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こんばんは。 こんにちは。
大沢泉の雑談放送第12回。 大沢泉は、大沢泉と大沢泉による
フジコフジオ方式で漫画を描いている大沢泉です。 今回は
年末なので 今年読んだ本の話とかを
しようかなっていう、そういう回 なんですけど、その前に
仙台が 連敗ストップ
よかったねー。本当にねー。 今節、水曜の
千葉ジェッツのララアリーナで 仙台が勝ちました。
嬉しいね。 いやー、もう
バイウィーク前からね、あんまり良くなくて バイウィーク明けも負け続け、再開になり
ね、東地区再開。 もうね、茨城ロボッツにも連敗して
もう本当にダメだと沈みまくっていましたが 勝ちました。ようやく。
千葉もね、主力の外国人選手が2人。
DJホーブ選手と。 ムーミーだよね。リバウンドの金目がいない。
万全ではなかったですね。 渡辺優太も肩怪我してるし
東橋も足首ちょっと怪しいし、腹も微妙みたいな、みんな調子悪いじゃん
みたいな千葉だったけれども、仙台は何が何でも勝ち星が欲しかったっていう。
どういう状況であれ勝ちたかったよね。もう あのあそこまで負け続けるとさ。
だからもう、ボロボロの千葉とはいえ勝ちは勝ちや!っていう
感じですね。 しかもなんかBSで放送だったからさ。
今期の試合が結構点差をつけてもひっくり返されるっていう展開が多かったから、結構最後の最後まで
やられるやられるってドキドキしながら見てましたけど。 全然油断できない。全然わかんないこんなのって思って見てた。
たまに勝つと嬉しいものですね。 そうね。
本当に久々に勝ちましたね。 なんか本当に吉郎もよ、
安も、本当に勝って良かったねっていうそういう。
嬉しそうだった。 ようやく勝ったっていうのがね。でも結構出だしから
今日はやるっていう感じが伝わってきたよね。 そうだね。
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結構強気にシュートを果敢に打って。 うん。
ディフェンスも良かった。 ディフェンスも良かったし。
ディフェンスが良かったのか千葉のシュートが本当に今日
入りにくかったのかわかんない。何がどうかわかんないけど。 でも仙台はやっぱ3もいつも入らないけど今日も入らなくて、それでも
セカンドチャンスで2ポイントはよく入ったし。 リバウンドがよく取れてた。
それが良かったところですね。今日は。
もちろん千葉の不調っていうのはあるけど、なんかやっぱりそのシーズンの中の流れっていうのもさ、あるじゃんね。
その試合の流れって流れがあるようにさ。 シーズンの中でこういろんなそれぞれのチームの浮き沈みがあって、
でもその中で勝ったり負けたりするっていうのもそれはそれで面白いよね。
千葉はそれで行くとちょっと怪我人属出してホームで初めて負けたのが
土日の群馬戦で、そのすぐ後だったし。 ちょっとオッドオッドっていう感じで。でも
仙台もこっから勝てるのかどうかっていうのがまたあるんじゃない。ここで勢いついてまた勝てれば
いいですね。
でもなんか悪いイメージはちょっと払拭できたんじゃないですか。 そうだね。何しても勝てないみたいな感じがあったから
良かった。
たりき出てください。 そう、大好きなんだけどね。
たりき最新出てこなくてよ。 そう、ロスターに入ってなくて、なんだろう。 コンディションが多分悪いのかな。
怪我とかなのかなになのか、わかんないけど。
なんか今日もツイートで実況してて、お前はどこにいるんだって。 言われてたね。
一緒に行ってないんじゃない?
帯同してないよね。 だってベンチでツイッターやってるわけないもんね。 そうそうそう、行ってないと思うんだよね、一緒に。
どうしたんだ。しばらく出てないよ。 秘密兵器ステフェンチェミン。
そんなこと、適当なこと言うて。 ショートのフンフンディフェンスとか。
ファイルアウトしちゃったけど。 二人とも良かったですよ。
ヤンジュミンも。 今日は結構みんなそれぞれ
それぞれ良かったんじゃないかなと思いますけどね。 良かったよ。
応援してきて良かったよ。 そういうにはまだ早いんじゃない?まだ最下位だからね、言うて。
いやね、見放してたらこの嬉しさは得られなかったわけだからさ。 まあそうね、そうだね。
応援に行きましょうね、ホームもね。 ホーム全然買ってないからね。ホームで買ってくれ。
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次は勝つ。 そんな感じで。
本題に入りますけど。 本だけに。
違う、そういうことじゃない。 そういうことじゃない。
今年読んだ本の話を。
どんな本を読んでましたか?
