私としても彼を掘り下げるポッドキャストみたいのをね、
やりたくてずっとやってきてたっていうのもありますし、
今日はこのノータブルに来てもらったので、
彩子さんとの対談を見るのが楽しみだなというふうに思っております。
楽しみ。
ご自身がアメリカ生まれアメリカ育ちで、
アメリカの教育を受けてきたっていうところと、
虹の父であり、最近までお子さんをインド系のインターに通わせてたんだよね。
そうなんです。虹火災にあるインド系の。
そこから公立の小学校に転校もしていたりして、
いろいろね、教育に関して思うところありという輝木さんと、
教育移住のためにシンガポールに引っ越して、
今まさにお子さんをシンガポールで育てている彩子さんと2人でね、
お話、私自身も子供2年半イギリスの現地校に通わせていて、
今日本に帰ってきて、日本で小学校行ってて、
いろいろやってるので、海外子育てについて、
ちょっと解像度を上げていってですね、
皆さんでどんな教育がいいのかっていう引き出しをね、
増やしていくような会ができればなと思っておりますよ。
いいですね。
日本のインド系インター、シンガポールの現地校、
そしてイギリスの現地校、なんかたくさんっていいですね。
バリエーションがありますよね。
バリエーションがあります。
はい、ということで今日お話ししていきましょう。
はい。
ノータブルラジオ。
はい。まず彩子さんどうですか。
輝木さんをゲストにお迎えして、この教育っていうテーマでいくと、
どんなことを聞いてみたいですか。
そもそもあれですよね、これチャットで話していたのが、
輝木さんがインド系の西笠にあるインターから、
公立小学校に転院させるみたいな話の文脈のときに、
そうなんですよ、日本のインターってむずいですよね、みたいな話をしていたなと思って、
うちの息子もですね、保育園、日本のインターにも行かせていて、
そこからいろいろ考えるところがあって、
日本のインターに行かせ続けるよりも、
シンガポールで行ったほうがいいんじゃないかなって思った部分があったので、
すごく共通する感覚があったなっていうのを今話しながら思い出しております。
日本のインターきついっていう話なんですけど、
こういうことなんですか、だから輝木さんもそう思って、
インドのインターに行かせているっていうところがあって、
その日本のインターの厳しさ、具体的にはどんなところ?
厳しいっていうか、
僕の感じたこととしては、
さやかさんは全体像がわかってそうなので、
僕の感じたこととしては、
英語がまずあんまうまくなかったっていうところが一番大きかったなってところですかね。
あと日本語もちょっと現地の小学校通っている子よりも、
なんかちょっとたどたどしいかもみたいな違和感を感じて、
そういった意味では一つの言語をちゃんと突き詰めて深掘ったほうがいいんじゃないかなって、
インドのインター通わせて思ったっていうところがあったってところですね。
なんで本当に西田さんの息子さんとかは、
1年イギリスにいただければほぼネイティブにしゃべれるって話だったので、
うちの場合だと2年ぐらい通わせて、
結構ワンセンテンスしゃべる、
結構片言の英語みたいな感じだったので、
これはどうしたもんかと思って、
効率に入れたっていうような経緯がありますって感じです、僕に関しては。
日本のインターね、難しいです。
インターって一言で言っても、いろんな学校があるので一概には言えないですけど、
やっぱなんかうちの息子が行ってたところも、
日本人の生徒が多いんですよね。
当たり前なんだけど、日本にあるから。
そうすると、日本人のお友達同士は日本語で話しちゃうことが、
やっぱ傾向として多くて、
学校によっては、クラスルームは絶対イングリッシュだよって言われて、
厳しくそういうふうにさせられるところもあるんですけど、
それを徹底するのがなかなか難しくて、
お友達同士では日本語しゃべるから、
英語に使っている総量としては、実はそんなに多くないというか、
英語も育っているようで、実は育っていないみたいな、ありますよね。
まさにそれは感じました。
インドのインターも6割近く日本人だったので、
どうしても日本語しゃべっちゃうっていうところで、
これだったらオンラインの放課後の英語の授業でいいんじゃないかみたいな、
どうせ授業でしか英語をしゃべっていないのであればっていうところを感じて、
切り替えたっていう経緯がありますね。
西郷さんと同じような感覚はありましたってところです。
なるほどね。
日本のインター、学校による前提はありつつも、
日本人が多いっていう環境が、
