今回は#045からの質問です。
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45回目の質問された方からの追加の質問です。
(略)
そこで、この疑いは、本願疑惑心なのか?
それとも、疑煩悩なのか?
いくつか具体例を挙げてみたいのですが、
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心を、本願疑惑心と定義されているようですが、
たとえば、
因果の道理を信じられない心や、
私が六道輪廻(流転輪廻)をしている存在であることが信じられないこと、
阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が信じられないことなどは、本願疑惑心になるのか?
それとも、疑煩悩になるのか?
知りたいです。
未信の私にとっては、因果の道理や六道輪廻、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が、信じられません。
また、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話としか思えず、まるでファンタジーの世界の話を聞いているようです。
仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を何度聞いても、感想は同じです。リアル感が全くないです。
これが、信心獲得すると、同じ仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話ではなく、真実(事実)の話として、疑いなく聞けるようになるのでしょうか?
それとも、信心獲得しても、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)は、おとぎ話や作り話、ファンタジーのような話のままなのでしょうか?
その辺の話を、またネットラジオ版安心問答で話していただけると、ありがたいです。
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○話の中で出てくるご文
・自然法爾章
無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。
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