いろいろ読みましたけど、
なんか哲学っぽい本が結構多かったような気がする。
重めの本が。 重めの本をゆっくり読むみたいなモードでしたね、今年は。
結構20代とかの時は小説読んでた気がするけど、
小説全然今年読んでないなって気づきましたね。 今年は今年どころかしばらく読んでない。
そちらはどうですか? 今年読んだ本の傾向とか。
今年は前半は、なんか去年からの流れで、
アニメーションの高畑勲の本とか、
そこからちょっとだけ宮沢賢治に行ったりしつつ、
なんか割と単価の入門書とかが多かったかなと思います。
あとはちょっとだけ民族学関係とか。
なんか緩やかにつながってる感じがしますね、それぞれが。
まあそうかもしれないね。
そんなわけで、今年読んで印象に残った本を一人2冊ずつ、
なんとなく選んで、まあそこから脱線したりするかもしれないけど、
その本を軸になんか、面白かったところとかね、話しようかなと思いますね。
はい、じゃあ、先行私から。
えっと、謝罪論。
古田哲也さんという方が書いた本ですね。
これ多分今年出た本かも。
結構新しい。
タイトル通り謝罪、謝罪するってどういうことなんだろうみたいなことを考えて、
まあいろいろ考えてる本。
ごめんねって。
謝罪、日常的に我々するじゃないですか。
謝罪しない日、ないんじゃない?
そんなに謝ってる?
いや、そのさ、なんかちょっとごめんみたいなさ。
09:04
この本の中でもいろんな実例を考えながら、
謝罪って何でしょうっていうのをいろいろ深めていくんですけど、
まあその、謝罪の場面いろいろあって、
その軽い謝罪から重い謝罪まであるよねっていうのが、
まあ最初の方に出てくるんだよね。
それはまあわかるよね。
なんかその満員電車とかで、つい隣の人の足踏んじゃって、
あ、すいませんとか、
それは軽い謝罪に入るのかなと思うんだけど、
で、まああとは、例えばその間違って人のことを車で引いてしまって、
その被害者に対して加害者がする謝罪とか、
なんかテレビとかで見る謝罪会見の重めの謝罪とか。
謝罪って本当にいろんな場面でするものですよねっていうのを、
実例をもとにいろいろこういろんな面から見ていくんだけど、
その一方で、謝罪ってなんなんすかねみたいなことを、
これまでにも定義づけようとした試みっていうのがいろいろあって、
謝罪とはこういうものであるっていうのを、
まあなんかいろんな人が捉えようとしてるんだけど、
例えばなんか面白かったのは、
日本人の大渕賢一という人が4つの分類の中に謝罪を位置づけてみようっていうのを言ってて、
謝罪っていうのは、
なんか悪いことをしたし、そのことに対して自分は責任があるっていうことを認めること、
それを謝罪だっていうふうに考えてて、
さっきの足踏んじゃったの例で言うと、
足踏んだでしょって言われて、
はい踏みましただよね。
はい踏みました。
で、踏んだっていうことが悪いことだと思ってるし、
その責任は私にありますっていう時に、
初めて謝罪っていうものになる。
でもなんか不可抗力で満員電車だから、
わざわざじゃなくて、
もうどこにも足の置き場がなくて踏んでしまいましたっていう時もごめんって言われるよね。
その時には、確かに足は踏んでしまったし悪いとは思ってるけど、
12:00
俺はしょうがないじゃんって言う時に、
そういう謝罪もあるよね。
しょうがないじゃん、ごめんねって言う時には、
弁解になると謝罪ではなくて。
で、まああとは足を踏んだけど、それが何か?みたいな態度になる時。
うん、なるほどね。
悪くないけどっていうね。
っていう時には、それは正当化ですと。
まあなんか出てきてる言葉はすいませんかもしれないけど、
そうそうそうそう。
で、そもそも足踏んだでしょって言われて、いや踏んでないっすっていう時は否認。
だからまあその自分がその行為をしたかどうかと、
その行為が悪いことだと考えてるかどうか。
で、その行為に自分が責任があるかどうかっていうことの、
この枝分かれの中でその4つの分類が、
その釈明の4つの分類って言い方をしてるんだけど、
4つの釈明のやり方の中の1つに謝罪があるんだっていうことを言ってる。
っていうことを考えると、その表向きはすいませんって言ってる時に。
そうそう、なんか謝罪会見とかでさ、謝ってるけど、でもその時に誤解を与えてすいませんでしたって言ったのは、
