800回記念と告知
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
おはようという時間では全くないんですが、6月20日の14時ちょうどと言ったところですね。
2度寝して爆睡したらこんな時間でしたという、単にそれだけなんで。
この時間に今起きたってわけじゃなくて、さっき食事はとったんですけど、
起きて食事をしたらこの時間でしたという感じですね。
いい電気で、気温もいい感じで、ちょっと寝てたのはもったいなかったかなという、
全然グッドバイブス的じゃないことを考えちゃうんですけど、
ついこの辺は考えちゃうのが自分的ではあります。
いい気候ですよね。この状態が一番僕はやっぱりありがたいとは、本音では思いますね。
この状態が続くともう、いくらでも仕事できるんじゃないかという、
妄想なんですけどね、完全に。
それでも今はいい気候だなと思います。
昨日800回を迎えまして、お祝いのお言葉を2、3名の方からいただきました。
大変ありがとうございます。まさか800行ってそのお祝いをいただけるとは、
お祝いの品とかをいただいたわけじゃないけど、夢にも思いませんでした。
始めた頃はiPad、iPhoneに向かって適当に喋ってアップすれば、
Podcastはできるんですということですね。
だいぶ前、何だったんだろうあれは、確かオンラインマガジンの連載をさせていただいていた頃、
担当の編集さんに雑談で言われたようなのを真に受けて始めたんですよ。
一番最初はグッドモーニングバイブスとか言う前にやってた頃は、
本当にそんな風にして始めたんで、まさかそれがこういう風になるとは。
なるってことは何かになったわけじゃないかもしれませんが、
続いているというのが自分でも不思議ですね。
僕は以前、倉園さんが形から入るっていうことをご自身にしておっしゃってたのと逆で、
形は基本的に後で考えるっていう方なんですね。
多分なんとなく始めてしまうんですよ。
そういうものじゃないと始められないで終わるんですね。
だから今僕がちゃんと自分ではYouTubeを始められていないのは、
多分これを形に何かあれはこだわらなきゃいけないように、
あれこそそうじゃないと思うんだけど、
なんとなく形にこだわりたいと思っているところが多分あるんですよね。
以前ブログを始めたときはもう全く形にこだわらなかったから、
はてなブログとかで適当に始めてしまう。
はてなブログじゃなくて昔のはてなダイヤリーってやつですね。
それに一番最初に上げた記事って僕多分、
ロッテの押さえ投手が押さえたぞっていう記事を、
いや素晴らしいですっていうのを書いたという、
もう全然どうでもいいような記事だったんですよね。
あと自分のブログを形を整えながら書いたのは、
トム・ソーヤの壁塗りの話だった気がするんですけど、
あれもどっかイチャタタというような気がするんですが、
当時ライファック心理学とか言ってました。
まあ今でもそういうこと言ってますけど、
多分僕はそういう方なんだなと思います。
フラッと始めないと何事も始まらないっていうようなところありますね。
まあそれは良いとして、
今日はですね、昨日が800回記念だったし、
何しろ寝起きなので、
ちょっと今日は何とか編はやめて、
相変わらずただ喋るぞ編にしようと思っているんですが、
これ800回を一つの区切りにして、
またよりイスを自由に喋ろうと。
大谷翔平さんのネタとかはあんま出してない気がするんですが、
まあこんなものは別に出さなくたって、
アイドショーとかで死ぬことやってるんで、
出す意欲を失わせられるんですけど、
別にそういうのを喋ったっていいんじゃないかというのを、
最近思い始めているところではあります。
それ意外と勇気がいるというか、
何かこうそういう方に舵切れるかというと、
意外とそうはいかないのが不思議なんですけどね。
まあこんな感じです。
はい。
そしてですね、
いよいよですね、
何と言いますか、
いよいよっていうのはおかしい。
何もいよいよじゃないんだけど、
7月の久しぶりに告知をさせていただくと、
告知は絶対やってますけど、
7月1日にもっと仕事を楽にする、
楽に仕事をする、
サスクシュートセミナーという、
久しぶりに単独サスクシュートセミナーオンラインだけでやります。
というのが7月1日ですね。
これはもう僕はちょっと、
多分これを定期的にやることは今後あまりないと、
わかんないですけどね、
多分ないと思うので、
ここでちょっとがっちり固めて、
割と長丁場でやらせていただくので、
これ聞いてる方にはもう十分に聞いていて、
今更感はあるかもしれないですけど、
