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2023-12-25 43:19

価値とは恣意的に決めるもの【GMV 907】

千葉ロッテの今年の「幕張の奇跡」は感動的だった!

サマリー

このエピソードでは、個人の信念によって価値が恣意的に決められていることや、客観的な現実と個人的な感情の価値の違いについて考察されています。個人の収益や経済状態に直結する価値を持つものや、ネット上の評価よりも高い価値を感じるものについても考えられています。価値は恣意的であり、個人の価値観に基づいて決まることが重要であることが認識されています。炎上や迷惑をかけることは恐ろしいが、その恐ろしさは個人の信念や関与度によって変わります。一方で、不在や炎上に関しては恐ろしくないという認識も存在しています。個人の重みづけや情緒によって事実が変わることに注意が必要です。赤ちゃんみたいな心の構造に基づいた悩みや困り事が多いことが分かります。個別具体的な問題が共有されることで、集団幻想が生まれる可能性もあります。そして、存在しないものに対して悩んでいることが実は多い現実となっています。彼が全部、勝手に決められる。決められないと言うのであれば、むしろ決められないことを証明してほしい。

個人の信念による価値決定
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
はい、12月24日、日曜日。20時32分ですね。
いわゆるクリスマスイブってやつですね。もう僕はこの時期が、何つんですかね。
非常にね、こう、愛憎ながらするといいますか、この季節のこの時期、まあでも、もう今となったら何年前だ。
まあ少なくとも30年近く前ですね。この季節に一人でいるという、大概一人でいたわけですけれども。
ことが、非常にこう、僕にとって問題だった時代があったんだなというのが不思議。
泣きが、
今となってはしますよね。
今日はそういった話をしたいと思っておるわけですけども。
でもこれは、アップされるのは明日なんでね、多分ね。ちょっと、このタイミングでアップするのに比べると、考えが薄回るんですけど、それはしょうがないとして。
今週末です。ちょうど末になります。タスクシュート×グッドバイブスというのを蔵園恵三さんと、不安ゼロで、先送りゼロにという、まあ、
まあまあ、
2023年総括に近い内容だと、私は思います。
で、自分はこの、何て言うんですかね、方針、方向性で活動してきたなと、今年は。来年は、えーと、どうなるか分かりませんが、まあ、今年はまず、そういう風にやってきたので、皆さんにこれをね、お届けすると。
これは僕はですね、十分可能だと。何なら1日2日でもある意味、ま、ある程度は可能なんじゃないかと思うんですね。
この、
過去と未来にこだわらないというのはですね、やろうと思えばできるんだということが分かったんですよ。
あのー、別に一切は空とか分かる必要はないんですよ、これ。これを分かるだけであればね。本当に難しいことではない。昨日、えー、まさに昨日ね、ジェイマスザキさんとタスクシュートジャーニーで、これを彼は彼流の表現で、非常にでも、こなれた表現でしてね、私もそうか、こう言えばいいんだっていうのをですね、えーと、彼にはまあ、いろんな意味で教えてくれる。
まあ、いろんな意味で教わることが多いなと思うんだけれども。
まあ、彼流の表現を使ってお話されてたんですけど、思えば彼だって、わずか5年前は、ほぼ真逆のこと、5年前ではないかな、でも10年前は間違いなくほぼ真逆のことを喋ってたんで、えーと、これはやっぱ可能なんですよね。
別に私はジェイさんが何かを悟ったってわけでは、何かは悟ったかもしれないけど、別に、いわゆるこう、マインドフルネスとか、そういうふうになったんですよね。
はい。
はい。
そう、よく分かると思う人なんですね、僕。
ね、 Syndromeを動かしながら fez わけではないと思うんですよ。
でも、これは十分、あのー、間違いなく彼は、確信を持って喋っているんで、えーと、これが分かるようになることは十分、可能なんですよ。
ぜひ、その辺をですね、えー、お伝えしたいと。
ただ、多分ですね、分からないという中には、絶対分かりたくないぞという。
これをね、あの、無理やり人の信念をねじ曲げるという権利は、誰にもないのでね。
ね、多分これ、やっぱり笑うなっていう頃が、まあ、、
ブランドの経道さんにもないので、権利はね、だからしょうがないんですけどね、
これを信じたくないということであればですね、過去も未来も現実としてあるというふうに言われ、
それを確信したいということであればですね、ただこれは信じていても何ら不都合がない間はそれでいいと思うんだけど、
でも、信じることが極めて不都合になってきても、なお信じるほどの価値は多分ないと思うんですよ。
これはスーパーマリオで亀に、昨日のJ3流に言うと、スーパーマリオで亀にやられると、死んだも同然だと信じる理由は別にないわけですよ。
それとあんま変わらないってことですね。
でも私も25年前はクリスマスに一人でいるのは死んだも同然だと信じてたんでね。
だからこれやっぱり信じる。
信じているっていうことはそういうことだって話なんですよ。
結局はね、五体満足で別にお金にも困っていたわけではなく、
何にも特にそこまで絶望する理由を持ってなくても、ものすごい絶望していたわけですよ、本当に。
心の底から寒くなるってのはまさにああいう状態でね、気温は今よりは高かったんですけどね、間違いなく。
そういう問題じゃないってことなんですね。
はい、12月24日なんでね、非常にちょうどいいタイミングだなと思って。