いや悪いことしてねーしってなってるよね。
いやしょうがないですよみたいな。
否認だよね。
いや私はそのようなことはしてないけど、あなたが誤解したんですよっていう風に言ってて、
俺やってないって言ってて、なんかそういう会見もあるし。
そもそも記憶にございません。
だけど世間に、あの…
お騒がせしてすいませんでした。悪いことしてねーけど。
いやそもそもその行為してないんですけど、みたいな。
ほんとにね。
それはもう否認ですね、みたいな。
それは謝罪会見じゃないっていうことね。
否認会見だね。
そうそうそうそう。
なるほどね。
なんかこれ結構日常生活でも使える分類だなって思って。
この人、謝ってはいるけど、この段階っていうか、
悪いと思ってないんだなとか、責任ないと思ってないんだ。
もちろん人に対してだけじゃなくて、自分がその、すいませんってつい言っちゃった時に、
それって本当に謝罪なんだろうかみたいなことを、自ら問い直すみたいなことを。
そうだよね。
自分の行為を認識っていうか、需要っていうか、できないと謝罪できないもんね。
そういえば、脱線かもしれないけど、今年、割と最近気になったニュースで、
ネットで誹謗中傷っていうか、人に死ねとか殺せみたいな。
俺が殺してやるみたいなことを言って、捕まったのが女子中学生だったニュースがあって、
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その後どうなったのかよくわかんないけど、
なんかその時に、書類送検になった子が反省してるみたいなことを言ってたんだけど、
なんかその時も、謝罪とか反省とか責任とかって何なんだろうなーって、
その時考えたなーっていうのをちょっと思い出しました。
謝ってる感じに聞こえなかったってこと?
この人は本当に謝ってるんだろうかみたいな?
本人が会見とかしてたわけでもないしさ、
なんか事情とかも何もわかんない、ただニュースで反省してるらしいみたいな感じで流れてくるだけで、
でもなんか、中学生ぐらいで、
なんかそういう時ね、むしゃくしゃしてとかさ、自分もなんかいろんなものを抱えててついやってしまいましたみたいな、
でもなんかその行為をさ、まず自分がどういうことをやったのかっていうのを、
そんなにその書類送検されてすぐすぐ認識できるもんだろうかとか、
なんかまずその自分が何をしたのかっていうことの認識ができないと謝罪って絶対できないし、反省もできないと思ってて、
でもこの本の中でも、なんかそういう、これから私は反省していきますっていう意思の表明っていう謝罪もあるんじゃないかみたいなことを確か言っていて、
今はその自分のやったことの重みっていうのをわかってるかどうかわかんないけど、
だけどこれから考えていきますっていう、そういうその意味合いの謝罪もあるんじゃないかっていう、
わかんない、その女子中学生の子がとりあえず言わなきゃいけないから謝罪してるっていうだけかもしれないけど、
中身はわかんないからね、本当に大変なことをやったなぁみたいなことが本人の中にあるのかもわかんないし、
違うかもしれないけど、なんかこの謝罪と許しっていう話もこの中に出てきて、
許しっていうこともすぐにできるもんじゃない。
そうだよね、特に重い場合がね。
許しがやってくることっていうのは本当に奇跡というか、強行なんだっていう。
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加害者の動向の問題でもないって感じがあるよね。
本当に運が良くて、これから生きていく中で運が良ければその許しっていうものを与えることができるかもねっていう、
だからその中学生の子もこれから生きていく中でいろんな人生の経験を積んでいく中で、
自分のやった行為とやがて向き合うのかもしれないよね。
そのやがて向き合うっていうのが本当に未来のどの段階で来るのかって結構後々。
しかも一回じゃなくてちょいちょい思い出してあって。
なんかね、ごめんなさいっていうことが謝罪じゃない。必ずしも謝罪じゃないっていう話。さっきもちょっとしたけど。
ポーズ的な。
結局この本、謝罪が何なのかっていうのをいろいろ考える中で、謝罪っていうものに本質はないっていうところに結論が持ってくるんだよね。
過去いろんな定義付けをされたけど、この本で定義付けはしてないっていうこと?