整理してまとめてみますので、
よろしければちょっと聞きに来てやってくださいという感じですね。
そして僕の、僕のですよ、
タスクシュート協会のとかでもなく、
公式のとかでもなく、
僕のタスクシュートってのはどういう状態になっていて、
それはなぜ未だに手放さずにやっていられるのか、
って感じのところをお伝えできればいいかなと思います。
これ本当に単独でやるものなので、
他の何でもやっていただいて、
佐々木はこうやってんだふんぐらいな感じで、
楽にやるっていうのがタスク管理は、
もう全然楽じゃないでしょ、
タスクシュートって思われるかもしれませんが、
楽にやれるんですっていうこと。
そして僕が今に至って感じているのは、
楽にやるにはタスクシュートじゃないと無理なんじゃないかなって、
そういう意味で、
僕の偏見なんでそうじゃないかもしれませんが、
僕の考えではそうだというところですね。
これが7月1日。
あと30日、こっちは日曜日だったかな、
東京来伯研究会、これはオンラインではありません。
オンラインもあるかもしれませんけど、
主催も私ではなく、
北信也さんのかなり久しぶりの東京来伯研究会、
で登壇させてもらいます。
1時間ではなくて1時間弱という枠をいただいているので、
その中で僕はちょっと今度はタスクシュートの話は出すと思うし、
タスク管理の話しろって言われてるんだけど、
メンタル寄りにしようとは思ってます。
どういうメンタルでやるといいと、
僕の意見ではね、
いいかなと思うかという、
こういうメンタル寄りにしようとは思ってます。
どういうメンタルでやるといいと、
僕の意見ではね、
いいかなと思うかという、
これもこの番組聴いてる方にはおよそ想像がついちゃうかもしれませんけども、
40数寸でコンパクトにこっちは行こうと思っているし、
あとですね、これはもうリアル八丁彫りでやる、
八丁彫りっていうと、
必殺仕事人じゃなかったっけ、
なんか私はもうそれしか思い浮かばないんですけどね、
八丁彫りの旦那なんですけど、
八丁彫りでやります。
ので懇親会などもあり、
しかもこれは珍しく午前中にやるという、
これがいいのか悪いのか知りませんが、
日曜日の午前中にやるので、
お昼みんなで食べて楽しく過ごしましょうみたいな、
そういうノリも多分ベックさんすごい考えていらっしゃると思うんで、
そういうのでも、
久しぶりにですね、
ライファックの話を朝なんとなく聞きながら、
お昼をみんなで、
気の合う中で食べるのもいいんじゃないかっていうような、
そういう感じだと思いますので、
こちらもよろしければご検討ください。
7月30日ですね。
対照関係論と転移
今日は第801回ということで、
気負うと大体ろくなことはないんで、
ふんわりしゃべろうと思ってるんですけど、
最近ふんわり考えているのか、
ふんわりではないんですけどね、
ふんわり考えているのは、
転移っていう言葉なんですよね。
転移って何ですかっていうと、
転移というのは、
私が思うにどこでも起きちゃうことだっていうのが、
まずあるんですよ。
対照関係論というのは、
心の中にお父さんの対照、
お母さんの対照、
イメージじゃないですよ。
イメージもそうなってると思いますが、
そういう声がしつつるとか、
お母さんがうるさかったとか、
そういうのが心の中にいて、
いてってのはおかしくて、
それはともかく、
そういう対照を目の前の人に投げちゃって、
目の前の人をお母さんのようにして、
そうすると、
自分はお母さんの子供だった時代の子供になって、
そこで人間関係が進行していく。
これが対照関係論のベースとなる考え方で、
メラニー・クラインという、
この番組でも繰り返し登場してくる人が、
非常にカチッと理論化していった。
僕はこれは人間関係の、
特にこじれを説明する、
人間関係の、
人間関係の、
特にこじれを説明する上では、
一番最適な説明だろうと思っているので、
この対照関係論の話を盛んにしているわけなんですが、
転移というのは、
特にこの対照関係というものがですね、
投影ですね。
目の前の人をお父さんなりお母さんにする。
そうすると、
自分は子供になっちゃう。
あるいは逆に目の前の人を、
昔の子供時代の、
自分の子供時代の子供として投影し、
自分はお母さん役やる。
言ってみれば、
ロールプレイなんですよ。
こういうことを、
治療の場でやることを、
特に転移と言うんです。
今ではですね、
多分ですよ、
僕の考えですが、
臨床の場に寄らず、
こういうことはしょっちゅう、
ちらこちらで起きていて、
たまたま臨床の場で起きたことを、
転移と名付けてしまった、
というふうに思うんだけど、
