1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
  2. #206「徳川慶喜」明治を生きた..
2025-05-27 26:01

#206「徳川慶喜」明治を生きた元将軍

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徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜」が明治以降を

どう生きたかについて話しています。

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<過去の関連回>

第40回「渋沢栄一」一橋慶喜に仕える青年期

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サマリー

今回のエピソードでは、徳川慶喜の明治以降の生活を詳しく探っています。幕末から謹慎までの道のりや、家庭生活や子供たちに関するエピソードに焦点を当てています。徳川慶喜の生涯を通じて、明治時代における多様な生活や趣味、歴史における重要な役割が描かれています。彼は皇族との関わりを持ちながら趣味を楽しみ、晩年の苦労やその影響に抗い続けました。また、明治時代を生きた徳川義信の人生と評価について考察し、彼の選択が日本の内乱の危機を救った可能性を論じています。

徳川慶喜の謹慎生活
スピーカー 2
これからはお前の道を行きなさい。 始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
スピーカー 1
よろしくお願いします。おが太郎はいつでもゴーイングマイウェイでしょ?
スピーカー 2
なんだそれ。
スピーカー 1
なんか、自らの道を行くって感じじゃん。
スピーカー 2
いやいや、でもこんな言葉言われたよね。
スピーカー 1
いや、俺は、おが太郎はね、我が道を行くタイプだと思ってるからさ、やってるじゃん、とか思うけどね。
スピーカー 2
いえいえ、全然。これはね、徳川義信の言葉だ。
彼が渋沢栄一にかけた言葉で有名で、渋沢栄一ってさ、ひとつばし系としてさ、義信にこう、若い時から仕えてきてさ、
で、義信が将軍になって、渋沢栄一も幕真としてパリ万博視察に行ってる間に、日本は大政奉還になって、渋沢栄一が帰国したら幕府がもうなくなってて、
義信はもう禁止してるっていう状態で会った時に、そう言われたみたいなんだよね。
いやー、なんか劇的すぎる変化の中、こんなことを言われるってすごいね。
スピーカー 1
なんか、迷っちゃいそうだけどね。どうしたらいいんだろう、みたいなさ。
スピーカー 2
ああ、そうだよね。渋沢栄一自身もね、その後本当に自らの道を切り開いていったもんね。
スピーカー 1
ね、まさに尾形郎って感じがするよ。
スピーカー 2
いや、そこはね、誰も納得してないと思う、今聞いてる人。
スピーカー 1
いやいやいや、もうみんなそうだよなーって言ってるよ。
スピーカー 2
誰なんだよ。で、これ今回はですね、あのテーマとしては、徳川義信の明治以降のお話をしたいなと思ってます。
スピーカー 1
これはね、結構興味ある人多いと思う。
スピーカー 2
そうだね、ちょっとあえて幕末ではなくて、明治期っていうのも自分が単純に興味があったんで、ちょっと調べたことを話したいなと思ってます。
スピーカー 1
そうそう、やっぱ将軍って言ったら日本で一番偉かったわけじゃん、実質的には。
その人がじゃあ、明治時代にどういう過ごし方をしたのかっていうのはね、意外と知らない人も多いと思うんで、ぜひ興味ある方多いと思うんでお願いします。
スピーカー 2
はい、じゃあちょっとね、幕末の時代をさらっと触れてから明治時代に入りたいと思うんですけど、彼はその幕末に徳川幕府最後となる第15代の将軍となるんだよね。
1867年に大政奉還って言って、幕府が政権を天皇に返したっていうことが起こったんだよね。
その後、王政復古の大号令によって東幕派による新政府が誕生して、その後幕府と東幕派の武力衝突が起こって、東幕府主義の戦いで幕府軍は敗走する形で、吉野部も江戸に敗走するんだよね。