というか、家族的類似性っていう考え方で謝罪を捉えようとするんだけど、本当に謝罪にはいろんな場面があって、
いろんな場面をいっぱい並べたときにそれに共通する謝罪の本質みたいなものが現れてくるわけじゃなくて、
いろんな場面の相対、いろんな場面同士っていうのはそれぞれちょっとずつ重なり合ってるんだけど、
全体の中の共通の部分があるっていうわけじゃなくて。
だから、謝罪を謝罪としてできるっていうことは、いろんな場面を学習して、適切な場面で適切な謝罪をできるようになるっていうことが、
謝罪っていうものを人ができるようになるっていうことなんだっていう、そういう話をしてるんだよね。
懐かしいね。
だからその場にそぐわない謝罪をされるとさ、時々ムカつくなって思っちゃうときとかあるんだよね。
さっきの謝罪会見とかもそうかもしれないし。
謝ってない謝罪ね。
あと、前に実家に帰ったときにさ、弟がさ、なんかお土産かなんかを買ってきてさ、
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で、なんかそのお土産食べながらさ、これそんなうまくないわ、ごめんね。
うまくないもの買ってきちゃった、ごめんねみたいなことを一方的に言っててさ、
いや別にこれは美味しいし、そのお前がその美味しいものを買ってくることこっちは必ずしも期待してるわけじゃないから、
謝るようなことか。
だからもうなんか一人よがりの謝罪なんだよね。
コミュニケーションになってないっていうかさ。
他の人は美味しいと思ってるかもしれないし。
相手がそのものを食べてさ、これまずいって言った後に、
いやごめん、そのまずいもの買ってきちゃってごめんねって言うんだったら、
それはなんかコミュニケーションになってると思うんだけど。
みんな普通に食べてる中で、そんなこと言われても。
ムカつく謝罪。
だからその場に適した謝罪っていうのをいろいろ生きていく中で、
まずそれがね、なんか罪なのかどうかみたいなところがね、そうだよね。
そうね、確かにね、なんか別に何も悪いことされてないのに謝られると気持ち悪いよね。
なんかそんな謝られるようなことは何も。
なんで勝手に謝ってんのってなるじゃんね。
家族とかだとね、ついね。
謝罪についていろいろ。
結構内容、哲学的な内容ではあるけど、結構こう身近な日常の中でこの本を結構思い出すなっていうので、面白かったです。
1冊目はこんな感じで。
私は短歌の入門書とかが多かったので、それで読んだやつで。
短歌の入門書はね、何種類か読んで、
なんか田原町さんが書いてるやつとか、いろんな短歌読んでると、こう有名な歌とか、作例としていろんな短歌が出てきて、
それもあって、なんか気になって読んだやつで、
斉藤茂吉の百首っていうやつ。大島文博さんかな。読みがわからないけど。
斉藤茂吉って有名な歌人で、
私は山形の出身なんで、特に斉藤茂吉はいろんなところで名前も聞くし、歌詞があったりとか、文化賞みたいなものがあったりとか、
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他の県ではわかんないけど、割と斉藤茂吉の名前はよく聞くけど、あんまりどういう短歌を読んでた人なのかっていうのはよくわかってなくて、
歌集も出てるけど、結構歌集とかって読むのに体力がいるっていうか、歌だけがバーって書いてあると、その歌をどう読んだらいいのかがわからなかったりとか、
あとその歌をこう味わうっていうか、理解するっていうか、のって結構時間かかるし疲れるから、なんかちょっとコメントとかがあったりするとかの方が、私は本当に初心者なんで、その方が読みやすかったりして、
これは大島さんっていう人がたくさんある斉藤茂吉の歌の中から自分が思う百詩を選んでくれて、それについてどういう時代とか、生活とか茂吉がどういう状態でとか、何があった時代に読んでるとか、
あとここの歌のこれいいよねみたいなのをちょっとコメントで書いてくれてるような本で、何も知らずに、何も知らずにっていうか、
ぼんやりとしたイメージはあったんでしょう?
短かったわけだから。
有名な歌を読んでる人っていうぐらいのイメージで読んだら、なんか結構ヤバい歌を読む人間だっていうのがわかって面白かったんですけど、
なんかそれぞれタイプが単価にもこういう歌が得意っていうか、
作風みたいなこと?
とか、もうもろにその人の性格とか感覚とかっていうものがどうしてもにじみ出るものなんだなって思うから、
なんかそう思った時に斉藤茂吉って結構ヤバい人間だったかもしれないって、この百詩を読んで思ったっていうか、
なんか多分いろいろいい歌があるんだけど、私に刺さってくるのは生き物を読んだ歌とかが結構、
特に小さい生き物について読む歌が結構怖くていいっていう。
なんかこれには載ってなかったけど、なんか別のやつで見たやつも、
道路で猫が惹かれてるのがボロ雑巾みたいな歌があって、
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なんかペタンコになってるわみたいな歌あって。
それはどういう気持ちなんですかね?
