同人の壹岐ゆーたろく
松崎です。
中村です。よろしくお願いします。
空地的ジンブン学やってるわけなんですけど、
スペシャル期間ということですね、
ゲスト、
BotX初めてのゲスト回ということで、
やってみたかったもんな、ずっと。
今日は同人の壹岐ゆーたろくに来てもらいました。
壹岐くんには、割と初期面ということで、
最初から塩をあげてもらっていて、
エッセイも書いてもらったりとか、
空地のノートにも参加してもらって、
定期的に文章を書いてもらって。
割と繊維化してきた空地においても、
結構ね。
セクトの一員ですよね。
怖いな、お前ら。
俺ら友達だろ、的なやつ。
俺らマジ別恋じゃん、みたいな。
俺らマジマンジ的な。
俺らマジセクト。
なんか嫌な感じ出てますね。
いや、本気には言ってないよ、それ。
壱岐くんのプロフィールとか。
和田気候的な話でしょ。
あなた何やってる人なんですか?っていう。
カーキッター的なね。
プロフィールを。
2003年12月30日生まれ。
ヤギ座。
岩手県花巻市出身です。
開業の問題や木村拓哉のツイートについて
高校からにしますか。
高校が花巻市の隣の北上市っていうところの
高校に通ってて。
ちゃんとやってなかったっていうか。
課題とか嫌いで全然やってなくて。
図書館にこもったり、
特に詩家文学館っていうところがあって。
そこに行ったりしてたから、
詩は結構読んでたっていうのが
でかいかもしれないですね。
あとは何ですかね。
今文芸学科で。
そうですね、そこ喋る。
日本大学芸術学部の文芸学科の今2年生です。
日芸は元々行く気なかったっていうか、
就職しようかなって思ってたんで。
行けたらラッキーかなぐらいで。
工藤科が好きだったので、
それで来たっていう感じですかね。
なるほど。
日芸の施策を中心に。
ちょっとね、分かんないけどね。
こだわってやるのもちょっと良くないのかなって思ったりしながら。
って感じですかね。
ここに下にね、もし差し支えなければ
Twitterのリンクをね。
Twitter頑張ってるので。
貼っておきますね。
そうですね。
アカウントメーカーでTwitterが終わる時期に。
この前ちょっと焦ってたんでね。
終わるんじゃないかっていうので。
ライフワークぐらいのレベルでね。
やりたいなって思ってますんで。
Twitterって面白いもんね。
それずっと始まって、
やってみてTwitter、やっぱ最高に楽しいわ。
厳選されたわ、Twitterが。
高橋玄一郎とか、奥泉光だっけ。
光。
とか言ってたよね。
Twitter始まった時に、Twitterのタイムラインって文学だって。
めっちゃ言ってたんだよね。
で、高橋玄一郎の日本文学精髄誌の
戦後文学編ってあるんだけど。
そこの中で、当時のタイムラインがまんまとってるページがあって。
いろんな人の生活があって。
そこが関連があるようでないようで文脈を横断していくっていうのが
すごいTwitterって文学的だって、小説的だっていうのがあって。
そのTwitterも今やはり死につつある。
文字数の問題とかね。
それこそアルゴリズム。
厳選されたものが出てくるっていうのもありまして。
伊木くん的にはどういうとこが面白いTwitter?
もともと千葉雅也のTwitter哲学が結構好きだったっていうか。
そこからちゃんとTwitterっていうものに向き合おうと思ってて。
なんだろうね。
一応140字っていう括りがあるけど、
その中で何をするかっていうところだから。
ある意味あれだよね。
短歌みたいになるね。
この文字数が140字あるから。
制限の中で。
その中でね、あとはゆるい繋がりっていうのがあっていいなって思う。
そこ割とこの人何なんだろうっていう人が結構いたりして。
なんかさ、TwitterってやっぱSNS、インスタとかだと生活が入ってくるじゃん。
藤原くんよく言うけど。
Twitterはそれがないのがいいってことだよね。
画像ほど直に入ってこないから。
気楽かもね。
結局Twitterって生活と人間距離があって、その先の情報だから。
人間がないじゃん、インスタは写真だから。
そこはやっぱりこうね、ダイレクトに来るし。
逆にインスタでは人間が出てると嫌われるし。
Twitterってもっと匿名的であってもいいと思うんだよね。
あるけそう。
それはやっぱりニチャンとかの掲示板なんじゃない?
