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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
先日、どこかの番組で、この番組で、
HSPって外来語だよねっていう話をした覚えがあるんだけど、
もしかすると記憶違いかもしれませんので、
改めて今日ちょっとそれを掘りたいんですけど、
そこのところで多分自分はですね、
HSPってのは甘えられないけれども甘えたいという、
心理的困難を表している言葉だというように定義したと思うんですね。
で、このある意味では特にですね、
この神経症レベルの、あんまり精神病とかそこまでいっちゃわないレベルの
心理的困難さという、最近で言うところの息づらさみたいなやつって、
全部甘えられないっていうことからいけるんじゃないかと最近よく思っておりまして、
で、そのことがこの種の最近の新しく登場してきた体の方じゃないですよ、
コロナとかではなくて、心理的な方面の障害は全てこの説明でいけるんではないかという風な気がしているんですね。
それはすごく自分の中では割とはっきりしたものがありまして、
というのはついに欧米でもこれが、こういう問題が症状って言われるようになったっていう話だという風に
思うんですよ。
日本人にとっては甘えられないということが心理的困難さを生み出すのはすごく当然のことなんですね。
というのは文化が甘えというものに多分依存しているせいで、
しかもこれは表面上、何度か言ってるんですけど、文化なので表面に思いっきり現れてきたらいけないんですよ。
あいつは甘えているって言ったらすでに甘えがうまくいっていない証拠なんですね。
言葉をして出てくるということは無意識じゃなくなったってことですよね。
意識されてしまったらもうそれは何かが行き過ぎているか、うまく回っていないか、水面とにかくあれなんですよ。
この甘えというのは下水道のようなものじゃなきゃいけないんですよ。
吹き出してきたら困るわけです。
ちゃんとそれは舌を流れているんだけれども、だからすごく大事なんだけれども、見えるところに出てこないってことが大切なんですね。
そうやってやってきたんだけれども、西洋は多分それじゃないんですよね。
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ここを何かきっちり抑制して違うもので、違うものっていうのはおそらくキリスト教と自由だと思うんですが、
これはもう本当にドイタ教さんが書かれたのをそのままパクリになっちゃうんですけど、
でも私たちそれ考えつくじゃないですか。西洋って言えば何が一番日本と違うと言ったらやっぱりキリスト教ですよね。
これはアメリカに住んでみるとごくごく当然のようにわかって、私は結構苦労したんですよ。
何て言うんですか、圧迫を感じるんですよね、やっぱり。
家が寺だったっていうのはこういうことなんだなと。
普通の日本人はそんなにこのことを苦にしないんですけど、やっぱりクリスマスの日とかにああもう徹底的にひたすらキリスト教になってみるとですね、
精神的に結構苦痛になってきて家から出たくなくなるんですよ。
やっぱり私は寺で育ったんだなと痛感しました、ああいう時に。
すげえ仏教信仰が熱いとかいう人間じゃないのに、もうなんかいて嫌になってくるんですよ。
これは1年目の時から発生した事象で、ああこういうことってあるんだ本当にとつくづく思いましたね。
それぐらいキリスト教徹底的なんですよね、ものすごいですね、ある意味では。
ということになってくるとですね、これはやっぱり違うわけですよね、我々の世界と。
少なくとも甘えで生きますみたいな世界ではない。
ところがですね、たぶんそうはいっても人間なんで、そんなに日本に住んでる人とアメリカに住んでる人で、
同じ動物なのに目一杯違うっていうことはなさそうじゃないですか。
やっぱりうまいものは好きだし、みんな寿司食べに行くわけですよ。
つまり甘えを必要としているわけですよね。
で、欧米の世界では甘えは特にアメリカではね、いろんな意味で徹底的に抑制されていると。
で、でだと思うんですよ。
ついに欧米人でもいろんなところでキリスト教信仰があって、個人主義信仰があって、能力主義万歳の国でも
辛いと、甘えられないととても辛いんだよっていう話がHSPという表現になって出てくるんだと思うんですね。
そういう人が出てくるはずだと思うんですよ。
これをそのまま日本人が直輸にするのってすごく変なんですよ。だから。
で、もう一つあるのが発達障害というやつですね。
あれも全然日本語じゃないですよね。
発達障害って何の発達がどう障害しているのか説明が一切ない。
言葉として分かりにくいことをはなはだしいじゃないですか。
で、その中身をやっていくとADD、ADHD、ASD。
