イエスの出現と嵐
それでは、読みます。ヨハネ6章16節から21節。
夕方になって弟子たちは帆帆に降りて行った。そして船に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。
すでに辺りは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
強風が吹いて湖は荒れ始めた。そして二十五内市三十スタディオンほど漕ぎ出したところ、弟子たちはイエスが湖の上を歩いて、船に近づいて来られるのを見て恐れた。
しかしイエスは彼らに言われた。私だ。恐れることはない。それで彼らはイエスを喜んで船に向かえた。すると船はすぐに目的地に着いた。
以上です。今日はこのところから、古城を歩くイエス様と題して読み言葉を取り付けます。
皆さんおはようございます。今日はまさにサティキバレットにふさわしい天気になりました。
先週は新しいロマ教皇が決まりまして、いろんなところで話題がありましたね。
私もクリスチャンではない方との交流が多いんですけども、そういう方々がそのようなことを話題にされていた。
レオ十四世という北米で初めての選出ということで話題にもなっております。
どのように彼が世界を沈めていく役割を果たすのか見物ですけども、そんな荒波に漕ぎ出すような時代ですけども、
今日の箇所はまさにイエス様が荒波の中に現れたとても有名なお話の一つです。
今日は皆さんもよく知っているところから3つのことを話したいと思います。
今日の箇所でもやはりイエス様の神性が明かされています。最初は嵐を沈める誠の神という視点から旧約聖書を参考に見ていきたいと思います。
2番目はイエス様の言葉、今日唯一出てくる言葉ですかね、私が恐れるなという言葉に込められているある神性ということ。
そして最後は無事に目的に導く救い主ということを見ていきたいと思います。
それではまず最初、嵐を沈める誠の神様ということで見ていきます。
今日の冒頭でここ書き出しがありますね。
強風が吹いて湖は荒れ始めた。そして二重をないし三重スタディオンを漕ぎ出したところ、弟子たちはイエスが湖の上を歩いて船に近づいてくるのを見て恐れたということです。
前後しますがこのガリラヤ湖ですね。先週見たこのガリラヤ地域の伝道で5000人の給食の後の出来事です。
そしてイエス様は王に祭りあげられる危険があったので一人で退いておそらく祈っていたのではないか。
一方弟子たちはおそらくその群衆を避けて湖を渡っていった。そんなお話であります。
カペナウムの方ですから、この辺ですね。ここがカペナウムですからね。ここを目指して湖を渡ったんじゃないか。
25から三重スタディオンというのはですね、皆さんの聖書の脚注にもありますが、だいたい漕ぎ出して4、5キロメートル、沖合いと言いますか、のところで暴風にあったということが書かれております。
先週この5000人の給食のところで触れたかもしれませんが、この出来事をですね。
当時イスラエルの人々は、モーセのアラノのマナの奇跡と結び合わせました。
モーセがアラノの旅にパンとマナとですね、うずらを下した。それを見てとってですね。
そこからこの6章14節、先週も紹介した、誠にこの方こそ世に来られるはずの預言者だ。
モーセが私と同じような預言者と言っていた預言者だと告げたというのが先週の話です。
そして今日のその続きのところなんですけれども、実は今日の箇所は、このシスエジプトの出来事以外にも旧約聖書の大事なテーマに関連しています。
それはですね、荒れ狂う海を沈める神様の存在です。天地万物を作られた誠の神が、この荒れ狂う海を沈めるという、そういう神信仰ですね。
ちなみに諸説あるんですけれども、当時の人はですね、海の中に竜がいて暴れている。
見たことがあるかもしれません。その海の中の獣なりですね、竜が暴れていて、それで荒れ狂うんだと。
それを誠の神は制御することができるという、そういう信仰や言い伝えもあったのではないかと言われています。
とにかく、この予想だにしない海の荒れ狂う中で、船人たちはですね、それを沈める誠の神様というものを覚えたわけなんです。
その信仰がいくつか旧約聖書にあるんですが、四篇にもありまして、二つだけ四篇からお知らせしましょうか。
89篇の9節にこういう言葉があります。神様への呼びかけでこう言ってますね。
あなたは海の高まりを収めておられます。波がさかまくとあなたはそれを沈められます。
そしておそらく今日の箇所が重ね合わせられているのではないかという箇所が四篇の107篇なんですけれども、