ね。
怖い?気持ち悪い?
かわいそう。
かわいそう?面白い?
なんかそれで、え?ってちょっとなって読んだら、いくつか紹介しますけど、
これその猫のやつにも似てるなって思うのが、
ネズミらを毒殺せんと、きょうひとよ、心楽しみわれは根に蹴りとか。
どういう歌なんですか?
ネズミ捕り、毒餌みたいなものを置いて、
ネズミがかかるのを待つのに夜、朝起きたら、
ネズミかかってるだろうなっていうワクワクで寝てますっていう歌じゃんね。
花を仕掛けて。
そう。楽しみだな明日。
ネズミが明日かかってるだろうなっていう。
楽しみ楽しみって。
そうそう。単価にするんだなみたいなとこもあるし、
こういう小さい生き物を殺したり死んだりすることをちょいちょい楽しんでる感じがあって。
やっぱちょっと抵抗を持ちそうなもんだけど、モキチは。
ワクワクで寝てるからね。
とか、石亀の埋める卵を口縄が待ちわびながら飲むとこそ危険。
とかも蛇が卵を飲み込むことを。
口縄が蛇ですか?
うん。これも待ちわびながら飲むって聞いたんだよっていう。
飲むとこそ危険が。飲むらしいんだよ蛇がっていう。
すごくね?みたいな。
そう。それが伝わるよね。ここの強調部分で。
でも強調することが蛇がさ、みたいな。
亀の卵をさ。
すげえ待って飲むんだよっていう。
でも嬉しかったんだろうね。
それ聞いてワクワクってなったんだよね。
モキチがっていうのが伝わるよね。この歌。
もっと普通の歌もあるよ。
肝臓の小さき萌えを見ておれば胸のあたりが嬉しくなりぬ。とかちょっとかわいいのもあるよ。
肝臓って夏に咲くオレンジの花なんですけど。
なんかちょっと出たのを見て心ほのぼのとほっこりの歌もね。あるけど。
だけど別のものを見てもほっこりしたりするっていう。
罠にかかったネズミのことを考えてもちょっとほっこり。
30:00
それ楽しみなんだよね。彼はね。
蛇が卵を飲む姿を想像してもほっこり。
個性が現れてるよね。こういう歌に。
ちょっと気持ち悪いみたいな歌にモキチの良さがあるんだなっていうのは百首の中でなんとなくわかってる。
人間の赤子を追える子守より、この子守はもうわらわざりけり。
一番最初に人間の赤子っていうのがすごい怖くて、ただ赤子じゃないんだなみたいな。
人間の赤子って言った時に唐突に気持ち悪くなんない?
しかもなんかその人間の赤子っていうよくわかんないなんとなくしかも人間ってひらがななんですけど
人間の赤子ってなんとなく気持ち悪い感じのするものを追える子守が笑ってないって不気味じゃん。
不気味かける不気味じゃん。
こういう歌を読むってそれがすごい過人である由来なのかって。
なんかモキチの凄さを。
人間のって言ってることは、人間以外の視点で書いてる歌みたいな、そういう感じ?
そうなのかな。わざわざ人間の赤子って言ってるからね。
なんか3.5.7.5.7.7の中でいろんな表現ができるんだなって思います。
面白いね。何でも書いていいんだ。
そうそうそう。だからなんかこういうのを見るとなんかもっとフリーに日常の日頃のことを読んでいいんだなって。
でもなんかちょっと気になってくるよね。斉藤モキチのことがこういうのを読むとかね。
でもなんか知りたくなったら結構情報があると思う。斉藤モキチ。
なんか息子が北森を、だからいっぱいエッセイっていうかね、文章息子が残してるし、モキチ自身も歌もものすごいあるし。
なんかその時その時で海外に留学っていうか、医者だったからモキチは海外に行ったり、
あと戦争中に国境に疎開してきたり、なんかその戦争中の歌の感じもね、なんか病院が自分の病院が火事で焼けて困ったり。
戦時中も歌を読んでたけど。
なんかもちろんその当時の国内の空気全体がやっぱり日本イケイケみたいな感じだったり、日本は素晴らしい国なんだみたいな感じだったから、モキチもちょっとそういう歌があったりとか。
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でもその時その時の生活とかがなんか見えるし、なんかあと当時、それ戦後かな、まだ戦後だったと思ったけど、まだ新しかった飛行機、小さい小型飛行機みたいなのに4人ぐらいの家人と一緒に乗ってみんなそれぞれ歌を読むっていう会をやったり。
まだ全然空を飛ぶ人が少なかった時ではね、そうやってなんか楽しみのために空を飛ぶっていうことができるようになったぐらいの多分時代で、だからすげーあれもあれもあれも見えるみたいなテンション高めの歌とか、他の人が読んでるやつとかも面白かったりとか。
だからなんか、もっと気軽に読んでもいいんだなって思いながら、そんな感じですかね、2冊目。
1冊。
ありがとうございます。
いえいえ。
じゃあ2冊目。
じゃあ私のターンですかね。
2冊目は、「貨幣とは何だろうか?」っていう本で、筑波新書から出てる今村ひとしさんという人が書いた本ですね。
貨幣ってお金ってことですけど、経済の本というわけではない。
機能としてのお金っていうのは経済の話になるんですけど、そうじゃなくて、貨幣の形式の話をしている本ですね。
それは紙幣とかコインとかそういうことではない?
