00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
もはや、あれですよね
涼しいお通り越して、肌寒いという感じで
今日、天気はいいですけどね
しゃべりやすい感じはすごくします
例の熱中症のアラートも入らないので
こうなってしまいます
昨日の話の続きみたいに
多分、なるんですけど
オグデンという人がですね
私がずっと喋ってきているのって
あれなんですよ
雑把にくくると、精神分析の中で
対象関係論という人たちの
言われているグループなんですね
対象関係論者とかっていう風に
書いている本もあったりします
主にイギリスで流行って
1939年とか1936年とかかな
とにかく30年代なので
フロイトの晩年というのは
もうそれは大変なわけですよ
ユダヤ人って
ナチスがすごく
ほぼ政権取っていた頃ですから
彼、逮捕される直前ぐらいだったと思うんですね
ユダヤ人が上にあんなこと書いちゃってますからね
もうなんかもう
絶対ダメなわけですよ
マリー・ボナパルトって人
確かですね、ナポレオン三世の
娘か孫娘か
とにかくそういう人が結構尽力して
フランスに逃げるとか
ロンドンに逃げるとか
いろいろあったんですけど
フロイトはもうすでに
死にそうな病
末期がかな
コカインかヘロインか
ずっと痛みを止めてたような状態だったんで
別にもう捕まって死んでもいいよとかだったんですけど
そういうのもあれなんで
逃がすということになって
最終的に結局
イギリスの方で
発展していくんですよ
みんな逃げましたからね結局ね
ナチスの下で精神分析なんて
土台無理があるんで
ユダヤ人じゃなかったとしてもですね
そういうこともやっぱり
ヨーロッパって大事なんだと思うんですよね
すごく大事っていうか
もう大変なんだと思うんです
だからフロイトはどうしても
後継者をユングにしたかったっていうのが
ものすごくあって
ユングはもう
なんていうんですかねそういうのって
ヒットラーの好きな言葉で言うと
純正アーリア人っぽい人なんですよ
だからやっぱり自分が
03:00
精神分析会長というのではなく
ナチスが政権取った時代は
もうダメだと思うんですけど
その前の頃のドイツであれば
まだだいぶやっぱりオーストリアですけどね
ウィーンですけど
だいぶ違って
会長がユングだということになればですね
やっぱりすごくヨーロッパでは
受け入れられるだろうっていう
そういう目論みがきっとあったと思うんですね
まあまあその目論みはきっと
どうだったのかな
そんなことではダメなんじゃないか
っていう気もするし
そういうことがあったのかもしれませんが
何にしてもユングは
フロイドと別れちゃったので
あれはすごい
大きな事件だったと思いますし
フロイドの心理的な
ダメージは
小さくなかったと思います
何にせよイギリスとかで
流行ることになっていくんですよね
イギリスに行った方が
だいたい主に
対象関係論
この話で言うところの
クラインっていう人が
だんだん中心になっていって
すげー進めるという感じです
この人もユダヤ人だったかな
でアンナフロイドの方は
最終的にアメリカの方で
そうなんですよね
アメリカの方で精神分析といったら
アンナフロイドの派閥なんだと思うんですよ
私が習ったのもまさにそんな感じで
自我心理学って言うんですよね
ステップステップなんですよ
第一段階はこれ
第二段階はこれ
発達心理学みたいになっていくんですよね
私はあれがどうしても
当時聞いた時も
ここが一番受け入れがたいって思ったんですよね
人間ってそういう風に
グレードがアップしていくみたいな
イメージっておかしいと思うんだけど
アメリカ行くと
アメリカ行くと
逆らいになりたいものがあるんですよ
グレードがアップしていくことが
あらゆるところで
浸透していて
別に精神分析だけじゃなくて
とにかくグレードが
アップしていくのが好きなんで
精神分析も
そうであったら受け入れられるっていうのが
よくわかるような国柄というのかな
精神分析の影響なのか
文化的なものが
精神分析に影響するのか
知らないですけど
とにかく
第一段階はこう
第二段階はこう
行きやすいんですよね
別にそういう風に
考えてみても
別に言っちゃいいんですよ
第一段階は
妄想分裂ポジション
ポジションって言ったらもう
