2023-03-31 32:14

【762】悩みの解決に使える知識はたくさんある

誰もが知っている知識を活用する大切さ
イベント告知と活動改定の背景
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
3月31日の金曜日、今年最後の日ということに定義状があるのかなと思います。
明日の存在ってよくわからないですよね。4月1日は新年度なんだろうか。新年度なんだろうなと思うんですけど。
明日、そんで渋谷でセミナーをやります。何度も告知させていただいている通りです。
もう当日に、お金持ってきていただいても対応させていただきますので、まだリアル参加、当日もドタ参加可能。
かつ、オンラインはもちろん可能です。終わるまで受け付けちゃいますみたいな、そういう感じですね。
明日の13時半。これオープンの会場で、ここは僕もまだどうなっているのかよく完璧には把握できていないんですけど、
たぶん新しい会場だから綺麗でしょうと思う。
13時半にスタートして、15時半に終了して、その懇親会も予定しております。
明日からですね、第2期の3ヶ月チャレンジも含めて、私自身がやっている活動をちょっと改定していこうかなと思っています。
というのは、新年度だからという気分を手伝ってはいるんだけど、本当のところは忙しくなっておりますということですね。
ちょくちょく実家に行ってみたり、実家に行ってみたりというのもあるし、
他にもちょくちょく使用が増えてきているんですよね。
自分も年を取ったからみたいなのはあると思います。
青橋哲夫さんとJマスザヒさんと活動している方は猛烈に忙しくなっていて大変ありがたいんですが、
もうお前本当は自分だけの活動をやっている場合ではないのではないかというぐらいに詰め詰め感が出てきているんですよ。
久しぶりだなこの詰め詰め感みたいな。
面白いというか、フリーランスでこうなんだよなっていうのを感じるんですが、
仕事が忙しくなってくると、忙しくなる方向に向かう感じがするんですよ。
やることが増えていくんですよ。
暇になると途端に急速にありとあらゆる仕事がなくなっていて、
すごい楽でいいんだけどお金の問題が発生するという上下の揺れが大きいんですよね。
だから本当はクラゾノさんと一緒の仕事と大橋さんとのやつと、
3人でやっている大橋さんJさん私でやっているこれだけにしておいた方がいいんじゃないかと思いつつ、
3カ月チャレンジが私の中では非常に盛り上がりがいいので、
これはやっていきたいと。
ここらへんがもういっぱいいっぱいだなという感じを持っておりまして、
そういうふうに改定していこうと、しばらくはこれでいこうと思っています。
だいたいこういうのって、こちらの番組でも散々言ってきている通りなんですけど、
長期計画と仕事量の変化
それこそクラゾノ刑事さんのおっしゃる通りなんですが、
そもそも私、経験的に考えてみても、
皆さんが長期計画とおっしゃっているときに、長期計画とおっしゃる方のお話を伺っている限りですね、
本当にそうなっているのかなというのは、本当にそうなっているというのは、
サボってないのかって話ではなくて、変わっていかないのかなって思うんですよね。
なんか不思議な変遷を遂げるんですよ。
例えば昔の話なんですけど、私今思い出したんですが、
わりと忙しかった頃に、本3冊ぐらいか2,3冊平行で書いているときに、
これはここ3ヶ月は本を書くぞっていう、そういう長期計画というよりは、
そういう方針を立てるじゃないですか。
どうしたってごく普通に、ガンとチャットとか引かなくても、
2,3ヶ月は本に集中するしかないよねっていうことで、
本に集中する月間みたいにするわけですよ。
特に細かく定めなくても。
他の子供も仕事してるわけですから、だいたい本2,3冊来てるということは、
他の仕事もあるわけで、もうここはこれ以上は何か入っても来ないだろうし、
本とか新しく引き受けなければね。
ちゃんとタスクカフェとかはペース守っていましたから、このペースで行こうと。
別にこれ意外な感じは全くしないんだけど、
不測の事態とリッチな講演会
こういう時に例えばですね、義塾下のお父様が倒れられたと。
翌日にいきなり電話が入ってきたりしたわけですよ。
しかもさらにその1週間後に、1週間後じゃない、さらにその1ヶ月後に、
今度前橋の方で中小企業なんとかかんとか会があるから、
なんの全然知らなかったんですけど、講演を依頼されるみたいな。
それも割と大きめだし、とっても珍しい仕事なので、
行ってみたらびっくりしたんですよね。