それはやっぱりその素材、素材であり機能はやっぱりその経済の話になるんだけども。
それではない形式。
そうではなくて、貨幣っていうのは人と人とか、人と物とかを取り持ってくれる媒介なんだっていうことをこの本では言ってます。
じゃあなんか人との関係みたいな。
そうだね。人間っていうのは自分と他人の区別をする生き物であって、
社会的に人と人がつながりながら生きていく。
それが故に人と物を交換したりとか、そういうことをしながら社会を作って生きていくわけなんだけど、
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だからこそこういう貨幣みたいな人と人を取り持つような媒介が必要なんじゃないかっていう。
だから人間のあり方から自然と出てきたものが貨幣をはじめとした媒介っていうものなんじゃないかっていうのがこの本の説ですね。
なんかその貨幣について過去にもいろいろ言った人がいるらしくて、ジンメルっていう人が1900年ぐらいに貨幣の哲学っていう本を出したらしいんだけど、
その中でも媒介としての貨幣みたいな話をしていて、距離化っていう考え方を言ってるんだよね。
それは人と人を近からず遠からずいい感じの距離に安定させるみたいな、そういう話。
やっぱり近すぎても居心地が悪いし、あといって遠くなりすぎると一人じゃ行けていけないし、適切な距離っていうのが人と人との間にはあるわけだよね。
マジで難しいよね。なんか人とコミュニケーション取りたいなっていうモードの時もあれば、もう誰にも会いたくない。もう嫌!みたいな時もあるよね。
その良き距離を作って、お互いの安定する距離を作ってくれるものが貨幣なんだっていう、そういう。
結構面白いなと思ったのは、この媒介であるところの貨幣っていうのは嫌われる運命にあるんだっていう話。
それなんでかって言ったら、やっぱり人と人との生身の付き合いっていうかつながりみたいなものは理想としてはある。
だけど、その間に媒介としてその貨幣っていうものが入ることで、その生のつながりみたいなものが阻害されちゃうから、だからこそ媒介としての貨幣っていうのは嫌われるんじゃないかみたいな。
なんか間に金銭があると、ないとではみたいなのはなんとなく、お裾分けとか、まあどうよっていうか、あげたり交換したりみたいなやりとりもあるじゃん。
でもまあその時にお金が間に入るとちょっとまた変わってくるよねみたいな。
プレゼントするのと、お金をあげてそれでもの買ってよっていうのとありがたみが全然違うよね。
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ありがたいはありがたいけど、
いやそういうことじゃないんだよねみたいな。
その嫌悪感あるかもね。
で結構私とかはさ、結構これハッとしたんだよね。
なんか私は結構お金のために生きないぞっていう、なんかそういうことをさ、誇りにして生きてきた部分。
誇りにして。
なんかみんなはお金のこと好きみたいだけど、私はそのお金のために生きるような生き方はしたくないよっていう、なんかそういう世界観で生きてきたんだけど、
意外とみんなお金普通に、まあその原理的にお金は嫌われるもんだからみたいなことをこの本が突きつけてきたわけで、
結構そこがあの気づきだったかなって思いますね。
そういうわけがあったのかって。
そうだね。
でまあその媒介っていうのは何も貨幣だけではなくて、やっぱりその人間が社会的な生き物である以上いろんなその媒介っていうものを作りながらいい感じの距離を作って生きていくっていう話で、
でまあその、この本の中では文字とかも媒介の一つなんじゃないかっていう話を。
言葉。
してると。
うん。
うん。
まあ言語もそうかもしれないよね。
うん、そうそう。
その人と人を取り持つ媒介って考えたら、言葉は結構ね、それこそそういうもんだなっていう感じはある。
でまあなんかこの本だと言葉よりもむしろ、言語よりもむしろ文字がその媒介性が高いんじゃないかみたいなことを言ってて、結構まあ難しい話でうまく説明できないですけど。
結構区別してんだ、言葉と文字。
そうそうそう。
でもやっぱりこの文字も嫌われる運命にあるって話をしてて。
うん。
これもね、その、私と私っていうものの間の媒介になっちゃってるっていう。
私と私っていうのは?