最初の発見は逆だったと思うんですよね。
臨床やっていると、
こういうことがしょっちゅう起きるんだよね、
それを転移と呼んじゃったんですよね。
実はこれは臨床じゃないところでも、
あちらこちらで起きていると思うんだけど、
臨床で一番目立ったというか、
まさにこんなことが、
必ず起きるのは臨床の場だなっていう、
特に精神分析の場では、
場って言うんだけど、
部屋とかでは、
起きがちだというか、
はっきり言って、
僕は100%起きると思うんですよね、
そんな場を設定しちゃったら。
僕はこのことは、
割と簡単に確信できた、
理由がありまして、
やっぱ父の職業なんですよね。
父のところに来る信者さんが、
一対一で父と相対すると、
転移が起きちゃうんですよ。
見てるとすぐ分かるんですよ、これ。
見てたこともあるってことね。
私が幼児だった頃は、
そこら辺にいて遊んでたわけですよ。
目の前で転移が起きちゃうんですよ。
いろんなことが起きます。
で、そういう転移が起きるということは、
僕の感覚の中では、
不思議なことでは全然なくて、
むしろ起きないんだったら、
何でなんだろうって思ってしまうぐらい、
100%起きるんですよ。
信者さんだからなのかもしれないけど、
僕の記憶している限り、
見たもの、見た回数は、
限られているとはいえですね、
起きなかったですっていうのは、
見たことがないですね。
だから起きるというふうに、
考えておかなければダメだってことですよ。
少なくとも臨床をやるような人は、
これが起きないかもしれないというか、
起きることを想定せずに、
その場に入っていって、
ネットコミュニティの盛り上がり
やっちゃったらまずいよっていうのが、
今は教科書的には書いてあるってことですね。
起こすっていうのが、
主流だった時代なり、
世界もあるみたいなんだけど、
起こそうとしなくたって、
多分起きると思いますね。
私たちが一番よくこれを知っているのは、
多分先生と生徒が、
例えば面談とかした時だと、
あるいは問題行動とか起こして、
お前どう反省してんの?
みたいなことを、
よくわかんないけど、
僕は実はああいうの経験ないんですよ。
ないんだけど、
そういうドラマとか小説では出てくるような、
あそこで店員が起きてるんですよね。
完全に先生は親になっちゃってますよね。
なっちゃってると思うんですよ。
その親そのものじゃないんですよ。
なっちゃってると思うんですよ。
で、店員は起きると僕は思うし、
人間関係で、
特に人間関係がこじれる時に、
店員は起きやすいというか、
店員が起きると僕は思うんですよ。
人間関係がこじれやすいというか、
店員が起きると、
人間関係がこじれやすいと思うんですよ。
だって親じゃないのに親だっていう、
親面をされるっていうのは、
気に入らないじゃないですか。
父親面みたいな。
父親に対してすら言うじゃないですか。
父親面すんなみたいな。
だって父親なんだからしょうがないじゃんって思うんだけど。
僕はそんなこと言われたことはないですけどね。
で、父親でもない人に父親面されるのは、
みんな腹が立つんだけど、
これは同時にですね、
父親面をさせてるのもその人なんで、
父親面をさせてるのもその人なんですよ。
何らかの形で。
何らかの形っていうか、
この辺はもう臨床的なんだけど、
例えば万引きしましたみたいな感じで、
先生が父親面して気に食わないみたいなことを言う子は、
先生を父親面させたくて万引きしてるという面もあるはずなんですよ。
先生を父親面させたくて万引きしてるという面もあるはずなんですよ。
こういう風に、
精神分析みたいな世界ではよく考えますよね。
こういう風に、
精神分析みたいな世界ではよく考えますよね。
多分これは、
学校の先生長くやられてる方は、
そういうことなんだろうと思うんだけど、
そういうことって起きるんですよ。
これは、
天意と言ってもいいし、
投影と言ってもいいし、
技術ブログを書く
投影同意使って言っても同じ意味になると思うんですけど、
とにかくそういうことは起きると。
起こそうと頑張ってる人が世の中にいるわけだから、
起きるわけですよね。
この時、
天意が起きるからこじれるというのも変な話で、
このこじれそのものが天意を生み出してるし、
このこじれそのものが天意を生み出してるし、
もちろん天意がこじれというものを、
一時期、一度こじれさせるし、
先生は当然、
父親面をする人もいるですよね。
そうすると父親面をするなということになって、
何を言うかということになって、
こじれるじゃないですか。
でもこのこじれは
親子関係そのもののこじれを