段階じゃなくなっちゃいますよね
第一段階は妄想分裂段階なんですよ
アンナフルイト的な見方をすると
それを卒業したら
欲打つ段階みたいに
成熟段階
どこかで
つまづいたら
それが良くないから戻る
やることはちょっと似てくるんですけど
元の考え方が
06:01
えらい違う感じはしますよね
だから
対抗って話になってくるんですよ
幼い頃に戻っちゃうみたいに
こういうところから幼女証明みたいなものも
説明されますよね
要するにそれは幼女趣味なんじゃないんですよ
本人が男の子の時代に
戻っちゃってるから小さな女の子と
良い関係になりたい
って思っちゃってるんだ
その説明も
わからなくはないですよ
私には受け入れがたいものがありますが
わからなくはないです
そういうふうに
この説明をしちゃうとですね
子供のとこに戻ったから
お母さんみたいなのが大好きだから
なんとでも言えるような
そもそも精神分析ってそういうところ
ありますが
対抗でなんでもかんでも説明すると
なると
この結論が先に
あって
その原因を全部対抗に求める
みたいになりそうな気がする
ということもあるし
一番気になるのは
その人対抗してないじゃん
みたいなのが
私は気になっちゃうんですよね
確かにその人は
ある種の情緒では
三歳児みたいになってるかもしれないけど
喋ってることは
目の前にいるのはお医者さんだし
幼児帰りっていう
言葉を使ってしまうと
あれですよね
笑うセールスマンで時々出てくる
本当に幼児に帰っちゃってる
漫画みたいになってしまって
本当はそうはなってないっていう
部分の説明が
曖昧すぎるよなって
思うんですよ
それにそういうのって
不利をするってことも
転移的な話ですけどね
幼児に帰ってるっていうか
幼児に帰ってるように
よそごってるとか振る舞ってるとか
そうすることにメリットを感じてるって
そういう感じがちょっとする
それはもう僕は対抗とは
全然話が違うような
気もする
とにかくそういうアンナフロイトの
聞いていた中心の
アメリカの方と
メラニー・クラインが中心の
イギリスの方と
メラニー・クラインも結構いろんな人追い出したりしてるんで
そういう人たちが独立していくの
独立学派とか言ったり
いろいろ細かい歴史的に
マニアックな話はあるんですが
それはともかくとして
私が喋ってるのは
クラインの方ばっかりです
習ったのは
アンナフロイトの方ばっかりなんですけど
どうしてもあれは
面白かったとは思わないんですよね
それなりに面白かったんですけどね
なんか自分としては
少しも納得感がなかったという
感じなんですよ
ただクラインの方は
少なくとも当時アメリカで読んだ時は
わけわかんねえだったんで
今でもわけわかんねえですけど
これが非常に
おかしく聞こえるかもですが
グッドファイブズをやってるうちに
すごくわかるようになった
気がするんですよ
09:01
その頃のやつを
3回目になるんですけどね
1回目大学生の頃には
自分の先生がフロイトを
すごくベースにしながら
THロレンスを
解釈していくっていうので
すごい僕はそれは
それこそいわゆる知的に興奮させられたんですよ
ただその頃は
その頃には前の構造とかも読んだんですけどね
お好みさんの本とかも読んだんですが
要するにその頃は僕は
よくわかんなかったんですよ
英国学派と米国学派みたいな
そういうのもわからずに
まぜこぜにすべてを
理解してた感じだったんで
よくわかんなかったんですよ
要するによくわかってるような
つもりになってたけどよくわかってなかったんですよね
しかもかわいはやおさんの本ばっかり
読んでたんで
それはそれでユングなんで結構違うんですよ
結構同じなんですけどね
やっぱりよくわかんなかったんですね
アメリカ行ったときは
ドバーっと
東日本大学しか習わないんで
先生もみんな東日本大学の人たちなんで
当然
クラインのほうは
何言ってるのかよくわかんないし
誰も特にこっちのほうは説明しない
っていう感じなんですよね
全く説明がないわけじゃないですよ
メラニー・クラインはちゃんと出てきますけど
ある意味出てくるだけっていう感じなんですよ
ユニコットンに至っては
ちょっと横のほうにスヌーピーの絵が書いてあって
それでおしまいみたいな
意向対象っていうところが太字になってますみたいな
そういう感じなんですね
で