この12月30日のセミナーに来ていただければ、ますますこの確信を深められるのではないか。
この確信を深めて困ることは何もないですから。
クリスマスで一人でブルブル震えていたのではですね、タスクとか一向に進みませんからね。
本当にあの時の私はひどかったんで、酒を飲んで寝て、あれですよ、当時はDVDかな。
で、エッチなビデオを見る以外、何もやろうという気がなかった時代でしたからね。
僕はほぼ、それで300日ぐらい過ごしていたんで、そういう時に比べればですね、
このある種のことを信じるのをやめるというだけで、何でも進みますから。
別に仕事じゃなくても進みますから、本当に。
もう全く違いますからね。不思議ですけどね。
まあそんな話を今日、これから少ししていこうかなと思います。
まあ、あの、一言で言うならば、何ですかね、何というのがいいですかね。
重みづけなんですね。
おじいさん、重みづけって言ったかな、意味づけって言ったかな。
まあ、どっちでもいいです。
つまり、信じてるってことですよ。
何を信じてるのかというと、多分、そうですね。
そうですね。
自分の心の中にある価値は、客観的であるって信じてるってことですね。
客観的というか、何て言うんですかね、現実的であるかな。
現実的であると信じている。
つい先日も面白いお題を倉殿さんにいただいて、
Amazonの星評価と価値の相対性
Amazonの星1がつけられる。
これ、確かになって思ったんですよね。
これって価値ゼロなんですよ。
何を言っても価値ゼロなんですけど、価値ゼロなんですよ。
ところが、これが現実に価値を持っていると思うと、
そういう、何て言うんですかね、現実の世界というもの、生き始めてしまうんですね。
非常に不思議ではあるんだけど、
でも、例えば、今の私が少々のこだわりを持っていたとしても、
星1をつけられると、信頼を失うとか、生きていくのに不都合が起こると。
そんなことは、まさに、
全くないんだけど、そう信じ始めると、そうなっていくんですけれども、
仮に、僕らが、僕がまだなお依然として少しはそれを信じているとするじゃないですか。
でも、23歳の時の私にですね、
Amazonで星1つけられるのは、彼女が去っていくのより厳しい部分があるよって言っても、
絶対受け付けなかった。絶対。
1%も。
Amazonで星1なのというのは、本の星側のレビューが全部1になってもいいから、
彼女が欲しいって、僕は当時、絶対言いましたね。
それも、譲るポイントは1ミリもないと思いましたね。
当時の私は。
1ミリもないと、絶対その通り、確実にそれが現実だと思い込んでました。
で、それは幻想なんですけど、これをいくら言っても無駄だということなんですね。
つまり、Amazonの星1というものは、あるタイミングの僕にとっては、
当時の僕が作家だったとしても、多分、絶対受け入れなかったと思うんですよね。
Amazonの星5が全部、今、1になってもいいから、彼女をよこせって、絶対僕は、当時は言いました。
そう、確信できます。
もう、よく覚えてないんだけど、当時の私は、そういう風な信念で生きてたんですよ。
でも、ちょっと最近考えてみたんですよ。
考えたっていうかね、
個人的な感動と現実の価値
最近ストーブリーグなんで、プロ野球のいろんな場面を見るんですね。
で、
あの、
これを聞いてる人の、
大半も知らないかなと思うんですけど
今年のロッテ
千葉ロッテマリンがですね
クライマックスシリーズの
ファーストステージっていうのがあるんですけど
要するに
要するにパリーグの1位決定戦なんですよ
リーグでやるのに1位決定戦を
わざわざリーグが終わった後
1位と2位と3位だけでやるんですよ
まず2位と3位がトーナメントして
勝った方が1位とやって
リーグの1位を決めると
リーグ1位は決まってるんだけど
リーグ優勝は別なんですね
クライマックスで決まるんですよ
実にややこしいんですけど
工業的な理由でそうなってるんですよ
このファーストステージで
10回の表に3点をソフトバンクに取られた
千葉ロッテがですね
その裏に4点取って
さよなら勝ちするんですけど
このシーンが劇的で
3点入ったんですよね
3ランで同点3ラン打って
3点入った時
ものすごい
シーンだったわけですよ
あの
シーンの価値はですね
僕はやっぱり
星1が星5になる価値より
僕の本に関してですよ
僕の本の星1が星5になるよりも
僕にはやっぱ響きますね
あのシーンを見る方が嬉しい
星自分の1が5になるより嬉しい
これって
合理的じゃないですよね
ロッテがあのシーン
しかもあのシーンも過去のシーンですから
でもあの時の
見てましたけど
私はリアルタイムに
見たあの感動を考えるとですね
やっぱ僕の本が
星1が5になるより嬉しいですね
どうしてもこれひっくり返せないですよ
それによって
どれほど自分が利益を得るとか
損失をこむるとか
考えても無駄なんですよ
やっぱあの時の
わーっていうあれを見ると
もうなんか泣けてきます
それは私がロッテが好きだからじゃないですか
結局よく僕は知ってんですけど
ロッテが好きになるように
自分を仕向けたことがあるんですよ
でその仕向けた自分にまんまと乗っかって
そうなったんですよ
そうなっちゃうと
えっともう引き返せない
引き返そうと思えば引き返せるんだけど
その方法も自分は自分なりに
わかってきてるんですけれども
いやまあ引き返す必要は別にないから
そうしたまんまにしてあるんですね
つまりできるんですよ
これは結局全部幻想なんですよね
幻想だからできるんですよ
現実だったら無理ですよね
頭の中でちょいちょい心理操作しただけで
こっちの方に価値があるとか
あっちの方に価値はないとか