そもそもお友達同士の会話を日本語でするケースが多いので、
そうすると英語を使う総量が、
英語を高いレベルで習得するのに足りない環境かもしれないっていう話があるんですな。
これなんか、結構その、保育園とか小学校だけじゃなくて、
海外のボーディングスクールが最近日本に来て、
日本でボーディングスクール開かれたりとかするじゃないですか。
そういうところでも似たようなことって実は起きているらしくて、
日本に新しく、例えばイギリス系の有名なボーディングスクールが開かれても、
結局名前は名門のボーディングスクールだけど、
運営自体はちょっと違う会社がやってたりとかして、
中に来ている生徒たちって、やっぱり日本にあるので日本が多かったり、
あとは中国とか、アジアの周辺国の人が多くて、
日本人は日本人同士で日本語をしゃべって、
中国人は中国語をしゃべって、
結局なんかこう、日本のボーディングスクールって、
すごくインターナショナルな雰囲気で学べるかって思っていたら、
蓋を開けてみたらそうじゃなかったっていうのが、
割となんかあったりするんですよね。
それは高校生以降なんですけど、
やっぱりそこの言葉の難しさ、言語を、
無理やり英語を話しなさいって言われても、
心理的にハードルがあってとか、
日本語で話すほうが簡単なので、そっちになっちゃうっていうのは分かりますよね。
分かりますね。
僕もアメリカに生まれ育ちましたけど、
その傾向ありましたもん。
アメリカにいながらにして。
そうなんです。輝さんはアメリカにいて、
日本の補修校に行ってらっしゃったって。
土曜日だけ補修校行ってました。
毎日それ以外は現地校に通うっていうパターンでしたね。
そうですよね。
それだけでも日本語をしゃべりたいって感じだったんですか?
多分、僕はかなりレアケースで、
だいたい僕みたいに、言うならばアメリカ人なんですよね。
帰国子女というよりも来日人なんですよ、僕の属性として。
日経二世なので。
なのでそういう属性なんですけど、
日本語のほうが僕得意なんですよ。
一般的な日経二世の人って、スティーブ・アオキとかを想像してもらうと思うんですけど、
スティーブ・アオキも二世なんですよ。
ほぼ日本語しゃべれないんですよ。
そうですよね。
僕みたいな人って結構レアケースで、
周り見ても、もちろん完璧な場合に限る人もいますけど、
比率的で言うと、どっちかというと英語のほうが得意みたいな人が多くて、
なんで今のさゆかさんの話じゃないですけど、
僕の場合は結構日本人が周りにいたりして、
結構日本人と話すことが多かったんですね。
なのでそういったのもあって、アメリカで教育を受けたんですけど、
結構日本語のほうが得意っていう感じの人間でありますという。
ところです。
やっぱでもそうですよね。
生活の中で自分の得意というか好きな言語を話している人たちがいたら、
そっちでその言葉で話したくなるって。
だから人間の差がというか。
それはそうですよね。
それはそうですよね。
そのほうが上手くなるし、その言葉自体が。
そうなんですよ。
っていうのもありましたね。
あとすごい僕の時代って結構差別とかもあったので、
アジア人はちょっとあっち行けみたいな質感もあったりして、
そういうのもあって、
よりそっちに偏っていったみたいなところはあったりしましたね、当時は。
そうなんですね。
っていうような。
やっぱ本人の環境とかその時の状況とかによって、
やっぱ学校が良い悪いじゃなくて、
本当に変数があるなっていうふうに、
アメリカで育った身としても感じるし、
自分の娘息子を見ててもそう感じるし、
なので一概にやっぱ言えないなっていう。
一概にはそうですね。
入れてみないと分かんないところはたくさんありそう。
あとはなんか日本の教育って、やっぱレベル高い。
ただきさんインターから日本の国公立に転校させたっておっしゃってましたけど、
日本の学校の教育ってやっぱレベル高いレベルじゃないですか。
学校の教育ってやっぱレベル高いですよね。
レベル高いですね。運営とかもすごいしっかりしてるし。
すごいですよね。
めちゃくちゃ丁寧だし、すごいなっていう。
これで給食もついてくるのみたいな。
数百円で。
しかもタブレットとかも用意されたりして、
これはいいか悪いかはあれですけど、
すごいなっていうそのお金の予算のかけ方が。
さやこさんはまだお子さん小さいじゃないですか。
それでいて日本の教育のほうがレベルが高いって感じる部分があったりするんですか。
日本の教育のほうがっていう、比較というよりも日本の教育って純粋にレベル高いなって思う。
全体的にってこと?