全然意味が分からないですよね。記号みたいだと思うんですよ。
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あれはアメリカ人には分かるんだと僕は思うんですよね。
で、これらのADD、ADHD、ASD、HSPという記号みたいなやつがですね。
全部私は個人主義と自由主義と能力主義でいけるんだということが
実はそうじゃないんですということの表れのような気がするんです。
で、甘えられないということはアメリカ人にとってもとても厳しいことで
どうしても甘えられなさというものが生きづらさに直結していくと
生きづらくなっていくといったときに
彼らに甘えという概念はないわけですから
それは注意・欠如・気質ですとか
注意・多動性・注意・欠陥障害ですとかいうことになって
つまり何が言いたいかというとですね
現象面にしか注意を払っていないということなんですね。
ハイ・センシティブというのだって結局
すごくセンシティブな気質がハイなのです、あなたは
ということになっちゃうんですよね。
つまり社会は正常なんですって言ってるわけですよね。
このアメリカ社会という社会は
だってこれはアメリカで発明された概念ですから
アメリカ社会というのはキリスト教を基本的には信仰していて
大統領が聖書に誓いますからね。
自由主義で能力がある人がどんどんお金を稼いでいく
素晴らしい社会なんですけど
あなたはちょっとセンシティブがハイな人なので
つらいのかもしれませんねってこういう話ですよね、これは。
あるいはあなたは子供の時にすごく走り回ったりして
お金を儲けるためにっていうのはちょっと言い過ぎか
いろんな勉強に集中するということがなかなかできない性質なので
それは遺伝的なものなのかもしれないし
家での養育歴が問題があったのかもしれませんが
とにかくそういうことなんです。
ADHDということなので
それがこの社会に適応を妨げるというのかもしれませんって話なんですよ。
パリか何かで特急列車の中でめちゃくちゃマシンガンをぶっ放したというテロがあったんですけど
その時たまたま特急列車にアメリカの軍人が乗っていて
それを取り押さえて素晴らしいということで
パリだったのかちょっと忘れちゃいましたけど
フランスかオランダあたりですごく絶賛されて
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というのが映画化された映画を見たんですよ。
おまよき長くなりましたが
その軍人さんというのが子供の時ADHDだと言われるんですね。
その先生の意見が震ってて
それはあなたがシングルマザーだからなんですよってお母さんに向かって
お母さんがめちゃくちゃ怒るというシーンがあったんですけど
非常にアメリカらしいなと思ったんですよ。
今ではあれはつい最近の話ですからね。
あの軍人さんが子供の頃だから10年くらい前かもしれないけど
せいぜいそんなもんですよね。
こういう言い方ってアメリカでは全然ないように思われるかもしれませんが
多々あります。
ものすごく独特の偏見が日本人からするわ。
しかも日本では大問題になりそうなことを
割とさらっと言う人がいたりしてびっくりします。
これは大丈夫なの?みたいな感じを思うんですよ。
あなたは母子家庭でお父さんがいないから
子供さんがADHDになっちゃうんですよって
先生がさらっと言うんですよ。
映画ではね。びっくりしますよね。
私は多分こういうことが日本であったら問題になって
日本の更新制というのがすごく問題にされると思うんですけど
そんなことは結構ないんですよ。
どこでも人によってはそんなもんですね。
それは余談なんですが
このADHDみたいな話って
やっぱり養育っていう話をすごく
みんな意識しているわけですけど
甘えられないで一発で説明がつくような気がするんですね。
日本人だったら。
私これ最初に聞いたときだって
そんなやつはどこにでもいるじゃんと思ったんですよ。
私の子供の頃なんて
隣の男の子は
ほぼ席につくという能力がなかったですから
先生がめちゃくちゃ殴ったり
当時はそうなんですよね。
なんかボードカーで叩いているのに
走り回っていて聞きとしているわけですよ。
でもそれは僕の目には珍しくもなんともない光景だったんですよ。
そういうやつはいましたよね。
いたと思うんですよね。
今から30年以上前とかだったら
今ならもう明らかに
あれは多動性注意血管障害とか
気質とか言って
なんかこう
棒で叩いたりすることは許されないですよね、当然。
でもなんかですね
あの子にコンサータを投薬するとか
なんとかいう日本ではそういう話には
ならないと思うんですけど
いう話をするのって
むちゃくちゃ危険な感じがむしろしますけれども
コンサータをそんな年の子に投与して
どれほどそれを微量にしたからと言って
