1. 農のかけ算ラジオ
  2. #19 農×親父
2024-01-03 40:21

#19 農×親父

今回のテーマは 農×親父

新年一発の目のテーマとして ゲストに実の父親を迎えて

段階の世代、バブルのど真ん中を生きてきた親父世代の立場から見る農業やその当時の話を聞きました。

 

・親父の人生

・団塊の世代、バブルとは何だったのか

・今の時代について

・建設業の厳しい時代と要因

・当時の農業・農家のイメージ
※雑音等お聞き苦しい点がありますが、ご了承ください。

00:09
農のかけ算ラジオ、道テラスの山浦です。このラジオでは、農業と様々なテーマ、漁師と組み合わせて、新しい視点やビジネスアイデアを垂れ流していく番組です。
ということで、新年明けましておめでとうございます。2024年も頑張って続けていきますので、引き続き応援よろしくお願いします。
2024年、一発目のテーマということなんですけれども、正直実家にいるということで、農×親父というテーマで話していければなと思います。
ゲストに父親を、実の父親ですね。 僕のお父さん、親父なんですけれども、段階の世代、ど真ん中を生きてきて、本当に山浦家を波乱万丈に導いた超本人ということで、
良いこともたくさん、悪いこともたくさんあるということで、その辺からお話を聞いていきたいなと思いますので、よろしくお願いします。
はい、ということでゲスト、親父の山浦勝美さんです。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
親父さん、今何歳かね? 今74歳です。 74歳。
ということで、何から話そうかなという感じだけども、実際俺もちゃんと聞いたことはないけど、親父さん、20歳ぐらいから、要は学校を辞めてから、卒業してから何をしてきたんですか?
そうやね、まあまあ、学生時代に
マージャンっていうのを覚えてですね、 そのマージャンに
結婚するまで、まあ結婚した後も、30歳近くまでは卒業をしつつ、それにハマりつつ、
仕事も一生懸命やってきた。 仕事、仕事はだから最初は何やっけ?
仕事はまあ親父の手伝い、親父が空調の仕事をしてたんで、
その手伝いというよりも、まあ1年、2年経った時には、親父も少し病気がちだったんで、
私がメインで営業をしたり、
教頭をしたり、まあそれでも親父が病気して倒れて、
まあ、かなり大きな借金をしましたんで。
親父も借金してたんですか?
親父の借金というか、その会社の借金をね。
その会社の借金を生産するために、もうやめようと。
設備はやめようということで、まあまあ親父の紹介で、
三菱の代理店である、この空調設備一切を卸し販売している会社に就職。
どこかカナダに行っているタイミングもあったよね。
ああ、それは学生中退して、大阪万博。
03:03
おお、その時代か。
大阪万博、まだ学生時代の大阪万博にアルバイト半年ほど行ったんですけども、
まあカナダ間のサブアシスタントという格好で行かせてもらった中で、
そこに、カナダの僕らと同世代の女の子がいて、
その万博が終わった時点で、
その子ともう一人、僕の連れと担任で、
東北一周をさせてもらったんです。
ああ、日本を見せるために。
北日本というかな。
その時に一緒に女の子の旅費、宿泊分も全部出して招待してあげたんで、
ぜひ暇ができたらカナダに遊びに来てくださいと。
ということもあって、
そしたらちょっと留学という格好でカナダに行こうか。
それでその女の子は、大阪万博が終わった時点で、
カナダ太平洋航空の事務職で働いておられて、
その家は日本で言うJRA競馬のトップ、
カナダのJRAみたいな競馬会のトップの家に拡大させてもらった。
お嬢さんがその…
お嬢さんがお嬢さん。
すごい豪邸でびっくりしました。
こんなお洒落みたいなところに住むんかいなっていうことでびっくりしたんです。
そして一泊だけ泊めさせていただいて、
そのあくる日にホームステイというか、
アパートみたいなアパートの家具室、向こうは家具室に住んでいるアパートがあるんです。
そこに私自分の保証で、女の子の保証で書いていただいて、
私とのお世話はここまでですと。
あとはもう自分たちでいろいろ調べて開拓したいということで、
トロントで学校というか工学学校も上段班もできながら度々旅をさせていただいて、
1年後にトロントからバンクーバーまで太平洋横断鉄道というのが3日未満に揺られて、
バンクーバーで装機に乗って九州まで帰ってきました。
これが1960年ぐらい?ざっくりでいいけど。
そんなもんやね。
大したもんや。
いえいえ。
あれともあれやろ、住んでたのは佐賀?