そうか、確かに。
ニチャンよりやっぱTwitterって関係ないことがどんどん出てくるのが面白い。
ニチャンは、ニチャンのキス例の中の書き込みが全部雑多に一個にまとまってる。
それこそでも何でも実況が面白いっていうのはそうなんじゃない?
何でも実況Jが面白いのは多分Twitter的だからか。
Twitterってタイムライン、ツイートとツイートがタイムラインに連なってるじゃん。
こことここでシナプスが繋がる感じがある。
共生だよね。
そこで全く関係ないことが意味付けられちゃう。
そういう文脈が面白いなと思う。
結局いろんな人がいろんなことを言ってるけど、
普通に夏が暑いからね。
っていう感じですよね。
同じ時代に生きてるものとして。
時代と言うかな。
隣人愛です。
Twitterって隣人愛?
Twitterってラジオだでしょ。
大取に生まれてるこのジングル。
Twitterってラジオだ!って風になってるやつ。
あれってTwitterが本当に楽しかった頃の感じだよね。
Twitterでラジオの感想がつぶやける時代になったんですね。
同時代で実況できるようになった。
ハッシュタグで繋がれる。
Twitterの話になるとシンターの話になる。
シンターの話とまた違うけど、
開業がない時代のTwitterって懐かしいよね。
開業がなかった時代のTwitter。
開業できなかった?
そうそう。
開業できなかったね、そういう昔。
最近和合の現代資本校の論評を見て、
そのことにフォーカスしてて、
そういやできなかったわと思って。
そこで何か変わったりする?一喜君の中で。
和合領域?
違う、開業の問題。
それも含めていいけど。
見やすくなるよね。
もっと日記的になったっていうか、
そういうのも若干あるし、
逆に政治的になっちゃうっていうのもあるかもしれない。
見やすさっていうか。
見やすさがそういうプロのカバーだとか。
広告地味できてるのかもね。
開業がない理不尽な感じの方が好きだったんだよね。
そうかもね。制限とかね。
それこそ単価みたいな話。
開業できないってことも含めて。
菱川拓木ぐらいだからね。
若干違う気になってるんだね。
Twitterで開業する?ちなみにみんな。
開業しないの。
開業するなら、ツリーズ。
ツリーズね。
俺もそうだね。開業基本したくない。
お知らせとかとかね。
そうそうそう。
インフォメーションとはまた別だね。
だって空き地の告知税と本を毎回使ってるじゃん。
どこら辺に本の要素あるんですかね。
空き地の告知税って基本的に
本市のことに対しては松崎がやってて
それ以外のことは僕が大体ツイートしてるんですけど
そのポッドキャスターとかのアップロードは僕が担当してるんで
やってますけど
松崎が昔本を使いまくってたから
俺も頑張って本を使ってる。
なんでかって言うと
フランクオーシャンとかぐらいのミュージシャンって
もうTwitter絵文字しか使わないんだよ。
グラサンとな?コンドーとな?
コーネリアスとかフランクオーシャンとか
コンドーとかしか使わないから
このラッパーとかもさ
絵文字だけのインスタであるじゃない
あるそうそう
実はそういうとこだったんだよ
でもこのさ
なかなかこの松崎と俺で文章の進退が違うから
俺の文章で絵文字だけ使ってると
本当におじさん好文的なさ
それ面白い話だね
おじさん好文ね
だからこの固い
自分の文章ってそんな固いとは思ってないんだけど
でもなんかこうちょっと固いじゃないある程度
固いのに無理して
ラストだけ絵文字ついてる
だから絵文字の使い方もわからなくて
赤いびっくりマークと炎しかある
なくないの?
キムタ君のインスタのキャプション見たことある?