いいもんなんだろうかって思うんですけども
国が変われば事情変わるわけですよね。
つまり
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この社会といったときに
どの社会なのかっていうのがまず
大きな問題だと思うんです。
やっぱり能力主義で個人主義であると
甘えは許されないんだと
いう話になったときに
困る人って絶対出てくると思うんですよ。
ごく当然の投げ行きとして
まず一つには
自分は能力があんまりないんだって
信じ込んじゃう人っているわけじゃないですか。
今でもたくさんいますよね。
今なぜか行産って言いそうになったんですけども
私は関西弁は使いませんが
たくさんいますよね。
そういう人たちに繰り返し繰り返し
いろんな人が
いやあなた無能じゃないからって言ってあげるけど
効力を全然発揮しないじゃないですか。
カウンセラーの人が一番苦労してると思うんですけど
この思い込みさえ取れればって思うんだけど
多分そうはいかないですよね。
自分は無能なんだって信じ込んでいるっていう
そういう人たちが
一つの
囚われみたいなものでありますから
で、この自分無能なんだって思い込んで
上でですね
アメリカ社会みたいなところにいて
甘えが許されない
能力を発揮してこそなんぼだっていうことになったらですね
恐ろしいですよね。
恐ろしいから
怒られたくないし
怒られたということになったら
立ち直れなくなったりするわけですよね。
それは非常にこう
怯えているわけじゃないですか。結局。
人の顔色を伺うのももちろんのこと
その他すべてが起こるわけですよね。
甘えが許されないと信じているから
そして同時にこう
甘えが許されなくて自分は能力が全くないと
信じているからこそ
全くないと信じているからこそ
HSPなわけですよ。
これは日本で直輸入することは何もないと思うんですよね。
日本はそこまで能力主義じゃないので
そもそもこれが許しがたいって言ってる人も
いっぱいいるわけじゃないですか。
本当の意味で能力主義ではないと
いろんなところで
女性だったら理系はできなくていいとかいう差別があって
能力が発揮できずにいると
できる人はいいわけですよね。
できる世界でありたりすれば
でも自分はできないんだと思っている人の場合は
この場合はどうなるんだろうっていうのが
差別とは別の問題としてありますよね。
あるカウンセリングの冗談にあるんですよ。
あなたが劣等感を持っているというのはよくわかった。
だってあなたは劣等ですからね。
っていう冗談があるわけですよ。
これを絶対にカウンセラーは
言っちゃいけないことになっているわけじゃないですか。
でもアメリカに行くとびっくりしますけど
何だって能力で測っていくんで
そういうふうに思う人がいないようにすることは
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不可能だと思うんですよね。
ありとあらゆることを能力主義で測っていって
要するに標準偏差で
どんな能力でも偏差値がつくっていう
今そこまでやらないかもしれませんけど
絵とか工作とかそういうものでも
全部標準偏差で測っていくっていうところにいれば
どれをとっても低いですって人は
出てきうるじゃないですか。
出てこないという理屈になっている方が
むしろ大変不思議だと思うんですよ。
それは人間のありとあらゆる能力について
偏差値をとっていけば
何らかの形でその人は有能だってことが
言えるのかもしれませんけれども
実際に学校で測ることができるのは
尺度としてはいくら増やしても
微々たるものですよね。
全体の中で言えば。
私この話をするときに
いつも思い出すのはですね
私は一番自分が何が得意かと考えたときに
アーケードゲームでテトリスってあったんですよ。
今もありますけど
あれが一番得意だったのが
誰もが一番得意だったんですね。
誰もいないところで
本当に誰もいないゲーセンで
ずっとテトリスやってたときってあったんですよ。
あれにいくらかけたのか考えるのも嫌ですが
この能力って誰もかかっちゃくれないですよね。
どう考えても役に立たない能力の一つだと思うんですよ。
私が一番自分が間違いなく能力が発揮できるのは
テトリスだなと最近思ったことがあるんですけど
これがですね
僕は価値マックスって話につながるしかないと思うんですよね。
つまりテトリスの能力が測られない世の中では
テトリスしかできない人って
価値ゼロになっちゃうじゃないですか。
でもだからといって
甘えられないということが
正しいとされるべき理由はないと思うんですよね。
現に私はテトリスしかできなかったとしても
生きていかなきゃならないんですよね。
このHSPの人の場合は
この問題が先鋭化しちゃうんですよね。
甘えることは許されない。
しかし自分は甘えたい。
そして自分は無能であるっていう