前橋、新前橋かなっていう駅がありまして、群馬の方にですね。
もうかなりローカルであるぞって感じがするんですけど、
なんかこう風光明媚な感じなんですよ。
だけど講演会で行ったのは録画室があったんで、
風光明媚を楽しむという季節じゃないですね。
つまりほとんど旅館は貸切状態で、
食事を僕だけがガラーンとしたところで一人で黙々と食べてて、
スタッフの人が羨ましく、2,3人で入れ替わり立ち替わり世話してくれるんですよ。
講演の前もすごく独特で、お寿司とかが出てきて、
先生こちらでこれを食べくださいみたいな感じで、
それを食べてから講演するみたいなですね。
すごい不思議なリッチ感のある、
しかも今まで一度も僕がそれを経験したことのないような講演会みたいなのをやったことがあるんですけど、
それがもうめちゃくちゃだったわけですよ。
行く前に準備をして、電車の中で本を書いて、スライドも作って、
そういうリッチ感のあるところでやって、
とんぼ帰りで、そのまますぐに帰ってきて、帰りの中でもまた原稿を書いてみたいな、
そういう感じだったんですね。
つまり、ぐちゃぐちゃになっちゃってたんですよ。
考えることと長期計画についての悩み
その前にはその日実家のお父さんが事故って倒れたみたいなお話もありまして、
そうならないのかなって思うんですよね。
20日ネズミと人間っていう小説があるんですけど、
貧困から脱するために2人の人が、スタインベックの小説かな、
計画立てるんだけど、そんなのは20日ネズミの計画なんだみたいな、
そういう非常に皮肉っぽい小説なんですけど、
ああなっちゃうんだと思うんですよ、人間が考えることなんて。
どんなに手堅くやってるつもりでも、一発で全てが破産になるみたいな、
そういうことって即起きるじゃないですか、割と。
僕はその経験を繰り返し繰り返し得てきたということもあって、
特に長期計画に反対だとか賛成だとかタスクシュートがどうだとか言う以前に、
なんか虚しいなって感じがするんですよ。
それこそチジフォスの神話みたいなんですよ。
積んでいくんだけどすぐ崩れていく。
それに途中で、いやこれすぐ崩れるよなと思って、
どうせ崩れるに決まってる気しかしないなっていう感じになってってですね、
どんどんどんどんその期間を、
なんとか月間とかすごい不毛な感じがしたんで、
なんとか週間にするじゃないですか。
それすらも考えてみると不毛なんで、
結局なんとか日間になってしまって、
今ではもうなんとかセクションになってるわけですよ。
このセクションはこれをするようにしようみたいな、
このセクションは買い物に行こうねみたいな、
よくそれ以上のことを考えるのは、
だから考えずにいると締め切りに間に合わなくて不安だとか、
よく考えずにいられますねって、
これはタスク集とのユーザーさんの集まりとかで言われるんですけど、
全く逆に考えるんですよね。
よく考えてられますよねって言いたくなるんですよ。
それくらい先のことを考えた通りにいった試しがなさすぎる。
せめて1回や2回はないと、
そんなのやってられなくないかなっていうのを、
ごくごくシンプルに最近は思います。
これはもうだいぶずっと長らくそうだったんですよね。
やっぱ震災の時がでかかったですよね。
その時はもう全然私たちの考えているのと関係のない方向に、
世の中に行ってしまったみたいな感じがあって、
そんなものに対して動向できる立場にないですからね。
私はなんとか大臣って言われてるわけじゃないんで。
今回の新型コロナも同じですよね。
いろいろ考えてあったやつは、
全部どっかすっとんだような気がして、
そしていよいよコロナが明けますみたいなこの時期になっても、
もはや元になって戻ってはいないと思うんですよ。
前と同じような調子でやってても、
前と同じようなことにはならない。
だから考えるっていうことが僕はモチベーションとして持たないんですよね。
考えるということがサイの河原積み的なものに感じるんですよ。
積むだけ無駄って感じが。
たまたまうまく7個ぐらい積めたよねって、
あれ基本的に積もうじゃないですか。
7個積めようと8個積めようといずれ必ず崩れるという前提でやってるような行動で、
そこにあれの思想的な意味があるんですけど、
いずれにしても私は別に長期計画をサイの河原積みのように、
珍しく1週間とか3日持ちましたみたいな、
でも4日目にゴチャンってなっちゃいましたけど、
今回は新記録ですみたいな、
そういうことをやってるわけではないので、
辞めましたっていう、そういうふうに言ってもいいかなと思いますね。
昨日の続きではないんですけど、
Good Vibesについて