びっくりするよ
こんなにイケてないんだって
すごいなんか
マジでなんか
本当におじさん好文そのまんまなんだよ
みんな続々と調べ出す
二宮和内のツイッター見たことあるでしょ
二宮和内のツイッターはもうちょっとやっぱ
世代若くない?
いや木村拓哉ごめん
木村拓哉だけだった
キャプションの文章
今日も一日頑張っていきましょう
みたいなの書いてない?
本当だ
ステイセイフって書いてある
すげえな
絵文字がすごい
普通に木村拓哉でも手に負えないのか
世代ができてるんですよ
あれだね
ガラケー時代の
モバゲーとか
一生懸命作ってたホムペ的な
雰囲気だよね
個人のホムペ的な文章だ
開業
ノイチゴ的な
携帯小説的な文章
分かる分かる
なんで木村拓哉は
ピースとステイセイフが重要なテーマ
それはお伺いしない
何か事情があんだろう
ピースとステイセイフは
万人にとって大事だよね
万人にとって大事だけど
こんな主張することなのか
自己紹介とか定期英語
そういうことなんじゃない
木村拓哉老けねえんだ
やめたくない話だよ
なんだろう
いきなりグッと入る話だけど
死の授業を我々取ってるじゃん
藤原さんに
そこで生まれてないって話をしたじゃん
その心を詳しく聞きたいな
その話俺も聞きたいな
って思ってて
原風景と感じていたもの
ちょうど今いい時期
まだね
だからあれ実存じゃない
それは自分が生まれてない感覚ってこと?
ってことなのかな
まだ生まれてない
生まれてないっていうかそもそもいなかった
いない
だから
それが311で崩れたっていう感じが
すごいしてた
急にめっちゃ人死ぬじゃんみたいな
身体勢が現れたという感じ
世界と自分が分離する感じ
まだ小学生だったけど
ちょっとなんか変わったな
世界が立ち現れたというか
終わりが見えちゃう
終わりが見えたのか逆に
終わりが見えることによって
始まったということが実感される
マインクラフトのエリアの終わり
みたいなものが
今までずっと盲目で見てなかったんだけど
見えちゃったから
始まりってどっかにあるわけ
だからってことは
生まれてんじゃん
世界に
果てがあると気づいたときに
ゴールがあるからスタートがあることに
気づいたということ
分節化されたっていう
難しいな
でもすごい言葉にできないけど
生まれてないなっていう感じがずっとある
未だについている
そう思ってるけど
まだ生まれてない感覚
なるほどね
生まれてない感覚か
それ難しいよ
自分の中で
これはね生まれてると思う
自分生まれてる?
自我の芽生えの共に生まれてる人間だと思う
普通にそういう意味では
まっちゃんどう?
俺はつい最近生まれたかもしれない
つい最近生まれたかもしれない
結局こう
なんだかんだ生活の中で
圧力がある
それの中でどうしても
自分と立ち会っているのが
違うんだって
まっちゃん今三道通ってるよね
三道通ってるかもしれない
ごめん
俺生まれてるって言っちゃったけど
生まれちゃった場合
生まれる前のことを覚えてないんだ
自分がいつ生まれたか正直わかんないかもしれない
いつか
自我の芽生えとか言ったけど
そうかも
この話をポートキャストしたときに
まっちゃんは
藤原が生まれちゃってるっていう話を
それも俺の中で踏み落ちてる
12歳の頃に
生まれちゃったかも
生まれないようにしてるのかもしれない
生まれちゃってるのを
生まれたいのか生まれたくないのか
って話がまずあるじゃん
そこら辺どうなの?