この三本柱が立っちゃったときに
昔の日本社会みたいなのじゃない社会になってくると
雷厳しいと。
だから内向的にもなるし敏感にもなるんだけど
僕はですね
ADHDとか特にADDとかASDみたいな
アスペルガーみたいな人も含みますけど
いわゆるデベロメンタルパーソナリティディスオーダーみたいなやつ
デベロメンタルディスオーダーか。
だからつまり脱障害なんですけど
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この種の人たちは甘えは許されないなんですよね。
HSPの人とちょっとずれていて
HSPの人は甘えは許されないけど甘えたいなんですよ。
根本的に能力主義でありたいわけじゃないんだけど
発達障害の人の言い分ってすごくアメリカ的で
能力主義に近いと思うんですね。
甘えは許されない。
自分は甘えたくはないみたいな感じなんですね。
この種の人たちにしてみると
もっと能力主義でしかも自分の能力を
高く評価してくれるような社会じゃないから生きにくいみたいな
そういうニュアンスがちょっと出てきているんですよ。
だいたい頭のいい人には特によく感じられる雰囲気なんです。
これも所詮雰囲気みたいなもんですけどね。
本当は私たちは相互に甘えて生きてるんだけど
それが許しがたいみたいなところがあって
だから茶番センサーって
すごい発達障害の人が増えるようになる
すごい仕事術を書いた借金玉さんが指摘してるんですけど
あの本はいろんなところで非常に勉強になるんですが
茶番センサーっていうのがあるっていうんですよね。
こんなのはくだらなくて茶番だと。
そうやって舐めてかかると
ある種のことは一切できるようにならないっていう
でもそれだけれども
会社にとって必要なことじゃないから
そんなことに注意を払いたくないんだと。
非常注意欠陥というものについて
実は選択的なものを感じますよね。
選んでる。
自分が注意を払いたくないものに注意してないから
不注意になるんじゃないかっていうニュアンスが
あの本読んでると随所に出てくるんですよ、実は。
人に挨拶するってのもそうですよね。
気づかないで上司とかを無視しちゃうのかもしれないけど
実は挨拶というのは
例えば経済成長や能力にとって
無用なものじゃないですか。極端に言うとですよ。
だから気づかないんだと。
でもそれは気づく気がそもそもないんじゃないかっていう感じが
あそこからは伝わってくるんですよ。
この辺一見したところすごく違うんですけど
つまり発達障害とHSPって一見したところ違うんですけど
どっちもですね
甘えが許せない
ではないけど
甘えとは許されないものなんだっていう
信念のようなものが感じられるんです。
思い込みだと思うんですけれども。
で、HSPの人はそのことについて
過敏だと思うんですよ。
甘えは許されないから
もっと気をつけて生きようと
できるだけ縮こまって生きようみたいになるし
ADDかな、特に。
ADDの人にしてみると
甘えは許されないんだから
甘えなどというものは認められないから
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自分は甘えてないって言いたいんだと思うんですね。
甘えてないからこそ
挨拶というようなものは不要になってくるし
とにかく役に立つということに直結していないことを
までさせられる、言われはないみたいな
そういうニュアンスがやっぱり強いと思うんです。
これがですね、例えば
割り込みという問題に対する
割と過敏な、あるいは予定外ということに関する
非常に独特のですね
予定外というものに対する独特の恐れですね。
それが発生するような気がします。
やっぱり予定外のことが起きるということは
それによってトラブルが発生し得るということが
一番問題なんだと思うんですけど
トラブルが発生して問題になるのは
能力主義の世界においてはですね
自分の能力に疑いの目を向けられるからだと思うんですね。
予定がきちっと決まっていて
それが非常に分かりやすい形で示されてくれば
自分だってトラブラないと
そうすれば自分が有能だということに
傷がつかないということだと思うんですよ。
これは甘えが許されないという世の中であればですね
必然的に重要視される部分ですよね。
でも一方でコミュニケーションを取ったりするというのは
ある意味甘えですよね。
何時何分に約束していたかどうかを確認するというのは
甘えじゃないですか。
これは真に優秀な人間ならしないことだということになると
効けないですよね。
こういうふうにしてコミュニケーション障害みたいに
見えてくるというのは
実はそもそもコミュニケーションを取って
仕事を円滑に回すというところには
最初の方に言った下水道管に水が流れているように
甘えが流れていないと
ある程度は少なくともそうやっていないと