そこに物込み直しているにすぎないですよね。
たぶん、そのおうちはこじれていて、
そのこじれが学校に持ち込まれていて、
そこの配役としてふさわしそうな人が、
みんなその役を無理やりやらされていて、
そういう、
こじれの力でやらせていて、
じれな力によってやらされていて 問題のある子供は問題のある生徒
になりやっぱり問題のある子供 になっちゃってでお父さんが強圧
的なお父さんっていうのはあんまり 強圧的でもない私みたいな人間
でもそういう場に引きずり出される と強圧的にさせられちゃうわけ
ですよなんかもう強圧的になる しかないじゃんみたいになって
強圧的になってやっぱり強圧的 だからこいつダメだみたいになる
わけですよこれが天意だと思うん ですよね東映同意使っていっても
いいんだと思うんだけど こういう ときに強自我って言葉が出てくる
しその通りだとも思うんですけど 私自分自身の最近イラッとしたり
もう小さなくても小さくてもイラッ としたり攻撃的になったり鳴ろう
としてるときにいつもこの強自 我というのは本当にクセモノだ
と思うんですねいつも同じような こと喋ってますけどその強自我
というものは何なんだろうって 思うんですよ一体こいつは何なんだ
と別にうちの親じゃないしね親 だとは思えない面もいっぱいある
し私がいろんな影響を受けてきた この強自我というものがいちいち
私をイライライライラする人間 というものにさせる力を持ってる
ように思われるこいつは何なんだろう と思って先日ヤングケアラーの
コミックというのをたまたま見つけ ましてお母さん統合失調症なんですね
あのお母さんの統合失調症ぶり はまさにその通りだって思います
ねよく描けていますなんでしました かね私だけ年取ってるみたいだ
昨日ノートの記事にアップして おきました私だけ年取ってるみたい
だっていう本でコミックですね あのお母さんは本当に私の知る
統合失調症の人の特徴をバッチリ 兼ね備えていてあーほんとこう
だわっていうねあの私の知ってる 人は幸い誰も刃物を振り回さない
からあのお母さんよりマシだけど いやお母さんが刃物を持って子供
に向けちゃったらやっぱり難しい よなって本当思いますよねそれで
そのお前は私の子じゃないとか って言って刃物を向けてきてるん
だけど大体私の子じゃなくたって 刃物を持つ必要ないじゃんって感じ
なんですよね私の子なんだけど ね思いっきりあなたの子じゃなければ
あなたの世話絶対しないよっていう 感じがしちゃいますがそこがやっぱり
非常にこうスキゾイドでありパラノイア なんですよねっていうのはよく
わかりますねあれも私は美を読んで いなければこの人の気持ちって
理解しがたいなあって本当思って しまうんだけどちょっとこれやや
うるさいです続けますけれども ピンポンパンポンがうるさかったん
ですよ締め切ればいいんだけれども もうこの洗面所の温度でも結構
GPT-4の圧倒的な実力
耐え難いところまで来ちゃうんで 締め切るわけにはいかなくて開けてる
とああいうのがいきなり入って くるんで収録っていうのはそういう
ところあるよねはいでですねまあ 今も少しわずかにですがイラッ
としたこれが長自画なんだけど この長自画というのはこの場合
はなんだけど人じゃない気がするん ですよねなんかこう私の内的世界
のルールみたいですねでこのルール って私の内的世界のルールに決ま
てるわけですよなぜならこのピンポン パンポンやっちゃいけないこの
時間にやらないでくれっていう ルールなんですけどそのような
ルールを外界に適用できるはずない しそういう意見の人は僕のほか
にもいるかもしれませんけどそれは 関係ないですよねなんで私がその
ルールと自分を同一化してしまう のかというと私がある程度その
世界をリアルだと信じているから なんですよねこれが昨日言って
いた話のだいたい続きに該当する 話かなと思うんです結局これは
私が内的世界みたいなものそんな 世界がその世界の話をしても長く
なっちゃうんですがそういう世界 が言ってみれば万能なわけですよ
ね私が持ってる世界というもの が万能なんですよ私が生きる上
ではそういう万能な世界が成立 しなくなりそうなとき私ルール
が発動しちゃうんですよ私ルール に則ってる限りは私の世界は万能
なんだけどこの辺環境都市の母親 がニーズを叶えてくれる限り私の
世界私は万能感を保持できるっていう のと非常によく似ていますねいずれ
にしてもこの長寿がのおかげで 万能なんだけどこの長寿がは非常
に無力なんですねだって外界には 何の効力も発揮しないであの伸び
たくんが作った法律みたいなもん なんで伸びたくんには適用できる