06:02
住んでた高校時代までは佐賀です。
ただ佐賀なんですけども、親父たちも佐賀に家を建てて住んでましたんですけど、
高校卒業してすぐ東京に出てからは周りとして帰ったことがない。
東京におったんや。
そうや。東京に3年間おったんでね。
住んだことはなくても親父の会社が三大工業という空調設備屋は佐賀にありましたんで、
何年かはそこに仕事はさせてもらってたんですけど、
そこに就こうという気もあったんですけどね。
親父が病気が来たとなかなか仕事も順調ではなかったような気がするんで、
さっきもお話しした通りうまくいかなくて精算という格好で、
後日は三菱電機の代理店に入社して仕事をさせていただきました。
そんでどこかのタイミングで自分が知る限りでは肉屋から始まって。
それで三菱電機の代理店で担当が大分宮崎鹿児島という営業を担当いただきましてですね、
そこに九州で一番大きい肉の卸し店や大手のスーパーにチェーン店を出しているような
本当にビッグなスーパー肉屋さんがありまして、
専務と言っても息子さんなんですけどと仲良くなりまして、
山田さんと、今はいいんやけど、男を何かしようと思ったらやっぱり独立して、
自分で仕事した方がいいよと。
山田さんが独立する気があるのであれば自分のところにおいでと。
3年くらい肉の修業をして独立したらいいんちゃうのという格好で、
本当に三菱の代理店である会社には1年しかいないで、
そこの社長に本当に怒られたんですけど、自分の道を進めたいということで、
うちの三菱の代理屋産業という本当にビッグな肉屋さんに3年間だけ修業をしている。
修業だ。そこから単純に肉屋で独立?
そうですね。3年間で、見込まれたかどうか知りませんけど、
1年肉のさばきを教えていただきながら店頭販売をさせてもらった中で、
2年目からすぐ山の奥の店長に行ってくれということで、
09:04
そこの名前がいいかどうか分かりませんけど、九州では一番大きいスーパー支援で、
マルショックというのがあるんですけど、この薄木店の店長をさせていただいて、
そこの店長をしていろいろな人とのつながりができた中で、
僕の住む、生まれや国名なんですけども、
友人からこういう小さな店が開いてるんだけど山の奥にやってみないかということで、
そこの専務の相談した中で、もういいんちゃう、頑張ってやったらいいやんという話の中で、
独自営業をさせていただきました。
最初は肉屋ってことだよね?
肉屋です。
ここからスーパーとか、要はファミリークックに広がっていくのはどんな流れですか?
肉屋で一生懸命やってたから、そこそこリアル部に出てですね、
まだバブルではなかったんやけど、バブルの前兆を期待した中で、
家内の実家が屋根なんですけども、屋根のすぐ近くに500坪くらいの土地が空いてて、
たまたま飛び入った中で、この500坪の土地何か利用価値ないね、
田んぼの真ん中というか、そういうところだったんで、
なかなか物がいいなと思いながら、
いろいろ自分なりに考えて、
お、屋根スーパー少ないんちゃう?という感覚になりましてですね、
ここでちょっとスーパーやってみようかなという、
肉屋、ラーメンのスーパーを立案して銀行に持っていったら、
もうイヤホンなしにお金を出してくれたわけですよ。
そういう時代だったんですか?
そういう時代があったんでしょうね。
バブルだし、銀行がお金を貸してくれるし、やったろうかと。
ファミリー空間何年続いたんやっけ?