その中の29節30節を引用しますね。ちょっと長いんですが、読める方は頑張って読んでみましょうか。
主が嵐を沈められると波は穏やかになった。波がないだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。
こういう四篇の2つのところに、創造主のある神様、誠の神様が荒れ狂う海を沈めたという信仰が込められているわけなんです。
今のところから皆さんもお気づきになったと思いますが、
今日のこの古城を歩くイエス様、実はイエス様が船に乗り込んだどの時点かはっきりわかりませんが、
そこからイエス様が誠の神であられるから嵐が沈んだんだ、そういう神性が証しされている。
ヨハネが証したと言えるかと思いますけれども、そういうところからもイエス様の神性が証しされている。
イエス様は荒れ狂う海を沈めることができる天地万物を作り支配しておられる誠の神だと。
いつも言ってますように、一章一説から天地創造の神様とイエス様との一つなることが明かされていて、
それがこの部分にも現れているということを覚えておいていただきたいわけです。
皆さんどうかわかりませんけど、新約聖書の方が読みやすいという方が割といらっしゃるようなんですね。
ただですね、旧約聖書に馴染んでいると、この福音書をはじめとする新約聖書と旧約聖書のつながりを知ることができるし、
またその箇所にこの旧約の出来事とつながりがあるんですよと知ると、新たな発見になってですね、聖書理解が深まって豊かになるんですね。
実際私がそうなんですけども、そうすると新約聖書をさらに深く豊かに知るだけじゃなくて、
信仰生活の新たな喜びの源にもなるんですね。こんなことがつながっているんだということで。
で、ヨハネがそう書いている、あるいはイエス様の出来事が、その旧約聖書の出来事を完成しているということがヨハネにいっぱいあるので、
私は皆さんにお話しているんですけども、その話す理由の一つはですね、皆さんにも何か旧約聖書に触れてほしいとか、そういう面白みを知ってほしいとか。
私自身も、まあ、説教準備する中で非常にそれ面白いと思ってですね、ワクワクするものですから、そういう喜びを皆さんにも知っていただきたいという、いろんな思いからこうやって旧約聖書との関係性をお伝えするわけです。
第一点はですね、今日の箇所はモーセの出来事だけじゃなくて、紙片などにある嵐を沈める誠のカニということが関わっているということを覚えておいてください。
恐れないように
二番目、次はですね、私だ恐れるなの神性ですね。
弟子たちが恐れたときにイエス様が言われたということで引用されています。しかしイエスは彼らに言われた。この短い言葉だけ読んでみましょうか。私だ恐れることはない。
ここにある神性ですね。
ところでですね、鳥取県が新たな試みを2014年の4月から始めたの知ってます?私もたまたまですね、テレビで見てちょっとネットで調べたらなるほどと思ったんですけど、鳥取県ではですね、なんと全ての市町村から肉眼で天の川が見えるんです。
それで、鳥取県というプロジェクトを真面目にですね、2014年の4月から始めたそうです。よくね、今はどうかわかりませんけど、スターバックスはないけど砂場があるって言ってますけど、スターバックスは今あるかわかりませんけど、スターバックスがなくても本物のスターが天の川は全ての市町村から肉眼で見えますというのを売りにしている。
まあ、空が澄みきっているということもさることながら、例えば新座市では24時間明かりがこうこうとついていますね。だから、夜空の星の数が少なくしか見えないかもしれません。
一方ですね、この弟子たちがいた湖の上は本当に真っ暗闇ですね。しかも、嵐が襲ってきたということは、雲がかかっているわけですから、月ももちろん、星も見えない、本当に真っ暗な湖上の上に彼らはいたわけです。
そして、荒れ狂う海の上で、コノハのように小舟に揺られて、本当に恐ろしかったのではないかと思われるわけですね。
そういう危機に迫る状況で、真っ暗な闇の中で湖の上を、5kmも起きるのに、湖の上をぼーっと近づいてくるイエス様を見たら、怖がっているのも仕方ないと思いますね。
マルコの福音書の中では、6章49節では、この同じ箇所があるんですけども、弟子たちはイエス様を見て、幽霊だと思った、はっきり書いてあるんですね。
だから、まさにこのように真っ暗な湖上を、白い影が近づいてきて、幽霊かと思って怖がっている、本当に人間味があふれる弟子だと思うんですけども。