かもしれないけど外の世界では それを振りかざすことはできない
わけですよ権力ないからねこの 蒸気体と連日世界とのギャップ
が著になったときになぜこのルール を適用させてくれないんだという
結構わけわかんないことを考え 出すのが長寿がだという長寿が
に自分を接近させるときに感じる 感覚なんだなって思うんですよね
これを人から向けられたときに 私が動揺をするんだけど動揺し
なくていいっていうのが当然一つ あるわけですね動揺しなくていいん
だけどこれで動揺をするんですよ 一つはこの話が多分今でいうところ
のカウンセリングでよく起きてる 話なんだろうなっていうふうに
思いますもう一つがだからそこで 起きてるのが人間関係がこじれる
ときの転移っていうのはまさに そういうものなんですよわけの
わからんむちゃくちゃな話なんだ けど私が例えば子供として母親
に相対したときいやうちのお母さん はそうじゃなかったって言ってる
ような話なんですよあるいはうちの 家のルールとしてはそういうやり方
はしなかったみたいなこれをお互い がぶつけ合ってしまうんですよね
結局だから人間関係っていうのが 近づけば近づくほどこじれやすく
なるというのは間違いなくそういう ところから来ると思うんですよね
家族の間では多分この長自我的 ルールって適用されているわけ
です一例出すと早いんですね私の 家ではそうだな他ではあまりない
ルールとしてうちにあるものは 誰が使ってもいいというのが父親
の好みだったんですねだから私の ものとか妹のものとかないわけ
なんですよこれの思春期ややこしく なるんですけどね特に女の子の
場合はちょっとねでもまあそうだ ったんですよ我が家ルールでこの
我が家ルールは例えばうちの奥さん と私が結婚すると適用できなく
なりますよねそうなんですよ適免 なんですねこの辺は私が下手に
こうね歯ブラシとかないけど使う ものなら大騒ぎになる大騒ぎになる
まあ怒られますよねこれつまり 私の奥さんのお家では人のもの
勝手に使うなルールって長自我 的にあったわけですね第三者なら
お互い自分のルールを適用しない っていうことにかなり気を付ける
じゃないですかやっぱり第三者 ならね私だって外に行ってちょっと
こうヒゲ剃り借りますとかそういう ことはしないですよねiphone借ります
とかね外に行ったらまずいって いうのはすぐ分かりますよねいくら
私の父親がそうだったりしてそういう 意味では第三者という自分はここ
では第三者なんだと思ってる時は 大丈夫なんですよでもここで家族
関係に入ってくるとえっと勝手 の自分の家族関係ルールという
ものを適用しようとしてしみこ じれるんですねこれが多分あの
多いんだと思うであのよくですね 人間関係の距離が測れないみたいな
話ありますけどあれは多分ですが 家族ルールというものが適用され
がちなんだと思うんですよ第三者 に対してえっと第三者的な距離感
というものがえっとよくわからない というケースではどこに行って
も第二者にしてしまうんですよね 家族ルールどうなんだろうみたいな
そんなことを考えなくても良さ そうなもんだけどえっと外に行って
も家族ルールのことを気にして しまうということがえっとあり
うるとそれは時々僕だってあります から場が場ならあります例えば
温泉とか行ったりそうですよね 温泉とかで風呂に入っていると
少し人との距離って第三者なのに 近くなるじゃないですかあの感じ
をえっとどこに行っても感じて しまう人はえっと少し行きづらい
かなって思いますあと当然逆も ありますよね第二者に近いところ
自分ルールと現実の距離感
に行っても第三者ルールを厳密 に適用したい人もいらっしゃる
と思うんですよ極端な話家族に 対しても第三者のように振る舞
ってほしいみたいなそれは土台 無理な話なんだけどそういうこと
を望んでしまうとえっとやっぱり 距離っていう距離って人はこれを
言うんですけれども測り難いもの があるここら辺がやっぱり一番微妙
になってくるのが僕は大衆浴場 的な世界だと思うんですよあそこ
は本当にこう家族関係なのか第三者 関係なのかが怪しくなってくる
だって第三者と風呂場を一緒にする ことって普通はないですからね
あれはあのなんでしょうかなえっと ヨーロッパではヨーロッパでは
でアメリカに私が行ったときは あの少しやっぱりありましたよね
なんかこうなるべくここではここ には来たくないみたいなのがある
せいなのかあんまりそういう銭湯 みたいなのは滅多ないしどんせん
みたいなのも滅多にないしみんな 水着とか着てたりしますからね
あの辺がやっぱりこう第三者は 第三者だっていうのがはっきり