ファミリー空間、ファミリー空間というかスーパーは6年続きました。
6年?
6年。
ずっと良かった調子は?
1軒目がむちゃくちゃ良かったんですか?
屋根の?
屋根の。
それで、銀行も山田さん、もう一軒、お金何本でも出すということで、
店長がですね、銀行に行くためにまた銀行の方からも来られて、
何とかお金使ってくれるという色々な誘いがありましたんで、
ということで、2軒、3軒と近所に出して、
2軒目までは取り上げ悪くはなかったと思うんやけど、
12:06
3軒目は今度、超豪華なスーパーを建てたんです。
豪華なスーパーというかですね、
金をかけたストアを作ったわけですよ。
そこがあんまり悲しくなくて、
この経営を何とか出しないといけないなということで、
またうちの近所に焼肉屋を開業したり、
2軒目にコックマンというイタリア料理店で夕食を出したり、
その後は一喜邸という居酒屋を出したり、
悪くはなかったんだと思うんですけど、
逆に言えば私のワンマン経営だったんで、
全部の店舗を見切れないということで、
人材不足というかですね、なかなか手が行き届かないので、
手首とか手首とか、
いろいろ言いまして、
フーパー3店も徐々に店舗の中が煩雑になったということですね。
そういうことに、私自身もワンマンで、
多少目を人任せという感覚になって、
キャッシュが回ってなかった。
単純にずっと借金だった。
そうやね、キャッシュが回ってなかった。
お金が回らないと。
要するに手形を切ると。
すべて外財株式会社というのは当然というのは、
不渡りというのが先頭だと思うんですけど、
不渡りを出して、
銀行というところはみんなそうなんですけど、
天気が綺麗な傘貸してくれるんやけど、
雨が降っているところには破れ傘がささらないというか、
なかなか世の中はそんなもんだと思うんですけど、
お金の大事なために払わなくなって、
止めようという決断に至って、
すぐさま東京にいる友達がおるんで、
東京に行ってまた一回やり直そうかということで、
5人で東京に向かったわけなんですけど、
東京じゃないよ。
東京に向かったんです。
一回?
東京に向かったんですよ。
あの時東京に向かってたの?
東京に向かってた。
トラック一台で、車一台で。
車一台で、アウディで、会社のアウディで。
俺は着いたのは滋賀やったけど。
15:00
東京に向かってたんですよ。
ところがうちの女房の姉がたまたま滋賀。
大間町に住んでて、
九州から東京まで一軒一丁大変なんで、
休憩のつもりで、
姉のほうにも会社の父さんたちの報告をするようになったんで、
100万円もらおうかということで、
お金をいただいて、
その時に、
そこの姉の旦那さんから、
東京に当てがあるんかという話の中で、
当てはないけど、東京に立っているんで。
その時だったら、
もう滋賀に留まりなさいよと。
部屋で職場に行って、
アパート部屋ぐらいのね、
保証人ぐらいだったら私がやってあげるからという話の中で、
うちの女房も、
お父さんそうしようかという話の中で、
まあいい、東京も滋賀も変わらないんで、
今から仕事するのは一緒だから、
話をここでやってて、
済まんかということで、
あくる日から職場に行って、
職探しをしました。
アパート探し。
この時の、まあ単純に一瞬戻るかもしれないけど、
まあ、新聞にも載りました。
4億5千万の負債と。
どんな心境だったの、お前父親として、
家族の長女として。
やってもったら申し訳ないなのか。
いや、申し訳ないという気持ちはありますよ。
それは当然。
ショックではありますよ。
しかし、人様のように、
首を振ろうとかさ、
もうこれで終わりや、と。
いう感覚は全くなかったですね。
言うてもまだ30だよ。
ちょうど40です。
終わったタイミング。
全くそういうことはないですね。
まだ若いし、まだ次やるだろうと。
いうことも自分の気持ちにあったし。
僕自身が、
信念を持っているのは、
やるかやらんかだけなんです。
一生。今もそうなんです。
一か八かの掛け言、
まあ、博打が好きというのもあるんですけど、
やるかやらんか。
するかしないか。
すると思ったら、
体が自然に動くタイプなんで、
倒産もやる。
するといったら、自然に倒産。
体がそういう方向に動いてしまう。
という感覚の性格だったんで、
40の時に倒産した時に、
申し訳ない、
そういう気持ちはもう十分にあるけども、
それに対して、
その子の…
終わりじゃない?