そういうのを切り替えることはできないんだけど
えっとやろうと思えばできてしまうわけですね
これが先日あのノートでもアップした
高階涼子さんが牛乳が嫌いになるだの
好きだっただの話なんですね
だからこれはやろうと思えば
間違いなくやれることなんですよ
何に重きを置き
何に重きを置かないか
それは現実の事実を
真実真実というもの
あるいは実際に持っている現実の価値と関係ないんですよ
だってそうですよね
えっと私の千葉ロッテの感動とか
価値の主観性
多分これ聞いてる人の大半にとっては
見る価値もないと思うんですよ
僕はあれを見ていれば
自分の収益に直結し
そんなにあの裕福でもない我が家の経済状態に
恐らく直結する
あのアマゾンのレビューよりも
価値が高い感じ
するんですよ
やっぱりでも価値ないですよね
多分これを聞いてる人の大半にとっては
阪神タイガースとかの方がまだ価値あると思う
でもこれも完全に恣意的な話じゃないですか
結局どっちに価値があるとかはないですよね
それはそう思ってるかどうかが
全てを決めてしまう
そう思うかどうかが全てを決めてるんですよ
利益が得られるかどうかというのは
一見ここではえっと説明になってるようで
僕は全然説明になっては
やっぱりいないと思いますね
あの人間は
お金の利益だけで
自分の価値付けを決めることは
多分できないと思い思うし
そもそもお金というのが
自己の価値観の重要性
みんながそれに価値があると信じているから
価値があるってことになるわけじゃないですか
で、血払ってもある程度そうなんですよ
少なくともあの日
3万5000人が見に行って
大喜びしてたわけだから
ある程度は多くの人がそれに価値を見いだすから
価値があるって部分があるんですね
で、これに逆らうのは
そう簡単じゃないわけです
やっぱアマゾンの
星1だか5かは
少なくともキノッピーの星1か5よりは
だいぶ価値があるんですよ
それは多くの人がそう信じているからなんですよね
キノッピーの方が実は客観的に
正しいのかもしれないですよ
レビューとしては
ブックレビューとしては
でも多分そうは考えない
やっぱりどれぐらい多くの人が
そこに価値を見いだしてるかというのに
私たちは左右される
しかし、しかしですね
そんなことを言ったら
えーと例えば
アメリカのアマゾンの
星5か星1か
例えばアメリカでGTDの本が
星どういう風に付けられてるかの方が
多くの人間が関わっているじゃないですか
でも僕らはそれにほとんど興味を示しませんよね
なぜかアメリカのアマゾンを利用してないからですよね
つまり多くの人がそれに
価値付けをしているところに
確かに我々は価値を見いだすんですが
あくまでもそれは
自分がそれに価値を見いだしている場合に限るんですよ
やっぱり
結局自分がそれに価値を見いだしていて
かつ多くの人がそれに価値を見いだしていると
それはとても重要だって考えるんだけど
それはすごい選択の
なんていうんですかね
自由の
これは事実そうであると思うし
多くの人が実は知っていることだとは思う cou I can't win or win
思うんだけれども
これを意識できるようになると、すごい楽だと僕は思いますね。自由自在ですもん、ある意味では。何かを好きになるとか、何かに価値を見出すとか、あるいは何かを好きにならないとか、あるいはそれに価値を見出さないということが自由自在です。
私、つい最近までピクミンというゲームの意味がよく分かっておらず、ピクミンでスコアをどうする、こうする、何の興味を持っていなかったんですけど、最近かなりハマっていて、今年かなりハマったゲームの一つですね。
あれのハイスコアを出すというのはですね、多分僕にとってすでにAmazonの星を3位以上いただくよりも、ピクミンのスコアを出す方が僕は嬉しいですね、個人的にはすでに。
こんなもんなんですよ。
これの出し入れはもう本当自由自在です。やろうと思ったようにできます。真剣にやる気になれば確実にできます。
ここに変な合理的な理由付けを持って、自分の価値観を固めようとするから苦しいことになるんですよ。
いやいや、Amazonは絶対大事なんだと、お金になるからだと、お金も自分にとっては大事なんだと、こういうふうに固めていってしまえばしまうほど、それにがんじがらめになっていくんですよ。
例えば僕は、
今、Xのいいねの数に興味が全く湧かないんですね。
これはもう本当に湧かなくて、Amazonのさっきのすでにピクミンのレコード以下になってしまったAmazonのレビューよりも、いいねの数っていうのには興味が湧かないんですよね。
どう見てもその数字に何かの意味があるような感じはしない。
せいぜいそうですね。
そうだな、うちの近くにコープっていうお店が。
価値観による選択の自由
スーパーがあるんですけど、あそこのスタンプいくらもらってもですね、嬉しくもなんともないですよね。
なんかね、500ポイントになると、なんかよくわからない、なんか不思議な袋みたいなのをくれるんですよ。不思議なマークがついた。
で、全然もうもらうたびに捨てちゃうんですけれども、それと似てるんですよね。
それと、Xのいいねは僕にとってはほとんど同等っていうように見えます。
でもこれは10年前違いましたからね。僕、いいねの数数えてましたもん。
だからこれはやっぱり恣意的なんですよ、ものすごく。
今はXの力が衰えたとか関係ないですよ、はっきり言って。
私にとっての有効性も下がったとか上がったっていう意味では、それほど下がったり上がったりしている気はしません。
で、このただいいねの数に一切こだわりがなくなったのの何がいいかというとですね、
Xで炎上するということに対する恐怖感が、それに反比例…
反比例な?