している文化とそこが意外にこう 曖昧になりうる文化とのあの距離
間違いなんだなみたいなのを感じ ましたでえっとそこまでは前提
みたいな話なんですけどえっと 要するに僕が最近思うのはですね
長寿がっていうのは長寿が大将 とかっていう言葉があるように
親であるケースもあるんでしょう しいっぱい実際意識してきたけど
どっちかっていうとこう本当に ルールみたいなもんだなって思う
ように最近なりましたでこのルール と自分が変な話ですけど一体化
していくんですよ一体化しそう になるんですよねこの時に不思議
だけれどもルールが破られている 現実を厳然にするとなんか致命
的なことがあるんじゃないんだろう かみたいな恐怖に囚われる恐れ
と不安ですけどねえっと恐怖に 囚われるのはだって自分ルール
が演出で適用されてなくたって なんてことないじゃないですか
僕がこの件で時々思い出すのは ぶっちゃけ相談であの綺麗な景色
のところなのにここにいきなり 空き缶を捨て出すやつがいてそういう
時に許せない気持ちに囚われる がどうしたらいいかみたいなあの
ご相談があったんですねこれだって 思ったんですよこれはえっと外
では私ルールは適用できないという その話は社会マナー的にどうな
の的な観点もあると思うんですけど 一旦それを分けにおくと社会現実
世界で自分のルールが守られて いないのを目撃したとき目撃した
ときでどうして私たちは傷ついた 気がするのかというのを考えた
とき親対象でもいいんだけど自分 がルールと一体化してきている
感じになったときほどその崩壊 感に苦しむことはおそらくない
と思うんですねだって自分がルール なんだから守られていない現実
を見たら崩壊するじゃないですか 自分がそういう感じっていうの
があるんじゃないかなっていう ふうに思うんですよで意外にこれ
が人と付き合いたくないという ときにありうる恐怖なんじゃない
かじゃなければ恐怖としてこれが 出てくる理由がいまいち説明できない
気がするんですそして結構むちゃ くちゃなことを今の空き缶とか
はいい例だったって全然むちゃ くちゃじゃないじゃないですか
嫌な思いするんですっていうのは 共感されやすいと思うんですよ
で結構むちゃくちゃなところまで 適用されることがあるんですよ
ルールの崩壊と恐怖
例えばこの人ブログ毎日更新とか 言ってるんですけど1日も更新して
ないんですけど許せませんみたいな 話も聞かないわけじゃないし
目にすることもあるんですよね これっていうのはもう適用過剰
もはなはだしい感じがするんだけど 僕基本同じなんだと思うんですよ
ね現実に自分ルールを適用しよう として自分ルールなんで国会の
承認とかいらないんでなんでも できちゃうわけですよねどんな
ルールでも作れるブログで毎日 更新と歌った人は毎日更新しなければ
いけない百条みたいなそういう ルールを作って自分がしかもその
ルールと一体化した場合目の前で 1日も更新してないくせにこいつ
毎日更新って言ってるっていう 現実を見ると自分が崩壊していく
ような感覚を抱くんではないかな って思うんですよ
そう思ったんですねそれが意外 になんてことのない事実ある意味
空き缶綺麗なそれこそ国立公園 に空き缶が投げられたとしても
自分は崩壊しませんもんね何が 崩壊するのかというと自分の親
が怒り出すっていうのも嫌かもしれない けどもっと深刻な雰囲気を帯び
てくるとすれば自体の深刻さに 釣り合わないぐらい深刻な恐怖
を感じるとするとやっぱり自分が 壊れていくっていう自分が壊されて
いく恐れっていうふうに説明する と説明するというか納得しよう
とすると意外と受け入れられる 気がしますねしました
これが意外に些細な些細って言 ってはいけないケースもあるかも
しれませんが概ね些細な些細な ことを人が意外にこだわっていく
ポイントなんじゃないかな それでまず単純に言って自分は
ルスじゃないんですよねそして 自分ルールが意外に現実に適応
できないのも当然なんですねここに こだわるというのはもちろん正しさ
にこだわるでも全くその通りなんですが ここにこだわっているとき私たち
は多分気にしてるのは現実のこと じゃないんだっていうふうにまず
考えてみるといいんじゃないか と思うんです気にしてるのは自分
のことなのでそれがいけない点 ではないんですよ自分のことを
気にするっていうのは僕らにとって 染み付いてる本能みたいなもんで
ある意味当然ですよね別に現実 のことをより深く考えなければいけない
とかそういうわけではないと思 うんですよ空き缶で現実は壊れない
んですよ壊れるのは自分のルール だと思うんですねだから気にしている
っていう話がある そして私がこの ことを一番考えるのは空き缶の