で、この吉野部は強順の道を選んで、強順というのが東幕派に逆らわずに従う態度を示したんだよね。
ここで約260年続いた江戸幕府っていうのは終止符を打ったんだよね。
その後ね、徳川吉野部の命を守ろうとする様々な人の働きかけがあって、なんとか彼は結果ね、謹慎処分という形で命は助かったんだよね。
徳川吉野部はその後、水戸の公道館というところで謹慎するんだよね。
で、その後ね、しばらくして寸歩、今の静岡県に移るんだよね。
これはね、なぜかっていうと、当時その水戸は旧幕府派と新政府派で、今でその対立が見られて、テロ行為なんかもあって治安が悪かったんだよね。
で、そこで寸歩の邦大院っていうところに、ここにね、1年2ヶ月くらい、彼は謹慎することになるんだよね。
この邦大院っていうのは、徳川家康の側室でもあって、その二代将軍徳川秀忠の母でもある西郷の坪根のお墓があるところで、徳川家康とはかなりゆかりのある寺なんでね。
そこに謹慎になっているんだけども、ここにね、渋沢栄一がね、訪れた時の証言なんかがあるんだけど、
久しぶりに吉信子を訪ねると、6畳ほどの狭いかつ薄暗い部屋で、吉信子は座布団も敷かず、汚れのひどい畳の上に直に座って話した、っていうようなことを言っていて、
環境もね、そんな良くなさそうな印象を受けるし、本当に狭かったんだろうね。そんなところで、彼は謹慎生活を過ごしていたっていう。
その後、明治2年の5月に函館の五稜郭での戦いが終わって、母親戦争と言われる戦いが終止符を打つんだよね。
明治政府との関係
スピーカー 2
この年の9月28日に吉信の謹慎が解除されるってことになった。この理由はね、ちょっと推測になるんだけども、一つ目は敵であった幕府派を許すことで、明治政府は国家経営を安定させようとしたって言われてるんだよね。
もう一つは、旧幕府の有能な人材を採用していくために、トップであった吉信自体の謹慎も許したっていうふうに言われてるんだよね。
この謹慎が解除された後に、法大院から、同じ寸布にある元大館屋敷っていうところに移るんだよね。
ここでね、彼の立場というかポジションなんだけれども、東京の徳川総家から定期的にお金をもらって生活をするっていうような暮らしになってるんだよね。
この徳川総家っていうのが、徳川家康から始まって、征夷大将軍を接種してきた家というか、徳川家自体の大元みたいな感じかな。
吉信は、元々幕末は総家の党首を継いだんだけども、そこから明治になっては自ら退いて、自分の子にも総家の党首をその後継がせるってことも避けたんだよね。
その後、明治政府は徳川総家を御三教の一つである田安徳川家から、まだ幼かったんだけども亀之助っていう人に相続をさせた。
これが後の徳川家里になるんだよね。
なんで一応徳川吉信っていうのは、その総家に完全に従う形となっていったんだよね。
吉信家に仕える人たちも全てその徳川総家から任命されて選ばれた人がなっていて、
後に徳川家里が行ったと言われる言葉がこの関係性を表してるなと思ったんだけど、
吉信さんは徳川を滅ぼしたお方、私は徳川家を再興した人間っていうようなことを言ってるんだよね。
なんか結構厳しいこと言うね。
なんかあんまり吉信を尊敬してなさそうなさ言葉だよねこれ。
スピーカー 1
まあその発言だけ切り取っちゃうとどうしてもそう見えるね確かに。
スピーカー 2
一応徳川吉信ってね決してね生活は楽ではなかったんだよね。
これはね吉信家に使える人たちに支払う生活費もあるし、
あとは交渉費だったり、経帳費とかそういったものでいろいろお金がかかってくるし、
そういった出費もあって吉信家が例えば頂き物をどっかからした際にお返しする経済的余裕がなくて、
ただただ頭を下げてお礼を申し上げる他なかったっていうような記録が残ってたりするんだよね。
一般の庶民から比べたら少しはあったかもしれないけども決してそんな優雅な暮らしではなかったっていうのは確かなんでね。
この徳川総家に従うという形は吉信にとってはメリットもあって、
例えば明治政府との書類の提出だったりとか協力依頼があった場合に全部その徳川総家に任せるってことができたんだよね。
吉信にとって面倒なやり取りを直接することがなく避けることができたっていうところでメリットもあるんだよね。
子供たちとその育成
スピーカー 2
この静岡時代の徳川吉信の特徴なんだけれども、