でも
勘違いしてほしくないのは
出生的な意味で言っても
わかる
そういうことではないんだけど
だから生まれてることに対する
反発とか
でもない
状態としてある
どう取り扱おうかって話
ゼリー
ゼリーなのね
ゼリーになるしかない
ゼリーなのね
ゼリーになるかもしれない
幕がまだない
実感の無さっていうこと
何でもなれちゃう
大体可能な感じ
結局さ
ゼリーに招待しちゃうけどさ
菊田だってさゼリーで終わったやん
作家として
あの人も結構言うじゃん
菊田玉巻から
岸田雅之になるってことね
そうそうそう
ゼリーって俺その話だと思って聞いてたんだけど
宇宙ゼリー
岸田雅之は
どっかで変わったような気が
すごいしてる
骨折角
あたりで変わった感じ
軍隊の
馬の群れから
変わった
風の音とか
その辺で変わった
農家になったのね
アスファラガス農家
そこで明らかに多分
だからあれだよね
堅持的なことだよね
土を触って自然を
もともと原風景がない人だったり
原風景がない人や薄い人だったり
てんてんとしててさ
ちゃんと読んでないから
へざむって言うと
クラスターとかあるかもしれない
現代史クラスター
ツイッター現代史クラスター怖い
ツイッターのクラスターって全部怖い
全部怖いけど
やっぱこのツイッターで
タイムラインで繋がっちゃってるからね
繋がりがあって
音楽クラスター見るだけなら
ダウンとあるから怖い
音楽クラスター怖いよね
これ以上話進めたくない
あいつら
あいつらどーん
そういう意味で
原風景ってみんなある?
ある
原風景ある?
森
でも原風景は
なかったのかもしれないけど
原風景なくても生きられなかった
そのことによって
後から原風景を見出したのかもしれない
ペットタウンで
生まれ育って
12歳で東京の学校に進学してて
その中でサバイブしていくときに
自分のルーツがないと
生きていけなくて
そこでやっぱ
その時に失ったものを原風景として
捉えて生き延びた
わかる
その状態近いか分からない
ずっとペットタウンで住んでて
中高都心の学校に出てってなると
やっぱ寄り所じゃないけどさ
あるんだよね
自分の家の近く関係1キロぐらいに
帰ってきたときの
安心感というか寄り所感ってすごいあるじゃん
そういうところが原風景
そういうところを原風景と呼んでるわ
そうそう
俺はさ結構引っ越してる
人生だからさ
家の近くに来たときの安心感って
慣れてしかないってことを分かっちゃってるんだよね
だから別に
多分ひとっかにまた引っ越して
半年も住めば
帰ってきたときに安心感感じちゃうんだよ
慣れというには
それは普通に境遇が違うだけだけど
長く住みすぎた感ある自分が19年住んでるから
まあそうか
家族っていう協同体も
他人との協同体も慣れが大きいじゃないですか
人との安心感って
でも慣れ以上のものが生まれてくるじゃん
っていう感覚に近いから風景とか
だから俺
ある意味自分の原風景はだいたい
感覚なんじゃないかと思ってる
というか故郷っていうもんがね
この後分かんないじゃん
例えば結婚して子供ができて
もっとこう
子育てしやすい場所に住むって
人生を歩いてるわけじゃん
どう外に住んだとしても
ベッドタウンの自然との距離感
結局そこに一種原風景的なものを
見出せるようになってしまう気がする
これは俺が
千葉と茨城一帰した
茨城の中で引っ越したりしたからさ
そういうところでどんどん
ふるさとっていうものが
慣れでしかないっていう
それがポジティブかネガティブかは分かんないけど
でもそういう意味で
転勤族的な話じゃないけどさ
その故郷の喪失
っていうのあるじゃないですか
うーん
でもいきくんの場合森って言ったらさ
他の森でもいい?
そんなことないと
そこの
言ってる森でなければダメなの
確かにそこ気になる
なんか死んだら海に帰れるみたいな
森?
それの森
それが森だった
取り替えられるのかもしれない
でも
原風景ってさ
たぶん
いきくんにおいての森とか
俺とかだと
うちの地元の静止工場の匂いとかがあるけど
ああいうのから
感じてた
五感で感じてたものを
原風景として取られてる部分があるじゃないですか
そのものではないってこと?