ここは比例か反比例か適当になってきてるんだけども、と同じくらい全く気にならなくなったということ。
だってこれってすっごい違うじゃないですか。
ケースによっては炎上によって傷つくから裁判沙汰だとかなんとかいう話があるわけじゃないですか。
私は多分これはね、いいねの数に対する興味と関係があるとやっぱ思うんですよね。
ある価値において、いいと悪いっていうのは、その数字が増えるか減るかが、
良いことか悪いことかっていう感覚と関係があると思うんですよ。
お金ってまさにそうですよ。
多くあるほどいいと思ってるから、ゼロになるのが恐ろしいわけですよ。
Amazonもそうですよ。
星5がいいと思うから、星1は嫌なんですよ。
反対のケースもありますよね。
何かの数字は、例えばそうだ、さっきのピクミンがそうですよ。
短い時間で終わらせるほど価値が高いんですよ。
1点以上長くなってしまったら、もう何の価値もないですよね。
そういうもんですよ。
だから、減るか増えるかすることが良いから、減るか増えるかすることが悪いんですよ。
それが気になる。
気にならなかったら、ゲームって意味はないですもんね。
気にならないんだったら、お金って意味はないですし、
気にならないんだったら、Xのいいねの数も炎上もあんまり意味はない。
結局そこで悪口がいっぱい自分に関して書かれてるっていうだけで、
見もしないって人はいっぱいいると思いますよ。
私は。
だいたい炎上商法っていうのをやってる人いるじゃないですか。
ああいう人にしてみれば、炎上した方が価値があるわけですよね。
炎上すればするほど、ある意味嬉しいってことになるわけだから、
それは一つの価値なんだけど、価値づけなんですよね。
他の人はそうは思わないと思うんですけれども、
自分はそうだっていうことにしてしまうと、
多分そういう価値観に乗っかって、自分を乗せていくことができるんだと思うんですよ。
そうすれば炎上しそうなことをいっぱい書き込むというのが、
その人にとっての自分のゴーイング、行き先になっていくんだと思うんですね。
ここまで考えてみるとですね、
自分に都合の悪い価値づけはことごとく捨てていって、
自分に都合のいい価値づけだけをある意味セットして、
それが都合が悪くなったら捨ててしまったらいいんじゃないかと。
こういうふうにやっていくとですね、
多分どういうものにもこれといった価値というものを置くのは、
相当困難になるとは思います。
生存上必要な、
話は別としても、
そうでないもの、
どんどんだからそれはイリュージョン同然のものの価値づけについて、
ああだこうだ考えるという必要は、
だいぶ薄くなっていくだろうなと。
これが先日のJさんとやったタスクシュートジャーニーにどうして絡むかというと、
当然絡むわけですよね。
やりたくないタスクというものが存在するというのは、
なかなかおかしなことだってことになるわけです。
やりたくないタスクというのは、
多分、
えっと、
なんか、
今言ったような理由で炎上するのが怖いとか、
時間を失うのが怖いとか、
お金を失うのが怖いとか、
いった価値づけと関係があるはずなんですよ。
で、それがないんだったらですね、
多分、
どういうタスクもニュートラルというか、
重みがほとんどなくなっていくので、
つまり、
軽くやることができるだろうと。
これが基本的に昨日、
えっと、
多少時間を割いた、
タスクで滞りそうになったときに思い出しましょうって話でしたよね。
Jさんはそういう話をしていた。
結局、
これは結局、
スーパーマリオをやるのと変わらないんだと。
スーパーマリオっていうのは、
確かに真剣にやるとね、
キノコを手に入れたり、
亀に踏まれたら残念だったりするんだけど、
そしてその時は結構本当に残念なんだけど、
やめてしまえばそれはどうってことはない。
で、
もしあれをですね、
やる上で、
これをやり失敗したら、
数百万円を失うってことになったら、
あんなに気楽にはできなくなると彼が言ってた通り、
そうなんですよ。
で、私たちはそういう状態に置かれているように勘違いして、
仕事に携わってしまうんですよね。
だから、
恐ろしくなるわけですよ。
人に、
人にってのはさっき出ましたね。
いろんな人がそれに価値があると思っていて、
それに自分も価値があると思い込んでしまったら、
恐ろしくなるわけです。
いろんな人が価値があると思っている、
例えばXのいいねはいっぱいくっつくのがいいと思っていて、
Xでバリゾーを言われるのは大変恐ろしいことだと、
少なからぬ人がそう信じている中で、
自分もXのいいねがすごく価値があると思うと、
炎上が怖くなるわけですよ。
これと全く同じ構図がですね、
実際には仕事場で、
みんながその仕事に価値があると思っていて、
そして自分もその仕事にコミットして、
その仕事でミスると多くの人に迷惑がかかると思うと、
恐ろしくなるんですよ。
炎上や迷惑の恐ろしさの見方
これは多分Xの炎上が恐ろしくなった場合の真理と、
全然変わらないと思います。
これはXで炎上してもいいとか、
仕事で迷惑をかけてもいいという話ではないんですよ。
ただそれがどの程度恐ろしいかは、
それにどの程度多くの人が絡んでいて、
しかもその上で自分がそれにどのぐらいコミットしているかで、
決まってくるわけです。
だから当然恐ろしい。