それからもうずーっと放置で
それでグッドファイブスで
からまた
フロイトを呼び直し始めるという
今度のが一番整理されて
いる感じですね
僕の頭の中ではね
でもこれでも多分結構間違うんで
正解がない上にですね
わかるように書かれてる気がしないんですよね
だから間違うのは
もうしょうがないなと思ってます
だから今までこういう話は少なくとも
本とかには絶対ほぼ書いてないじゃないですか
よっぽどガチガチに固まってる
っていうような話しか
本とかには書けなかったんですよね
また受け悪いですしね
多くの人はフロイトって
全部セックスにする怪しげな人でしょ
みたいな感じだと思うんで
それと比較して
認知行動療法とかね
全然フロイトのやつの
焼き直しみたいに見えるんですけれども
しかも薄くして
焼き直したみたいな感じしかしないんで
当時からあんまり
納得感つくないなと思ってはいたんですけれども
それが
精神病院に有効じゃないとか
有効だって話はまた別です
薬理もそうですけれども
薬とかもですね
そういうのはそういうので
やっぱりこう
やってみないと分かんないんですよね
要するにそういう側面って
絶対あると思いますんで
有効有効でないはまた別ですが
自分への
納得感という意味では
行動療法とかって言われても
それは
本当にアメリカではそうだったんですけど
例えばアメリカには
12:01
日本は
よくロリコン天国とか
言いますけどそんなもんではないんですよね
すさまじいんですよ
絶対治療するしかないみたいな
養女趣味みたいなのも
あったりしてどうやるかっていうと
例えば養女的なもの
だんだん変な話になってますが
実際私それは目の前で
見ましたから
それこそ日本では
すくみ図みたいなものですよ
あれを見せて興奮していないかどうかを
血圧測るみたいな感じで
興奮しないように
自分をコントロールする
行動療法で
繰り返し繰り返しやって
例えばその時に
美味しい食べ物を見て
こっちの方に集中するようにするとか
こういう感じで
私はこれは全然違うだろうと
正直思ったので
自我心理学的に見ても
アンナフロイト的に見ても
もう少し先進分析的な
アプローチが必要でしょうと思ったので
ひたすら
一番表面にあられている
行動だけを修正するっていう
本気でやれるっていうのは
文化的にだいぶ違うなと
正直に言って
感じたんですよ
それは私はそういうのを
レポートにまとめたりしなきゃならなかったので
それはそれでやったんですけどね
とにかくそういう世界だったので
この行動療法に
真っしぐらに日本人は
多分いけてないだろうなと
日本もアメリカの行動療法といえば
ちゃんとそれを仕入れますよね
教育とかでも仕入れるけど
アメリカ人のようには
きっとやれない気がすると思ったんですね
彼らはああいうものを
ある意味
やれるっていうのか
そんなことはないと思うんだけど
こういうふうにやれば
ちゃんとなるんだっていう
ある独特の感覚で
邁進していけるけれども
日本ではそうはいかないんじゃないかな
っていう気がしました
今どうやってるのか
コロナ禍だからわからないんですけど
例えばこの行動療法的なものを
当然教育に適用するっていうこともあって
例えばいいことを
10個やったら
1コインもらえるんですよ
学校とかでクラスとかで
1コインを10個集めると
ドーナツと交換できるんですよ
教室の後ろにドーナツ置いてあるんです
こういうふうにするんですよね
多分僕これは日本では
受け入れられない気がしたんですよ
行動療法を受け入れてるような
つもりになってみても
やっぱり普通に小学校でも
幼稚園でもそこかしこで
この種の方法取られているんで
例えば誰かがいじめられているのを
報告したら1コイン
10コイン集めたらドーナツがもらえる
まさに行動科学なんですよね
徹底しているんですけれども
徹底しているっていうのかな
自然に素直にそういうことが
入っていけるんだけど
なんか僕の感覚とは
なんかこう
異世界を見ているような
ある意味すごく分かりやすいんですけど
見て分かんないことは
15:01
何もないんですけどね
でもこういうふうには日本ではならないんじゃないかな
っていう感じはしてみてました
まあまあこれからは分かんないですけどね
で
話が盛大にそろえてるんですが
つまり
こういうことへの含みが
いろいろあってですね