Good Vibes編は週に1回お送りする予定なので、
せっかくですからこの話のままいこうかなと思ったんですが、
一つ私はGood Vibesという、
倉園さんの本を読んで、
渋谷でのセミナー10回くらいあったのが、
僕には非常に大きかったんですけど、インパクトとして。
それですごくここが斬新だなと思ったのが、
知識としては知ってることがほとんどであったと。
非常にたまにですね、倉園さんの個人的なエピソードで、
そういう話って本当にあるんだっていう、聞いたこともないような話もあるんだけど、
それは知識というよりはエピソードだって。
知識としては持っていたものが普通であったけれども、
それを使おうという気にはなぜか全然なってなかったというね。
これが使えるんだなっていうことを理解させてもらった。
そんな感じがしたんですよね。
知識と感覚の結びつきについて
これがすごくそれまでの僕の人生観というものを、
世界観にしか変えるようなきっかけになっているというか、変えたんですよ。
で、なんていうんですかね。
例えば僕らは万有引力の法則って普通知ってるじゃないですか。
仮にこの法則を厳密に知らなくても、
石を落とせば落ちますみたいなね、地面に。
これは知ってるわけじゃないですか。
これを知らんっていう人はいないと思うんですね。
でもそれを使っているかどうかはまた全然別の話で、
普段はそんなことはもちろん知ってるんだけど、
それはそれとして生きているみたいなことってあると思うんですよ。
僕これね、料理してると時々、
人間の知識と感覚というのが結びつきって、
なんていうんですかね。
なんとも言えないものなんだなって思うときがあるんですね。
料理での焦りや行動の忘れ
さっき言ったように、石落として下に落ちるのを知らない人はいないですよね。
ところが、ある種のものすごく焦りながらっていうのかな。
料理って火の状態とかで焦らなければならない瞬間がしばしば発生するので、
焦ってるときって、物を手を離せば物はそこに落ちるということ。
なんかね、忘れたかのような行動をとっちゃうときがあるんですよ。
で、なんていうんですかね、これは。
説明できないんだけど、卵を落とすみたいなときもですね。
殻割って割るとここに落ちるんだっていうことをなんとなく忘れてしまって、
急いでるからですよ。
割ってるのにしばらくここで待機しててくれるんじゃないか。
いや、しててほしいなみたいな、よくわからない変な願望を元にやってるから、
荒なところに卵を割り落としちゃうってことが、
僕なんかはドキドキやっちゃうんですよね。
そして怒られるんだけど、
もちろんそのときに知識としてというのかな、体感としても、
物は引力で落ちるっていうのは知ってるわけじゃないですか。
知らないはずはないんだけど、
まるで知らないかのような行動をとってしまうことがあって、
ちょっとびっくりするんですよ、自分でも。
知識の意識化と実践の乖離
で、それがいっぱいあったんですよね。
フットワイブスという考え方の中には。
例えば、よく倉園さんが一つ意識の説明として持ち出されるビッグバンという、
これは実証不可能な現象じゃないかとは思うんだけど、
ビッグバン、倉園さんの口から初めて聞いたって人はいないと思うんですよね。
もしかするといらっしゃるかもしれないから、
あんまり断定的なことは言えないんだけど、
僕はそれはあんまりありえないことだと思うんですよ。
ビッグバンってそうだったんだ、
倉園さんに聞いて初めて知ったっていう人は、
僕はかなりいらっしゃったとしてレアだと思うんですよね。
そんな人はまずいないだろうと。
つまり、ビッグバンは僕らみんな知ってるわけじゃないですか。
ただそれを自分の人生には少しも適応しようと、
少なくとも私はしてこなかったんですよ。
と思うんですよね。
僕はビッグバン、村上隆とかも何か言ってたよね、
あの人は小説家ですけどね。
ホーキング博士とかはめちゃくちゃビッグバンについて、
ほとんど人生はビッグバンについて調べれば良かったぐらい
ビッグバンについて言ってまして、
僕は好きだったのでニュートンとかで読みかじっていたので、
知ってたわけですよ。
ただそれはニュートンに出てくる話であって、
宇宙物理学みたいなものを
全然人生観に適応してこなかったかというと、
僕はそうではないんですけど、
そういうのをやたらむしろ、
頭で考える方を先行させる人間だから、
特に学生時代とか、
そういうものが意識に入ってきて生活してたんですが、
でもやっぱりこれを適応しようという気は
実はなかった。
全然なかったんだなっていうのに、