その後、日本に帰るのか、他の国に行くのか、どういう人生になるかちょっとわからないですけど、
そうなったら、おそらくそれまで8歳とか9歳ぐらいまでに培われた言語と、
あとは学習に対する意欲というか、学習に対する習慣?
みたいなものを使って、どこでも自分の好きなこととか、
自分のやりたいことを伸ばせるような教育ができたらいいよねっていう話をしてますね。
なるほどね。
じゃあ、幼少期で一番差がつくもの、あるいはボーナスを受けるものは何かっていうと、
語学の習得だっていうふうに捉えたときに、
じゃあ語学の習得環境で一番いい、あと家族の仕事の都合とか、
時差とか、そこの踏まえるとシンガポールいいじゃんというのがポイントなんですかね。
そうですね。あとシンガポールは純粋に日本と同じレベルというか、
日本よりも学習水準が高いっていうのはあるので、語学の面以外にも。
なのでそれは一つ大きなベネフィットかなと思うんですけど、
一番大事なのは、たぶん幼少期のうちに、
言葉とか文化に対する需要を無意識のうちに入れ込むっていうのは結構大事かなっていうのと、
それプラス、勉強することが楽しいよとか、
勉強する習慣をつけていくっていうのが、たぶん初めのところで大事なのかなっていう考え方ですね。
なるほどね。理にかなってるなと思いますね。
私が過去2年半イギリス、ロンドンで暮らしてて、
やっぱ子どもたちが現地校に通っていて受けたいい影響が、
グローバル感覚。グローバル感覚って、
例えばだけど、クラスメイトの半分がムスリムですとかね。
場所こそロンドンだけど、地元っ子っていない。ロンドンっ子っていないんですよね。
みんな移民の2世3世で、クラスの3分の1が日本人で、3分の1がムスリムで、
残り3分の1が東欧とか、移民だったりするっていう。
で、あとは先生が黒人さんだったりとか。
そういうことで、住んでる地域にもそうだし、クラスメイトを見てもそうだけれども、
特定のナショナリティに偏らない、逆に偏ってるというか、
イギリス人以外がたくさんまとまっていて、いろんな肌の色、いろんな宗教のお友達がいて、
腹あるじゃないとお菓子食えないとかね。
そういうものが当たり前と思いながら、学校に通って、
で、今日本に帰ってきて、日本人しかいないクラスで生活していると、
いろんな世界があるんだなっていうことは、たぶん内面化されているので、
それすごいよかったなというふうには、たぶんいいことなんだろうなというふうに思いますな。
その経験をしているということだけで、価値ですよね。
だって、私その経験できたの、たぶん大学生でした。
大学のときに、留学に行ったときが初めて。
だから、20代、21とか、その20、21ぐらいのときが初めてだったので、
それまでは日本でずっと、ほんとに日本人しかいない環境で育ってきてたから、初めてだったんですよね。
だから、今も私たちの現代になって、多様性、
それこそ、人種とか、民族における多様性っていうのは、前よりも裸に言われるようになって、
かつ、ジェンダー感とかの多様性って言われますけど、
やっぱりなんだろうな、初め聞いたとき、え、なんで?とか、
え、別によくない?そんなの?って思っていた、たぶん20代の私はいたんですよね。
なんでそれ、大事なんだろう?大事っぽそうなのはわかるけど、
それが果たしてどういう意味で大事なのかとか、
どういう違いがあるのかとかって、ちゃんと考えたこともなかったし、
触れてこなかったから、
っていうのがあったから、言語っていうのももちろんそうだけど、
そういう、いろんな生き方をしている人がいて、いろんな生き方の正解があるっていうのを、
幼少期とか小さいときに感じられるっていうのは、すごく価値のあることだなって思いますね。
そうですね。なんかこう、異文化理解とか、多様性みたいなことが、
目の前のことを遂行する上で課題になるのって、大人になってからだと思うんですよ、主に。
何かビジネス、海外でビジネスをする、出張する、あるいは海外の人と取引をする、
あるいはそういういろんな人が集まる催しをしきるとか、
なんかそういうでかいこともあれば、近所に外国人の家族が引っ越してきたみたいなことで、
あいつらパーティーばっかりしやがって、みたいなことがもしかしたら発生するかもしれない。
そういうタイミングで異文化理解っていうものが、
そこで初めてゼロで取り組むのと、
自分の中に何となくこう、いろんな人がいて、いろんな生き方、いろんな宗教、
大事にしているもの、生活習慣、そういう違いがあるんだなっていうのを理解した上で、
そういうのに直面するのってやっぱり全然違いますよね。
うん。全然違うと思うなぁ。
そういうことを輝き下がるじゃない。ずっとアメリカで生まれ育って、
で、21歳で日本に大企業へ就職するために日本に来て、
全然カルチャー合わなかったっていう話をしてましたけど、どんなカルチャーギャップがあったんですか?