さっき言った面倒なやり取りを避けるっていうところで一切彼はその後政治的発言とかも避けて、自らの過去も語らずに沈黙を守ったんだよね。
あと明治天皇が静岡を訪れた時でも吉信はその総家に加わらなかったりとか、
あとは旧爆心とか家に訪ねてきたりとかするんだけども、それもほとんど会わずに避けたっていう行動をしたんだよね。
有名なのが長居直幸っていう、彼は大正奉還の草案にも携わった爆心なんだけれども、
彼が吉信家を訪れたんだけども、結局会ってくれなくてそのまま帰ったっていうエピソードがあって、
ただ同じ日に渋沢栄一とは会ってるっていうね。これは渋沢栄一の話で残ってるんだよね。
だから渋沢栄一にはやっぱりなんか心が通じたのか、だいたいその1,2年に1回のペースではこう会って話してるっていうところで、
すごい貴重なエピソードもこの2人の中で残ってるんだよね。
ただね、渋沢栄一でさえもいろいろ話してても、今の政治とか幕末の過去の話になると一切口を閉じちゃうっていうような、そんな感じだったんだって。
で、あとね、よく言われるのが静岡時代の徳川義信は、彼の仕事は子作りであったって笑い話に言われるんだけど、それくらい子だくさんだったんだよね。
2人の息子との間に10男11女儲けたんだって。すごいよね、21人。
スピーカー 1
すごいね。
スピーカー 2
これね、歴代の徳川将軍の中で3番目に多いらしい。
スピーカー 1
まあでも3番目なんだ。
スピーカー 2
そうそう。調べたら、これ合ってんのかな本当に。1位はね、11代将軍の徳川家成で53人って書いてあったけど。
スピーカー 1
家成はなんか多いイメージがある、確かに。
スピーカー 2
すごいね、出費もしたしね。
いや、まあでもすごいよね、この数。
スピーカー 1
まあ、小片郎か吉信かか。
スピーカー 2
いやいや、そんなにないだろ、普通に考えて。
スピーカー 1
まあまあ、厳しいね。
スピーカー 2
そう。それからね、この子供たちをね、次々と庶民の家に里子に出すってことをしたんだよ。
これね、理由の中にもあるんだけども、長男、次男、三男って生まれた時に早々に相次いで幼くして亡くなっちゃうってことがあって、
それが理由なのかわからないんだけども、庶民の家でたくましく育った方が結果生存率が上がったっていう事例があって、
そうしたのか、またなんか彼自身のなんかいろんな考えがあったからかもしれないんだけども、
なんかのその庶民の家に普通に預けるっていう。
これがね、植木屋だったりお米屋とか異執とか二豆屋とかね、そんな本当の庶民の家に預けてんだよね。
で、二豆屋に預けられた娘のエピソードだと、お豆一皿くださいなって、
ちっちゃい頃からその二豆屋さんごっこして遊んだっていう記録も残ってんだよね。
これについてはどう思う?
スピーカー 1
言ってる意味がよくわからないんだけど。
スピーカー 2
いやいや、なんかあるかなと思って。
スピーカー 1
いやいや、俺二豆屋って言ってもまずそこまでピンときてないもん。豆売ってんのかぐらいな。
スピーカー 2
まあ今はね、そんな二豆屋ってね、聞かないもんね。
スピーカー 1
うーん、そうだね。そういう専門店はないかもしれないね。
スピーカー 2
そうそう。ちょっとね、コメントに詰められなかったんだけど。
スピーカー 1
え?いやいや、何もなしに俺に言ったのか。
スピーカー 2
そうだよ。
で、このさ、庶民の家に里子に出すってことはさ、かなり異例のことで、
徳川一忍の教育方針
スピーカー 2
例えばさ、天皇家がさ、別のその家族の家に預けるっていうのはあるんだけども、
本当のこの徳川一忍の場合は庶民の家に預けたっていうケースで、なかなか例がないんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
これね、ちょっと俺全然変わるんだけど、最近のさ、研究で、
陽子に出された子は知能が高くなるっていうのがあるんだよ。
へえ。
で、これはね、何でかっていうと、その幼少期から多くの子、違う価値観により触れることが大事だって言われていて、
うん。
だからそう考えると、この吉信の行動って、すごい理にかなってんなと思っちゃったんだよね。
うん。
まあ、いいんだけどさ。
スピーカー 1
いや、何、そこにオチはないの?