村園さんの話を伺っているうちに気づいてたんです。
マインドフルネスと苦悩の関係
そういうことがすごく多かったんだなという気がするんですね。
結局、ビッグバンで元々一つだったんだから、
ここにあるものは元々一つだったんだよっていう話を、
例えば、
例えばですけど、
編集さんからメールをもらったようなときには
一切、全く、少しも意識しない。
それはそれ、これはこれになってしまう。
でも、村園さんはそこに例外的な規定を一切設けないんです。
メールをもらったときであろうと
夫婦喧嘩している真っ最中であろうと、
元々ビッグバンから一つだったんだからっていう話を
そこに適応しちゃうんですよ。
ここが僕の中ではすごい斬新だったということなんですね。
こういうのが本当に多くて、
それこそあれですよね、
マインドフルネス的な。
これと並行するのはいろいろややこしい話を生むのであれなんですが、
ただこれ、マインドフルネスっていうのは
私にとっては結構特別な意味を持っていて、
多分中学の頃だったと思うんですが、
NHK特集で見たことがあって、
その時、非常に強い感銘を受けたんですよ。
ジョン・カバトジンの特集だったんですけど、
特集といっても30分くらいなんで、
一体で何を伝えられたんだろうと思うんだけど、
フットフェイブスだってNHKで30分では
多分ビッグバンくらいしか伝えられないんじゃないかと思うくらい
30分は短いですよ。
30分だったんですけども、
やっぱりですね、当時のジョン・カバトジンか、
ジョン・カバトジンって人はマインドフルネスを広めた人なんですけど、
作り出した人ではないと僕は思っているんですが、
でもその辺もまた微妙ですからね。
でもジョン・カバトジンが繰り返し言っていたんですよね。
頭の中にあるその考え方で苦しむのはやめろって
ずっと言ってた気がするんです。
30分なんで、それしか言ってなかったんじゃないか
くらいにそれを言ってたんですよ。
これもまた知識としては長らくあったんですよね。
私当時、昨日も言ったかもですけど、
アトピーでひどく苦しんでた時期なんで、
ああいうものにやっぱり惹かれざるを得なかったというところがあるわけです。
治んないから。
心の解放に向けて
普通のやり方では治んなかったですからね。
だからどうしたって怪しげな両方に手を出すなとか
スピリチュアルに耐えるのやめろとは絶対言われるんですよ。
当時の方が言われてたくらいなんですよ。
もっともっと科学と医学全盛だったから。
でも頼んないことはできないじゃんっていう感じなんですよ。
だって治んないんだから。
保健・医療で治んないものは何か他の方法を使いますよね。
苦しいと思えば絶対に。
医療の限界なんだから黙って諦めなさいって言っても
体かゆいんで、やっぱり何かしたくなるわけですよね。
だからジョン・カバトジンとかも見ちゃうわけですよ。
見るなって言われても困るってことなんですよ。
あれ多分教育テレビだったと思います。
その考えはやっぱり私は非常に印象深かったんですよ。
あっちでは痛みが問題だったんですけど
痛いということと
この痛みで一生苦しまなければいけないんだと考えることは
全く別のことだっていうのを
彼は一生懸命、僕の目にはそう見えたんですけどね。
もうおじいちゃんだったんですけど
静かに語るんだけど
これをとにかく頭に入れろって感じが
ものすごい伝わってきたんですね。
テレビなのに。
私はそれに非常に考えさせられたというか
それも変なんだけど
考えさせられたんですよ。
自分の場合痒みだったんですけどね。
この痒みがで
かゆいというのは事実なんだけど
そもそもかゆいんだろうかって
ああいう話を聞いて考え始めちゃったんですよね。
私は一体なんで苦しんでるんだろうっていうことなんですよ。
結局。
少なくとも
なるほどなと思うのが
すごい自分はこの痒みについて考えちゃってるなというのは
よくよく理解したんです。
痒みというものだけが問題であるとはとても言えなくて
これを一生続けて泣かなきゃならないとか
彼が言った通りなんですよ。
ジョン・カバトジンのね。
一生続くんだとか
なんで自分だけ痒いんだろうとか
なんで自分だけアトピーなんだろうとか
全部考えてるんですよ。
彼はよく言うんですよ。
それはただの考えだって言うんですよね。
ジョン・カバトジンはこれを繰り返し言ってたんですよね。
それはただの考えに過ぎないんだから
それで苦しむ必要はないはずだっていう
そういう話だったんですよ。
で、多分
一部の人にはかなり受けてたと思うんだけど
やっぱりこの種のことって
反撃しなければいけない?