結局分析へ戻ってくるんですよ
気がつくと
その中で
昨日お話ししたような
そのトップリキがくれたところで
おままごとをしていた
に夢中になってた子が
急に
周りの風景を見てですね
自分が一人しかいないことに
不意に気づくということが
起こるわけですね
その時に
それまで何をしていたのかってことの方が
私は大事だと思うんですね
その時に気がついて
ちょっとトラウマっぽい現実と
対面するっていうことが
精神分析ではすごく
カウンセリングとかでも多分強調されています
中にはここで
持続意というものをですね
一つの比喩として
捉えるケースもあります
つまり抱え込むというのは
言ってみれば母親が抱え込むというのは
私も経験ありますが父親ですけどね
娘暴れるわけですよね
例えば
ジャングルジムの上で結構暴れだすと
そういう時はクッと抱え込むんだけど
こういうことだなって
思うんですよ
ホールディングってウィニコットが言ってたのは
落ちますよね
そこで手を離してしまっては
親が100%
正しいのかとか
親が絶対に正しいのかとか
子供に無理やり言うことを聞かせていいのか
と言って
親になってみるとあちらこちらから
飛んではくるんですよ
特に親子関係が
あまり良くなかった方から
飛んでくるんだけど
例えば2歳とかの時に
ジャングルジムの上にいて
子供はもう暴れると
この子を離せと
私に要求するんだけど
私は絶対離さないわけですよね
ここでグッとホールドするしかない
100%正しいのかどうかの議論が
できないシーンってあるわけですよね
こういう時に
それは別でしょうって言われるかもしれないですけど
そうじゃないと僕は思うんですよね
親が子供を抱え込んで
無理やり何かをさせて
いる時には
100%正しいと思ってやるしかなくて
そこで疑問を持ったからと言って
手を離すわけにはいかないシーン
っていうのが象徴的にあってですね
あるんですよね
時々しばしば直面する
そういうのに
100%正しいと思ってなくても
100%正しいと思って行動するしかない
シーンって出てくるなと
この100%正しいかどうかについて
とにかく
自分が
正しいかどうかについて
いつも怪異的な
私みたいに目の前に
見ているものも現実にあるんだろうか
例えばだからですね
18:01
こういうこともあるわけじゃないですか
子供を抱えている
夢を見てますと
その時は話してもいいのかどうかって
あるじゃないですか
マトリックスなんですよ
ちなみにマトリックスというのは
子宮っていうような意味が
ラテン系のところからあって
あれは子宮なんですよね
ここでもアンナフロイトの方が
子宮怪奇願望とかいう
アンナフロイトにそういう言葉があるのか
知りませんがあるんですよね
アメリカの
自我心理学系には
子宮怪奇願望
ウェニコットも
マトリックスって言葉を使っている
場面があるんだけれども
あんまりいっぱいは対応してませんけどね
オグデンっていう人は
心のマトリックス
つまり心の子宮なんですよね
っていう本を書いてますね
あれはですね
いい比喩なんだけど
映画のマトリックスもそうなんですけど
いい比喩なんですけど
良すぎるという気がちょっと
しますね
つまり私がその
娘を抱えて
絶対話さないようにするのはもはや
可愛いから
正しいからとかじゃないし
正しいからとか言う
言い方すら
かなりどうでもよくない
現実だからとしか言いようがない
そういうことがあるんだけど
じゃあ現実じゃなかったらどうよっていう
夢の中で話してたらどうなってたんだろうと
もしそういう夢を見てたんだとすれば
そうすると今
娘を抱えて
ジャングルジムの上にいるのは
夢なのか現実なのか
疑っちゃダメですよね
疑うのはまずいですよね
現実だった場合のことを考えてみても
ある意味
その他のことを考えてみてもまずいですよね
つまり自分が正しいことを
疑うことができないタイミングって
あるわけじゃないですか
そういうときのことを
やっぱり思うと
誰が何と言おうと的なところってあるんですよね
自分が正しいと思うしかないと
でも親が誰が何と言おうと
自分が正しいと思うことほど
危ないこともないわけじゃないですか
やっぱりそのことが最も子供を苦しめるみたいな
そういうシーンなんだな
これはっていう感じがやっぱり
しますね
そこで
なんですよ