スピーカー 2
いや、ないけど、いや、ハッとしたんだよ、このたまたま調べた時に。
スピーカー 1
まあ、なんとなく感覚的にあれなんじゃない?
やっぱりその人様に育ってもらった方がよく育つんじゃないかみたいなのがあったんじゃない?
そのさっきの陽子の例で言うと。
スピーカー 2
ああ、でもなんか自分もそう思うんだよね、最近子供を育ててて。
うん。
親とずっといるっていうのも、やっぱなんか成長しないよねって思って。
スピーカー 1
まあ、パターンが一緒になってくるからね。
スピーカー 2
そうそうそう。
で、まあなんかこんな風にさ、誰もがまあその当時思いつかない決断をこう、
すんなりこう下すっていう。
これもなんか徳川よしのぶらしいというか、
幕末のさ、決断にもこう通ずるところもあるんじゃないかなっていうような見方もあるんだよね。
趣味に生きる慶喜
スピーカー 2
うん。
で、3つ目はもう何と言ってもさ、趣味に生きたって言われるぐらい趣味を謳歌したんだよね。
うん。
これはもういっぱいあるけれども、狩猟だったり釣りとか、油絵、囲碁、将棋、写真とか、もう他にもたくさんあって。
ただこれを趣味と言っていいのかっていうのもあって。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
趣味ってさ、本業のこう仕事があって、それとは別にこう楽しみにすることだったりじゃん。
うん。
そう、だけど彼にはさ本業の仕事に当たるっていうものはなくてさ、
表向きにこう活動ができない、しづらいっていうのもあったのかもしれないけど、
たださ、その明治時代って最初30代前半だからさ、
そのエネルギー満ちた矛先を向ける先が色んな自分の興味あることになっていったんじゃないかなという。
うんうん。
生きるそのものなんだっていうことに私は落ち着いたんですが。
ね。
スピーカー 1
どこに落ち着いたんだよ。
スピーカー 2
そうそうそうそう。
で、若いうちはね、特に狩猟を盛んにやったって言われていて、
あの猟犬とかも一緒に連れてったりとかして、
山に入って実際にその鉄砲で鹿とか鳥を撃ったりとか、
東海道線がね、静岡までこう開通した時には、機車をこう使って移動してわざわざ狩猟に行ったりとかもしてるんだよね。
うん。
他にもね、鷹狩りとか、遠網もやってたり、
吉野部ってね、その幼少期から元々ね、ミトでこう体を動かす遊びを好んでたんだよね。
うん。
そういったのもあったのかもしれないけど、とにかくね、行動範囲も広く遊んでたんだよね。
うん。
で、明治20年代頃になると、もうこの時50代ぐらいになるんだけど、
彼はね、あのまだね、その狩猟と釣りってやっていて、
その年になってもね、年間120日を超えるぐらいやってたんだよね。
スピーカー 1
まあ3分の1ぐらいか。
スピーカー 2
そうそう。
ただ、その後ね、徐々に高齢化の進行と体力の低下とともに、行動範囲が少しずつ狭くなっていくんだよね。
うん。
で、そうするとまあ、室内でできるような囲碁とか、あとは弓とかもやり始めて、
あと明治20年代の後半からはね、最も中心的な趣味と言われてる写真にハマっていくんだよね。
うん。
まあ、彼が撮った多くの写真って、今でも残されてたりとか、すごく写真にハマったっていうのは有名なエピソードだと思うんだけど、
うん。
他にも、なんかすごく新しい物好きで、コーヒーを好んだりとか、あとはビリヤードをやったり、
洋式自転車、当時珍しいんだけど、それを乗り回したりとか、
あと、これはもう静岡時代じゃないけど、晩年には自動車に乗ったりとか、そういうのも楽しんでたんだよね。
晩年の慶喜とその影響
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
あともう、将軍っていうイメージから結構かけ離れてるよね。
スピーカー 2
まあ、もう将軍の面影はないだろうね、そこには。
信じられないよね。
うん。
こうして30年近く静岡で過ごした後に、東京の菅野の方へ移り住むんだよね。
うん。
静岡長かったなと思って、これって静岡って元々禁止で移り住んで、ただその後も禁止解除されてもずっといたわけじゃん。
うん。
スピーカー 2
渋沢一のね、これも言葉があって、「葛博があまり吉信子を押し込めるようにせられておったのに対し、心よく思わなかったもの。」っていうようなことを渋沢一が言ってるんだよ。