ある種の深刻に何かで悩んでいない人は
まあそれっきりですよね。
私なんかは深刻にアトピーで悩んでたにもかかわらず
やっぱりそれっきりだったんですよ。
しばらくして何かでまた見つけるみたいなことはあっても
つまりマインドフルネスっていうのと
ジョン・カバトジンっていう人の知識はあったんだけど
それはそれになっちゃうんですね。
ビッグバンコドっぽくないけど
でもやっぱりマインドフルネスはマインドフルネス
アトピーはアトピーなんですよ。
そして生活は生活なんです。
なんかそういうものは結びつかないというのか
バラバラに扱っちゃってたんですよ。
不思議なことに。
適応してもいいんだろうけど
多分適応してすぐに痒みが止まるとかいうことは起こらないから
やっぱりそういう意味でですね
だんだんだんだんこう
ある種の失望感とともに遠くなっていくんでしょうね。
そんなことがあったような思います。
こういうことがとにかくいっぱいあったんです。
聞いたことはあるし知ってもいるんだけど
自分にはなんかこう歓迎のないものとして扱ってしまう。
私が渋谷でクラゾンさんにお話を伺ってた時に
やっぱり一番私が困ったのは
怒れない。
私はしかも怒らなきゃいけないと当時は思っていたから
人を攻撃しなきゃダメだって思ってたから
怒れない。反撃なんですけど私の考えでは。
反撃しなきゃダメだと思って
反撃できない自分というものが非常に情けないものとして
そこに苦労があったんですよ。
そこにまさかですね
マインドフルネスはまだしも
ビッグバン的をしようと思わなかったんですよね。
全然少しも。
宇宙にはビッグバンという現象があったみたいですっていう話は
面白いなニュートンにそういうこと書いてあるような
得意点がうんたら
んでって感じなわけですよ。
私が問題になっているのは
私が人に反撃できないってことであって
ビッグバンがあったからといって
それと何の関係があるんだろうっていう感じなんですよ。
あえて言えばそういうことすら考えつかなかった。
マインドフルネスであればまだなんかですね
マインドフルネスの限界
ものすごく反撃できなくて辛くて
辛くはないんだけど
こういう自分が嫌ですし
攻撃してくる人たちも嫌ですと
だけどマインドフルネスで心を沈めましょうぐらいになったらば
つながらないこともないかなとは思ってたんですけど
ほぼ適用するという気にはならなかったですね。
せいぜいマインドフルネスであればアトピーに適用するみたいな
そういう風に
僕の頭は進みやすかったってことですね。
なんかこう
これと人間関係はまた別みたいな
そういう感じ。
だからここら辺にいっぱいあった知識を
どんどん生活の中に適用していけるという
そういうことができるんだっていう発見が大きくて
問題はしてかそうじゃないかでは当時から私にはなかったんですよね。
私の目で
私の感じではですね
ビッグバンだってスピリッチャルみたいなもんだと思うんですよ。
こう人々が思ってないのは僕には不思議で
あれは科学的な神話だと思うんですよね。
だって見たことある人誰もいないわけじゃないですか。
多分ね。
見たことあると思ってる人は実はいたりすると思うんだけど
それを言ってしまったらですね
アダムとイブがリンゴを食べちゃったのを見たことがある気がしますっていうのと
あんま変わらないと思うんですよね。
こういう話をしても無駄な感じもするんですけど
僕は唯物科学って完全に神話だと思うので
人はそういうエピソードを頭の中にこしらえてると思うんで
スピカサイエンスかっていう区分けに
意味はないような気があんまりするんですよ。
これは厳密に言いますと大変問題なんで厳密には言わない。
ただ僕がなんとなく感じて感じることが多いことっていう程度の話です。
あれですよ。
僕はアダムさんがお話になってるのとはちょっと違って
人間ドッグとかは行けと言われりゃ行きますし
バリウムもごくごく飲んじゃいます。
そういうところはあんまり気にしないというか
そういう感じで生きてきているからなんだと思うんですよね。
好きで飲んでるというわけじゃないですよ。
イカメラとかもやらずに済むならやりたくはないです。
あれはものすごい厳しいなって思う。