迷惑をかけたり炎上したりするのは当然恐ろしい。
でもそれは、
自分がそう信じているからそうなんだということは、
そのタイミングで思い出す価値があるということです。
迷惑をかけないようにする必要はあるかもしれないけど、
それが恐ろしくなければいけない理由は何にもないということです。
実際だから私は、
星がどうつこうと、
実際は全く恐ろしくないというようになった、
そういうことなんですよ。
だけれども関係者の人たちの利害がありますからね。
つかないように手を打つことができるならば、
そしてコンテンツの内容次第でつかないようにすることができるならば、
そうした方がいいと思う。
でもこれが恐ろしいとですね、
そうすることが絶対条件みたいになっていって、
仕事が滞るわけですよ。
そういうことをする必要があるほどは、
ここに全力を尽くす価値はないってことなんですね。
もともとないんで、そういう価値は。
で、このもともとないっていうのが出てきたら、
ここ、先週散々話題にした、
散々としても先週は落としましたけれども、
散々話題にした不在なんですよ。
不在は恐ろしくないってことですね。
なぜならないだけだからですよ。
そこに炎上があると思ってはいけないってことですね。
この点はですね、
私たちが不在というものが密かに、
密かにというか、
この年になってもなかなか受け入れるのが上手で、
ないってことと関係があります。
先週申し上げた通りです。
あなたは炎上があるのが嫌なのか、
みんなが優しくしてくれないのが嫌なのか、
この2つは全然違うから、
分けたほうがいいってことですよ。
みんなが、ツイッターの人たちがみんな、
いい子いい子してくれなくても構わない、
そんなに辛くないって言うならば、
そこに炎上があるわけじゃないんですよ。
不在の恐ろしさについて
優しさがないっていうだけなんですね。
それは最初からなかったんじゃないのかと、
Xでは。
それほど多くの人が、
みんなが良くしてくれるっていう事実は、
なかったんじゃないのかってことですよ。
あのー、
クリスマスに一人でいるのは、
辛いって話はあるんだけれども、
私が、
かつて、
25年前、
あれほど辛かったほど、
悪いおっぱいはそこにはなかった。
僕は完全にあの時、
被害妄想の、
えーと、
迫害妄想状態でしたから。
えー、
誰もいないだけなんですよ。
なんなら、
友達といることはできたんですよ。
異性がそこにいないっていうだけなんですよ。
で、いないだけなんですね。
悪いものがそこにいたわけじゃないです。
ただ、私の中ではもう、
なんかこう、
虚無感とかね、
えーと、
そういうものがあるかのような、
あるいは寒さみたいなものが、
あるかのように感じていた。
それが私を苦しめる、
この感覚は、
つまり、
ミルクがもらえないということが、
えーと、
僕を、
えー、
苦しめる悪いおっぱいとか、
悪い怪物があるんだという状態を、
のように感じている。
母親がいないっていうことが、
理解できない状態という情緒と、
なんら変わらない情緒で、
私が25年前に生きていた。
あれは辛いんですよ。
誤解なんでね。
あれは辛いんですよ。
これ、
炎上があるっていう話が、
全く変わらないんじゃないかなって感じがします。
もちろんそれは、
あるという人にとっては、
あるんです。
私が、
えー、
25年前に、
この状態は許せないって思ってたのと変わらない。
えーと、
炎上があるのは許せないって思うんだったら、
許せないんですよ。
それは情緒的に事実であり、
この情緒的に事実であることっていうのは、
えーと、
ひっくり返せないんですね。
残念ながら。
考えて現実を見に行くっていうのが、
おそらくそれしかないんで、
えー、
個人の重みづけと事実の関係
それをお勧めするんですけど、
たとえ、
まあ、
赤ちゃんには無理でも、
やっぱり、
えーと、
二十歳を超えればですね、
お母さんがいないんだと。
いないだけなんだと。
しょうがないじゃないですかと。
えーと、
それによって、
自分の食い淵を稼ぐのが難しいっていうんなら、
また別の手立てを打ちましょうと。
でも、
今のところお母さんがいなくても、
自分で食事が用意できるならば、
そうした方がいいんじゃないでしょうかと。
でも、
これがですね、
僕らは、
えーと、
頭では分かってると、
言い始めちゃうんですよね。
えー、
何歳になっても。
なかなかこれが、
えー、
情緒的に受け入れられてないだけだと、
いうことが、
えー、
というか、
情緒的に受け入れてない場合は、
頭で分かってても、
無駄だという風に、
言い張りたがる。
25歳頃の私が、
そう言い張っていたように。
他人にはこれは、
えー、
私は他人にはバカだって言われちゃいましたからね。
バカ上げているんですよ。
他人にはね。
これ、
一回言っても通じません。
まあ、
私の方からも、
相手の方からもね。
私も一生懸命ですね、
いかにこれが、
厳しく、
辛く、
寂しく、
どうしようもなく、
他に何にも手につかないことか、
というのを力説しても、
例えば、
多分、
当時知り合ってませんでしたけど、
多分、
当時の大橋悦夫さんに、
これを100回言っても、
うるさがられただけだと思います。
でも、
逆に、
えーと、
大橋悦夫さんが、
1分でも無駄にするのが、
耐えがたいっていうのを、
100回言われても、