うん。
この言葉からも、葛階宗って徳賀吉信を孫府の地に留めようとするような圧力をしていたのかもしれない。
そんな風にもちょっと捉えられるんでね。
うん。
他の移居した理由もあって、妻もこの時既に亡くなってて、家族が独立し始めて、孫府の地にいるっていうこと自体がちょっと寂しくなってきたんだよね。
うん。
あと高齢っていうのもあって、これね、病院の検査で尿に異常が見られたんだよね、この時。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
この対処法で載ってたんだけど、日本赤十字社病院から多量の牛乳を飲むってことを勧められたんだって。
うん。
なんかこれがね、当時ごく一般的な対処療法だったらしいんだよね。
うん。
ちょっとこれ効果あったのかわからなかったんだけど、まあその後もだいぶ長く生きたから。
スピーカー 1
まあ牛乳自体が栄養あるからね、当時薬みたいな感じで扱われてたっていうのは確かにあるからね。
スピーカー 2
ああ、そういう面なんだろうね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
あとね、その寸布の地で、その窃盗犯に二度侵入されてっていうのもあったらしくて、治安の面からも東京に行ったんじゃないかって言われてる。
うん。
で、須賀もはね、今と違ってさ、見渡す限り麦畑の続く自然豊かなとこだったんだって。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
移転して間もなくね、明治31年の時に徳川義信はその明治天皇に参大してるんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
これね、すごく大きな事柄で、今まで明治天皇への接触は常に避けてきたんだけども、
ここで会って、それからね、たびたび宮中で催される公式行事なんかにも参加するようになって、天皇とか皇后とかと一緒に食事をするっていう機会も次第に増え始めるんだよね。
うん。
だから東京に行って、結構徐々にね、今までにない公の場に出るようなことが多くなってったんだよね。
うん。
明治33年に吹き上げ御苑を配管したいっていう吉野部が願いを出して、それが聞き届けられて、実際にね、そこに訪れるってこともしてるんだよね。
うん。
ここはさ、今は皇居の一部になってるけど、元々その江戸時代までは徳川家歴代将軍の礼廟なんかがあった場所で、ま、彼はたぶんそこに行きたかったんだろうね。
うん。
その後ね、明治35年になって、皇爵っていうまあ家族制度の中でも最高位の爵位を授かるんだよね。
でもこれによって、もう完全にその徳川吉野部って対外的にも、彼自身のその名誉が回復したって言われてるんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
で、皇爵になって、今まで徳川宗家に常に従って資金援助なんか受けていた立場から、宗家とは別家としてこう独立っていうような形なのかな、そういう形になって、
これね、その後の収入源はね、実際のところね、よくわかってないらしいんだけども、
おそらくその家族の特権として与えられる家紋永続金とか、あとはその銀行とか会社の株主になって得られる配当金の収入なんかもあったんじゃないかって言われてる。
うん。
で、その後ね、菅野から現在の文京区の方に引っ越して、で、これはね、住んでた菅野のとこの家の近くで、菅野駅のこの建設工事が始まっていって、
騒音だったりとか、まあ開通後、おそらくその喧騒なんかが大きくなるだろうってことを予想して、引っ越したんじゃないかって言われてるんだよね。
うん。
で、文京区の小雛建てってところに引っ越して、で、晩年はね、渋沢栄一のこれ提案で、徳川義信のこう電気を作る作業に、自ら熱心に協力してったんだよね。
うん。
ただね、彼はその協力するにあたって条件として、世間に開示するのは、死後相当の時間を置いてっていうような条件を出してるんだよね。
うん。
まあ、だから今今日こう徳川義信工電ってものすごい膨大な量の資料が見れるようにはなってるんだよね。
うん。
で、これね、徳川義信工電って、あの、義信が静岡移住するところまで、自らね、目を通してチェックして修正とかも出してたんだよね。