終わりじゃないっていうことは、
子どもたちさんにも小さいし、
18:10
こんなのはとかんでよという気持ち。
ずっと人生の話をしていくと、
人生録になるんで、
これで一旦置いておいて、
そこまでがピークというか、
今からピークだけど?
いやいや、その感覚がものすごい合ってると思う。
70、80になっても今が一番楽しいという人生が、
理想だと思っているから、
常に今だという感覚で、
それはいいんやけども、
いわゆる段階の世代とか、
バブルとか、
いわゆる世代のど真ん中を生きてきた、
親父として、男として、
どんな時代だった?バブル。
そうですね。
時代というのは、
お金をね、
使った人が帰ってくる。
お金を使わない人はアホやと。
という感覚ですね。
だから、勝負できる人は、
人生を開けてるんやけど、
開けてもいいんやけど、
ずっと開けると思った人は、
また落ちますよね。
絶対開ける。調子に乗った人とか。
調子に乗った人っていうかね、
まだまだ続くという。
僕もそのまだまだ続くうちになったんで、
ダメだったんですけど、
しっかりと、
世を見進めて、
時代を見進めて、
今儲かったお金を何とか、
という人たちは、
未だに残っている人たちも、
たくさん来てます。
でも賢いというのは、
そういう人たちっていうのは、
やっぱり家並みなんですわ。
家並み?
家並みっていうのは何?
家の?
2代目、3代目、4代目とか、
名門とか、
本当に、
家柄とか。
そういう人たちっていうのは、
そういう教育を受けてきてるんですわ。
事業してる父親からというか。
遺伝子を持っているんです。
だから大爆笑はしないけど、
大儲けもしないというか、
手堅く買っていく。
100円が1万円になったんですよ、
バブルで。
その1万円が、
100万円にしようってことは、
本当に人たちが、
全部失敗してるんです。
それが、山村克美?
山村克美です。
1万円が、
100円が1万円で、
これでいいやと。
これを何とか手堅く、
また回していこうという人たち。
上手にやった人たちは、
バブルを利用できたと思うんやけど、
さっきも言ったように、
21:01
そういう人たちは、
DNAが違うんですわ。
バブルの時代でも、
親父みたいに一肩上げた人もいれば、
サラリーマンみたいに、
イメージ的には、
挑戦した人が勝つ時代で、
その時は。
手堅くやってたサラリーマンは、
アホやなみたいなイメージ。
アホ?
なんでこの時に、
上手にダミに乗れないんかな、
という意識があったんですね。
何やっても儲かる。
何やっても儲かりません。
何やっても儲かったというよりも、
銀行が背中を押してくれた。
金貸してくれたしね。
挑戦はしようがない。
借金はあるけど。
面白い時代であったですわ。
面白い時代であった。
逆に今はどう見てんの?