日本人に良いだったとはいえ、やっぱりアメリカの教育を受けてきているので、
日本の本当にしかもザ日系企業みたいなところに入社したよね、野村総研っていう。
先輩の言うことは絶対みたいな感じとか、
序列の社会とか、そういったものを日本の部活とかにいたら分かりやすい文化なんでしょうけど、
アメリカでも月にディベートしたりとか、プレゼンしたりとか、自分の意見を言うみたいな環境の教育を受けてきた身からすると、
違和感でしかないんですよね。
何も言っちゃダメなんですか、何ですか新人はみたいな感じとか。
そういう質感もありましたし。
なので、カルチャーギャップはありましたよね。
思い返すと、私結構高校の時にハードに部活してたんですよね。
ハンドボール部で外で走り回って、全国大会ベスト16になったんですけど、
その時とか、先生に反論するっていうのはない。
先輩に反論するっていうものはない。
自分より年上の人に何か言われたとて、何かを言う資格はないみたいな。
それを言われたわけじゃないけど、
そういう雰囲気の中で当たり前に24時間、365日を何年間も過ごしていたから、
そういうマインドの日本人に21歳の輝きさんがぶつかったら、
確かにマジかこいつらってなるよなってすごい思いました。
社会レベルで洗脳を受けてるんですね、日本人の企業選手は就活を。
特に企業選手と言われる人たちって、
日本ってなんか不思議だけど、体育会の人って結構いい会社、
大きな企業に入る傾向あるじゃないですか。
大学で何を勉強してきたかっていうよりも。
そういうマインドセットで、
マインドセットっていうか、そういうことが当たり前だと思ってる人が多いんじゃない?
それをびっくりしますよね。
ですね。
確かに。
僕ら日本で大学卒業して、日本で就活して、就職していくっていうときに、
体育会の方が有利というか、体育会の方が有利が定説かわからないけど、そう言われていて、
そういう雰囲気の中で自分もその一員として勝ち抜いてきたものと、
そういうもんだって知っていたの?
21歳の輝明さんは。
なんとなくアニメとかで知ってはいたんでしょうけど、
結構カルチャーで、どこにも属せないって感覚がすごいあったんですよね。
アメリカにいても日本人でマイノリティーなんで、
アメリカ人にはなりきれないし、だんだん日本好きだしみたいな。
で、日本に行ったときに、あれ?俺日本人でも意外とないんだみたいな。
日本人と馴染めないんですけどみたいな。
でもアメリカ人とも馴染めないし、じゃあ僕は何なんですかっていう時期があって。
で、最終的に地球人っていうところにたどり着くんですけど、
その当時はそういうアイデンティティークライシスみたいなものがありましたね。
あとちょっとこれが派生して思い出した話なんですけど、
日本の文化でちゃんとできないっていう話が今あったと思うんですけど、
聞いた話で、僕の知り合いでインターナショナルスクールに通っていたおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたことがあって、
その人たちはインターナショナルスクールなんて行かなきゃよかったって言ってるんですよ。
それもなぜかというと、海外に行く予定がないのにインターナショナルスクール通ってるんで、
日本の会社に入ったときに、ただただカルチャーギャップを味わうだけ。
間違いないな。
で、仕事ちゃんとできないみたいな、その日系企業でっていう。
だったら最初から入れんなよって言ってて、確かにと思って。
英語を別に使う予定なかったら英語なんて覚える必要ないよなっていう。
っていうので、そのおじいちゃんおばあちゃんは最初から効率が良かったみたいなことを話を聞いて、
なるほどなーって思いましたね。
で、その状況次第っていう。
アメリカに行く予定、英語を使う予定が大人になってからあるのであれば、
あとはカルチャーとかインターナショナルスクールを最適ですけど、
そうじゃない場合は別に日本でもいいっていう。
これからのグローバル社会においては何とも言えないですけど、
そのおじいちゃんおばあちゃんはそう言ってた。
そんな話を今覚えだしました。
確かに、それはなんか一つそうですよね。
ね。
偶話みたいだなと、思いますな。