抱え込むというやつなんですけど
子供は結局ママごとしてるときって
抱え込まれているわけですよ
たぶんそのおもちゃの大半は
親が用意したものですし
そこで遊んでる公園も
親がそこで遊んでいいと言ったからですし
つまりそれが全部
抱え込まれているということで
その感覚というものを
これはウィニコットの考え方ですけど
その感覚というものを
僕らはずっと保持して大きくなって
いくべきなんだと
しょっちゅうそういうのが破綻することはあるんだけれども
破綻なきゃダメなんですが
でも基本は
抱え込まれているという状態というものが
21:01
いつでも
自分で再現できるようじゃないと
できるようじゃないと
ある種のタイミングでは
精神病的になってしまう
そういう時間のほうが
圧倒的に長くなるようでは
いけないと
なんでかというと
ひきかくれたときの子供のパニックみたいな状態に
精神的になってしまうから
そういうような話
そのときに
どっちが夢なのか
難しいんですけど
子供にとってどっちであるべきだ
というのは意味がないんですよね
だってとっぷり日が暮れたときに
自分ではどうにもならないと思って
ショックを受けてうろたえる
という経験は
いい経験かもしれませんけど
毎度毎度そんな経験をしているべきかどうか
現実に直面しているわけじゃないですか
それまで見ていた夢から覚めて
現実に直面しているんだけど
あんまりいいこととは
思えませんよね
一般に続くというか
一方でずっと
ままごとの世界にいるのがいいのか
そうとも言えませんよね
そうじゃないでしょうという話も
いっぱいありますよね
でも私たちは
そこを出たり入ったりしている
というのがあって
出るタイミングとか
出方とかによって
トラウマに
それがなるのか
いい現実体験になるのかが
そういう話が
ウィニコットの理屈なんだろうなと
そこのところで
ままごとしていて夢を見ているというのが
マトリックスなんだという風に
彼は多分表現したんだと思うんですよ
少なくともオーブデンはそういう表現の仕方をしている
映画のという意味じゃないです
映画は僕はこれらを踏まえて
後からつけたタイトルだと当然思います
だってこれ
映画ができるはるか以前に
こういう議論がずっとあったし
心のマトリックスって本も
全部その前から出ていたものですからね
映画の方でこれを
意識していたかどうかは
していたんじゃないかなという気はちょっとしますけど
知らなかったとは思えないので
日本に比べるとイギリスとか
アメリカははるかに
精神分析が一般に浸透して
いますから
マトリックスという言葉を使っておきながら
これらのことは知りませんでした
という感じは僕はしないですけど
そこは
後からだったら
なんとでも言いますから
分からないっちゃ分からないです
私は映画に詳しいわけじゃないし
しかも知ってても知らなかった
って言うかもしれないし
知らなくても後から知ってたって言っても
不思議はないと思うんですよね
この種のことというのは
それはそれとしてですね
つまりこの夢を見る
という時に
僕らはどうやるのかなと
最近思ってたんですよ
ママごとはママごとするケースもありますが
しないですよね
あんまり
どうやるんだろうと
24:01
そうするとですね
子供にママごとさせる時と
あんまり変わんねえなっていう風に
最近は思うようになったんですね
例えば
パソコンに向かって
なんか書くと
非常にそれはですね
やっぱり環境供給
移行対象
マトリックスの中にいる
っていう感じが
発生するんだなって思いました
まず第一に
人工的なものに囲まれている
ママごとのセットって人工的なものですよね
人が作ったものばっかりですよね
自然物でも
できないわけじゃないんですよ
自然物で昔の人たち絶対やってたと思うんですけど
でもこれはママごとをやる時は
人工物が
滞在する方が望ましい感じがします
なんでかというと
最初がそうだったからだと思うんですよ
結局
一番最初
つまり生後
1日とか2日目とかの時に
実は赤ちゃんっていうのは
目がほぼ見えてないんですね
目がほぼ見えていない
ということはお母さんをちゃんと
知覚できているはずはないわけですね
つまり知覚すら
ちゃんとできない
その中で空想するっていうことが
できるのかどうかっていう議論が
これクラインとの議論
