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2021-04-20 16:05

第11回 戊辰戦争と土方歳三 Part1

https://twitter.com/@otonanok 土方歳三と戊辰戦争について 天保6年5月5日(1836年)10人兄弟の末っ子として東京都日野に生まれた土方歳三。 やんちゃな少年時代を過ごしていた。 ある時、武道「天然理心流」に出会い稽古に励む。 そこで近藤勇をはじめ後に新選組として活躍する面々と出会うことになる。 戊辰戦争(慶応4年1月3日〜明治2年5月18日)(1868年〜1869年)は、新政府軍と幕府軍との戦い。 「鳥羽伏見の戦い」から始まり、「甲州勝沼の戦い」、 「宇都宮城の戦い」、「会津戦争」、と京都から江戸。 江戸から東北へと幕府軍は北へ敗戦していくことになる。 


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我、壮年武人となって名を天下にあげん。始まりました、「大人の近代史」
よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
あのね、ちょっと俺笑いこられたから。 本当に。今回ちょっと、肘肩年相を話そうと思って
これね、17、8歳時に肘肩年相が好きだったんですよ。 句を作るのが。
句って俳句? そう、俳句みたいな。
で、あの17、8歳の時に庭にね、この前見に行ったでしょ? 庭に屋丈が植えてあったけど。
あーあったね。 これ植えた時に、読んだ句らしいですね。
へー。 どんな意味なの?
もうだから、武人って武士になりたいんだろうね、多分。 武士になりたくて、そんで名を天下に滞らせたいみたいな。
そんな意味だと思うけど、おそらくね。
まあそれはね、わかんないからね、読んだ人しか。 そう、読んだ人しかわかんないからね、読んだ人に語ってもらわないとなんだけど。
まあということで、あの今日はですね、あの前回肘肩年相資料館にも行って、日野の町とか新選組をちょっと見て触れてきたので、
まあどうせだったら、肘肩年相の生きてきたその時代とか、やってきたことっていうのを簡単に説明できたらいいなぁと思って今日話したいと思ってます。
イェーイ!
なんだそれは?
いやー、だってやっぱね、肘肩年相ってテンション上がるでしょ、どう考えても。
そう、まあね、いろんなね、アニメとかミュージカルとかにもなってて、そう、なんか話すのをね、どうしようかなって結構悩むんだけれども。
いやいや、悩まなくていいでしょ。
まあということで、じゃあ早速始まりましょうか。
はい。
あ、そうそう、でね、最初に言っておくんだけど、肘肩年相をやるんだけども、主に五神戦争と肘肩年相をちょっとメインにやろうかなと思ってます。
あー。
そう、なんでかというと、この前新選組のパート1、パート2でも、江戸から京都に行く流れとか、京都での出来事とかちょっと触れてるんで。
あー、まあ新選組かぶりしちゃうからね、そこは。
そうそう、かぶっちゃうから、まあどうせだったらやってないところ、まあそれでもね、だいぶ幅広いんで、広くちょっと浅くなっちゃうかもしれないんですけど、聞いていただければと思います。
はーい。
じゃあまずはね、いきなり五神戦争に行く前に、肘肩年相がですね、東京都の日野に生まれたんですね、1836年、天保6年の5月5日なんですけど、10人兄弟のね、末っ子として生まれるんですよ。
多いですよね、この時、やっぱ兄弟。
まあそうだね、別にそれが珍しいわけじゃないってことだもんね。
まあ、早くで亡くなっちゃった兄弟とかももちろんいるんだけども、でね、これね、知らなかったんですけど、お父さんがね、肘肩が誕生する3ヶ月前に結核で亡くなってるんですよ。
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3ヶ月前に?
そう、でね、実はお母さんも6歳の時に結核で亡くなってるんです。
えー、じゃあもうちっちゃい頃に両親死んじゃってるってこと?