確かに、でもなんかそのおじいちゃんおばあちゃんの時が若い頃の日本ってもっと勢いがあって、
もっと、なんだろうな、日本の社会、日本の会社で働くことのメリットがめちゃめちゃ大きかった時代だと思うんですけど、
今後、私たちの子供世代がその日本社会を享受できるかというと、やっぱりそうじゃない可能性が高くて。
そう考えた時に、子供の未来なんてね、分かんないですよね。
子供が海外に行きたいって言うか分からないし、日本に残りたいって言うか分からないけれども、
なんか選択肢を広げるっていう意味で言うと、今後その日本の社会があの当時のように、
てか私は経験したことないんですけど、生まれた時からリセッションなんで、
戻るかって言ったら多分そうじゃないんだろうなーって感じはあります。
私も思います。
国単位でそういう浮かれモードになるっていうことが、これから地球のほんと限られた地域でしか起きないんじゃないのかなっていうのは、
思いますよね。特にロンドンで暮らしていて、ロンドンにそういう人々が豊かになっていくみたいなものは手掛かりもなかったですよ。
欠片もないというか、日本以上に鬱屈としているのがUKの雰囲気で、それこそどう考えてもおかしい。
ブレグジットとかも数年前にしたばっかりだし、今も移民が増えすぎて困っているってことで、
先日ですけどイギリスへの移民、イギリスのビザね、イギリスが発給するビザ、どんなルートでも英語の試験を課しますって発表があったんですよ。
今週、首相が5月12日にイギリス人、イギリス移民でビザを発給しているのに英語できない人多すぎると、これはいかんという発表。
移民が増えすぎたっていうことで、移民廃席とかを訴える保守派の政党が指示を受けていることを受けて、現政権が対策してますよっていうことで発表していると。
なんかアクリ話じゃないですよね。
未来楽観ではない感じはありますよね。
今ケーキの交代の話に絡めて話したけど、でも来せずして英語が重要になってくるっていう文脈はね。
そうですね。間違いないですよ。
つながりそうで。
しゃべれて損することはないですからね。
そうね、そうなんですよ。
私なんか最近シンガポールにせっかくいるので、中国語を勉強したいなって思うようになって。
なんかやっぱり、最近チャットGPTもあるし、翻訳機はたくさんあるから、なくても別に生きていける。
そもそも英語は私しゃべれるから、シンガポールで全然生きていけるんですけど、
やっぱ人と仲良くなりたいなとか、そこの国のカルチャーを知りたいなとか、
なんかそういうふうに思ったときには、言語ってすごく大事だなって改めて思ってね、中国語を勉強したいなって最近思うんですけど、
それのたぶん一番世界で汎用性が高いのが英語で、
なんとなく英語がある程度話せていれば、60億人いる中の大半の人と話せるようになる。
その喜び、その感覚をやっぱ息子には味わってほしいなって思うし、それはあるかな。
なんか息子さんに学ぶ楽しさを身につけてほしいっていう話はしてたじゃないですか。
それこそが生きる意味に近づいていくと思うんですよね。
深い、なんだか。
面白がる、面白いかどうかって我々の解釈じゃないですか、ある事象に対して。
それを面白がれるかどうかにこそ差がつくというか。
困難な状況、つらい状況も未来から振り返れば楽しい思い出になるかもしれないみたいな、
未来次第であるみたいな楽観視ができればこそ今を楽しめると思うし、
今を楽しめるためにいろんな引き出しを持ってる必要があると。
それって学びによって、経験と学びによって広がるし、
もし自分に勉強したりとか、いろいろなものを結びつけたりとか調べるとか、
そういう習慣が身についたならば、引き出しを増やせる方法が増えるので、
そういう意味では今チャットGPTとかが出てきて、
自分で知識を得る必要がないっていう消極的な捉え方ができる一方で、
学びの手段が爆増したっていう風に捉えることもできるわけで、
翻訳とかもチャットGPTで楽にできるなのか、
勉強のパートナーが一人増えたみたいな感覚で、
学びがやりやすくなったっていう風に捉えられて、
どっちかというとそういう風に面白がれる方がいいだろうなという風に思ったし、
みんながしてない経験を海外でしてきたっていうもの自体が、
我々の子供たちの成功体験として、やってやれないことはないみたいな。
