われる、ペリーはビール島っていう言い方をしてるんだけども、
で、そこをね、訪れて、まあ住人は、その時ね、まだ31人だったんだって。
で、アメリカとかイギリスとかポルトガル人なんかの、まあ様々な人が住んでいたんだよね。
で、やっぱ小笠原って今でも綺麗だけどさ、まあ魚とかサンゴが豊富で、青ウミガメっていうのもたくさんいて、
船にね、ペリー艦隊は大量に蓄えたっていう記述があって、これ多分蓄えたってことは食料にしたんだろうね。
スピーカー 2
ああ、まあだろうね。
スピーカー 1
そうそう。なんかちょっと調べたら、これ青ウミガメってさ、小笠原では食べること許されてんだってね。
スピーカー 2
ああ、みたいよ。なんか捕獲数もちろん絞って、絶滅危惧種じゃなかったっけ?ちょっとごめん。
スピーカー 1
そう、絶滅危惧種に入ってる。
スピーカー 1
で、ペリー艦隊はこの時裏側に向かったのは機関のサスケハナ号、あとミシシッピー号、これがね2つが蒸気船なんだよね。
で、あとサプライ号、プリマス号っていう搬送の船なんだけども、砲で走る船だね。
この4隻で裏側に向かって、で、この朝はね曇り空でした。
スピーカー 2
なんでいつも天気が出てくんだよ。
スピーカー 1
で、もやが深くて視界は悪くて、ただ風が結構吹いてたから、蒸気船は砲も持ち合わせてて、砲で進むこともできるんだけども、すべてあえて巻き上げて蒸気の力だけで進んだんだよね。
これによって日本漁船の人たちが最初に目撃するんだけども、風の力じゃなくて蒸気の力で走っている蒸気船っていうのを初めて見て驚くんだよね。
こういうアメリカの軍事力の差を見せつけるっていうのも狙いにあったんだと思うんだよね。
艦隊が湾に近づくにつれて、ペリーからの指示で万が一のために戦闘に備えて、大砲は装弾されて、弾薬が配備されて、小銃も準備されていったんだよね。
その場で艦隊はさらに行進を続けて、間もなく三浦半島とかに接近をしていって、陸地から2回り以内に接近したんだよね。
その時に日本の大型船の船団がこちらに向かって漕ぎ寄せてきたんだけども、それを待たずにペリー艦隊はそのまままっすぐ進んで、日本船団は取り残されるような形になったんだよね。
どんどん進んでいって、やがて視界に日本の村が見えてきたんだって。
この時の印象的な感想を言っていて、「大地は耕作された畑と鬱蒼とした森林で美しく変化に富み、鮮やかな新緑と鬱蒼と佇む森。実際どこを見てもこれほど美しい景色はないと言えるほど、環状にいる者さえ周囲の海岸を眺めて飽きることがなかった。」
いろんな言い方してるんだけども、日本っていうのは本当に綺麗な国だなって。
湾の周りで日本の大砲なんかが配置されてたんだけども、日本側は決して攻撃するってことはしなかったんだよね。
午後5時頃になって艦隊は浦賀の沖合に怒りを下ろして、その時ちょうど天候が晴れてきて富士山の頂きがはっきり見えてきたんだって。
そのタイミングで近くの砲台から2発ののろしが打ち上げられたんだよね。
これは恐らく日本の側がのろしでこのペリー艦隊が来たっていうのを知らせたんだと思うんだけども。
日本はアメリカの艦隊に乗船しようと最初試みるんだよね。
船に横付けしてもやいずなを投げて四字登ろうっていうのも試みたらしくて、
ただそれを阻止するために水兵たちが弾剣とかピストルなんかを見せつけて、日本人を牽制して入れなくさせたんだよね。
ここでペリーから艦隊の船員に出された指示っていうのがあって、
1つ目は自分の乗っているサスケハナ号以外の船には誰も乗せてはならないってことを言ったんだよね。
2つ目はサスケハナ号に招くのは要件のある人物のみで一度に3人を超えてはならないっていうのも言ってる。
3つ目はペリー提督は日本帝国の最高位の役人でなければ自ら交渉しないよっていうのも伝えてるんだよね。
ここで言うと裏側の最高責任者っていうような位置づけになるんだけども、
これは以前コロンブス号っていうのがエドワンに入港した時に一度に100人以上の日本人を軍艦に乗せて歓迎したってことがあったんだよね。
ただ結局上陸の許可は下りなくて、そういう経験からもインズを制限して交渉っていうのを厳格にやったんだよね。
日本人の中にオランダ語が話せる通訳が来て、彼と裏側武業所の頼木中島サブロースケっていうのが最初にアメリカ側の副艦と話し合いが設けられるんだよね。
これはアメリカの戦艦の中で催されたんだけども、アメリカ側っていうのは日本皇帝にあてた新書を持参してるから、しかるべき役人を本艦に派遣して新書の写しを受け取ってもらいたいっていうことを要望したんだよね。
ただ日本側っていうのは日本の法律によれば交渉の場は長崎のみだから長崎に行ってほしいっていうのを言うんだよ。
でもアメリカっていうのは裏側に来たのは江戸に近いからで長崎には行かないっていうことを伝えて、さらにアメリカの艦隊はその時日本の戦艦が取り囲むような形をとっていたんだよね。
だからこの日本戦が撤退しなければアメリカが武力によって追い払うよっていうのも伝えて、それに驚いた日本っていうのはすぐに戦艦を退かせて離れた場所から監視するっていうことにしたんだよね。
日本側は結局その新書の受け取りについては後日正式に回答するってことにして一回ここでの話し合いは終わったんだよね。
スピーカー 1
このようにペリーっていうのは今まで日本近海を訪れた外国戦と違って断固とした態度を取ったっていうところが特徴なんだよね。
結果ペリー艦隊っていうのは日本から嫌がらせをその後受けるってことは一切なかった。
翌日の早朝になって海岸からサスケ原号に最初に近づいてきた一艘の日本の小舟があったんだよね。
これちょっと話すべきなのかあれなんだけど、これ何のために来たと思う?