その時代を経験して。
今は本当にね、
かわいそうな人たち。
時代、世代。
世代の、
40、30、40、50の人たち。
人たちにはかわいそうな時代だな。
勝負できない時代。
しにくい。
勝負しにくい時代やな。
勝負しにくい時代。
もう今の世の中、
1か100の人しかおらへんや。
中間層がいいんや。
儲かってる人はとことん儲かってる。
儲からない人は、
普通の生活してる人たちは、
基本的に、
まあ、
ほとんどが、
なんていうのかな、
博献会社っていうか、
メーカーの人たちじゃないじゃないですか。
メーカーの人たちはいいよ。
メーカーにいい大学出て、
いい就職した人たちは、
それぞれの生活レベルの給料も当たるだろうが、
他の70、80%のサラリーマンが、
就職企業の人たちは、
もうほとんどが、
給料が、
何この給料っていうほど安い。
信じられないことがある。
僕が、
事業を失敗して40の時に、
日賀県に来て、
小さな設備会社というか、
就職させてもらったんですけど、
その時、
何もしないのに給料。
やっぱり50万円。
1年目で。
1年目で。
そしてボーナスも、
50万以上あります。
まだバーブルはじけきってないよね。
はじけきってない。
1年あって、
その中で、
設備会社に勤めててて、
昔、
金塚というか、
昔は設備、
学校もそういう学校出ましたし、
24:02
私もその設備会社の、
メンバー監督をさせてもらった中で、
ほとんどが、
外注なんです。
封書にしても、
設備に、
会館に、
個人に。
その給料、
出してる発注金額が、
むちゃくちゃ良かったんですよ。
当時はね。
こんなんかになると。
そしたら、
私自身も、
また腹の中の虫が、
ぐるっと湧いてですね。
借金はあんのに。
こんなんやったら、
自分から来たらいいんちゃうと。
いう中での、
スピアで、
設備をね。
設備を、
開業を、
立ち上げたわけです。
結果、
もう細かいことは聞かんけど、
20年で、
私が京都で、
空調設備、
要はクーラー屋としたら、
もうだいぶデカい?
だいぶデカい。
菅原県では僕は、
トップだったよね。
トップだと思ってます。
施工会社としては。
そうですね。
作ったと。
その途中で、
リーマンショックもあったし、
バブルなんかも、
特に昔に終わったし、
だいぶやりにくくなったと。
でも一番の、
一番のやっぱり会社は、
またタタンの、
特有でタタンなんですけども、
やっぱり一番の、
多分原因になったのは、
政治ですよ。
マイジのギャンブルちゃうんかい。
僕のギャンブルもそうですよ。
ギャンブルもそうやけど、
政治。
リーマンショック後、
自民党から民主党に変わったんです。
変わったよね。
その時に、
我々建設業っていうのは、
入札、
官庁物件が儲けの大事だったんです。
利益の一番の、
ところが、
民主党に変わって、
これが箱よりも人。
物を作れるもの、
人を育てるっていうか、
人のためにお金を使うっていうか、
そういう政治に変わってしまった。
で、
入札物件が極限したんですよ。
言い悪いは別としても、
とにかく工事、
原型設備、
仕事が減ったと。
官庁物件が。
そうすると、
よく考えていただければ分かるんやけど、
大手の企業も、
大手の建設、
ゼネコンさんも、
我々と同じで、
官庁物件がメインで、
民間企業の建物っていうのは、
儲からんでもいいと、
そこそこ。
で、
何百人何千人で抱えた会社が、
足りない人がやっていくためには、
民間の仕事も取らない。
でも民間の仕事は、
きちんとした売り合いやと、
入札やと。
で、
そういう中で、
27:01
まあ、
会社を大きく回してるのは、
官庁物件。
今でもそうだと思うんやけど、
ところが、
その官庁物件が少なくなったら、
民間にみんなが飛びつくわけですよ。
それしかないからね。
ところが、
民間に飛びついたら、
同じ建物の官庁物件も、
2割も3割も値段が安いと。
設計単価が安いと。
設計単価が安い中で、
3割も安い中で、
それを入札すると。
全国の全国もまた地元の全国も、
全てが入札すると。
そうすると、
その官庁物件も3割も安い、
入札物件で取った、
それも建て替えで取った物件が、
ジェネコンの食い頭になってしまうと。
食べるかしら。
食い頭になってしまうと、
そのジェネコンは、
2割3割は必ず確保していかなくてはいけないと。
その回ってくるのは本当に、
犯人みたいな近くの金額で、
下受けに回してくると。
それをまた我々は戦わないと。
という中でやっぱり、
人権が物なくなって、
赤字でも受けるようになったというのは、
リーマンショック以降の、
また民主党政権の我々に対しては、
本当に非常に痛い時代であったと思います。
その辺でまた、
会社が回らんようになって、
ということですね。
それと先ほども言ったように多少、
人権が傲弱なんで、
勝つか負くか、
そのような仕事ばかりで、
性格があったんで。
ギャンブルとギャンブル。
ギャンブルというよりも、
本物のギャンブルをやったというよりも、
それも大手のジェネコンさん、
アブコンさんの、
前三名はいませんけど、
または、
党として大探しているの。
二人が、
誘われて、
まあそれが、
好きな人だったら怒ったりするんだけど、
どっちも好きだから、
一緒にお供している、
カバン持ちとしてお供している間に、
最初はね、基本ね、
ジェネコンさんがきちんと手渡した金は、
借り返しではないけども、
仕事を聞かせてくれたり、
だんだんそういうことができた頃に、
ね、会社のお金が。
本当につらいですね。
30:03
S600だっけね。
あれも盗まれ。
県で帰ってきたけど。
はい、OK。
じゃあ、一応農業×っていうテーマのラジオなんで、
ちょっと逆にその段階、
バブル世代を生きてきた人たちの中で、
その時代に農業とか農家とかって視野に入った?