だから。
自分?人と自分?
自分が思ったことを文字にして書いて、でそれを私が読んだ時に、これは本当の私じゃないって感じちゃう。
うん。
なんか私が私であるっていう、なんか理想的な状態があるはずなのに、私ってなんだろうみたいなことを考え始めて、それをまあ言葉で説明すればするほど本当の私から遠のいていってしまうみたいな、多分そういうイメージだと思うんだけど。
42:07
うん。
だからまあ媒介としての文字も嫌われる運命にあるんだみたいなそういう話をしてましたね。
だからその、全仏教とかがさ、理想にする状態だよね。
うん。
その私が、そのままで私であるみたいな。
不竜文字ってやつですか?
あ、もう一回お願いします。
不竜文字。
不竜文字。
どういう字を書くんですか?
不はあらずの不。
うん。
竜は立つ文字。
どういう意味?
なんかそういう意味だと思う。
文字の中に私はいない。
文字とか文字にしたら、その時、それでは表現できない。
それにした瞬間に失われてる。
そうだね、そうだね。
何かが。
まさにそうだね。
なんか、禅はどんぐらいだろう、2、3年前ぐらいからちょいちょい読んだり。
禅についての本をね。
そう。
何落としたんだっけ。
あんまり頭で考えてるとダメだっていう感じがあるっていうか。
頭で考えるっていうのは、つまり文字や言葉で考えるってことなんだよね。
で、そっから離れないといけないっていうことを言ってたって思う。
言葉を介さずに私は私ですっていう、あるがままに私ですっていうそういう状態をみんな夢見るけど。
でももうね、禅では多分私って言った瞬間に何かもう馬じゃないってなるっていうことなんだよね。
もちろん言語化できない状態になったもんだけど。
そうそう、言語化できない状態。
あるがままの私みたいなものが至上の理想としてあって、それを実現しようとしているものが禅仏教とかっていうものなんだけど。
それはたどり着けない理想であって、やっぱりその人間媒介っていうものを持たないと生きていけないんだっていうのはこの本の言ってたことですね。
だからといって禅の試みが無意味だとかそういう話ではないと思うんだけど、そうは言ってもその理想に向かって限りなく近づこうとしているのが禅。
いやいや、理想に向かって近づいていこうとするのすらそっから離れないといけないっていうことだと思う。
でも、私が勉強したり私が打禅をしたり私が修行をすることでその先に悟りがあるんだっていうふうに考えるのはまず間違ってるみたいな感じになる。
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だけど、やっぱり悟りが目標なんだよね。
もちろんそれに向かって直線的に進むって意味ではないけど、悟りを理想の状態としているわけだよね。
だけどそれに向かって目的的に…
それに向かって進もうとするとそれは違う。
悟りは逃げていくっていうか。
追いかけると逃げていくんです。
またね、説明のしにくいものを。
でも全然面白いですよ。
結構その人間がどうしても持ってしまう理想と、とはいえ現実にあるその理想には決して到達できないっていうこと。
そのジレンマみたいなものがなんとなくクリアになった本だったので。
お金がなかったらなって時々思いますね。
お金っていうものそのものがなければなぁみたいな。
こんなお金のために仕事したり働いたり、めんどくさくなる時がね。
あるある。
俺も今後の人生で時々振り返る概念になりそうだなって思ったので、今回これを取り上げました。
2冊目はこんな感じ。
私の2冊目は庭を作ってた人の本で、しげもりみれっていう作定家っていうんですかね。
作る庭の家?
人がいて、その人が書いた文章をそれもこうチョイスしてまとめたみたいな。
平凡者から出てるそういうシリーズがあって、しげもりみれ、庭を見る心得っていうやつ。
庭のことも何も知らないんですけど、庭の見方とか。
でも何きっかけでしげもりみれの本を読んだか忘れたけど、
明治期ぐらいに活躍してた人で、その時代の新しいものを追い求める感じがよく出てるのと、
庭オタクの語りみたいなところがあって面白かった。
庭大好きのしげもりさんが庭について熱く語るっていう感じ。
庭は日本庭園的なイメージでいいですか?