そう、両親亡くなってるんだよね。
で、それで幼少期ね、すくすくと元気に育ってやんちゃだったんですよ、近所でも有名な。
で、あの、高畑不動村ってこの前日野に行った時も言ったんだけども、今もあるね、高畑不動村の三門っていう大きな門があるんですよ。
その上にね、なんか四字登って、鳥のね、卵をね、持ってね、来る人に投げつけて遊んでたっていうエピソードもあるくらいやんちゃだった。
笑うだけじゃん。
そうそうそう、そういうちょっとね、やんちゃな部分があった。
そうそう、で、あのこれ、ひじかたけってだいたい農業の副業として石田山薬っていうのを売ってたんですよ。
当時のあの、まあ漢方薬みたいなもんですね。
で、この原材料に牛角草っていうのを使ってて、あの村中ね、結構総出でこの刈り取り作業をするんだけども、毎年。
で、この刈り取りに配置とかをね、指揮したりとか、そういうのがね、ひじかた年僧はね、若い頃から彼がやると作業がすごい早く進むって言われてて、
なんかこの頃からね、こう、新選組の副長としてのもう才覚が出てるんじゃないかなっていう。
リーダー気質的なね。
そうそう、だから上手かったんだろうね、仕切るのが。
でね、まあその中で武道のね、天然力進流っていうのも学んで励んでたんですよ。
で、ここで近藤勲とかにも会うんですよね、新選組の仲間たちにもいくつかいて。
この前、ひじかた年僧が言った正解言ったと思うけど、あの庭にさ、1.6キロの大牧頭ってあったじゃん。
ああ、あのでっかい太いやつね。
そう、あれでね、日々鍛錬してたんだって。
あんなよく触れるよね。
いや、だからもうあれすごいよね。
いやもう、あれでさ、もう持ってるだけでも辛いって感じだもんね、一般人はさ。
だから振ったらさ、その反動で投げちゃうっていうかさ、手からすっぽ抜けちゃうよね、普通に太いから。
だから相当さ、腕力とか力もあったんだろうね。
ああ。
で、あの、まあ早速ですけど、まあちょっと幼少期はね、まあこんな感じで。
で、一気にね、まあ時代が少し飛んで、気になる方は新選組パート1、パート2を聞いていただければ、内容なんとなくはわかるので。
今日、今回はですね、母親戦争の始まり辺りからやるので、一応ね、ちょっと時代背景を言うと、母親戦争が始まる2ヶ月前ぐらいにですね、KO3年の10月14日なんですけど、徳川義信、当時のあの徳川家最後の将軍って言われてる徳川義信が大政奉還をするんですよ。
ああ。
この大政奉還って、まあ当時その倒幕派、幕府を倒す力が強くなってきて、彼らが求めてるのは天皇を中心とする国家を作りたいっていうことなんですよ。
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で、あの当時徳川家っていうのは、あの天皇から名目上は国を統治するために委任を受けてるっていう建前だったんですよ。
だからその権利を、だったら天皇に返す。返すんで、なんか私たちを標的にするというか、もう戦う意味がないでしょっていう意思表示だったんですよ。
だけどこれ結局ね、名目だけの大政奉還で、大政っていうのは何も変わらずに、経済力とか軍事力っていうのはまだ引き続き幕府が持ってたっていう状態なんです。
ああ。
そうそう。で、これだと何も抜本的な改革にならないからって言って、2ヶ月後にね、12月9日に大政復古の大号令っていうのが、新政府軍中心に出すんですよ。
これが抜本的な改革って言われてて、徳川勢力を当時の将軍とかその下にいる偉い役職の人全部取っ払っちゃって、
要職に新政府軍の面々を入れるっていう大改革なんですよ。
で、これでね、大きく徳川家の権力というかは後退していくんですけど、でもこれでやっぱり黙っちゃいないわけですよ。徳川幕府の方も。
そうそう。で、これで一部ね、薩摩のちょっと空出たっていうのもあったんだけども、母親戦争っていうのが新政府軍対徳川幕府寄りの人たちの戦いが始まっているわけですよ。
で、これがね、慶応4年1月3日から6日、戸場不死身の戦いっていうのが始まりなんですよ。
そう、で、戸場不死身の戦いっていうのは京都の南側あたりの戸場不死身っていう場所で起こったんだけども、幕府軍としてひじかた都市図を含め新選組も参加するっていう戦いなんですよね。
そうそう。で、新政府軍がね、これ人数だと約5000人ぐらいに対して幕府軍は約15000人だったんですよ。
数多いね。
数多い、3倍多いの。だけどね、新政府軍って近代的な大砲だったりとか銃を持って戦いに挑んだんですよ、この戦いで。
で、対する幕府軍は今まで通りというか前に歩兵隊を置いて、新選組も切り込みで攻撃しに行ったりとかしたんですよ。
で、戸場不死身の戦いで、ちょっと新政府軍の場所取りも良かったんだけど、ちょっと高台に位置して陣取ってたとこもあったんですよ。
で、上から一斉的に射撃を受けたんです。
鉄砲だったり大砲。で、一気にやられてって崩れてったんですよね。
で、人数はいたんだけれども指揮命令系統も曖昧というか、明確に誰が指揮するかっていうのがいなかったらしいんですよね。
で、それで総崩れになって負けていったっていう。
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そうそう、だから人数で圧倒してね、ここでもし持ちこたえてたらちょっと時代は変わってたかもしれないんだけども。
で、党のね、この徳川義信なんだけども、大阪城に当時いたんだけど、
もうこの戸場不死身の戦いで幕府軍が劣勢になってくるとやばいってなって、大阪城から船に乗って江戸にね、逃亡したんですよ。
みんな戦ってる中っすね。
で、しかもね、藍津藩の松平片森って新選組の親玉というか、新選組を預かってた藍津藩のトップも一緒に、徳川義信って一緒に船で逃げてるんですよね。
いや、だからさ、ここでもう勝負は実はあったって思うというか、だって何のために戦うんだって話になっちゃうじゃん、これ。
そうそう、徳川の将軍のために戦ってるって思ってた人たちがさ、党の本人は捨てて逃げてるっていうね。
で、なんかまあこの戦いなんだろうと思った時に、パソコンとタイプライターかなと思って。
なんだ?え?そういうこと?