そうかもしれないよね
そういう意味で
原風景自体は大体可能なのかもしれないけど
原風景に対して感じていたもの
大体可能じゃないというか
それはそうかもしれない
原風景ね
データで読み込むから
原風景ってやっぱ
どうしても自分が帰っていく場所って認識が
すげえ強いのよ
森ってのもめっちゃ分かるのと
あと俺の場合
武蔵野とか多摩あたりに
ずっと住んでるから
山とかのほうが原風景っぽいんだよね
海より全然
ボイスカールやってたのも小さい頃
火をつけて夜を過ごすっていうのが
結構小さい頃ずっとあったから
みたいに
帰る場所として原風景が
あるっていうのだと
割とベッドタウンが原風景じゃないかもしれない
普通に自然かもしれないと思った
森のほうが
納得いくということ
でもベッドタウンに住んでると自然との距離感って結構強いじゃん
まあそうね
でももっと
ベッドタウンの自然よりも
ベッドタウンにはない自然
のほうが原風景っぽいな
自分から離れたところに原風景がある
って感覚がある
俺もベッドタウンに買いならされすぎて
絶景よりも
建て売り住宅の屋根の
面なりのほうが感動するっていうことは
寂しい
俺もそれ分かるね
東京近郊で暮らしてるからさ
地方とか旅行行ってさ
展望台から見てもなんとも思わないんだよね
それより
それこそ
テラスとかから
原風景と新幹線に対する感想
トタンやるとかさ
トタンか分かんないけど
だからあれでしょ
六甲山の上から見る神戸の町では感動できる
だから自然のさ
分かる?
それはちょっと引き過ぎかもしれない
遠いかもしれない
でも原理的に一緒だよね
町から六甲山を見る
六甲山から町を見たほうが感動できると思う
そうだね
縦売り住宅ってさ
謎にさ
あれあるじゃん
謎でもないか
キッチンのさ
小窓あるじゃん
キッチンの小窓からその家の食器棚が見えるとかのほうが
自然より感動するんだよね
だからこの
ベッドタウン一台ついてるからこそ
そういう歴史もないし
超越に対する
信頼感がないっていうのは
いわゆる新幹線に関ヶ原も名古屋城もあんま感動しないですね
大阪城も
それでもその最中に現れる地方都市に対しても
可能性がある
分かる
なんか
そうやね
小田原の生活に感動する
小田原前降りだときもさ
またここまで話すけどさ
小田原城とか海とかじゃなくてさ
小田原の路地にあるクリーニング屋とかのほうが
ちょっと感動すんだよね
みたいな話でしょ
生活があるみたいな
生活に感動するみたいな
生活は
現風景の話から離れちゃってるけど
ちょっとずれるかもしれないけど
実家の本棚に
暮らしの手帳とか
クロワッサンとか
そういう丁寧な生活系の雑誌が
ビシーンとあって
多分母親が
読んでたんだけど
それを読んでたから
ゆるふわ雲台というかね
そういうのを意識的に
避けようとしてるなっていうのも
すごい最近感じて
避けようとしてるんだ割と
好きなんだけど書きたくはないかなっていうか
書く必要ないみたいな感じじゃん
なんだろうね
憧れてはいるんだけど
あんま書きたくない
書けないかなっていう
自分ごとじゃないのかな
それどころじゃない
のかもしれない
それどころじゃないのに
そうね
自分の中にあるっていうところが問題というか
ちょっとねじれてるんだもんね
家庭みたいな話もある
でもその文脈ちょっとわかるわ
うちもなんか
そういう本がいっぱいある家だからさ
なんかそういうものを
なんか
意識しちゃうよな
俺は別にそういうもの書こうとしないとかするとか
あんま考えたことないけど
生活に文体って入り込んでくるもんな
気づく自我止めされる前に
ほんとに
生活に文体が入り込む
それこそ暮らしの手帳とかから入り込んでくるよね
日常のある文章だもんね
意識的に読むもんじゃないって
そうっすね
普通に朝日新聞とかだったりスーパーノスもあるし
俺は中学時期に結構勉強してるんで
あれだね
小学生が読むような児童文学
児童に対する嫌悪感みたいな
だからこうそれで
小学校の高学年くらいから
普通にいわゆる中文学とか読み始めて
こう
わってなるっていう
小学生の時は普通に茂松企業主は大っ嫌いだった
あれ中学生が嫌いな作家だよな