そういう中で、既にあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかったと、今日の6章17節に書いてあるんですけども、実はここには信仰的な象徴があるって言うんですね。
真っ暗ということ、スコトスという闇という言葉が使われているんですけども、闇という言葉の中に、イエス様がこの試練の時に一緒にいないという闇がここに表されている。
そして弟子たちがこのイエス様を神であると認めることができていない、そういう信仰の闇というものが、この闇、真っ暗闇ということに象徴されているらしいんですね。
そういう彼らの信仰的にも状況的にも、真っ暗な状況の中でイエス様が近づいてきて言葉を発したわけですね。
なんて言ったか。私だ、恐れることはない。私だ、恐れることはない。実はこの言葉に神性が明かされているんではないかと言われてもいるんですね。
実は私だという言葉は英語のI amという言葉です。それはギリシャ語で言うとEgo Amyという言葉です。
これは簡単に言うと旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書では、神ご自身が自分の名前を明らかにするときに使った言葉、私はあってあるものであるという言葉なんですね。
この有名なモーセが燃える芝を見て、その燃える芝の中からエジプトから民を導き出せという召しを受けたときに、実はその燃える芝の中からモーセを呼び出した神様。
その神様に対してモーセが、民に聞かれたら、あなたの名前を何て言ったらいいんでしょうかと聞いたら、3章14節でこう言っているんですね。神はモーセに仰せられた。私はあるというものである。
この神様が私はあるというものであるという格好つきの言葉が実は旧約聖書のギリシャ語ではエゴエイミーという言葉です。
ですからおそらくこのヨハネの福音書を読んだ人はイエス様のこのエゴエイミーという私だという言葉を見て、この同じ誠の神がイエス様なんだということに気づいたということなんですね。
繰り返しになりますが、先ほど嵐を沈めたということからイエス様がまことの神だということが明かされていますが、このようにイエス様がご自分を弟子たちに示した私だというその言葉にもイエス様の神性が明かされているわけです。
ちょっと前後しますけれども、実は恐れることはないという言葉もそうですね。旧約聖書の中で神の民がですね、預言書とかが天使とかですね、神様ご自身の権限に触れたときにみんな怖がるんですね。
神を見たら死んでしまうと言うんです。そのときに神様とか神的な存在はですね、その恐れる人に対して恐れるなと言うんです。マリアもガブリエルに会ったときに恐れてはいけませんと言われましたね。
こういう恐れるなという言葉からもですね、イエス様がご自身を表した神であるということも見て取れるわけです。
このように私はあるという言葉、私が恐れることはないというこの言葉からもですね、旧約聖書とのつながりがあってイエス様の神性がご証しされているということを覚えていただきたいと思います。
イエス様の導き
それでは最後、無事に目的地に導く救い主、私たちと関わりがあることを見ていきたいと思います。
今日のところ一番最後にこのような結末が書かれていますね。
じゃあ読める方、それでから読んでみましょうか。
それで彼らはイエスを喜んで船に向かえた。すると船はすぐに目的地に着いた。
実はですね、この今日の箇所ですね。
海を渡って目的に着いたという箇所についてこういうふうにいう学者もいるんですね。
実はこれも質エジプトに関係しているんじゃないかと。
イスラエルの民がエジプトを逃げてすぐにですね、エジプト軍に追いかけられたとき。
その時にモグセによって海が分かたれて、そしてまさに向こう岸に渡って無事エジプトから救われたということ。
それとこの弟子たちが嵐の中、船がですね、イエス様によって収められて目的に着いたということと
重ね合わされているのではないかということをいう学者もいます。
それはさておきまして、この21節の後半の部分。
すると船はすぐに目的地に着いた。
もともとの言葉を表すような直訳的に言い換えるとこうなるんですね。
すぐに船はその土地に着くこととなった。
すなわち彼らが目指していた地に。ちょっと誤植になりますけどね。
すぐに船はその土地に着くことになった。すなわち彼らが目指していた地に。
何が分かるかというと、この言葉の中からですね、すぐにという言葉と
彼らが目指していた地という言葉が強調されているのではないかということが分かるんですね。