成り立たないと思うんですよ。
アメリカ行って私はつくづく悩んだことに
約束の日時も時刻も英語で早口で言われると
さっぱりわからないので
何度も何度も確認することになって
どう見ても愚か者に見えてしまう。
避けられないんですよね、それが。
どう考えても幼稚園児みたいになっちゃうわけですよ。
でも効かないわけにはいかないですよね。
これが能力主義で判断されるということの
怖さなんですよね。
これを能力で判断されたら正直
たまったものではないんだけど
能力と言われれば能力じゃないですか。
英語ができるかどうかもそうですし
日本人が想像しているほど
アメリカ人は日本人の英語に何の期待もしていませんけど
24:00
まあそうですよね、能力だと。
聞いて一発で理解するのも能力じゃないですか。
一発でなんて絶対理解できないんだけど
一発で理解するのも能力ですよね。
だから能力主義というものが
出ないから日本が生き苦しいと思うのは
能力主義が大好きだからであって
能力主義になれば自動的にすごく空気に
風通しが良くなって生きやすくなるかというと
決してそんなことはないんですよね。
だから横文字で発達障害というものが
アメリカで誕生したんだと思うんですよ。
日本ではなくて。
それが能力主義がやっぱりアメリカに習って
なるべく能力主義にするようにしている日本で
早々と生き苦しさを感じる人たちのところにも
当然非常にしっくりくる表現として
輸入されてきているんだろうと
そういうふうに思うんです。
実際にはまだまだ日本社会というのは
アメリカ社会に比べれば
甘え万歳でやってますから
能力主義でいくべきだと思っている人には
こっちが生き苦しいんだと思うんですけれども
それにしても多分
よっぽど能力が突出していないと
能力によって生き苦しさを一層し去ることのできる人って
僕はすごい少ないと思うんですよね。
それはむしろ僕の留学経験が
そういう感じを抱かせたんですけど
日本って生きやすいんだなと
つくづく思ったんですよね。
やっぱり向こうに行ってみて
確かに向こうの能力主義は徹底していて
なんとなくエコヒーキーみたいなのが
少ないとは思うんですけれども
あれは絶対につらいですよ。
そして結局甘えがだからといって
ないかというとなくはないんですよ。
なくはないからこそ
だからこそHSPっていう人たちが
ちゃんとアメリカ人でも出てくるわけですよね。
ここでだと思うんですよ。
どうやってこれをっていう話になった時に
カチマックスってやつが出てくるんだと思うんです。
3月6日にですね
倉園圭三さんとやるセミナーで
倉園さんがお話しくださると思うんですが
カチマックスという話ですね。
このカチマックスを私はある意味
これは当然だと思うんですね。
なぜかというと
テトリスのカウンターストップができるからといって
カチの証明にならないじゃないですか。
これがたまたま将棋だったら素晴らしいですよね。
藤井壮太さんみたいに
高校は中大でもカチマックスですよね。
でもそれだとものすごく少なくなってしまうから
27:01
少なくとも何者かになるなどというレベルでは
済まされなくなりますよね。
彼は歴史に残るレベルなので
これだけがカチだというふうに
言いたがるという考え方もあるんですけれども
これだとほとんどの人にとっては
たまったものじゃないし
どこかおかしいですよ。やっぱり。
そもそも将棋が強ければカチマックスで
将棋ができないものはカチがないみたいなのって
結局のところ
将棋に相当するもの
この話は散々してますが
将棋に相当するものを
誰が選ぶんだって話は出てきますから
なぜテトリスではいけなくて
将棋じゃなきゃダメなのかって
何の説明にもならないと僕は思うんですよね。
それは昔開発されたゲームだからっていうのは
理由にならないと思うんですよ。
そんなことを言えば
昔開発されたゲームだけど
今はすっかり誰もやらなくなった方は
どうするんだっていうのも出てくるし
この議論そのものが不毛な議論ですよね。
だからつまり
我々はどんなゲームで
勝てなくてもカチマックスだということに
納得するはずだと思うんだけれども
自分の場合はそれがたまたまですね。
本当にたまたま
タスクシュートから入ったってやつなんですね。
このタスクシュートも絡んではくるんですよ。
HSPの人はタスクシュートを時々使われてます。
何でかっていうと
怒られるとか怖いからですよね。
約束を守るとか
時間に遅れないとかいうことを
ある程度タスクシュートがやってくれると。
これがですね、この能力主義が
重視されるような世の中でも
甘えずに済ませられるような
外面を取り繕えるっていうのを
タスクシュートが保証してくれるんですよね。
そういう面がある。
だけどもこの問題はですね
いくら外面が取り繕われても
自分の内心の恐怖感は
減っていかないってところにあると思う。