俺は小学生大っ嫌いだった茂松企業主
小学生の時も茂松企業主を読んでるやつを
散々バカにしてたから
これをわかってる予感がちょっと嫌な感じになる
そうそう
茂松企業主はね
本にも喫煙
喫音でっていうところがあるんだよね
池井戸とかの方がきつかったかもしれない
当時読んでたやつ
でも茂松企業主の書く子供じゃなかったんだよ
そういうことだ
自分のためと感じられなかった
そうなった時に多分ダザエットが手に取って
俺のことだって思えた
若いな
そういう文革の開講みたいなのある
なんか俺のためにある
あった本みたいな
そういうのあるんじゃない
えっとね
一番うわって思ってたのは
三浦鉄道の短編
教科書に載ってるじゃん
何だっけ
本宮城が載ってるのかな
教科書は会社に載ってなかった
俺のとか載ってなかった
地域が違うからあれなんだけど
三浦鉄道ね
中学校の
三年生の時の担任の先生が
そっち系の文革
朝読書の時間に
何読んでたんだっけな
八坂村かなんか読んでたら
おっって言われて
これ読んでみなよみたいな感じで
その第三の新人らへんを
貸してくれたっていうのは
割とでかかった
学校での文学の経験
あるよね
スッと入ってくるタイミングあるか
スッと入ってくるタイミングある
中学生学校でやった
谷崎とか
安倍候補
安倍候補だったかな
カンガルーノートだったよ
今ツイッターで話題のカンガルーノート
俺
罪と罰だった
普通にジャケ買いして
読んでみてスッと入ってきた
ひねくれ
小学生だったからさ
小学校なんてさ
教室にわりと揃ってたの
日本文学全集
小学生版のやつがあるじゃん
でっかい字でユキグニとか書いてるやつ
ああいうとこ読んでてさ
チラッと見たりしたら
文学だりぃなと思ってたんだよね
学校で与えられてるものだと思ってたから
だから俺
未だにそういうちょっと
権威嫌いみたいなのが
うっすらある
文学を純粋に楽しむというか
普通に勉強を感じた
だから俺勉強がさ
好きじゃないっていうのさ
学校が好きじゃなかったから
学校に付随するものだと思っちゃってた
最近ちょっと
自分で勉強すること
の楽しさは当時からあったんだけど
だからそれこそそういう意味で
国語数学みたいなのがあんま好きじゃなかった
そういう時に普通に
父親が阿部工房でも読めばいいんじゃない
読めばいいんじゃないと図書館にいた人に言ったんだよね
で、なんか
確かカンドワールドノート
いや、いっぱいあったんだけど
俺なぜかその時やっぱ
じいちゃんの方がかっこいいと思ってたの
初中学生だからさ
嫌なんだよね、若者とか
自分の周りにいるような奴らじゃない奴がいいって
ひたすらもう学校っていうものはノーだったから
すごいそう思っちゃってて
一番最後なんだよカンドワールドノートって
一番最後の、一番年取ってるのが
一番俺に踏ん張ってるんだろうと思って借りたんだよ
で、カンドワールドノートって膝からさ
もやしだっけ
かいわれが生えちゃった人がさ
自走する救命ベッドに寄せられて
爆走するっていうさ
とんでもないやつなんだけど
普通なんか、ああ学校に
こういう人いる大人じゃないなと思ったんだよね
単純に
だからそういうしなやかさなんだよね
最初大変って
文学に出会うのね
それまで文学なんてなかった
っていう感じがする
出会うまでは
町にも文学なんてないし
でかい本屋もないし
ブックオフにもマンガしかないし
カードしかないしみたいな
そこで結構気づく
新生構ってちゃうみたいな話やね
そうだね
最初にビートルズ、セックスピッツルズ聞いて
鳴り止まないっていう感覚が
あるのかもね
ルーターが始まる
でも俺はなんかこう
中高をさ、新学校に
中学受験目指して入ったから
その勉強も小学校帰りがあるんだよ
中学受験で勉強って
中学生の勉強を小学生が
自分の知識でやってみようが
中学受験だから
そういう意味で中高を選び取った感があったから
勉強みたいにしてた
勉強好きだったね
まあ高かったから学校で勉強してなかったけど
現代文とかもすごい好きだった
大学受験も好きだったね
勉強は
何だろうな
高校でやったかな
それちょっとやっぱ違うかも
最近さ
音楽始めたら好きなバンド何?