いやいや、だからあの新政府軍がさ、パソコンだとしたら幕府軍がタイプライターみたいな戦いの差があったのかなっていう。
よくわかんねえな。
ちょっと万を持して言ったんだけど。
万を持ってタイププライターか。
そうそう。で、新選組も結構多く亡くなったんですよ。
で、肘方敏装はね、もう敗れながらも江戸に帰還していったんですよね。
でね、その頃から幕府軍、新選組もなんだけども、洋装になっていったって言われてる。
要は今までの戦い方がもうダメだし、変えていかなきゃっていうのもあって、結構ね、洋装とか外国の、主に幕府軍はフランスかな、フランスか、の軍隊を真似てやっていったっていう経緯があるんだよね。
そして、その次にどんどんちょっと行くんだけども、江戸がね、無欠解除ってよく言われるじゃん。
かつ改修が主導でやったっていう。
この江戸の無欠解除を行うにあたって、江戸は当時平和的に解決したかったから、かつ改修がね、新選組が江戸にいると、
新選組って多くの徴収だったり、尊能上位の過激派たちを取り締まってきたわけじゃないですか。
争ってきたわけあるから、こう、穏便にことが進まないっていう考えがあったって言われてるんだよね。
これね、ちょっと定かではないんだけど、ある個人の日記とか、そういうのでなんかあるんだよね、記録に。
で、なんで新選組はちょっと離れたところで、山梨県の甲府城っていうところを、ちょっと幕府軍の防衛拠点にしたいから、そこを選挙してきてほしいっていう。
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って言って、仮に出されるんですよ。
でもさ、穏便に解決したいのに、新政府軍に取られないように頑張って防衛拠点にしてくれって、ちょっと真逆のこと言ってるんだけど。
で、甲府城に新選組と、合計で310人のうちの新選組が70人ぐらいか、だったんだけど、これがね、紅葉陳部隊っていう名前になって、行ったわけですよ。
山梨県の方に。で、途中ね、大きな崖とか山とかあるんですよ。
で、行くのが結構大変で、持って行った武器とか、大砲とかね、大きなの2つ持って行ったりとかもして、なかなかね、うまく進まなかったんですよ。
で、雨とかも降ってきて天気も悪くて、新政府軍は板垣大輔率いる400人ぐらいの兵隊で、とにかくね、急いで、甲府城先に取った方が、なんかこの勝敗を分けるみたいな思ってたみたいで、急いだわけですよ。
新選組もね、おそらく彼らなりに頑張ったんだと思うんですが、前日に新政府軍に甲府城取られちゃったんですよね。
先に疲れちゃった。
先に1日早く疲れちゃって、結局ね、新政府軍に圧倒されちゃったっていう話なんだけど、ここでね、ちょっとね、あるのが、
ウィキペディアとかね、いろんなメディアとかでも言われちゃってるんだけど、新選組が幕府にね、その戦いの費用でお金をもらったわけなんですよ。
それで行く途中にいっぱい合流しながら遊んでドンちゃん騒ぎして遅れたっていう話に、一部でなっちゃってるんですよ。
でもね、これさ、よくよく考えて、いや、そんなことする?みたいな。
なんかちょっと塗り替えられちゃってるところもあって、実際に個人の日記とか見てると、ちゃんとね、結構な距離進んでるから、
ちょっとここはね、ウィキペディア直してほしいなって思います。
何の告知だっていうね。
でね、これ告知を先に取られちゃって、2時間の戦いでもすぐ敗れちゃったんですよ。
400対300ちょっとなんだけども、新選組が400、ちょっと多かったっていうのもあるんだけど、幕府軍の方も実は半分ぐらいが新選組じゃないから、寄せ集めの人たちですぐ逃げちゃったんですよね。
やる気がなかったというかね、そんなに意識がなかったというか。
で、敗北して、ひじかたはもう負けるって思って、もう無理だって思って、その戦いの前日に江戸に援軍を頼みに行ってるんですよ。
ひじかたとしぞ。で、残った新選組は取り囲まれて、近藤勲とか捕らえられて、後に殺されちゃうんですけどね。