もう一つはそもそも
甘えられないワールドが怖いわけじゃないですか。
だからこそ他の人が怒られてるのを見ても
怖くなるわけですよ。
この部分はタスクシュートは何ともできないです。
他の人が遅刻してきて怒られました。
私のタスクシュートで
彼のことも何とかしたいよって
だからタスクシュートで
守られる部分っていうのは
ゼロではないですけれども
多くはないんですよね。
HSPの人にしてみると。
発達障害の人には
非常に有益な感じってあると思うんですよ。
自分の優秀性をより一層
際立つように持っていくことができる。
そういう意味では
HSPの人よりは
ADDの人みたいな方にとっての方が
タスクシュートみたいなのが
タスク管理でも同じですが
意味を成すんですよね。
だから多分そういうところで
メンタルに何かを求める人が
30:00
ライフハックに向かっていくってのは
分かる気がするんですよ。
やっぱり能力主義じゃないですか。
ライフハックが能力主義というものを
サポートしてくれると
こういうことだと思うんですね。
ところがですね。
この路線っていうのは
どこまでも能力主義を詰めていくわけだから
登っても登っても
厳しさは変わらないですよね。
むしろ私はですね。
登ってきているのになぜ
日本は生き苦しいんだっていう論法は
おかしいと思うんですよ。
ライフハックで能力主義を
登っていくということはですね。
いずれはADDとかであっては
ダメになる時代というか
時期が来るはずなんですよね。
うっかりしてましたわ。
許されないじゃないですか。
上に行けば行くほどの
難しさがあるはずなんですよ。
どう見ても
テニスってそうなんですけど
大坂直美選手がすごいですけど
上がれば上がるほど
試合が過酷になっていくじゃないですか。
で、えっと
言ってみれば能力主義というもので
行きたいということはですね。
負けるのが辛いわけですよね。
勝ちっぱなしじゃなきゃいけない。
勝ちっぱなしじゃなきゃいけないということは
上へ行けば行くほど
内容としては厳しさを増すわけだから
私はタスクシュートとライフハックで
発達障害的な部分の
甘えは許されないというところを
保持するのであればですね。
行けば行くほど辛くなっていくのは
当然だと僕は思うんですよ。
逆にはならないはずですよね。
いつまで経っても楽にならないぞと
言うのは無理があると思うんです。
だって、えっと
例えば割り込みを許さないって話もそうですけど
甘えが許されないわけですよね。
甘えが許されないからこそ
割り込みが許せないわけじゃないですか。
割り込みというのは例えば
よく話題になりますけれども
就業時間ギリギリで
課長がこれを依頼してきた。
もっと前から言えないのかと
段取りがよくない。
これはすべて課長は
私に甘えちゃいけないっていうメッセージですよね。
だって能力主義なんだから
当然なわけですよ。
ということは
課長がそんな甘えはしない
会社とかワールドに移ると
もっと楽になるのか
私はもっと辛くなるんじゃないかと思うんですよ。
そこではもう課長も
そういう段取りができないようなことはなくて
そういうくだらない依頼をしてこないわけですよね。
その中でも成果を出していくんでなければ
つまりより優秀な人の集団になって
ということは
その人たちはより多くのお金をもらっているわけだから
組織としてはより多くのお金を稼いでいるはずですよね。
つまりワンランク上がったわけだ。
こうやっていって
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自分のほうが優秀だから
許せないわけじゃないですか。
甘えが許せないんだ。そういうことですよね。
自分のほうが優秀であるからこそ
自分より無能な人間が課長であったりするということが
許せないということになると
自分より有能な人間ばかりが
上司になっている世界だといいって話ですよね。
私はでもこのほうが楽だって話には
ならない気がするんですよ。
こうやって進んでいけばいくほど
どんどんどんどんきつくなっていくか
さもなくば合理的な理由によって
自分はもっとランクが下のほうに行くと
お金が全然もらえなくなるかの
地下を選択する羽目になる気がするんですね。
現に私が見たアメリカってそうだったんですよ。
お金がなければもう屋根もない。
それはある意味では当然なんですよね。
私も最初は心苦しかったんで
あのあれなんですよ。
外国旅行された方は分かると思うんですけど
交差点とかで赤信号で止まるじゃないですか。
なんかこうですね。
笛とか吹き出す人が不意に現れるんですよね。
それで生計立ててるわけですけど
中にはギターとか持ってきて
ハンガリーがすごかったんですよ。
バイオリン弾いてくれちゃうんですよね。
あんまり上手いとは言いがたいんですけど