今の僕には響いてこない。
そういうことなんですね、
これはね。
何に重みづけをしているかってことが、
全てなんですよ。
そこに事実はないんですね。
客観的な事実はない。
時間の方が女性より大事だという事実はないし、
その逆もないんです。
それは、
その人がどう決めているかによって決まる。
現に私も、
その10年後、
わずか10年後には、
女性より時間の方が大事だ、
になっちゃっていた。
簡単にひっくり返るんですよ。
そして、
今、
どっちもそれほどではない。
それから、
せいぜい15年後ですね。
まあ、
15年は長いかもしれないですけどね。
でも、
これがひっくり返る時には、
数日で、
いいんですよ。
本当に。
数日あれば、
ひっくり返るものです。
あの、
いわゆる、
物作業。
物作業が終わらなければならないという意味では、
そうだし、
もっと時間が必要な場合もあります。
場合によっては、
1年、
2年と必要なケースは多々あります。
私なんかが、
この、
ねえ、
くりぼっち問題みたいなのにハマったのは、
たぶん、
13、
14、
ことを始め、
30過ぎぐらいまで、
実に、
20年、
これをやってましたね。
20年間弱。
だから、
まあ、
これは明らかに、
僕の場合は、
物作業が分かってなかったってことが大きいです。
事実、
実質的にうつ病だったと言ってもいい、
過言ではないぐらいです。
慢性的なうつ病ですね。
だいたい、
大学2年、
大学1年、
大学2年、
大学3年の頃が最悪でしたけれども、
この3年間はほとんど、
はためにはうつですって言われても、
アルコール依存とうつが併発してるぐらいに言われても、
おかしくはなかったと。
昼から酒飲んで、
何にもしませんでしたから。
よく4年で卒業できたと。
後から振り返ると、
本当思いますね。
何にもしませんでしたからね。
だいたい、
酒飲むか、
えっちなビデオを仮に、
ビデオ屋に行く以外は、
モチベーションがゼロだったんですよ。
何をするに。
だから、
なんかね、
ハワイのボルカ、
なんか、
なんとかボルケーノの、
英語、
英語科だったからね。
読むとか、
本当、
ナンセンスの極みだなって感じがしました。
なんで、
この観光パンフレットを難しくしたような英語を読まないと、
えーと、
なんか知らないけど、
あのー、
いわゆるあるじゃないですか、
大学の期末試験みたいなの。
出るわけですよ。
ボルケーノとか出てくるわけで。
洒落にならないなって。
しかもそれ、
やってる先生が、
外国の先生だったから、
ボルケーノを英語で説明しろと。
なんで俺が、
ボルケーノを英語で説明しないとならんの。
彼女をよこせっていうもんなんですよ。
全然通じないですよ。
こんな話はね。
でも、
情緒的にそうであったら、
事実どうなってしまう。
でも、
これは何とでもなるんですね。
えー、
正しい手順を踏みさえすれば。
僕は、
僕の言い分があった。
つまり、
だってここで、
全然頑張らずに、
大学で、
彼女できなくって、
一生、
女性と、
え、
セックスもできなかったら、
どうしてくれるんだと。
あなた責任取ってくれるのかと。
ボルケーノばっかりやらせて、
えーと、
赤ちゃん心の構造
責任取ってくんないじゃんと。
自分、
全然やりたくもないわけですからね。
ボルケーノの説明とかはね。
だから、
そういう反論はできるんですよ。
これは、
万が一、
ここで、
戻って、
鍵が開いていて、
えー、
家にもかかわらず、
戻ることなく、
空き巣にやられたら、
あなた責任取ってくれますかって、
カウンセラリングの先生に、
問いただすのと似てる。
ていうか、
おそらく同じ心理です。
だから、
えーと、
いったん、
情緒に、
何かの価値があると信じ込ませて、
それが現実と、
どれほど疎後があっても構わない、
っていう状態を作ってしまったら、
えーと、
沼るんですよ。
最近流行りの言葉で言えばね。
で、
僕らそういう沼り方を、
する生き物だってことなんですよ。
で、
ここにはもう、
えーと、
一定の手順を踏む。
で、僕がやっぱり、
何度も繰り返し、
同じ話しかしてなくて恐縮ですけど、
えー、
この番組でも、
同じ話は何度でもするという風に、
僕の中で、
決めておりますんで、
何度でもしますけれども、
赤ちゃんにこれを、
あのー、
諭すことは無理だと。
でも、
赤ちゃんじゃなければ、
何とかなるかもしれないという風に、
自分を見るしかない。
自分、
だから、
自分を赤ちゃんで見る。
赤ちゃんとして見る。
ないしは、
自分の心の中に赤ちゃんがいる、
みたいなところから、
アダルトチルドレンみたいな、
言葉、
あるいは、
心の中のあなたの幼児とか、
乳児とか、
そういう言い方を、
開発する人が出てきたってことなんですね。
もちろん、
精神分析にヒントは得ています。
そして、
そのヒントから、
じゃあ、
赤ちゃんみたいなものを、
心の中に想定してみれば、
っていう風に、
考えたわけですよ。
信田紗友子さんが、
そう考えたという風に、
僕が言いたいわけではないです。
でも、
そのように考える人がいるのは、
おかしくないじゃないですか。
ジョン・ボルビーのアタッチメント、
というような、
愛着理論ですよね。
そういう理論みたいなもの。
つまり、
ここに、
おそらく、
何らかの理由で、