話はぶっちゃけ相談のTVのほう を見てほしいんですよねそこで
倉園さんの話になってる話を聞いた ほうがいいと思うんで私がこの
番組を通じて言いたいのはこの 自分ルールは大体特に仕事術とか
では自分に適応しているんですよ ここが大きな問題だと思うんですよ
ね例えば毎日筋トレをするとか これ同じでしょさっきの毎日ブログ
をアップすると言ってるやつが 1日もアップしないのは許せん
っていうのと同じですよね毎日 筋トレすると誓ったのに誓った
以上は毎日筋トレしなければいけない 第100条みたいになってるわけですよ
それのルールと自分が一体化してる から筋トレしなくても別に構わ
なくないっていうのが受け入れ られなくなってしまうんですよね
そこで何らかの理由付けみたいな ものがさらに必要になってきて
いっそ無駄に無駄にと言ってはいけない かもしれないけどいっそいらない
形で自分を追い詰めていくこと になってしまうんですよ例えば
毎日筋トレをすることによって 肉体が元気になって健康になる
それぐらいならいいとしてそう している人だけが成功している
とかそうしていない人はホームレス になるとかそういう多分それは
ルールというものを先に作った のでそのルールが崩壊しても構
わないというふうにはもう思え なくなったから崩壊したら嫌な
ことが起きるというのを今度は 証明したくなるっていう心理的な
ルールと自己の一体化
動きがあるんでしょうねこれ何の 得にもならないし事実関係もつこ
ぶる疑わしいのでこういうときに エビデンスとかいうものが持ち
込まれてくるんだけど二次的な 話ですよね所詮一時的にはただ
自分ルールを守りたいと言ってる だけの話でエビデンスがあろう
となかろうと実はどうでもいい と思ってると思うんですよ私は
だってその空き缶の話の時もそうだ ったんだけどその空き缶が捨て
られることそれ自体はおそらく 問題じゃないんだと思うんですよ
問題だと思ってると思うんだけど あの時の倉園さんのお話伺って
てそうだやっぱりそのことに腹 を立てるというのはおおむね現実
の方はどうでもよくなりやすい とこの件はうまい例がいまいち
思い浮かばないんだけど例えば 電車の中で騒いでいる人がいて
作業の邪魔になってすごく腹が 立つって言ってるときその腹の
立て方は二つの意味があるんですよ ね一つは自分の作業が進まない
ことに腹が立ってるわけですね もう一つは電車の中では静かに
しなければいけないっていう話 になってるんだけど多分その人
は作業がぐいぐい進んでいれば 倉園の方は気になってないと思
うんですよそういうことはつまり 実は現実の方はどうでもいいっていう
話になってるじゃないですかここ には二つのルールがあるんですよ
電車で騒いでもいけないという ルールと自分の作業はこの電車
内で終わらせるべきだっていう ルールとこういう二つのルール
があってそれと同化しちゃったん ですよね特に後者だから進まない
ということがこれはあってはダメ なことだっていう話になってどう
してかっていうときに外でうるさい 奴がいるというのが見つかったん
ですよねこの流れは時々こういう 話僕してますがさっきの私だけ
年取ってるみたいなお母さんの 言ってることとほとんど同じですよ
あのお母さんの話は見ると非常 に違和感があって不気味に思う
人もいるかもしれませんが僕ら は自分の作業が進まないから外
の人がうるさいって言って腹を 立てるときはあのお母さんがお
父さん浮気してるかもしれない からちょっと会社に行って様子
を見てきてって言うんですよ小学生 の娘ですよでも僕はこれと何にも
変わらないだろうなって思うん ですよ彼女のルールの中に当然
父親は浮気をしてはいけないって あるわけですよ普通のルールですよ
そして自分はそのことをすっごく 気に病んでいるためにそうじゃないん
だけどね家事もできなければ夜 眠ることもできない事実そうなって
るんですよだからそういう観点 から見ればですねこの作業が進まない
のは騒いでるやつがいるからだ っていう実は全然関係もないかもしれない
インガリスが本人の中で成立した ときにはなんだって起こりうる
ということです父親は夫はですね 奥さんを安心させて薄い指を取
らせてそうすれば家事も十分やれるん だからっていう風に考えてる人
にしてみればあの人は嘘もつく のが上手いから浮気をしている
のかもしれないちょっとあんた 行ってきて私学校あるからって
言ってもこんなにお母さんが苦しん でるときにあなたはこんな頼み
も聞いてくれないのって言うん ですようるってますけれども本人