バイオリン弾いてくれたんで
割と私お金出したんですけれども
出したというか非常に微妙な行為なんですけど
日本だったら全然違う意味になっちゃうんですけどね。
でも多いんですよ。
アメリカに行くともう湾坂います。
外霊化だっていうのに
家がないか
あったとしても車であるか
テントであるか
その辺なんですよね。
こういうのも変ですけど
きちんとした格好のビジネスパーソンみたいな人とか
綺麗めな女の人とかも登場しちゃうんですよ。
ただ台湾人の人にものすごい怒られたことがあって
お金出すなと絶対に
撃たれて死にたいのかって言われて
以来反省してやめたんですけどもね。
とにかくお金を持って車に乗ってるという段階で
強盗に会うと思って動かないとダメだよ
っていう話だったんですけど
厳しい社会なわけですよ。
そこでは甘えは許されないわけですよね。
結局自分は甘いんですよ。
でも私は前もこの話もこの番組でしましたが
逆になった方が幸せだっていう人は
よっぽど自分の能力に自信がある人に限ると思うんですよね。
私はあの社会にいてここでやっていきたくないなと思いました。
そう言って平等で公平で能力主義で
風通しがいいって言うけれど
例えばハーバード大学とかに行くと白人しかいないんですよ。
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しかも圧倒的に白人しかいないは言い過ぎですね。
極めて超有能な中国人の人とかもどっさりいますけれどもね。
とにかくそういうワールドなんですよ。
たまに確かに白人やない人も居はします。
居はしますけど比率から言ったらっていうほどなんですよね。
あの風通しがいいのか果たしてっていうのもあるし
とにかくピラミッドが急なんですよね。
上の人は本当にすごいですよ。
庭からそれこそ建物にたどり着くまでに
車で行かなきゃ無理っていうような大豪邸に住んでるし
そこに行けば何でもあります。
私そういうところに入ったことは2回か3回ぐらいしかないですけど
すごいなって思いますね。
一方で比較的安全な、多分全米で一番ぐらいに安全な
私が行ったのはカンザスシティでしたけど
まあホームレスばっかりですよね。
これがネバダ州に移った時に至っては
あそこはギャンブルの街なんで
もうそこら中ホームレスだらけで
ホイホイ買い物にも行かれやしない。
あれが能力主義だと僕は思うんですよね。
そりゃトップの方は有能ですよね。間違いなく。
もうめちゃくちゃ。
英語とかでも本当に韓国人なの?っていうぐらい
もうアメリカ人も全然知らないような
英語を全部知ってるみたいな
そういう人にも何度も会いますし
もうものすごいなって思いますけれども
まああそこでは僕はやれないですね。
あそこでは僕はやれないなって感じしかしなかったです。
なので能力主義ってあると思うんですよ。普通に。
資本主義なんだから結局みんなが頭を使って
何を考えるかっていったら成形立てることを考えるはずなんですけど
それで行くということは
少なくともくつろげるっていう日は来ないはずだと思うんですよね。
簡単に例えばアメリカ人と接しているで
私も最初いいなと思ったんですよ。
日本にいると特有の意味のわかんない感じの人にも
いきなり文句を言われるみたいな
あるじゃないですか。おじさん的なワールドって
会社とかに行ったりするとあるわけですよね。
変なのがないと思ってたって
ないわけでは決してないんですよね。
例えばアメリカに行って車を買ったときに
私が極めて嫌な目にあったんですけども
事実上脅迫にあうんですよ。
最初は人当たりの良さそうなアメリカ青年がやってきて
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車の説明とかしてくれるんですけど
これに乗ろうものなら何か個室に連れて行かれて
なんか怖そうなアメリカの
いかにもアンムロサクソンみたいな人に
3人ぐらいに囲まれて
ものすごい契約書を使ってですね
言葉は丁寧なんですよ。訴えられたら困るから。
めちゃくちゃ怖いんですよ。それが。
自分とかすげえ小さくなって
英語でそれでも買える金額の車じゃないか
一生懸命ノー、ノーって言ってたんですけど
もう最後にはなんかものすごい研磨程度なられましたからね。
二度と組んだジャンプみたいな感じで。
そういう世界なんですよね。
これがアメリカだっていうわけじゃないですよ。
私が言いたいのはただ
甘えが許されない社会というのは
具現化するという状態っていうだけです。
別に差別がひどかったとか
そういう話ではないんです。
許されてない日本と最大最も重要な違いは
甘えが許されないということです。
例えば私、これもう全く無知だったんですが
心理学の学部長っていう
もう偉い女の人がいるんですね。
そこにアポイントを入れたことがあるんですが
アポイントを入れないと話させてくれないんですよ。