うん。
で、1913年大正2年に、徳川義信はその、救世繁栄のために75歳で亡くなるんだよね。
うん。
これはもう、歴代の徳川将軍の中でも、最も長生きしたんだよね。
うん。
で、なんか、やっぱりこう振り返って、まあこんな変化に富んだ生き方をした人は、歴史上見ても珍しいなって思うぐらい、すごい生き方だなと思って。
うん。
で、さらにさ、その政権がひっくり返って、朝廷の敵っていう風にされてさ、で、さらにさ、その早すぎる幕引きがさ、旧幕府派の人からも恨みを買うってことにもなって、
まあそういったさ、ものを全部背負ったままさ、徳川義信って、自らの過去を晩年まで語るってことをせずに過ごしたっていうのは、もうなんか、どんな心境だったのかなっていうのを考えさせられるね。
うん。
徳川義信の選択
スピーカー 2
なかなかさ、こんなことはさ、やろうと思ってもできるもんじゃないなと思って。
うん。
で、それでいてさ、あの徳川将軍だった地位もさ、すべてこう、あっさりこう捨ててさ、で、徳川宗家の党史の座も譲って、がらっとさ、自分が熱中できる趣味に没頭するっていう、
その、なんか、経緯にすがるってことをせずにさ、自分の信じる道を進んだ人かなと思って。
うん。
で、彼のさ、晩年になると、明治政府が推進してきた反罰政治にも限りが見え始めて、徳川義信の評価って、大衆にも上がっていくんだよね。
うん。
それはさ、なんか、彼が大政法官を早々に決断して、標準の道を選択したことで、日本を大規模な内乱の危機から救ったんじゃないかっていう評価があって。
まあ今でも、徳川義信って人気だもんね。
うん。
まあそんな、今日は徳川義信の明治時代のお話をしました。
はい。
いかがでしたでしょうか。
スピーカー 1
まあそうだね。
評価と人物像
スピーカー 1
義信って、なんかやっぱり、結構有能だったっていう見方もあるし、無能だったっていう見方もあってさ、
まあそれは多分、もう後世の人がさ、どう見るかで決まることだからさ、
それは人それぞれどう思うかは自由だと思うんだけれども、
まあやっぱりさ、時代に翻弄されたっていう面もすごい強い人だなと思ってさ。
スピーカー 2
ああ、そうだね。
スピーカー 1
まあそれはやっぱりさ、将軍にだって本当はなれないようなところからなって、
で、しかもすぐ終わって、で、なんなら死刑だってあり得たわけじゃん。
スピーカー 2
他のね、国だったらなってるしね。
スピーカー 1
そうそう。でもそれをこう、まあわかんない、本人がどう思ってたかはもう知る余地もないけれども、
こう生き延びて、自分の人生をこう全うしたっていうところで、
まあなんだろうね、将軍としてとかそういう目線ではなくて、
やっぱり人としてさ、なんか結構いい人生歩めてたんじゃないのかなって。
もちろん本人には本人のさ苦労とか絶対さ、たぶん人には言えないような思いってあったんだけど、
でもやっぱりこう自分のやりたいことに没頭できたっていうところだったりとか、
まあとにかく長寿を全うしてるわけだし、
なんかそういう意味でも、なんかすごく人としていい人生だったんじゃないのかなとは思うんだよね。
スピーカー 2
ああ、確かに人としてすごく興味を引くよね、この人。
スピーカー 1
うん。なんか、なんだろうな、なんか別に嫌みったらしくじゃなく、
本当に仲いいなってちょっと思うような人なんだよね。
スピーカー 2
ああ、そうだね。
うん。
お礼とエンディング
スピーカー 2
ということで今回は明治以降の徳川よしのぶについて話しました。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
じゃあもしよかったら、この番組の媒体によって評価の欲しいだったりとか、いいねボタン押せますので、
ぜひこれを押していただけるとテンション上がりますのでよろしくお願いします。
スピーカー 1
ウェーイ!テンション上がり上がり!
本当に?
高評価よろしくお願いします。
スピーカー 2
はい。それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
スピーカー 1
ありがとうございました。
26:01

コメント

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