の中で極めて切実な話だしそこは やっぱり原点をたどると自分ルール
から発生している要請なんだと思 うんですねしょうがなく女の子
お父さんのところに会社に行って 会社でお父さん商談中だからって
言われるんですけどなんて言うん ですかね僕はよくあれはいろんな
人の話を伺ってるしにこれこそ が自分ルールなんだっていうの
を痛感させられる気がしました みんな自分ルールなんですよある
意味ではねただ自分ルールという ものを意識していないだけでお父さん
からすれば当然そんなところに 娘来るなんて欠片ほども思わない
じゃないですかでも彼には彼の やっぱり自分ルールが実はあるん
ですね最初は仕事中の会社に意味 もない理由で来ちゃいけないし
これは妥当な感じがしますけど でも来ちゃってるのは現実じゃない
ですかしかも娘さん別に何も悪 くないわけですよねで来ちゃってる
という時に多分イラッとするんですよ なんでか自分ルールに反してる
からですよ現実がねでも現実という のは自分ルールに沿わなければいけない
という義理は持ってないと思うん ですよねこれは環境としての母親
というのがえっとグッドイナフ マザーであるというのとほぼ同じ
自分ルールの限界
意味な気がします環境としての 母親はパーフェクトであって試し
がないし永遠にそうはならない 環境というのはつまり現実という
のはですよね自分のためだけに 存在してるわけではないし動いてる
わけではないからという話なんですよ 僕らはただこう抽象的に言われる
限りは自然とそれを受け入れている 気がしているんだけど実はそう
ではないということですよね自分 ルールの中では自分は万能的に
多分お父さんは誰もお母さんの 使者として娘をよこされたりしなければ
商談もスムーズに進められて仕事 もばっちりできる自分は万能的な
父親として動いていけるのにそこに わけわからない理由で確かにそうだ
けどわけわからないタイミング で商談中に娘が来ちゃうとそれは
もうイラッとしますよねでもそれで イラッとするとやっぱり僕は本当
はおかしいと思うんですよねそれは 結局その奥様が自分ルールにの
っとって娘を使わせているという のと50歩100歩だと50歩ぐらいの
違いはありますが全く同じじゃない ですけどねこの話はよく精査して
いけばでも50歩100歩だと思うん ですよ現実というものより自分
ルールというものを優先させたい と優先させるべきであると信じ
てしまったというところにおいて はほとんど変わらないという言い方
もできるかなというふうに思うん ですこれはそのお父さんのケース
は特に今娘が派遣されてしまった お父さんは特に親対象とかじゃない
なって思うんですよねやっぱり これはルールと自分が一体化して
しまっている感じがしますその 行き着く先がお母様のご病気だった
と思うんですよねその奥さんの ご病気自分ルールと自分という
ものがもう切り離せなくなって しまった病みたいな感じがするん
ですよだから娘に包丁を向けちゃう そしてそのことがおかしいとすら
思わないこれが仮に自分の娘でない とその人は疑ってるんだから当然
なのだと言いたいんだろうけど そうでなくてもやっぱりおかしい
と思うんですよね現実社会の観点 からすればですよそれはやっぱり
自分ルールがものすごく何らか の理由があるんでしょうね事情
と理由があって強烈になった自分 ルールはもう絶対なんですよプーチン
にとっての自分ルールぐらい絶対 なんですよねそうしたときにそれ
と自分が一体化してしまったから もうそれに反している私の家に
私の娘でもないものがいるって なったら死んでもいいっていう
感じになってしまうそんな自分 ルールっていうものが最近私は
すごく小さな小さなうちから一 つ一つ無効化されましたっていう
ふうにやってきたわけですよこの 条文の効力はなくなりました減
れば減るほど楽だなっていうふう に思うわけです今のようにおはよう
ございますって2時に言っても全然 苦にならないみたいな意味で楽になる
わけですよ昔から僕はそういう ところはあったにせよ今のほう
が楽ではありますよね今の話を 最後にこれ百チャレ編じゃないん
だけど百チャレ編でもしたいんだ けど毎日何々をしなければいけない
っていうルールを早速無効にして ほしいんですよねこのルールは
ほんと邪魔だと思いますね先送り を防止するという話で始まるんだ
けど先送りを助長してるとしか 思えないんですよ絶対にそのルール
は毎日ですからね毎日絶対に適用 できないルールなんですよ現実
を明らかにかなり軽んじてない 現実をかなり軽んじると何が起こる
かというと現実のために何かを する気なんてしなくなってしまう
ということです