なんかイメージとかあんのかな?
農業のイメージね。
農業のイメージ。
いや、それはもうショッピングストアやってましたんで。
農協か。
農協、市場、地元の補節市場っていうのね。
そういうとこは魚も野菜も入れてましたんで。
それは、多少は農業に対する
頭の中のイメージはありましたけど、
農業ってこんな季節に左右されるのかなと思ったり、
農業ってこんなに輸入に左右されるのかなという面はあったですね。
農家に対するイメージは?
農業はやってる。
だって何回やりゃ儲かるって言われてる時代に、
農家ってまだやってるのかみたいな。
それはね、
ほとんど農業をやってる人っていうのは
後継ぎばっかりだったんだよね。
まあまあ、そりゃそうだね。
新規で農業始めようっていう人はいなかったですね。
その友達はほぼ来なかった。
ほぼゼロだった。ほぼゼロ。
今は逆に多いけどね。
ほぼゼロで、
その人たちとはちょっとね、
生きてる感覚が違ったんで、
あんまり関心があったわけではないですね。
別にまあ、知りたげられてるってイメージでもなかった?
いやいや、むちゃくちゃ僕は知りたげられると思ってたよ。
その時代の。
やっぱりそういうイメージだった。
むちゃくちゃ安いものをその国から輸入してね。
もちろん買う側やったら買い叩いてたりしたりして。
基本的にそっちを使おうかなって。
米なんかも原炭をさせられたり。
すべての農業の業態が大型化していかないと
やっていかなくなってる状態だなっていう感覚は僕にはありましたよ。
その当時から?
その当時から。
いやでも今の農業って完全にそうやね。
そうやね。
個人農家は生きていけんし、
大規模がどんどん増えて
結局日本の今の農作物の4割はもう個人が作ってるんだよ。
実は僕は思ったのはこの人たちは
僕らもたまたまそういういろいろなお付き合いの中で
韓国旅行とかタイ旅行とかいろいろ旅行を招待して
また友達同士でごとごと仲間と
その暖かいところにごとごと行ったり
いろいろ行ってましたけども
33:00
農業の人たちは常に団体で来てるんですよ。
はいはいはい。
旗振って40年50年で
飛行機が一緒だったり
宿泊所が一緒だったりすることはたまたま何回かありましたけども
みんな右向けば右だったんですよ。
左向けば左。
みんながこの作物がいいって言ったら
みんな同じ方向に向いていく。
自分たちでこれをやろうっていう人がなかなか。
思ったんやろうけど一般的にはそこには目に入るような。
なかなかこの人たちは集団しか動けない人たちやなーっていうのは思いましたね。
イメージですね。
こういった中で時代が変わってきて
今は農業だけでも新しいアイディアとか挑戦する人とか
別に全く別業界から農業に入ってくる人の方が
今は勝っているイメージでもあるから。
アイディアがやっぱりね。
視野がね。
先に知らんことには今まで通りのやっぱりね
企業も東大阪の工場地帯にしても東京の工業地帯にしても
そういうアイディアのあるところがやっぱり大きくなってるんで
農業も多少はやっぱりこういう目を持った人たちをトップに
出て企業を強化していかないと。
ただただ農協というわけのわからん
マンマス団体に本当にわからんのさ。
何でもここを通さないと。
僕らも工場設備いろいろ他の企業なんかも個人で
たまに本当にたまたま営業することもあったんですけど
全て農業に行ってくれと。
全て農協に相談してくれと。
何?と思いました。
農協添加というか。
農協は何してくれるんですかということです。
農協が何してくれるんですかというよりも