って言われるじゃん
最近俺答えがさ
レギュラービリティとさ
フォートレシーハイト
これってさ、全員さ
すげえ人じゃないんだよね
ちょっと上の人とかじゃなくて
ちょっとなんか
生活者なんだよ
超越者じゃない
俺一番
中学の頃
赤谷原平とかに憧れてた
明らかにすごい人じゃないけどさ
なんかちょっとヘラヘラしててさ
ヘラヘラしてて
よくわかんないことやってるんだけど
実はそれが真理だっていう
まとえてるっていうのが
一番俺の中で
学校から遠かったんだよね
いかにも賢いですって
できますってみたいな人が
これがすごいんだぜじゃなくて
よくわかんない
何してるんだろうなみたいな
実はすごいことをやってるみたいな
ちょっとヘラヘラしてる感じ
ふざけてる人ね
ふざけてるのに
超絶真面目なことやってる
ホストのバランとか
あとマルセデュシャンとかも
俺のホストだし
だから小島の
そういう流れで
中学の頃読んで
それだけじゃないんだけどさ
最初の俳優はそういうので
こういう人の方が
普通に
こうなりたいなと
思う人だった
学校とかにいると
学校でさ俺が中高の
現代文の時によく思ってたのが
俺の方が読めてるなって教師に対して
めっちゃ思ってたの
だからその教師が
こいつらを取り扱えてないじゃんって思ってた
もちろん文学部的な読み方を
教えてもらったからそれはありがたかったけど
だからそういう読んだ本に対して
今までの大人にないっていう
俺が知ってる大人ってバカに見るじゃん中高生って
圧倒的に地の拠地に対する
信頼感があるから
そういうことだから普通に
古典主義で走ったとこあるね
そういう意味でやっぱり
谷崎とか好きだった
谷崎とかすごい惹かれたね
だから普通に文学の
さっきちょっと話違うかもしんないけど
陶器で入ってた気がするわ
自分の学校とか環境は
あんま好きじゃなかったから
だから俺海外文学ばっか読んでたってのもあるし
自分の土地について書かれたもの
あんま読みたくなかったね当時は
今になって
宮沢賢治とか
東能物語とかすっごい読みたいし
東北だとそうなもん
俺谷川俊太郎めっちゃ嫌いだったね
中国の時
今はそうでもないけど
とかね
海外文学は確かに読むかもしれない
あとそういう意味で
現代文学読めなかった
だからこの後撮る
2000年代ベストの話で
抜け落ちてる年代あるんだよね
自分の中で
21世紀の文学はほとんど
2011年から抜けてるわ
自我が芽生えてから存在してた
2020年以降とかちょいちょい出てきたりする
大学生活での読書習慣
大学生になってから意識的に読むようにしてるけど
21世紀の文学とか
あるいは映画学科ですけど
難しいよね
ラノベをみんな読み出す時代がある
あるね
あったね
そこで僕はバカにして
毎日大太郎読むのがかっこいいと思ってたから
カバーも何にも付けないで
毎日読む
カバー付けないよね
学校で
カバー付けないね
見せるようにして
短い間読む
短い間読む
自分を隠したかったから
友達の前での読書
友達の前で本読まなかった
自分を隠すことに近いけど
見せつけるっていうのは逆に
小説の中にこもる
男子校だったから真面目に考えてるのがダサいと思ってた
ずっとちょけてるやつがかっこいいと思ってた
ずっとふざけてるやつが一番かっこいいと思ってた
隠れて読んでましたね
教学とかだと
シリアスなやつのほうが意外とモテるから
そうだったら俺はそんな感じじゃなかった
中学の時は
モテるの関係ねえな
授業サボって
行かないで図書館で
闇曇り絵とか
互税集とか
というわけでね
だんだん時間も来たということで
こんなに断絶する?