厳しくなくもできるんだけど
そうは言っても厳しいという印象がありますよね。
だからつまり信じてるってことですよ、科学。
でも科学を信じていようと聖書を信じていようと
これやっぱり自分が寺にいたせいなんだと思うんですけどね。
同じだと思うんですよ。
それによしよし言うことほど
いざとなった時の不毛感
いざとなるとそんなことを人は言わなくなるというふうに思います。
うちのお寺にいらしてた信者さんでもやっぱり
願って拝むっていう人になってくると
それはもう仏教的ではないですよ、はっきり言って。
そういうのは聞き迫るものがあると言いますか。
それに対して宗教だということに何か意味があるのかなという。
科学はもう治してはくれないわけですからね。
その人の身になってみると思うところがあるわけですよ。
それを私は小さい頃に見てたから
本堂とかで見てたんですよ。
毎日毎日いらっしゃっていて
半日以上拝んでいるわけですよ。
信じることはやくないんですよね、当然。
末期の方になってくると拝む元気もなくなるけど
来るんですよ。
信じるってこういうことだなって思う。
僕は小さい頃にいろんな方がそういう人
いらっしゃってくるのを見ることになってたから
見ざるを得ないっていうのかな。
見ちゃうというのがそういうことはあるからね。
信じるってこういうことなんだなっていう感じを持ってるんですよね。
どうしたって持ちますよ、あれは。
見てしまうと。
一人でも見ちゃうと思ってしまうと思います。
僕は一人や二人ではないんで。
父も当然そうですよね。
神話を日常生活に取り入れる
父は拝まれる側の人ですからね。
父に独特の立場だと思うんですよ。
あれを拝まれる側の立場っていうのはね。
でもまああれですよ。
医者には行くんですよ、父だってね。
その父だって。
人間ドッグだって受けてたんですよ。
あの父でさえ。
だからやっぱりそういうことは
信じるってことなんだと思うんですよね。
それが物で、物の世界であろうと
神話の世界であろうとですね。
僕はその神話を適応するみたいな
神話を日常生活に持ち込むみたいなのは
一定のやり方は知ってたしやってたわけですよね。
そのユンクみたいな。
だからフロイトっていうところも
そこから繋がってはくるんですけど
でもやっぱりビッグバンとかは全然なかったんですよ。
マインドフルネスすらなかったんですよね。
結局、仕事上のいざこざみたいな
比較的親しくしている
それこそJ松崎さんみたいな方との
今は全然ないですけれども
もしあったとするとですね
そこにやっぱりユングとか
適応できてなかったなって気がする。
今ならばもうちょっとできてるんですよ。
こういうの適応することはできるんだと
世間知みたいなものでやっていく
信じるようになった。
でもやっぱり昔だったらですね
それはそれ、これはこれになってしまうんですよ。
Jさんの性格からこういうふうに考えていくから
こっちもこういうふうにこうみたいな
もう全然何にも適応してないわけですよね。
なんつうんだろうそれは。
世間知みたいなものだけでやっていくっていう
そしてこううまくいくときもあれば
うまくいかないときもあるんだけど
うまくいかなくなってくると
世間知みたいなものでやってるわけだから
ものすごくこうやっぱり
独特の行き詰まり感を見せるんです。
罪悪感との向き合い方
実務的なものは実務的な雰囲気しか帯びていないから
ただただ実務とか事務とか
いわば仕事というものでミスったみたいな
そこから罪悪感みたいな話になってくるんだけど
もちろん罪悪感を持ってたわけですよね。
懲罰感情を持ってた。
だけどそれに対してまた
これを何かの
なんていうんですかね
自分の持っている知識を騒動員にしようという気に
サラッサラなってなかったということなんですよね。
そことん人を恨むとか
そういうことしかやれてなかったわけですよ。
だから
昨日の話がやっぱり続きみたいになっちゃっているんですけれども
自分はそういうのが適応することができるんだな
っていうのが大きな発見だったという話でした。
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