そういうものとして捉えてくれるといいですよね。
いいですよね。本当にそうですよね。
ちょっと話変わっちゃうかもしれないですけど、
このチャットGPTとか生成AIが出てきたことによって、
おそらく自分がどのコミュニティに所属するかっていうことが、
より今後重要になってくると思うんですよね。
同じ情報をだいたいみんな同じように得られるから、
知識とか情報自体に汎用的なものに価値があるわけじゃなくて、
そのコミュニティでしか味わえない何かとか、
コミュニティに属しているからこそ、
世間いっぱいの社会から見たら、この人ってすごいよねとか、
この人って一目置ける存在だよねっていう、
ある種の価値になっていく。
それが学歴になる可能性が、今ももちろんそうですけど、
今後もおそらくそうなっていく、何かしらの傾向があるんじゃないかなと、
私は個人的には思っていて、
学びっていくらでもできるし、
どこでも学べるんですけど、
それをしたいと思う人たちが集まる場所にいることによって、
それが促進させていける側面もあると思うから、
そういうコミュニティに意図的に属していくというか、
意図的に、私自身もそうだし、
息子もそういうことを経験させてあげたいなっていうのは、
割と思っているところはあるかも。
その手段として英語とか、あとは学ぶということの姿勢を今、
教えていくというか、学ばせていくと伝わるかな。
めちゃ本質的だと思う。
具体的になれば、今、スマホにWindowsストアであらゆる本がダウンロードできるし、
YouTubeに東大の講義、ほとんど全部上がってるんじゃなかったですか?
上がってる。
YouTubeで東大の講義が全部見れるし、
世界有数の大学の人気講義とかもYouTubeで無料で見れる。
でも、それじゃなくて、
ソシナのニュース切ってるのとか、見て時間を消費しているわけで、
その気になれば、何でも今、この場で一歩も動かず、
スマホで世界でも有数の学びをしようと思えばできるんだけど、
しないのは何かみたいなことが問われてくると。
その時に、一緒に学ぶ仲間がいるとか、
自分より頑張ってる友達がいるとか、
そういうものが自分自身を動かすきっかけになり、
習慣になり、いるようになってくってのはあれだろうねってことで、
輝木さんもよく、コミュニティがこれから大事だよって話はするじゃないですか。
そうですね。今の斎藤さんの話も聞いて、
学びのもう一歩振り込むと、体験ってことだと思うんですよね。
身体感覚を使った体験とか。
学びで、ブックスマート的に言ったら詰め込んで学ぶっていうだけだと、
それはAIと変わらないのかなって感じていて、
そうじゃなくて体験する。
例えば言語とかってまさにそうだなと思っていて、
英語喋ってる自分と日本語喋ってる自分って若干質感違ったりするじゃないですか。
顔の筋肉の使い方とか、ちょっと性格が強めになったりとか英語だと。
言葉っていうものの語源の作り方とか違ったりするので、
それもセットでこの言語体系を喋ってると、
こういう感じになるんだなとか、
こういう言語体系だからこういうものを食べるんだなとか、
カルチャーを体験として味わえると思うんですよね、言語を学ぶって。
それによって本物の共感が生まれるというか、
そこの国の人というのもあると思うので。
なので言語ってAIでもちろんコミュニケーションツールとしては置き換えられると思うんですけど、
その国の人を理解するとか、共感するとか、
そういった意味では言語を学ぶっていうことはまだ大事なものなんじゃないかっていう風に感じたりしましたね。
今ちょっと話を聞いて。
今輝さんが仰ってた、本物の共感って超キーワードだなっていう気がして、
やっぱ本物の共感があるからこそ人は繋がるんですよね、きっと。
上辺なんですかね、たぶん私の今ノータブルっていうコミュニティをやってるのって、
私に本物の共感を感じてくれる人が来てくれるという気がするんですよ。
私がこれまで経験してきた人生をシェアして、
こんな思いでこんなことをして、こういうことを考えてますっていう、
ここに共感をするから人が動いてくれるんですよ。
でもその本物の共感をするためには、本物の体験をしてないと、