クラインとユニコットの議論みたいになっていくんですけど
そうやって
物がようやく
見えてきましたみたいな時も
当然赤ちゃんに
これが夢なのか現実なのかみたいなのを
判断、判別する方法はない
しかも
お母さんは
まるで相手が夢を見やすいように
見やすいように動くじゃないですか
ここも実は社会的な議論になって
それをやらなきゃいけないな
お母さんなのかっていう議論が
必ず発生しちゃうんですけど
そこは置いておくべきだと思うんですよ
これはそういう
例え話ですから絶対に
確かにそういう
現実はありますけど
やっぱり例え話だと思うんですよ
子供に
テレビ見せるときでも
刑事ドラマとか見せないじゃないですか
子供が夢見やすいような
番組ばっかりですよね
あれは誰が作っても
ああいう風に作ると思うんですよね
実のお母さんじゃなくたって
だから実のお母さんなら
余計にだと思うんですよ
基本的には
起きてるんだか寝てるんだか
わからないような過ごさせ方を
したいじゃないですか
起こしたところで泣くぐらいな
わけですからね
だから
基本的には自分が
お母さんを作り出してると思おうと
あるいは自分が
ミルクを作り出してると思おうと
頭の中でですよ
あるいはミルク
現実にそっちからやってこようと
同じなんですよね
で
この同じということは
つまりだんだんだんだん
27:01
知覚をする能力が高まっていく
わけですよね
それってだんだんだんだん夢を見る能力が
高まっていくということと一緒ですよね
たぶんなんですけど
これはたぶんなんですが
私たちが見ている夢って現実に似てますよね
たぶん
これは現実に似た夢を見る能力を
備えてきているってことですよね
この夢を見るっていうことを
僕らは起きててもきっと
やってますよね
現実のものを使って
こういうことなんですよ
茶碗そっくりのものを使って
茶碗がここにあるっていう夢を
見るわけでしょ
演劇もそうですよね
人形劇とかまさにそうですよね
そういう能力を使わなかったら
あれたぶん
劇として見ることはできないんですよね
これを自閉症と言いますね
あの
だから僕らは結局
そういう夢を見るんですよね
でも
お友達帰っちゃって
気がつくと日が暮れたときに
夢から覚めるんですよ
そういう経験も必要なんですよね
夢を見ていたり
現実にふと
自分が我に帰ってみたりまた夢に戻ってみたりを
起きているときも
やっているっていう風に
多分精神分析では強く考えていて
大体私もそこに
同意できるわけです
で、そのときに
仕事とかやるときには
半分夢っていう状態が
いつも出現している
集中してればしてるほどむしろ
出現していると思うんです
現実的じゃないとダメですよ
現実的じゃないとできないですから
でも野球選手とかって
夢を見ているじゃないですか
夢を見ていなかったら
例えばホール立っていて
ファールかホームランかで
大の大人があんなに真剣になれないんですよ
生活やお金がかかってるから
って言いますけど
それは後から言ってることであって
そうじゃないですよね
やってる人たちはこれがファールかホームランかは
命をかけてもいいぐらいに
思ってるんですよ
それは夢を見てますよね
どっちだっていいじゃん
別にボールが数センチとかですよね
本当に
でもどっちであるかは
全然違うわけですよね
それは僕らが人為的に作ったルールを使って
このママゴトは
実はママゴトの
プラスチックじゃなくて
ちゃんと瀬戸物でできていて
ここに入っているのはお水じゃなくて
これはルールなんですよね
同じですよね
野球だろうと将棋だろうと
僕ら仕事する時は
半分必ずこれやると思うんですよね
この種のルールに
厳格に守ろうとする気が
強ければ強いほど
ある意味妄想的じゃないですか
夢を見ている度合いが
強いわけですよね
でもボールは本当に飛んできているわけだから
それ顔面で受けると
死んじゃいますよね
現実なんですよね
30:01
だから現実と夢がいつもオーバーラップしていて
そういう風に
私たちがならないと
多分仕事なんかで
集中して何かをするっていうのは
困難だなっていう感じが
するんですよ
その時に考えてみると
ほとんどの場合
人為的な人工的な
小道具が小道具ですよね
劇でも小道具って使うじゃないですか
小道具ですよね
将棋とかコマとか
バットとか全部小道具ですよ
私の使っている