スピーカー 2
何のため?わからないな。
スピーカー 1
これは艦隊から見たら忙しく車制をしてた。
スピーカー 2
どういうこと?
スピーカー 1
画家がね。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
いらなかった?
何を言いたかった?
ここだけなんだよな。長丸が入れて欲しいって言った箇所。
スピーカー 2
俺だからいつも言ってるじゃん。小片郎の原稿を俺はいつも読んでるだけだから俺の意見って一個もないわけじゃん。お時において。
スピーカー 1
いやーなんか。よし次行こう。
その後艦隊っていうのはボートを出して海岸地帯を測量し始めたんだよね。
そのボートを守るために後ろから軍艦もつけて徐々に江戸の方に近づいていったんだよね。
これ目的はもちろん推進を図って安全に船が走れる箇所を把握するっていうのもあったんだけども、
一つはその強力な軍隊っていうのが江戸に近づいていくっていうような状況を作って日本側を慌てさせるためっていう狙いもあった。
日本側っていうのは何度も即力をやめるように申し入れがあったんだけども、アメリカは拒否をしてそのまま続けていったんだよね。
これはかなり日本側を動揺させて、その後有利な交渉を進める成果にもなっていくんだよね。
このペリーが日本の裏側に来て5日目に日本の3艘の船が近づいてきて、その中に香山英才門っていう、これも裏側武漁の頼りきの人なんだけども、
新書を叱るべき交換が受け取る前のその回答をしに来たんだよね。
彼が言ったのはエドワンじゃなくてやっぱり長崎で受け取りたいっていうのを言って、
さらにその時にオランダ人か中国人の監視者を通じて新書を受け取るっていうことを言ったんだよね。
でもやっぱりアメリカ側っていうのは裏側以外では絶対受け取るつもりはないっていうことを断言して拒否するんだよね。
あともう一つ日本側が言ったのがその軍艦場での受け渡しじゃなくて海岸にその建物を建てて、そこで皇帝から特別に任命された交換が受け取るっていうことにしたいって言ったんだよね。
これは結果認められるんだよね。
その次の日になってようやく本当の裏側武漁が都大泉の神っていうのが佐々木花子に訪れるんだよね。
これで新書を受け渡すその事前の打ち合わせに彼は来て、新書は受領するんだけども皇帝に渡す権限を与えられているだけで交渉自体はできないよっていうことを伝えるんだよね。
細かな確認っていうのも行っていて、例えばアメリカの戦室にあるような豪華な椅子っていうのは用意できないよっていうことも伝えて、
あと葡萄酒とかブランデっていうのがこの軍艦に行くと振る舞われたんだけども、そういった酒もないよっていうようなことを心配してたんだよね。
アメリカがそんな心配いらないからっていうことで、そんな細かなやり取りもあったりして、その翌日7日目にようやく新書を受け渡すっていう日がやってきたんだよね。
これは海岸に設けた建物の中で行われるから、アメリカはそこに向けてなるべく多くの人を引き連れて海岸に臨みたいっていう思惑があったんだよね。
兵士っていうのは一部を残して、あとはくじ引きで選んで武装した兵士約300人が海岸に訪れるんだよね。
海岸までは軍艦からボートに乗り換えて向かって行って、日本側っていうのはその当時100艘以上の日本船が海岸線にビッシリ並んでいて、
陸地には5000人以上の兵士が整列して、武器とか刀、木縄銃なんか持って、後方には騎兵もいたりとかして、かなり大状態だったんだよね。
遠くの高台には大勢の住民も駆けつけて、それを見ていたっていうのが目撃されてるんだよね。
海岸に着くと急遽作られたであろう新書を受け取るための建物が建っていて、これが12メートル四方の建物で、結構すごいよね。
これ2日ぐらいでおそらく建てたんだと思うんだけど、そこでウラガブ魚とペリーとの間で新書の受け渡しが行われたんだよね。
この新書の内容っていうのが、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアっていう当時の大統領の名前が入っていて、
内容でざっくり言うと、両国が相互に交易するっていうことを願っているっていうような内容があって、
もう一つに石炭と食料の供給及びナンパした国民の保護っていうのも記載があったんだよね。
それに加えてペリーからこう言った言葉が、有効的な意図を今回証明するために比較的小さな4隻の軍艦のみを率いてきたんだけども、
必要とあれば遥かに大きな艦隊を率いて江戸に来ることもできるっていうような、ちょっと牽制するようなことを言ったんだよね。
その後ペリーっていうのは来春の4月から5月頃には日本にまた来て、その時はもっと多くの船を率いてくるだろうっていうことを言い残して、
この受け渡しっていうのは終わるんだよね。日本側はこの諸艦が受領されたらすぐに立ち去ってほしいっていうような要望を出して、