そしてそれを言語化できないと、人を震わせられないっていうのがあって、
それがもう本当におっしゃる通り体験からしか生まれないっていうのがすごく実感するし、
私はそういう人にかつ共感をして、私自身も行動するので、
なんかとっても分かるなっていう気がする。
そうですよね。
そういった意味ではやっぱ共通の体験をするとかっていうところがすごい大事だと思うんですよね。
なおかつその体験が辛かったり、そこのレイヤーだったり、
ちょっとハードだね。
ハードだったりってすると、より深く共感し合えるって感じだと思うので、
そういった意味でのコミュニティってものが大事なのかなっていう感じが個人的にはするんですよね。
共感し合えるものであったり、
そういうあったかい質感ですよね。
そうですね。
だからそういうものを、私たちももちろんそうだし、
子どもたちが他者と育めるようにしていくっていうのが多分教育、
私が大切にしたい教育だし、
多くの大人が大切にしてあげたい教育なのかな。
その一つが言語であり、その一つが文化であり、
その一つが常識的な、相手をもんぱかった言動ができるっていうことだったり。
そうですね、確かに。
なんかちょっと話がずれるかもしれない。
僕の友人で今ネイチャースクールをやってる人がいて、
日本で結構エベレストを最年少で登った人とか、
結構面白い人がチームでやっていて、
その方々が言ってたのがやっぱり、
身体感覚を持った学びみたいなものが、
現代の子はあまりにも減りすぎている。
なんでか、親がすごく危ないからやめてねみたいな感じで、
すごい守ってるから、
火傷もしたことないし、怪我もしたことないし、
そういった経験がないっていうのに結構それを危惧していて、
なんでそのネイチャースクールではもう火傷もするし、
なんか傷だらけにもなるしみたいな、
ロッククライミングでもう絶壁登るしみたいな、
そうするとその子供たちがめちゃくちゃ生き生きするんですって。
今までにやったことないことをやってるし、
もう生きてる感じを得れるしみたいな。
なおかつそこもすごい繋がり合うみたいな。
すごい辛いこともするのでみんなで。
そういう体験ってめちゃくちゃ大事だよなって、
この間その人の話聞いて思ったんですよね。
そういった体験、やっぱり肉体から来るそういう共感体験っていうもの、
あと痛みとか、そういったものはやっぱり小さい頃に、
あまり過保護になりすぎずに、
やらせたほうがいいんだろうなっていうふうに思っていて、
そんな話を最近聞いたりして思い出しました。
それはめちゃめちゃ思う。
シンガポールにいると過保護になっちゃうんですよね。
シンガポールという国が割と温室っぽい。
天気も温室だけど、教育環境も温室で、
そこはちょっと夫とも話して、そこはちょっと危惧してる感じ。
ガリ弁になるんですよ。
学力は高いけど、それ以外の生活力がないとか、
それこそリアルな体験をしていないっていう子どもが、
本当に多いっていうのがあるんですよね。
みんなちょっと動きが足りない、運動が足らなかったりとかもするし、
それはすごい危惧してて、
それもあって、8歳とか9歳とか、
そのぐらいになったら、一回シンガポールという国から離れるっていうのも
一つの可能性としてあるねって話をしているぐらい。
勉強はできる、言語もOK。
でも人間としての体験みたいなところは、
考えなきゃなってすごく思いました。
そこのバランスですよね、確かに。
バランスですな。
話もすごい広がっていて、いい感じに拡散しているんですけれども、
あえて収束させていくとすると、
この共感っていうのは、
今後の世界において特に大事になってくることかもしれないねっていうのは、
共通しておっしゃってることですよね。
特にAIとかでコミュニケーションが円滑になったり、
言葉の壁を越えたりとか、時間の壁を越えたりとか、
いろんなものできるようになっていく中で、
それでも人間が何かやる意味あんのっていったときに、
心が共鳴しているっていうものが、
多分一つの価値になるだろうと。
じゃあその本当の共感っていうのを得るために、
実際に身体でそれを経験しているかどうか、
あるいは言葉のレベル、
表面的な言語を理解している以上に、
その文化を理解しているかっていうところが、
身体感覚だったり培った感覚だったりが