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で、ひじかたとしぞは江戸に行ったんで、助かったっちゃ助かったんですけど、この後江戸が無欠解除になるんですよ。
新選組はここに直接いなかったんで、あまり関わってないんですけど。
勝つ回収の西郷隆盛が御殿に明け渡したって、その代わりなんか軍艦とか武器をすべて引き渡すって、幕府軍のね。
条件もあったんだけど、なんかこれでさ、自分の中でも歴史でここで終わっちゃってる部分が多くて、
なんかめでたしめでたしみたいな、江戸がこれで無欠で平和に終わったって思ったんだけど、
これ新戦争のトータルで見たら、結局その後も多くの血が流れてるんですよね。
この後がひじかたとしぞも出てくるんだけども、徳川義信はもう新政府軍に降参というか、歯向かいませんという意思表示もしたわけですよ。
で、ただ新政府軍は相津藩、京都の新戦組とかをね、従えて新政府軍をやっつけてきたわけじゃないですか、取り締まってきたのが主に中心が相津藩なんですよ。
で、あと東北にいる諸藩たちも結構幕府寄りの人が多かったんですよ。
で、そこで東北とか相津藩、新潟も含むんだけど、そこの結構な藩が同盟を組んで、
応越列般同盟って知ってるかな。
知らない。
東北とか福島も新潟も含めるんだけど、の含めた同盟で幕府側の同盟なんですよ。
が結ばれて、ここと新政府軍がこれから戦っていくっていう東北の争いが入ってくるんですよ。
で、ここが同盟が結ばれて、まずひとまず今度ね、栃木県の宇都宮城っていうところで戦いがあるんです。
ここでね、ひじかたとしぞうが敷居をしたって言われてるんだけども、当時新政府軍に宇都宮城またまたしても先に取られちゃってるわけですよ。
ただね、そんなに団結力が新政府軍なかったっていうのもあって、あとひじかたとしぞうがね、この時逃げ腰だった味方とかを切ったんですよ。
それで統率を取ったって言われてて、あとは幕府軍が最新式の大砲っていうのを用意して、それも威力を発揮したとは言われてるんだけど、
この宇都宮城を1日で取り返したんですよ。やっとね、ここで今まで負けてたのが初めてちょっとここで勝ったんですよ。
だけどすぐ新政府軍が退去でまた大勢を押し寄せてきたんですよ。それでその時にすぐ取られちゃって、その時にひじかたとしぞうっていうのは
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銃を足で撃たれて、足の指かなっていうのを負傷して、しばらくちょっと戦線離脱するんですよ、ここで。離脱してる間にこの藍津戦争っていうのが福島のところの中心に起こるんだけど、ひじかたとしぞうは後半のちょっとぐらいしか参加してなくて、ここはあんまりいないんですよ。
で、その時は藍津のちょっと戦艦の離れたところで休んで怪我を治してたって言われてて、その時に殺されちゃったって言った近藤勲のお墓をね、建てたって言われてるんです。
天明寺ってとこが今でもあるんで、もしよかったら行ってください。はい。で、ちょっと1回ねここでねだいぶ長くなっちゃったので、今回の回はここまでにして、次回からこれからねやっと函館に向かっていくっていう流れを説明したいなって思います。
おお。どんな感じですか?これめちゃめちゃなんか薄く長いって感じなんだけど。いや、結構細かくは話してんじゃないの?まあ予想通りに長くなってるけどさ。そうだね。うん。そんなにやっぱひじかたとしぞう軽く喋れないよ。
喋れない。まあということで今回ひじかたとしぞうの1回目ってことになりましたね。ちょっとどのぐらいの長さで行くのかって話してみたらやっぱりね1回で語り尽くせなかった。まあね、やっぱひじかたとしぞうすげえからね。
まあひじかたとしぞうもそうだしね、母親戦争自体もね長いしね、すごい濃いからね。じゃああのもしねコメントとかいただけると励みになるのでまた次回笑顔で会いましょう。ありがとうございました。ありがとうございました。
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