でも新入生なんで
新入生なんでどの授業を取るとか
色々と聞くわけじゃないですか。
アポイントメントを取って予約して聞いたんですね。
割と詳しくきっちり教えてくれて
さすが親切だなと思ったんですけど
後でめちゃめちゃ怖いメールが
しかも秘書の人から飛んできて
あなたはあの人の時間がいくらすると思っているのか
そんな日本からやってきて
細かな話をしてもらうという
そういうガイダンスをする専門の人はちゃんといると
アメリカにはね。
いるかどうか大変微妙なものなんですけど
いなくはないんですよ。
学部長に細かく聞いて教えてもらって
そういう特別なことをしてもらうには
あなたは本当はいくらいくらいくらのお金を
払わなければいけないと
これがまたきっちりした文章で書いてあるわけですよね。
学部長もとてもにこやかに対応してくれたけれども
実は大変ご立腹だと
言えよなって話ですよね。
めちゃくちゃ怖いじゃないですか。
私これ一定3ヶ月か4ヶ月目のことだったかなと思うんですけど
震え上がりました。
なぜあそこで人々がHSPになるのか
実によく分かるような気がしました。
二面性なんてものじゃないですよね。
42:00
あんなに親切丁寧で
俺のお母さんくらいに対応していきたい
ように見えた人が大変ご立腹で
絶対自分に払えないようなお金が
本当はかかっているんだぞって書いてあるし
あれはややデタラメですけどね。
そういうようなことがあったりしてですね。
油断ならないんですよ。
文字通りの言い手ね。
私は結局油断してるんですよ。
これがどうしていけないのかってことなんですよ。
就業前夜で仕事を振ってくる課長も
油断してるわけじゃないですか。
確かにアメリカだったら
契約書に基づいて裁判を起こされる可能性はあります。
いきなり会うんですよ。
カウンティという州の裁判所みたいな。
そういう超細々としたのが
長打の列を出しているという。
そして言われるんですよ。
ギルティオは乗ってきない。
信じられないですよね。
私も一回だけ体験したんですけど
なんでここで有罪か無罪かを
言いなさいみたいなこと。
あれは儀式みたいなもんですけど
そういう話もしてきてですね。
それはいろんな裁判のケースもあるし
いろんなのもあるし
今もまた変わっていると僕は思うんですけど
アメリカに来てからだいぶ経つし
テロ対策とか戦争とかで
いろいろ変わりましたからね。
にしてもですね。
油断ならない。
油断ならないというのは
つくづく思い知ってですね。
アメリカのあれに比べれば
人によるし
男女で感じ方も違うと思うんですけど
私はですね。
おじさんのちょっと理不尽にねちねち言うのって
幸せな世界だったなと
それがいいとは思いませんけれども
あれは楽だったって
アメリカにいたときは
つくづく思いました。
だって絶対許してくれるじゃないですか。
絶対に
なんかお前新入社員のくせに生意気だから
俺の時間を使った過度で
1時間時給15万円支払いみたいな
それいじめじゃないですかね。
日本だったら。
アメリカではこれは正当な何かみたいな顔をして
やって来てたんでね。
本当にその学部長さんとは最後まで
よくしてくれて。
これも怖いんですけど
今でもですね。
ハローショウゴとか言って
何かにつけて
Facebookでくれたりします。
この辺でですね。
やっぱり私は日本人なんで
わけわかんなくなっちゃったんですよ。
この人は何考えてるんだろうと
思ったもんですね。
で、えっと
可能性はちょっと入るとあれですけど
45:03
注意・欠如・起質みたいな
これもそうで
絶対許してくれないんですよね。
そういうポイントを偉い人と取って
時間に行けなかったとなると
もう
でも何とかかんとか
僕はしちゃいましたけれども
本当にうるさいんですよ。
5分損したとか何とか。
そんなにじゃあ
君たちは時間にきっちりしてるかと
時間大事にするのかというと
そんなことは全然ないんですよ。
また日本人よりはるかに時間には
ある意味ルーズです。
うるさいのはアポイントメントとかに
ついてあってですね。
時間を大事にするということとは
まただいぶ違うんですよね。
そういう意味では我々の方が
時間って大事にしがちというか
すごく大事がり
と言いますけれども
細かさが違うというのは
文化的なもんですけど
甘えが許されないという
恐怖感
これをですね
これが私のベースにあると思うので
やっぱり
無理ですけれども
本当は
HSPとかADDとか
SDとか
ADHDとか
日本名称の
何かがいるんじゃないかなと
日本語でってことですね
そのまま直訳した
中国語みたいなやつじゃなくてですね
日本語でってことですね
そうした方が多分
こういうことには
本当は手当てできるんだろうと
ただ多分こういうことを
現実にやりだすと
むやみに混乱するばっかりなんで
難しいとは思うんですけど