口腹のこと断絶を終わらせ
まだ納得してない
編集してるとあれ?あれ?みたいな
切れた?みたいな
そういう意味で俺
サブカルから入ってたんだよね
もともと始まりが
サブカル
すごいものじゃなくて
生活の中にある
面白さみたいなところから
割と全体的に流れる
カルチャーに対する
抵抗感っていう
そういう意味で
2人も
あれなんだよね
世界に
自分が知らない場所がちゃんとある
っていうことなんだよね
それでやっぱり一種救いとか
慰めになってたんだよね
中等時代とか
今はもう亡くなっちゃった感覚なんだよね
俺は普通にアカデミックに
映画も文学も見るところがあるし
高校生の時は哲学者になりたかったんです
哲学家に行きたかったんで
博士科で行きたかったんで
そういうところで
自分がそういう奴っていないじゃん
結局俺ってエリートそうだったから
周りもいい大学
いい就職じゃん
その中で自分が間違ってないんだ
っていうことを確かめるために
本を読んでた
哲学者とかもそうかな
結局俺はそういう意味で
孤独じゃないっていう部分を
理想とか
言ってた
やっぱりでもその話で言うとさ
藤原とやっぱり俺とちょっと
境遇が違うのかな
世間から外れてるもの
家系が全員美大だから
外れてるものとして
自分の認識があったのよずっと
親も結構言うしそれを口で
だから文学自体の
統計を求めてなかったんだけど
それにしてはあまりに学校が
社会過ぎたんだよ
今大学に入ったことによって
自分も美大とか芸術系に
入っちゃったことによって
文学は全く統計じゃなくなってるわ
ってなったかな
文学統計ですか?
いや
普通に友達いないから読んでたっていうのはある
喋る人いないって
ずっとクラスで一人ぼっちだったし
何もすることないから
本読んでたっていう
どこから始まった?
本を読むっていうのは
友達いなくさってことでもあるからね
教室でさ
本読むっていうのは友達減るからね
いたとしても
逆効果なんだよね
誰も話しかけてくんないから
イヤホンつけるじゃん
イヤホンつけてるって誰も話しかけない
俺も大学入るんすよって
2年遅れてるから
先輩に行ってさ
いいから絶対にイヤホンをするな
休み時間にタバコ吸いくなって
言われたのよ
守ってるよお前
吸いに行ってたけど
最初はスマホを見るなって
言われた
休み時間ずっと
そしたら話しかけてもらえるから
自分は話しかけなくても
そういう意味で
中高時代のさ
必要だったかわからないけど
孤独が必要な時期みたいなのあるじゃん
そのためにやってた感はあるよね
読んでた感はあるよね
文学は今でも
最近やっぱさ
消費者に対する
抵抗感みたいなのあるじゃないですか
今消費者っていることは
構わないんだけど
自分が消費されたくないっていう感覚もあるし
あと姿勢として
特に映画に対して思うんだけど
消費してたくないっていう
感覚があって
でも
消費の楽しみっていうのを失いたくなくて
みたいなのもありますね
でもそういう意味で
割と10代の頃に感じたら
映画とか文学に対する
娯楽みたいな部分を
失いたくないんだけど
でもやっぱゲイだってことで
人間も芽生えてきたみたいな
まあそういうことかもね
責任を取るようになったってことで
逃避とかいってられなくなっちゃったのかもね
逃避してたという現実に責任を取るっていう
あれは別に
映画作るとか小説書くとかじゃなくて
普通に大人として
あるかもしれないですよね
そんなところですか
松崎も断絶あるんじゃない?
断絶してるんじゃない?
いやコッドキャストって断絶がいいところだからね
まあということで
お疲れ様でした
スペシャルサンクス