十分に、
愛着というものを、
満たしてもらえなかった、
何らかの形でね。
赤ちゃんみたいなものが、
心の中に、
いわゆる、
自己対象の一部として、
存在している可能性を、
検討してもいいんじゃないか、
ってことです。
この赤ちゃんを、
安心させてあげればですね、
時間がなくなる、
万が一、
時間がなくなったらとか、
万が一、
ガスコンロの火を消してなかったらとか、
みんなが私のことを、
仕事上の足手まといだと思って、
共有される問題
白い目で見ているとか、
そういうことが、
そういうものすごい広範囲に、
わたっている問題が、
実は、
逆感的な問題じゃないのかもしれない。
ていうか、
いかにも多くの人が、
共有しすぎているんじゃないですか、
っていう話です。
本当に、
仕事場で、
足手まといだからといって、
白い目で見られているっていうことが、
問題ならばですね、
それがあなたの、
あなたのっていうのか、
これを聞いてくださっている、
もしかしてそういうことで、
悩まれている方の、
パーソナルな、
パーソナルなですね、
個人的で具体的な問題だと、
いうことであるならば、
もっとそういうので、
悩んでる人が、
少なくてもいいと思うんですよ。
個別的、
具体的に悩んでいる人っていう、
ケースっていうのは、
個別的、
具体的であるというならば、
それぞれ違っているはずだから、
もっと違うものであり、
もっと共有できないものであると思うんですよ。
このように悩んでる人は、
でも、
実にいっぱいいすぎるんですよ。
何百万人と言いそうな気がするんですね。
白い目で、
自分が仕事ができなくて、
みんなに馬鹿にされているような、
あるいはみんなに迷惑がられているような、
気がするということで、
気に病んでいるという、
そういう気の病み方をしている人の数が、
多すぎるんですね。
これは、
みんなが同じような、
吉本隆明みたいですけど、
みんなが同じような、
集団幻想を持ちがちだから、
こうなんじゃないかと説明する方が、
あなたが、
あ、私は本当に、
みんなに白い目で見られているんです、
っていう解釈をするよりも、
妥当な感じがするんですね。
あまりにも多くの人が、
同じようなことで悩むということは、
心の構造が、
人間の心の構造に、
そういう構造があると考えた方がですね、
個別具体的な事案が、
たまたま100万人、
200万人の単位で一致していると考えるよりは、
自然な気感じがするんですよ。
ここに、
見るべきものがあると、
自分は思います、
最近。
例えば、
時間の損失が気になる、
時間を無駄にしたって怒っている人が、
日本中に1000万人ぐらい、
同時にいるような感じがする。
これは、
時間の損失というイリュージョンを、
持ちやすい人間の心性、
心象、
心の差がね、
そういうものだと考えた方が、
たまたま個別具体的に、
1000万人の人が同時に、
時間というものを損失する、
パーソナルで、
レアな出来事に遭遇してしまったんだと、
考えるより、
マシな感じがするんですよね。
多分、
そうだと思います。
あまりにも、
それぞれの事態、
事象は違うはずなのに、
みんなが一斉に、
同じような気持ちになるというのは、
おかしいじゃないですか。
それは、
心の抽象概念というものを使ってですね、
えっと、
事物を雑に見てるんですよ、
多分。
同じようなものは、
同じものだとみなすから、
そういうことが起こるんですよね。
一人一人が見ている、
えっと、
例えば、
木と呼ばれているものは、
かなり違っているんですよ。
幹の色も、
葉の色も。
だけど、
これは木だ。
で、
絵に描かせると、
みんなが似たような絵に描き、
文字にすると、
みんなが全く同じ字にしてしまうんですよ。
木、
みたいなね。
そういうことをするのが、
私たちだし、
私たちの抽象概念というものだし、
存在しない悩み
大変便利なものなんだけれども、
これをやるから、
私たちは、
えっと、
訳の分かんない世界に、
のまるんですよ。
みんなで一斉に、
同じような、
あの、
苦しみにあえぐっていうことが、
起こっちゃうわけですね。
そのような事態は、
多分ない。
現実にはないんですよね。
時間を損するだとか、
みんなが白い目で迷惑がるとか、
そういった事態はおそらくない。
そこで進行している事態は、
全然違うものなんです。
きっとね。
で、
そういう意味では、
存在しないものに、
私たちはやっぱり悩む。
不在のものに悩む。
不在だということに、
気づくことができずに、
何かが存在するとは、
思ってしまっていて、
その存在が私にとって、
大変都合が悪く、
私の苦しみになる。
私、結局25年前悩んでたのは、
自分の顔が美形でないってことだと。
つまりここに、
イケてない男という、
いるってことに、
悩んでたわけですよ。
彼女が不在っていうことに、
悩んでいたというよりね。
実際私そう思いましたもんね。
イケてるやつというか、
女の子を友達にできる人は、
いくらでもできる。
なんであんな風になってんだろう。
はなはだ不公平だと。
自分はこういうふうに、
どうして生まれついちゃってるんだろうと。
そういうふうに、
迫害妄想って、
進行していくものなんですね。
なんてことはないです。
なんてことはない。
そこには誰もいない。
って言う、
ただそれだけなんです。