際立っているんです。
どういうことかというと、彼らが船にイエス様を迎え入れるや否や目指していた地に、
直ちに着いたということが伝わってきます。
このことから私たちが知ることができることがあるんですね。
それはですね、イエス様こそ私たちを目指すべき地に導いてくださるお方なんだということが分かります。
そして目指すべき地というのがいろいろ考えられると思いますけれども、究極的と言いますかね、
最終的には神様が約束してくださった安住の地。
ステージフトの神の民で言えばその約束の地だったかもしれませんし、
私たちで言えば向こう岸ですけれども、
それ私たちにとっても神の約束してくださった安住の地であり、
地上の生涯を終えたときにたどり着くところ、
そういう場所というか、そこが私たちにとっての目指す向こう岸と言い換えることができるんだと思うんですね。
つまりイエス様が神様であって救い主であるということは、こういうことが言えるんですね。
イエス様は私たちとともにおられて、
古城の嵐を沈め、私たちとともにいてくださり、
抜けましたけど、私たちを安住の地まで導いてくださる誠の神、救い主である。
イエス様は私たちとともにおられ、古城の嵐を沈め、私たちとともにいてくださって、
安住の地へと最終的に導いてくださる誠の神、救い主であるということが、
信仰と約束の地
今日のところからわかるんですね。
皆さんどうかわかりませんけども、日々ですね、流れてくるニュース、
今日もインドとパキスタンが定戦をしたなんてニュース流れてましたけども、
そういういろんな、言ってしまえば紛争とか否定的なニュースを耳にする、
ネガティブなニュースがたくさんあって、そういうものに触れると、
果たして私たちは地上の生涯を良い形で終えることができるのかなと、
不安になることがあるかもしれません。
でも私たちの人生の小舟にイエス様をお迎えしているのであれば、
必ずですね、約束の地にたどり着ける、
そういうことを私、今日のところから学ぶことができたんですね。
人生の歩みにおいて約束の地までたどり着けるのか、無事にたどり着けるのか、
ちょっと言い方があれかもしれませんが、
良い生涯の終わりを迎えることができるのかと不安になってもですね、
イエス様が共に私たちの小舟に乗ってくださるのであれば、
必ずですね、安住の地に私たちは導かれるという、
そういう約束や希望があるということを覚えたらどうかと思うわけですね。
あるいはですね、日常生活を送っていく中で、
私たちには何かしらの向こう岸、目指すべき地があるかもしれませんね。
何かのゴールとか。
そういう何か自分が目指している地に向かっている、
そういう小舟に乗っていて、その途上にあるかもしれません。
その時に、生涯の終わりというよりは、
今ある中で自分が目指している目的の地までたどり着けるのかなという不安になったり、
まさにですね、今日の暴風のような試練に直面するかもしれないわけですね。
しかし覚えておきたいのは、
イエス様が共にいてくださって、
私たちの身の回りで起こる暴風をですね、
収めてくださって、無事目的の地へと導いてくださる。
そう信じていくことがですね、
今日のところから私たちが知り得ることではないかと思うわけです。
そんな中で、
共におられるイエス様、
自分の人生に、
自分の人生の小舟にイエス様をお迎えしてですね、
その短期的であり、長期的であれ、
目指す地まで必ずイエス様は、
無事私たちを導いてくださるということを信じていく、
お互いであり、教会でありたいと思います。
最後にですね、先ほど読んだ詩編を読んで終わりにしたいと思います。
詩編の107編の30節をともに読んでみましょうか。
ナイダですね。
波がないだので彼らは喜んだ。
主は彼らをその望む港に導かれた。
お祈りしましょう。
天の神様、あなたが救い主としてイエス様をこの地に使わせてくださり、
私たちの日常の糧を満たすところか、
私たちとともにいてくださり、
私たちをあなたの約束してくださった、
目指すべき地へとお導きくださる救い主であることを覚えて、
イエス様に感謝し、イエス様を信じてまいりたいと思います。
日常生活の中で様々な不安や荒波に出会うことがあるかもしれませんが、
どうかその都度、私が恐れるなというイエス様の声を思い出して、
目には見えませんが、
ともにいてくださるイエス様を覚えて、
イエス様の導きを信じて歩んでいくことができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
アーメン。