茶室から見るとか、茶室って周り作ってあるじゃん。
ここが町合いで、石の道路があって、ここで手洗うなんかあってみたいな。
48:08
歩いて回る池があって、路路回る庭とか、枯れ山水みたいな庭とか色々あるけど、
この庭は本当にみたいなのを喋ってるっていうか、書いてるのもすごいオタクっぽくていいし、
あと庭が大好きすぎて、庭のない家は家じゃないって言ってて、それもすごいよくて、
すごくない?
アパートとかも家じゃないし、彼にとっては、最近の家なんてほとんど家じゃないことになるよね。
だって草が生えないように砂利をめっちゃ敷いて、庭と呼べる場所なんてほぼないとか、都会とかだと駐車場とかもないから、
ほんと道路、家みたいなさ、ほぼ家ではないことになってしまうけど、
庭だけじゃなくて、茶室とかも関わりがあるから、そういうことについても書いてるけど、
伝統みたいなものとどう対峙するかみたいなところで、
本当にこの人は新しいし、モダンだし、しかも未来にまでずっと残り続けて、
人々を感動させるような芸術の作品として庭を作るっていう感じで、
だから、ただただ、昔あった大好きな庭とか、自分が好きな庭を真似するっていう、それにはマジで意味がないっていうか、
どれだけ自分がそれを越えて新しいものをやれるかみたいなことをやってたんだなっていうね。
だから逆に、真似してるだけみたいなものは容赦なく批判するんですけど、
茶道とか、そういうのも流派があって連綿と続いてきたものじゃないですか。
だし、そういうのってあんまり批判しちゃいけないっていうか、
それをけなすみたいなことってできないじゃん。もうなんか権威みたいな感じになっちゃってる気がして、
そこはなんかこの人はけちょんけちょんにしてて、意味ないそんなものはみたいなことを言ってて、強いみたいな。
庭も自然のものだし、天気とか季節とか、そういうものによって常に移り変わっていくもの。
51:11
だからなんかそういう庭を見るっていうことは、その瞬間瞬間が違うものだから、
最高に美しい庭を見れるっていうことは、毎度毎度あることじゃないし、
でもその最高の瞬間を見れるのは、庭を愛している人しか見れないみたいなことを言ってて。
暑いですね。
そうそうそう。でもなんかいろんなことが、バスケのことを好きじゃないと、バスケの最高に暑い試合は見れない。
ある程度そのバスケのことをずっと好きでいて、選手のこととか、これまで歩んできた日本のバスケの歴史とかを知ってる人の方が、
最高に暑いバスケの試合を最高の状態で楽しめるみたいなことを庭について言ってるっていうか、
同人活動とかだって、その作品が好きで、いろんな人の作品を見たり読んだりしてないと、最高の同人誌にたどり着けないみたいな。
お前の手と足を動かすんだよっていうこと?
フィールドは違うけど、同じオタクとしての共通点があったな。
茂森さんとみたいなことをちょっと思って、よかったなって。
伝わってるかわかんないけど。
でも俺が一番いい庭を作るって思ってると思うね。思ってたと思う。
でもその時に一人でやるんじゃなくて、やっぱり庭って、増援って一人でできる。
この人は設計をする人だから、他の木に詳しい人とか、石も自分で探しに行ったりはするけど、
重機を使う人とか、監督的な立場だから一緒に動いてくれる、手足となって動いてくれるようなメンバーがいて、
しかも生きてるものを使うから、自然っていうものとどう相対するかみたいなところもありつつ。
チームのメンバーすごい怒られたりしてそうだね。
そうしてそうしてそう。絶対怒られて。
今だったらハラスメントで。
デキになってる人とかいると思う。職人さんで。
お前はもう来なくていい!みたいなことを言ってそうだもん。
高圧的にね。言ってそう。
何も知らないけどしげもりさんのことを。
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ちょっと庭もね、見に行きたくなったりしてね。
熱意のある文章を読んで。
そうそうそう。全然見方わかんないけど。
オタクの語りは。
オタク語りとしての。
しげもり未令の文章。そんな感じかな。
今日はこんなところですか。
今日はね、仙台が勝ったのでちょっとハッピーな気持ちで喋ることができましたね。
もう毎週末荒れてたからね。
またいい試合が見れるといいですね。
とりあえず今週末、佐賀に勝とう。
佐賀も強いから気を緩めずに。
そんな感じ?
そんな感じ。来年もいろいろ面白い本が読めるといいですね。
なんかオススメがあったら教えてほしい。本とかも。
終わりにしましょうか。
はい。
ここまで聞いていただいてありがとうございました。
おやすみなさい。