いるべき人がいないんではない。
誰もいない。
最初から。
だから黙って一人でケーキ食って、
いいわけなんだけれども、
そうはいかないんですね。
自分という、
どうしようもないダメなものが、
ここにあるっていうふうに、
考えてしまう。
悪いおっぱいで、
としての自分ってものが、
あるっていうふうに、
考えてしまう。
悪いおっぱいってのはですね、
この場合は、
ろくでもない、
声とか、
ろくでもない喋り方とか、
ろくでもない顔に、
生まれつけた、
私の母が、
私にくっつけた、
悪いものなんですよ。
今ならば、
こういう解釈ができます。
でもこれはやっぱりね、
軽心分析のヒントを得たところが、
非常に大きいんですよ。
その前は、
浦添恵三さんからの、
グッドマイブズのヒントを、
得たところが大きいんですよ。
これ故に僕が、
自分で、
この部分を、
解放したんですね。
そして自分について、
ああだこうだ思うというのも、
全部、
こういったところから、
来ているという結論を、
得るようになってからは、
つまり、
あれですよ。
千葉ロッテの同点3だと、
Amazonの星1を、
どっちを比較して、
どう考えるかは、
価値の決定に関する疑問
私が全部、
勝手に決められるんだ、
ということなんですね。
決められないんだと、
いうのであれば、
決められないむしろ、
証拠を出してほしい。
なぜ私は、
どうして私にとっては、
千葉ロッテの、
藤岡が、
2番の藤岡の同点3なんは、
あんなに、
今見ても、
涙ぐめるのか、
ということについての、
説明が欲しいですよね。
これは客観的事実なのかと。
客観的だと言うなら、
少なくとも、
日本でもっと多くの人が、
これを聞いている全ての人が、
涙ぐむまでいかなくても、
見て毎度毎度、
感動できるぐらいでは、
ないとおかしいと思うんですよね。
じゃなきゃ、
私の頭が特別狂っているとかね。
でも私はどっちも、
真実らしくは聞こえないんですよね。
私多分、
精神科の人に見せても、
いやあなたは、
ボーダーラインを遥かに離れて、
神経症水準で、
大筋、
精神的には健常だと、
言われる気がする。
でも、
千葉ロッテの方が、
アマゾンの星1よりも、
遥かに価値が高い感じというのは、
インパクトとしてある。
もう一つは、
私が物の価値というものが、
全然わからない、
完璧な馬鹿だという説明。
これはこれでいいんですけれども、
別にいいんですけれども、
この説明をした人はですね、
賢者であるという話になってくる。
その賢者にとって、
じゃあ、
次の質問にも答えて欲しいんですよ。
例えば、
世の中には、
ブランドものってあるじゃないですか。
ルイ・ヴィトンとか、
ディオールとか。
これを聞いている方の半数ぐらいはですね、
何の価値も、
そこに認められないと思うんですよね。
で、
例えば、
ルイ・ヴィトンとか、
のバックっていうのはですね、
つい最近、
勉強して知ったんですよ。
一番安くて、
278,000円ぐらいするんですよ。
バックですよ。
何なる?
いや、
多分僕が強調するより、
みんなの、
皆さんの方が詳しいですよ。
私はその中に、
iPhone何台買えるんだって、
考えてしまうんですよね。
必ず。
この考えは馬鹿だからなのか。
それとも、
ルイ・ヴィトンを買う方が馬鹿なのか。
でも、
ルイ・ヴィトンを買いたいっていう人の方が、
この世の中では、
体制を占めてますよね。
彼らの方が、
これらを買えるほど、
お金が儲けられる彼らの方が、
愚かであると。
お金を儲けられない私が、
言う資格が果たしてあるかっていう、
問題も出てきますよね。
で、
多くの人は、
賢い人は、
金がいっぱい稼げるって、
信じているわけですよ。
この辺、
どうやって解けばいいのかってことですよ。
もし、
お金とか時間とかに、
客観的価値があるという。
僕はこれは、
全部主観的な価値しかないって、
言ってしまった方が、
はるかに解きやすい。
ルイ・ヴィトンに価値があるのは、
ルイ・ヴィトンに価値があると、
信じている人にとっては、
そうだっていう方が、
はるかに信じやすいんですよね。
お金の方が、
うーん、
違う。
ごめん。
ライフハックの方が、
価値があるって思ってる人、
はっきり言って、
少数派ですよ。
そして、
そのライフハックに価値があるって、
思ってる人は、
お金を稼ぐことは、
価値があるって、
信じてます。
賢くなれば、
お金が稼げるとも、
信じています。
客観的価値と主観的価値
でも、
私にとっては、
ここに、
客観的価値ってものを、
出してしまったら、
えーと、
引っ張っても解けない、
知恵の輪みたいに、
解けなくなっちゃうと、
思うんですよ。
やっぱり、
これは、
恣意的に決まってるっていう風に、
私だったら、
信じる。
恣意的に決まっているんだったら、
恣意的に信じるのを、
やめるってことも、
おそらく、
そう難しくはないはずだと、
思います。
そう思えばですね、
例えば、
えーと、
税理申告とか、
そういうことに、
重、
あの、
そんなに重みを持たなくても、
いいんじゃないか。
なんなら、
すっぽかしたって構わないじゃないかと、
思うと、
簡単にできたりするんですよ。
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