ユリシーズっていうテキストエディター
あれが小道具なんですよね
あれを使って
作家になるんですよ
作家になっているなんて
意識を持っていない時が
一番作家になっているんですよ
そういうことを
なんていうんですかね
している時が
ある意味一番
自分が
一つになっている
昨日の話の
逆なんですよね
心が傷ついていないんですよ
こういうことになっている時が
大谷翔平さんが
野球やっている時に
心が傷ついている感じって
一切ないじゃないですか
ああなるはずなんですよね
これができた時に
つまりこの
移行現象って言うんですけど
ミニコットは移行現象って
名付けたんですけど
自分で夢を見る能力というものを
発揮して
しかもそれを起きている時にやると
これ
意識的にやってますよね
多少とも
ユニフォームとか着るのはそういうことですよね
やりやすい小道具を使って
ユニフォームとかが
移行対象なんですよ結局
僕はそういうふうに思うんですね
マイナス君は毛布を使うと
何かの夢を見やすいんだと思うんです
ママごとのセットを使うと
当然
自分がお母さんになった夢を見やすいんだと思うんですよ
そういうことありますが
なくたって
夢は見られるわけじゃないですか
この夢を
現実とオーバーラップさせつつ
自分はどっかで
夢見ているんだということを忘れないようにして
いるとですね
きっと心の傷って
見やされるんじゃないかと僕は思うんですね
これをやれるということは
まずだいたい
現実を信頼していないと
できないと思うんですね
現実を信頼しないで夢を見るということは
僕は多分絶対無理なんじゃないかと
思う
偽りの事故ってのは
そういう話にだんだんなっていくんですよ
一番いいのはですね
本当に夢を見るときなんですよ
おねしょするのが怖かったら
夢って見られないじゃないですか
でもおねしょしちゃダメじゃないですか
こういう
現実と夢の
オーバーラップを僕らは
実は寝ててもやってるんですよね
夢は
見てますよね
33:01
だから現実に
そこでトイレをしちゃダメなんですよ
ってことはどっかで知ってるんだけど
明らかに夢を
見ているときはそれを知らないですよね
もしある子が
おねしょすることを本当に恐れてたら
夢は見られないと思うんです
これ
どう考えてもちょっと
正気じゃないですよね
人形劇見て劇が
全く頭に入ってこないのと全く
同じですよね
寝るかもしれないけど夢は見られないと
僕は思うんですよ
逆に夢を見てしまうから
おねしょしますっていうことだと
少なくとも野球はできないと思うんですよね
当然おままごとも
できない
ある意味おままごと100%
になってしまうわけですよね
野球とかだと無理ですが
こういう
問題にはまっちゃうってことは
あると思います
完全に現実を
目が覚めてるんだけど
妄想の世界に入ってしまうと
これは精神分析とかで取り扱ってるので
つまりそういうことなんですけど
心が傷つくというのが
昨日言ったような話であるならば
過剰に現実に
急に直面させられるということであるならば
ある意味
夢を見られる能力とは相入れないんですよね
夢を見ていると
現実に対して
意識的にですけど
意識的に夢の世界に入っていく
ということをしようとして
しかもそれに成功するというときには
きっと心は傷ついてないんですよ
心が傷ついちゃってるときは
どっちかになっちゃうと思います
夢は見られないか
さもなければ
夢から出られなくなるか
あのマトリックスですよ
やっぱり
出られなくなる側ですね
あれを社会全体を
覆ってるかのように言うと
集団幻想みたいな話になっていくんですけど
僕の解釈というか
関心はそういう方面では
ちょっとなくて
多分
夢から出られなくなるという
病理みたいなところではないので
やっぱり僕は
ある種の夢を阻害されている状態
っていうのが今
一番
みんなが割と悩むところなのかなと
これは僕の偏見もあるかもなんですけど
要するにHSPみたいな
先生さんみたいな話っていうのも
そういう
夢は見られるんですけど
完全な病理ではないんですけど
そうなることが多い
そして見られる条件を
すごく狭めてしまっている
っていうことなのかなという風に
思っています
こういう事態を全部成立せないと
自分は安心して夢見るところに
入っていけないんです
っていう訴え
そんな風に聞こえる