国が農協を経由してじゃないとお金を
一般のまたまで農家のここにお金が回らないと
いうような仕組みを作り上げてるんでね。
その当時はね。今は変わってきたけど。
変わってきたんだろうと思うんやけど。
ほんまに今僕が思うのが
農協はもう
何の企業、何の事業、何の団体もそうやけど
36:05
それのためにやってると。
全てのためにやってると。
お金を身から持ってきて
いろいろやってる、振りはしてるけど
まあまあこういうこと言ったら怒られるかわからないけど
基本的には自分たちが食うためにやってるだけのことだって。
末端の人たちのことはね
優しい言葉を使ったり
丁寧に挨拶で
玉を下げて
振りはしてるけど
全部振りですわ。
ジェスチャーですわ。
逆に言えば
末端だろうが組織だろうが
結局一人一人の人間が集まってそうなってるわけで
その中で
いわゆる末端って
枝橋枝の人たちは
もうそっちに頼ってしまってて
何かあれば人のせいにしたり
政治のせいにしたり農業のせいにしたり
そういうふうなことをやってれば
結局ずっと末端やし
その上に立つ側になるか
もしくはそこから離れて
自分自身で選べるような
選択できるような人生を歩めば
自分の思いが
酸いも甘いもあるけども
味のような人生もあるけども
自分で選んできたっていう自負あるわね。
基本的にそうなんです。
人に頼ったら何にもできない。
人のせいにしたら。
人のせいにしたら何にもできない。
その代わり自分がやることには
ねえよ。
でもこれだけのことをやっても
今74歳になってますけど
そんなに悪い人間じゃないぞ。
それはそうやろ。
自分自身の力というよりも
家族もあって嫁もあって
うちのお母もね。
極端なし
父さんだけだったら2回して
一家離散してもおかしくないような
人生ではあったけども
そこに関してはね
感謝もあると
信じておりますけども。
僕自身はたまたま
一家離散というか
家族のためには
この74年間
特に
お金に不自由させないというか
生活に不自由させないというか
住む家、住む
乗る車
住民に応じた
生活しかできないけども
それに対する
本当は人が
あいつは遊びがっかりしてると
遊びがっかりしてるという風な
果てなところが見えても
果てではない懸命に
命がけで仕事してるというのは見えないからね。
しかし僕は
命がけで仕事はしてる。
39:02
オッケーオッケーというか
子供の立場として
夜逃げしたから
死がに来た瞬間
誰からも指差されながら貧乏するような
家庭やったかというと
決してそんな思いは記憶にないから
それでこっちも感謝はもちろんしてるし
親父の生き方に賛否があるのは
もちろん分かるけども
その血が
たぶん山浦三人兄弟の中で
自分に一番脈々と
流れてる気が
明確にするんで
まあまあこんな
山浦一の三男として
2013年に仕事を辞めて
新たに挑戦をすると
というところで
今後皆さん応援していただければなと
成せば成るよ
動かないと
物は動かない
僕も日々言わせてもらってます
動く人と動かない人でしかない
はいということで
この辺で終わりますけども
ありがとうございました
最後に
農のかけ算ラジオではご意見ご感想
その他こんなテーマで話してほしい
などのご要望をお待ちしております
メッセージは公式インスタグラム
農のかけ算ラジオまでお気軽にお寄せください
ありがとうございました
では2024年もよろしく
お願いいたします
では次回
40:21

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